航空母艦「冲鷹」

航空母艦「冲鷹(ちゅうよう)」

航空母艦「冲鷹(ちゅうよう)」は、大東亜戦争に於ける日本海軍の航空母艦である。
日本郵船の豪華客船「新田丸」から改造され、航空母艦「冲鷹」と命名された。
大鷹型航空母艦の三番艦であり、日本海軍に於いて最初に沈没した商船改造空母となった。

航空母艦「冲鷹」 昭和13年(1938年)5月9日、長崎県の三菱重工長崎造船所に於いて、日本郵船の豪華客船「新田丸」として起工、昭和14年(1940年)5月20日に進水し、昭和15年(1940年)3月23日に竣工した。
その後北米航路に就航、約1年半就役したが、日米関係の悪化と共に北米航路が休止となり、昭和16年(1941年)9月12日には海軍に徴庸された。
大東亜戦争開戦当初は、一般徴庸船として輸送任務に従事していたが、航空母艦への改造が決まり、昭和17年(1942年)5月27日に改造工事が開始された。8月1日には海軍省に買収、8月20日には軍艦「冲鷹」と命名、そして11月25日に改造工事が完了して航空母艦「冲鷹」となった。

「冲鷹」は、商船改造空母であった為、搭載機数が少なく、空母としては低速であった。結果、第一線での作戦行動に用いるには性能不足であったが、ソロモン諸島・東部ニューギニアに於ける航空戦を支える為、航空機輸送任務に従事する事になった。 そして、姉妹艦「大鷹」「雲鷹」と共に、日本本土トラック泊地との間を往復、空母として竣工してからの1年間に13回もの航空機輸送を行った。
そして、昭和18年(1943年)12月4日、13回目の航空機輸送任務の帰途、東京都八丈島沖に於いて、米潜水艦「セイルフィッシュ」の雷撃によって撃沈された。豪華客船として竣工して3年、空母として起工してからは僅か1年であったが、その間は殆ど働きづめであった。

航空母艦「冲鷹」 「冲鷹」は決して高性能な航空母艦では無く、その活動は非常に地味であった。
しかし、「冲鷹」以下商船改造空母による航空機輸送任務が無ければ、前線に補充機材や補給物資が届かず、米軍との熾烈な航空戦を続ける事は出来なかった。結果、これら商船改造空母は、大東亜戦争に於いて欠く事のできない存在であったと言えるだろう。

豪華客船「新田丸」の建造
航空母艦「冲鷹」への改造
航空母艦「冲鷹」による航空機輸送
航空母艦「冲鷹」の最期

「冲鷹」の要目  ・「冲鷹」の艦歴

参考文献

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豪華客船「新田丸」の建造

昭和11年(1936年)のベルリンオリンピックに続き、昭和15年(1940年)秋に東京オリンピックが開催される事になった。当時の欧州航路には客船10隻が就航しており、2週間に1回定期運行をしていたが、東京オリンピックでは大勢の外国人観光客の来日が予想され、また、当時就航していた客船は欧米各国の客船に対して性能的に見劣りがしていた。そこで昭和12年(1937年)、日本郵船は欧州航路用として新鋭豪華客船3隻の建造を計画した。この3隻は、起工順に「新田丸(Nittamaru)」「八幡丸(Yawatamaru)」「春日丸(Kasugamaru)」と命名され、船名は著名な神社である新田神社(東京都)・石清水八幡宮(京都府)・春日大社(奈良県)から採られており、更に、日本郵船株式会社のイニシャルNYKにも因んでいた。

尚、建造に際して海軍省の「優秀船舶建造助成法」を受けていた。「優秀船舶建造助成法」は、優秀船舶の整備を目的とており、総トン数6000トン以上・最高速力19ノット以上の商船に対して海軍省が建造費の一部を負担した。その代わり戦時には海軍が徴傭、軍務に従事する事になっており、昭和12年(1937年)4月に施行された。 この「優秀船舶建造助成法」を受けた優秀商船としては、昭和14年(1939年)に起工された日本商船の豪華客船「橿原丸」「出雲丸」があり、この2隻は当初から空母への改造を予定しており、後にそれぞれ航空母艦「隼鷹」「飛鷹」となった。これに対し、「新田丸」「八幡丸」「春日丸」は、当初から空母への改造は予定されていなかった。

一番船「新田丸」は、昭和13年(1938年)5月9日に長崎県の三菱重工長崎造船所で起工され、昭和14年(1940年)5月20日に進水、昭和15年(1940年)3月23日に竣工した。
「新田丸」は、当時の最高の設計・技術で建造された豪華客船で、総トン数17150トン・計画最高速力21.5ノット・旅客定員285名(一等127名・二等88名・三等70名)であった。また、その旅客設備は世界的にも素晴らしく、一等客室には専用の豪華なシャワー・浴室と社交室・読書室が整備されており、どの部屋からも海上の眺望が見えるようになっていた。また、一等客室・一等食堂・二等食堂・理容室・美容室には冷房が完備され、更には、開閉式の天井を備えた温水プールまで設けられていた。

船内の装飾も、高級国産材と国内の一流建築家・有名職人の手によって仕上げられていた。
内装は、これまでの客船では洋風であったのに対し、新日本様式を標榜する建築家の村野藤吾・中村順平・山下寿郎・松田軍平が設計、公室や客室の装飾は三菱重工業長崎造船所の装飾設計陣が担当、特別室は川島甚兵衞と高島屋が担当した。特に、一等食堂では、壁に六歌仙のエッチングが施され、その周囲は日本を代表する漆工芸家であった松田権六の蒔絵で飾られ、サイドボードには尾形光琳の紅白梅屏風を模した蒔絵の描かれた扉があり、開けるとスクリーンが現れた。また、前部エントラス・ホールは国産の天然木材をクリアラッカーで仕上げ、アルマイト板に尾長鶏が描かれていた。これは、当時、その豪華さを謳われたアメリカの客船「クイーン・メリー」にも決して遜色が無かった。

竣工後の昭和15年(1940年)4月6日〜14日には東京都の芝浦岸壁で就航披露が行われ、秩父宮・高松宮・三笠宮・賀陽宮・久邇宮・梨本宮各殿下のご光臨を仰いだ。続く披露航海には、川端康成・梅原龍三郎・大沸次郎などの著名人が招かれた。
しかし、ヨーロッパでは昭和14年(1939年)9月1日に第二次世界大戦が勃発しており、「新田丸」は北米航路に就航する事になった。これは、当時の太平洋航路の起点マニラを出航し、香港・上海を経て一旦日本(神戸港・横浜港)に寄港した後、ホノルル・サンフランシスコ・ロサンゼルスへと向かい、再び日本に戻ってマニラに向かう航路で、1回の航海は約2ヶ月であった。尚、昭和 年(19 年) 月の第 回航海では、オアフ島真珠湾調査の為、外務省職員森村正として潜入した吉川猛夫予備役少尉がホノルルまで乗船している。
ところが、昭和15年(1940年)に入るとアメリカとの関係も悪化、遂に北米航路も休止となり、「新田丸」の航海も昭和16年(1941年)7月〜8月の第7回航海が最後になった。そして、9月には海軍に徴傭される事になった。この時、近衛文麿首相は、アメリカとの戦争を避けるべく外交交渉を続けており、10月に日米首脳会談開催を目指していた。一般徴傭船となった「新田丸」は外交使節団を運ぶ船として予定されており、そのための整備が行われていた。併しながら、アメリカは交渉を引き伸ばしつつ日本に圧力をかけ、遂には日本が到底受け入れることの出来ない条件(ハル・ノート)を提示、遂に日米交渉は決裂のやむなきに至った。

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航空母艦「冲鷹」への改造

大東亜戦争開戦を控え、一般徴傭船となった「新田丸」は輸送任務に就いた。特に、昭和16年(1941年)11月、海軍落下傘部隊(第五横須賀特別陸戦隊)を台湾高雄に輸送、この部隊は、開戦劈頭の昭和16年(1941年) 月 、蘭印(オランダ領インドネシア)のメナド・クーパンに落下傘降下を行い、同地を占領する活躍を見せた。また、開戦後の昭和17年(1942年)1月、日本軍の占領したウェーク島への輸送を行い、同島の米軍捕虜70名を日本本土に輸送した。
その後、釜山や高雄への輸送任務に従事した後、昭和17年(1942年)5月には一旦徴傭が解除されたが、この時既に、航空母艦への改造が決定していた。

そして、5月27日、広島県の呉海軍工廠に於いて空母への改造工事が開始された。
空母への改造工事に於いては、同型船「春日丸」「八幡丸」が、既に特設航空母艦に改造されて竣工しており、ほぼ同様の改造が行われた。遊歩甲板(プロムナード・デッキ)より上の構造物を全て撤去し、そこに格納庫と飛行甲板を設けた。羅針艦橋は遊歩甲板前部の飛行甲板直下に置かれた。また、船体前後の船倉は弾薬庫に改造され、最前部と機関室後方の船倉には軽質油(ガソリン)タンクが設けられた。機関は客船の機関をそのまま使用、最高速力は21ノットであった。

改造工事中の8月1日には海軍省に買収され、20日には軍艦「冲鷹」と命名されて航空母艦に類別された。
ほぼ同時に、姉妹船であった特設航空母艦「春日丸」「八幡丸」もそれぞれ「大鷹」「雲鷹」と命名されて航空母艦に類別された。「冲鷹」は、空母への改造中に正式な航空母艦に類別された為、同型艦「大鷹」「雲鷹」と異なり特設航空母艦としての艦歴は無い。また、改造工事中の6月に行われたミッドウェー海戦の戦訓によって兵装が強化され、同型艦2隻が高角砲として旧式の「四十五口径十年式十二糎高角砲」を搭載していたのに対し、「冲鷹」は「四十口径八九式十二糎七高角砲」を搭載した。
因みに、これら商船改造空母は、基となった客船としての起工順は一番船「新田丸」・二番船「八幡丸」・三番船「春日丸」の順番であったが、空母としての竣工順は一番艦「大鷹」・二番艦「雲鷹」・三番艦「冲鷹」となり、客船としての起工順と逆転している。その為、これら3隻(「大鷹」「雲鷹」「冲鷹」)は大鷹型航空母艦と呼称される。
昭和17年(1942年)11月25日、「新田丸」の空母への改造工事が完了した。嘗て大勢の旅客を楽しませた豪華な調度品や美しい内装は全て撤去され、その姿も厳しい航空母艦「冲鷹」として竣工し、日本海軍の軍艦籍に入った。

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航空母艦「冲鷹」による航空機輸送

この頃、大東亜戦争の焦点は南東方面のソロモン諸島にあり、同諸島のガダルカナル島を巡る日米の攻防戦が激化していた。日本海軍はビスマルク諸島ラバウルやブーゲンビル島を基地とし、連合軍と連日激しい航空戦を展開していたが、連日の戦闘によって次々と機材を消耗、これを補充する為の航空機輸送が急務となった。併しながら、日本本土で生産された航空機を前線まで輸送する事は容易ではなかった。航空機を飛ばせて輸送(空輸)する場合、移動中の事故や故障によって消耗する危険性がある。また、空輸には多数の搭乗員を必要とするが、当時は前線の基地航空隊ですら搭乗員が不足しており、空輸の為に搭乗員を割く余裕はなかった。結果、船舶に航空機を搭載して輸送する事になるが、航空機は精密機器であるため、木箱のように積み上げる訳にはいかない。分解して収納する事も可能であるが、搭載時の分解・梱包や、現地に到着した後での開封・組立ては非常に手間と時間がかかる。前線では一刻も早い補充機材の到着が望まれており、航空機をそのまま搭載可能な船舶が必要であった。これに最適なのは航空母艦であるが、昭和17年(1942年)6月に行われたミッドウェー海戦に於いて日本海軍は正規空母4隻(「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」)を喪失、更には8月の第二次ソロモン沖海戦や10月の南太平洋海戦と、一連の日米海軍機動部隊同士の海戦によって多数の熟練搭乗員を失い、目下、母艦飛行隊の再建中であった。
そこで、この航空機輸送の大役を仰せつかったのが大鷹型航空母艦を初めとする商船改造空母であった。最高速力21ノットの大鷹型航空母艦は、空母としては低速であり、第一線で使用するには性能不足であったが、輸送船としては非常に高速であり、更に艦内の格納庫や艦上の飛行甲板は航空機を搭載するには最適であった。

竣工した「冲鷹」は早速、この地味ではあるが非常に重要な航空機輸送任務に従事する事になった。
既に、先に竣工した姉妹艦「大鷹」「雲鷹」は一足先に任務に就いており、これに「冲鷹」を加えた三姉妹艦による航空機輸送が大車輪で行われる事になった。これは、神奈川県の横須賀軍港で補充機材と補給物資を搭載してトラック環礁に向って出航。4日〜6日で内南洋の海軍拠点トラック泊地に到着。ここは大規模な港湾設備が無く、環礁内に停泊した空母から艀(バージ)で飛行機を1機づつ揚陸する為、荷降ろし3日〜6日を要した。また、入れ替わりに現地の要修理機材を積込んだ。そして再びトラック泊地を出航して4日〜6日後に横須賀軍港に入港、1回の航海に3週間程を要した。この航海では、護衛艦艇と船団を組み、何れかの空母2隻が同一の船団で行動する事が多かった。

この航空機輸送任務では海軍機のみならず陸軍機も輸送した。
昭和17年(1942年)12月12日、 陸軍白城子教導飛行団飛行第四十五戦隊の「九九式双発軽爆撃機」23機と要員203名を搭載、空母「龍鳳」と共に駆逐艦「時雨」「朝雲」に護衛されて横須賀軍港を出港、トラック諸島に向かった。しかし、同日、「龍鳳」が東京都八丈島付近で米海軍潜水艦の雷撃を受けて損傷、横須賀に引き返している。「冲鷹」以下は、18日にトラック泊地に入港して春島基地に陸軍機を揚陸、21日にトラック泊地を出港して26日に横須賀軍港に入港した。
また、昭和18年(1943年)4月4日には、ラバウルに進出する陸軍第六飛行師団隷下の第十四飛行団第六十八戦隊の「三式戦闘機『飛燕』」約30機を搭載し、姉妹艦「大鷹」共に横須賀軍港を出港、重巡「鳥海」・駆逐「漣」「響」「黒潮」「親潮」が護衛として同行した。しかし、7日、サイパン島沖で米潜水艦「ハドック」と遭遇、8日には米潜水艦「タニイ」から雷撃を受けたが、魚雷が早爆して被害は無く、10日にはトラック泊地に入港、21日には横須賀に入港した。

この様に、日本本土と南方とを結ぶ航路には、米海軍の潜水艦が潜伏しており、航海は決して安全ではなかった。特に、米潜水艦がレーダーを搭載して集団(狼群:ウルフパック)で行動するようになると日本船舶の被害が激増、輸送任務は毎日が死と隣り合わせであった。
昭和18年(1943年)9月24日には、トラック泊地からの帰途、同行していた「大鷹」が東京都父島東方の北緯28度00分・東経146度10分に於いて被雷、航行不能になるという事態が発生した。この時、「冲鷹」艦長の加藤与四郎大佐(後に重巡「摩耶」艦長)は「大鷹」の曳航を決意、米潜水艦の潜伏する危険海域に引き返し、曳航作業を行った。この作業では、「冲鷹」の艦首の錨鎖を艦尾まで運んで固縛し、これに曳航索(客船時代に搭載していた予備の円周9インチのワイヤーロープ)を大・中・小の索に結び、先ず小索を「大鷹」の救助艇 (カッター)で「大鷹」に渡して手繰り寄せ、最後に9インチの曳航索を「大鷹」の艦首部に送って固縛、曳航準備を完了した。そして速力を最微速にして行進を始め、その後は速力8ノットで航行を続けた。こうして曳航する事2日間、ようやく横須賀軍港に辿り着いたのである。
その後も、トラック諸島から横須賀軍港への帰途、10月16日に米潜水艦「ミンゴ」の、18日には同「フライングフィッシュ」の雷撃を受けたが、幸いにも魚雷は命中しなかった。

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航空母艦「冲鷹」の最期

こうして、昭和17年(1942年)12月から昭和18年(1943年)11月までの約1年間に、日本本土からトラック泊地まで航空機を輸送すること実に13回に及んだ。13回目の航海は、昭和18年(1943年)11月16日に横須賀軍港を出港、21日には無事にトラック泊地に到着した。そして、30日、「冲鷹」はトラック泊地を出航した。
同行したのは、空母「瑞鳳」「雲鷹」・重巡「摩耶」・駆逐艦「曙」「朧」「漣」「浦風」であった。この時、重巡「麻耶」艦長の加藤与四郎大佐(海兵43期)が最先任であった為、船団の指揮を執る事になった。尚、加藤大佐は9月まで「冲鷹」の艦長であった。空母3隻には、ソロモン諸島方面・東部ニューギニア方面からトラック泊地に後退していた人員・機材を搭載、また、「冲鷹」には乗員533名の他に、ラバウルから後退した第一航空戦隊の整備員・主計科員・医務科員の転勤交替員や、民間の映画関係者・報道班員、更には、日本軍に撃沈された米潜水艦「スカルピン」から救助された捕虜20名も含め、約2500名が便乗していた。因みに、「スカルピン」の捕虜は41名おり、残り21名は「雲鷹」に便乗していた。そして、後にこれが彼らの運命を分ける事になる。
船団はトラック環礁の北水道を重巡「摩耶」を先頭にして単縦陣で出航し、外洋にでると対潜警戒の為に隊形を変えた。「摩耶」の後方に「瑞鳳」が、「摩耶」の左90度に「雲鷹」がそれぞれ占位し、「雲鷹」の後方に「冲鷹」が占位した。そして、その外側を駆逐艦「曙」「朧」「漣」「浦風」が護衛についた。船団は外洋を航海中は20ノットで之字(のじ)運動をながら北上、対潜警戒を厳にしていた。

出航から5日目の12月3日の夜半、船団は東京都の八丈島の東方海面に達していた。ここまでは大きな危険も無く、目指す日本本土は直ぐそこであった。
しかし、「冲鷹」以下の船団がトラック泊地を出航する際、現地の海軍部隊からの無電が米軍に傍受され、その航海予定は作戦行動中の米潜水艦に通知されていた。そしてこの時、八丈島・父島付近には米潜水艦「セイルフィッシュ」「ガネル」が行動中だったのである。既に前日の12月2日、父島付近で船団を発見した「ガネル」が攻撃を行っていたが、これは失敗していた。また、3日早朝には「セイルフィッシュ」もレーダーによって12000mの距離に船団を発見していた。
当時、この方面には季節はずれの台風が北東に進んでおり、海上は強烈な暴風雨による視界不良と高い波浪に見舞われていた。しかし、船団は予定の進路を遵守する為、迂回をせずにそのまま直進、次第に風雨・波浪は激しさを増し、視界も悪化、船団隊形維持も困難になってきた。やがて重巡「摩耶」からの発光信号により、船団は速力を18ノットに減速した。しかしこの時、「セイルフィッシュ」が船団から距離8000mの地点に浮上していたのである。視界不良によって双方とも相手を視認する事は出来なかったが、「セイルフィッシュ」はレーダーによって船団の位置を特定、直ちに潜行して船団に接近した。そして魚雷4本を船団に向けて発射したのである。八丈島の東方約330kmの地点であった。

日付が変わった4日00時、「冲鷹」の左舷前部艦橋下居住区付近に魚雷1本が命中した。命中と同時に火災が発生したが、機関・操舵は無事であり自力航行が可能であった。しかし、艦体前部に被雷した為に速力が低下、船団から落伍し始めた。この状況を受け、船団の指揮を執る重巡「摩耶」艦長の加藤大佐は、駆逐艦「浦風」に空母「冲鷹」の救援を命じると共に、他の艦艇に現場海域からの離脱を指示した。駆逐艦「浦風」は爆雷21発を投下するも、視界不良によって効果的な攻撃は行えなかった。
被雷した「冲鷹」の艦内は重苦しい空気に包まれていたが、警戒を厳にしつつ約4ノットで北上を続けていた。しかしこの時、米潜水艦「セイルフィッシュ」が再び「冲鷹」に接近していたのである。攻撃から1時間後の01時に一旦浮上した「セイルフィッシュ」は、低速で航行する「冲鷹」をレーダーで確認、新たに魚雷を装填すると直ちに追跡を開始した。そして、夜明けも近い04時50分、「セイルフィッシュ」は浮上したまま魚雷3本を発射した。

最初の被雷から約4時間後の05時頃、再び魚雷1本が「冲鷹」の機関室・缶室に命中、この被雷によっての機関科当直員は全滅、艦内の電話も不通となり、艦の行き足は完全に止まった。艦内では総員が配置について厳重に見張りをする一方、威嚇射撃を行ったが、行き足が止まった以上は艦の運命は風前のともし火であった。艦長の大倉留三郎大佐は、荒天の海の中に脱出する場合に備えて総員に筏を組むように命令、各分隊は浮力のある物品を集めて筏を作り、浮き袋を身につける準備を始めた。また、便乗者の多くは艦内から最上甲板である飛行甲板後部に避難しており、捕虜20名も飛行甲板に上がっていた。
その内に夜が明け、波浪も少し収まり、視界がやや良くなってきた。この時、見張員が波間にマストを発見、確認した所それは救助の駆逐艦「曙」であり、波間に見え隠れしながら次第に近づいてきた。ここに至り、重苦しい空気に包まれていた「冲鷹」の艦内にも安堵の色が見えた。
しかし次の瞬間、艦橋直下に魚雷が命中、「セイルフィッシュ」による止めの雷撃であった。「セイルフィッシュ」は、04時50分の2回目の雷撃直後に一旦浮上、「冲鷹」の左舷1500mを通過して目標を視認した後再び潜行、3回目の雷撃の機会を伺っていた。そして08時40分、艦尾から魚雷を発射した。三度被雷した「冲鷹」は艦首から急速に沈み始めた。便乗者の多くは大混乱に陥り、艦の急傾斜と共に多数が海に投げ出された。そして被雷から6分後、「冲鷹」は艦首を海に突っ込こみ、逆立ちするように沈んでいった。

時に昭和18年(1943年)12月4日08時47分、場所は東京都八丈島の東南約370kmの北緯32度27分・東経143度49分、「冲鷹」と運命を共にしたのは艦長大倉留三郎大佐以下約3000名(乗員・便乗者)、荒天下の沈没であった為に救助されたのは約170名に過ぎず、捕虜も20名中19名が命を落とした。

「冲鷹」は、日本の威信をかけた豪華客船「新田丸」として建造された。しかし国際情勢は悪化の一途を辿り、北米航路に就航してから僅か1年半後には一般徴庸船として軍務に就いた。更にはその姿を航空母艦へと変え、かつて大勢の船客を楽しませた絢爛豪華な姿は失われたが、祖国の危機を救うべくその最前線で働く事になった。
「冲鷹」を含めた商船改造空母は劣性能であった為に第一線で運用できず、航空機輸送任務や船団護衛任にしか使用出来なかったと批判する向きが多い。しかし、商船改造空母による航空機輸送が無ければ、日本軍は、ソロモン諸島方面・東部ニューギニア方面で行われた激烈な航空消耗戦を、昭和17年(1942年)8月から昭和19年(1944年)2月まので2年半もの間戦い抜く事は不可能であったろう。「冲鷹」以下商船改造空母の任務は決して派手ではなかったが、大東亜戦争という総力戦を支える上で欠く事の出来ない存在であった。その意味において、正規空母を遥かに上回る働きをしたといえるだろう。

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「冲鷹」の要目

<竣工時(豪華客船「新田丸」):昭和14年(1939年)>

純トン数:9379トン
総トン数:17150トン
全長179.8m 全幅:22.5m 喫水:8.8m(満載)
主機:三菱ツェリー式オールギヤードタービン2基
缶:三菱三胴型水管式缶4基
出力:2万8359馬力
最大速力:22.5ノット
貨物艙容量:13000立法メートル
乗員定員:238名
旅客定員:285名(一等127名・二等88名・三等70名)
船舶番号:46813
信号符号:JPGN

<改造時(航空母艦「冲鷹」):昭和17年(1942年)>

基準排水量:17830トン
公試排水量:20000トン
満載排水量:トン
全長1984m 水線長:173.7m 全幅:22.5m 喫水:8m(公試)
飛行甲板全長:172m 飛行甲板全幅:23.5m
主機:三菱ツェリー式オールギヤードタービン2基
缶:三菱三胴型水管式缶4基
出力:2万5200馬力
燃料:2273トン(重油)
最大速力:21ノット
航続距離:18ノット・8500海里
搭載機数:常用機28機・補用4機(計画)
       艦戦 常用14機・補用2機 (零式艦上戦闘機
       艦攻 常用16機・補用2機 (九七式艦上攻撃機)
兵装:12.7センチ連装高角砲4基8門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
    25ミリ三連装機銃6基18挺 (九六式二十五粍高角機銃
    25ミリ連装機銃4基8挺 (九六式二十五粍高角機銃
乗員:850名

参考文献

帝国海軍 空母大全
日本空母と艦載機のすべて

「冲鷹」の艦歴

昭和13年(1938年)05月09日:三菱重工長崎造船所(長崎県)で豪華客船として起工。
昭和14年(1940年)05月20日:三菱重工長崎造船所(長崎県)で豪華客船として進水。
                   「新田丸」と命名。
昭和15年(1940年)03月23日:三菱重工長崎造船所(長崎県)で豪華客船として竣工。
昭和15年(1940年)04月01日:三菱重工長崎造船所(長崎県)を出港。
昭和15年(1940年)04月06日〜14日:芝浦岸壁(東京都)で就航披露を行う。
昭和15年(1940年)04月17日:横浜港(神奈川県)を出港。
昭和15年(1940年)04月18日:名古屋港(愛知県)に入港。同日出港。
                   大阪港(大阪府)に入港。
昭和15年(1940年)04月27日:神戸港(兵庫県)を出港。第1回航海。
                   上海・香港中国)に向かう。
昭和15年(1940年)05月10日:香港中国)を出港。
                   マニラフィリピン諸島)・上海(中国)に向かう。
                   神戸港(兵庫県)に向かう。
昭和15年(1940年)05月16日:神戸港(兵庫県)を出港。
昭和15年(1940年)05月18日:横浜港(神奈川県)を出港。
昭和15年(1940年)05月26日:ホノルルハワイ諸島オアフ島)に入港。
昭和15年(1940年)06月02日:サンフランシスコ(アメリカ)に入港。
昭和15年(1940年)06月05日:ロサンゼルスアメリカ)に入港。
昭和15年(1940年)06月08日:ロサンゼルスアメリカ)を出港。
                   サンフランシスコ(アメリカ)向かう。
                   ホノルルハワイ諸島オアフ島)に向かう。
                   横浜港(神奈川県)・神戸港(兵庫県)に向かう。
昭和15年(1940年)06月28日:神戸港(兵庫県)に入港。
昭和15年(1940年)07月11日:神戸港(兵庫県)を出港。
                   上海(中国)・マニラフィリピン諸島)に向かう。
昭和15年(1940年)07月20日:マニラ港フィリピン諸島)を出港。第2回航海。
                   香港・上海(中国)・神戸港(兵庫県)に向かう。
昭和15年(1940年)07月29日:神戸港(兵庫県)を出港。
昭和15年(1940年)07月31日:横浜港(神奈川県)を出港。
                   ホノルルハワイ諸島オアフ島)に向かう。
                   サンフランシスコ(アメリカ)向かう。
昭和15年(1940年)08月13日:サンフランシスコ(アメリカ)に入港。
昭和15年(1940年)08月17日:ロサンゼルスアメリカ)に入港。
昭和15年(1940年)08月19日:ロサンゼルスアメリカ)を出港。
                   サンフランシスコ(アメリカ)向かう。
                   ホノルルハワイ諸島オアフ島)に向かう。
                   横浜港(神奈川県)・神戸港(兵庫県)に向かう。
昭和15年(1940年)09月08日:神戸港(兵庫県)を出港。
昭和15年(1940年)09月29日:横浜港(神奈川県)を出港。
                   上海(中国)・マニラフィリピン諸島)に向かう。
昭和15年(1940年)10月08日:マニラ港フィリピン諸島)を出港。第3回航海。
                   香港・上海(中国)に向かう。
昭和15年(1940年)10月14日:上海(中国)を出港。
昭和15年(1940年)10月17日:神戸港(兵庫県)を出港。
昭和15年(1940年)10月19日:横浜港(神奈川県)を出港。
                   ホノルルハワイ諸島オアフ島)に向かう。
                   サンフランシスコ(アメリカ)向かう。
昭和15年(1940年)11月01日:サンフランシスコ(アメリカ)に入港。
昭和15年(1940年)11月05日:ロサンゼルスアメリカ)に入港。
昭和15年(1940年)11月07日:ロサンゼルスアメリカ)を出港。
                   サンフランシスコ(アメリカ)向かう。
                   ホノルルハワイ諸島オアフ島)に向かう。
                   横浜港(神奈川県)・神戸港(兵庫県)に向かう。
昭和15年(1940年)11月27日:神戸港(兵庫県)に入港。
昭和15年(1940年)12月08日:神戸港(兵庫県)を出港。
                   上海(中国)・マニラフィリピン諸島)に向かう。
昭和15年(1940年)12月17日:マニラ港フィリピン諸島)を出港。第4回航海。
                   香港・上海(中国)に向かう。
昭和15年(1940年)12月22日:上海(中国)を出港。
昭和15年(1940年)12月26日:神戸港(兵庫県)を出港。
昭和15年(1940年)12月28日:横浜港(神奈川県)を出港。
                   ホノルルハワイ諸島オアフ島)に向かう。
                   サンフランシスコ(アメリカ)向かう。
昭和16年(1941年)01月10日:サンフランシスコ(アメリカ)に入港。
昭和16年(1941年)01月14日:ロサンゼルスアメリカ)に入港。
昭和16年(1941年)01月16日:ロサンゼルスアメリカ)を出港。
                   サンフランシスコ(アメリカ)向かう。
                   ホノルルハワイ諸島オアフ島)に向かう。
                   横浜港(神奈川県)・神戸港(兵庫県)に向かう。
昭和16年(1941年)02月05日:神戸港(兵庫県)に入港。
昭和16年(1941年)03月01日:神戸港(兵庫県)を出港。
                   上海(中国)・マニラフィリピン諸島)に向かう。
昭和16年(1941年)03月08日:マニラ港フィリピン諸島)を出港。第5回航海。
                   香港・上海(中国)に向かう。
昭和16年(1941年)03月14日:上海(中国)を出港。
昭和16年(1941年)03月18日:神戸港(兵庫県)を出港。
昭和16年(1941年)03月20日:横浜港(神奈川県)を出港。
                   ホノルルハワイ諸島オアフ島)に向かう。
                   サンフランシスコ(アメリカ)向かう。
昭和16年(1941年)04月01日:サンフランシスコ(アメリカ)に入港。
昭和16年(1941年)04月05日:ロサンゼルスアメリカ)に入港。
昭和16年(1941年)04月07日:ロサンゼルスアメリカ)を出港。
                   サンフランシスコ(アメリカ)向かう。
                   ホノルルハワイ諸島オアフ島)に向かう。
                   横浜港(神奈川県)・神戸港(兵庫県)に向かう。
昭和16年(1941年)04月27日:神戸港(兵庫県)に入港。
昭和16年(1941年)05月10日:神戸港(兵庫県)を出港。
                   上海(中国)・マニラフィリピン諸島)に向かう。
昭和16年(1941年)05月18日:マニラ港フィリピン諸島)を出港。第6回航海。
                   香港・上海(中国)に向かう。
昭和16年(1941年)05月21日:香港中国)を出港。
昭和16年(1941年)05月23日:上海(中国)を出港。
昭和16年(1941年)05月28日:神戸港(兵庫県)を出港。
昭和16年(1941年)05月30日:横浜港(神奈川県)を出港。
                   ホノルルハワイ諸島オアフ島)に向かう。
                   サンフランシスコ(アメリカ)向かう。
昭和16年(1941年)06月12日:サンフランシスコ(アメリカ)に入港。
昭和16年(1941年)06月15日:ロサンゼルスアメリカ)に入港。
昭和16年(1941年)06月17日:ロサンゼルスアメリカ)を出港。
                   サンフランシスコ(アメリカ)向かう。
                   ホノルルハワイ諸島オアフ島)に向かう。
                   横浜港(神奈川県)・神戸港(兵庫県)に向かう。
昭和16年(1941年)07月07日:神戸港(兵庫県)に入港。
昭和16年(1941年)07月17日:神戸港(兵庫県)を出港。
                   上海(中国)・マニラフィリピン諸島)に向かう。
昭和16年(1941年)07月25日:マニラ港フィリピン諸島)を出港。第7回航海。
                   香港・上海(中国)に向かう。
昭和16年(1941年)08月04日:神戸港(兵庫県)を出港。
昭和16年(1941年)08月05日:横浜港(神奈川県)に入港。
昭和16年(1941年)09月12日:海軍に徴傭される。
                   一般徴傭船となる。
                   佐世保鎮守府所管に編入。
昭和16年(1941年)11月26日:東京港(東京都)を出港。
                   海軍落下傘部隊・陸軍部隊の輸送任務に従事。
                   高雄台湾)・横浜港(神奈川県)へ向かう。
昭和16年(1941年)12月15日:東京都父島二見港を出港。
昭和16年(1941年)12月17日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和16年(1941年)12月26日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和16年(1941年)12月30日:上海(中国)を出港。
昭和17年(1942年)01月12日:大鳥島(ウェーク島)に入港。同日出航。
昭和17年(1942年)01月18日:横浜港(神奈川県)に入港。
昭和17年(1942年)01月23日:上海(中国)に入港。
昭和17年(1942年)01月25日:上海(中国)を出港。
昭和17年(1942年)01月28日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和17年(1942年)01月29日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和17年(1942年)01月22日:横浜港(神奈川県)に入港。
昭和17年(1942年)02月02日:横浜港(神奈川県)を出港。
昭和17年(1942年)02月04日:釜山(韓国)に入港。
昭和17年(1942年)03月24日:釜山(韓国)を出港。
昭和17年(1942年)03月24日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和17年(1942年)03月25日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和17年(1942年)03月25日:木更津港(千葉県)に入港。
昭和17年(1942年)03月30日:木更津港(千葉県)を出港。
昭和17年(1942年)04月03日:高雄台湾)に入港。
昭和17年(1942年)04月11日:高雄台湾)を出港。
昭和17年(1942年)04月14日:横浜港(神奈川県)に入港。
昭和17年(1942年)04月18日:横浜港(神奈川県)を出港。
昭和17年(1942年)04月18日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和17年(1942年)04月25日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和17年(1942年)04月25日:横浜港(神奈川県)に入港。
昭和17年(1942年)05月01日:解傭される。
昭和17年(1942年)05月14日:解傭が発令される。
昭和17年(1942年)05月27日:呉海軍工廠(広島県)で空母への改造工事に着手。
                   佐世保鎮守府所管に編入。
昭和17年(1942年)08月01日:海軍省に買収される。
昭和17年(1942年)08月20日:航空母艦に艦種類別される。
                   軍艦「冲鷹」と命名。
                   艤装員長として石井芸江大佐が着任。
                   内令第1547号によって本籍が仮定。
                   横須賀鎮守府籍に編入。
昭和17年(1942年)11月25日:呉海軍工廠(広島県)で空母への改造工事に完了。
                   初代艦長として石井芸江大佐が着任。
                   内令第2176号によって本籍が決定。
                   横須賀鎮守府籍に編入。
                   連合艦隊付属となる。
昭和17年(1942年)11月26日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和17年(1942年)11月28日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
                   横須賀海軍工廠(神奈川県)に入渠。
昭和17年(1942年)12月04日:横須賀海軍工廠(神奈川県)を出渠。
昭和17年(1942年)12月11日:横須賀軍港(神奈川県)を出港直前にタービン故障。
昭和17年(1942年)12月12日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   航空機輸送任務に従事。
                   空母「龍鳳」・駆逐艦「時雨」「朝雲」とトラック諸島に向かう。
                   陸軍飛行第四十五戦隊をトラック諸島に輸送。
                   「九九式双発軽爆撃機」23機・要員203名を搭載。
                   同行していた空母「龍鳳」が東京都八丈島沖で被雷。
昭和17年(1942年)12月18日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)12月21日:トラック泊地を出航。
                   駆逐艦「時雨」「朝雲」と横須賀軍港(神奈川県)に向かう。
                   途中で軽巡「長良」が合流。
昭和17年(1942年)12月26日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)01月02日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   航空機輸送任務に従事。
                   駆逐艦「朝雲」とトラック諸島に向かう。
昭和18年(1943年)01月08日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)01月10日:トラック泊地を出航。
                   駆逐艦「時雨」「朝雲」とビスマルク諸島カビエンに向かう。
                   搭載機をカビエンに向けて発艦させる。
昭和18年(1943年)01月12日〜13日:カビエンの七〇一空所属「九六式陸攻」1機が離陸。
                   空母「冲鷹」以下の前路哨戒を行う。
昭和18年(1943年)01月14日:トラック泊地に入港。同日出航。
                   駆逐艦「村雨」と横須賀軍港(神奈川県)に向かう。
昭和18年(1943年)01月20日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)02月01日:2代目艦長として加藤与四郎大佐が着任。
昭和18年(1943年)02月07日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   航空機輸送任務に従事。
昭和18年(1943年)02月12日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)02月15日:トラック泊地を出航。
                   ビスマルク諸島ラバウル・カビエンに向かう。
                   「零戦」20機をラバウル・カビエンに向けて発艦させる。
昭和18年(1943年)02月20日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)02月28日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   航空機輸送任務に従事。
                   駆逐艦「大波」とトラック諸島に向かう。
昭和18年(1943年)03月05日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)03月08日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)03月13日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)04月04日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   航空機輸送任務に従事。
                   空母「大鷹」とトラック諸島に向かう。
                   陸軍第六飛行師団飛行第六十八戦隊を輸送。
                   「三式戦闘機『飛燕』」約30機を搭載。
昭和18年(1943年)04月07日:米潜水艦接触を受ける。
昭和18年(1943年)04月08日:米潜水艦の雷撃を受けるが命中せず。
昭和18年(1943年)04月10日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)04月16日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)04月21日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)04月25日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   航空機輸送任務に従事。
                   第二五一航空隊の機材をトラック諸島に輸送。
                   空母「雲鷹」と共に「零戦」60機を搭載。
昭和18年(1943年)04月30日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)05月08日:トラック泊地を出航。
                   空母「雲鷹」と横須賀軍港(神奈川県)に向かう。
                   戦艦「大和」以下が同行。
昭和18年(1943年)05月13日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)05月24日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   航空機輸送任務に従事。
                   空母「雲鷹」とトラック諸島に向かう。
昭和18年(1943年)05月29日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)06月05日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)06月09日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)06月16日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   航空機輸送任務に従事。
                   空母「雲鷹」とトラック諸島に向かう。
                   戦艦「金剛」以下が同行。
                   途中、米潜水艦と遭遇。
昭和18年(1943年)06月21日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)06月28日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)07月02日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)07月10日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   航空機輸送任務に従事。
昭和18年(1943年)07月16日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)07月19日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)07月24日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)08月09日:横須賀海軍工廠(神奈川県)に入渠。
昭和18年(1943年)08月18日:横須賀海軍工廠(神奈川県)を出渠。
昭和18年(1943年)09月07日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   航空機輸送任務に従事。
                   空母「大鷹」とトラック諸島に向かう。
昭和18年(1943年)09月11日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)09月21日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)09月24日:同行していた空母「大鷹」が東京都父島沖で被雷。
                   航行不能となった空母「大鷹」を曳航する。
昭和18年(1943年)09月26日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)09月27日:3代目艦長として大倉留三郎大佐が着任。
昭和18年(1943年)10月04日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   航空機輸送任務に従事。
                   駆逐艦「島風」「漣」とトラック諸島に向かう。
昭和18年(1943年)10月10日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)10月15日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)10月16日:米潜水艦の雷撃を受けるが命中せず。
昭和18年(1943年)10月18日:米潜水艦の雷撃を受けるが命中せず。
昭和18年(1943年)10月20日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)10月27日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   航空機輸送任務に従事。
昭和18年(1943年)11月01日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)11月05日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)11月10日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)11月16日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   航空機輸送任務に従事。
昭和18年(1943年)11月21日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)11月30日:トラック泊地を出航。
                   同行した艦艇は以下の通り。
                   空母「瑞鳳」「雲鷹」・重巡「摩耶」
                   駆逐艦「曙」「朧」「漣」「浦風」
昭和18年(1943年)12月03日:米潜水艦の雷撃により魚雷1本被雷。
昭和18年(1943年)12月04日:更に魚雷2発被雷。
                   東京都八丈島東方約370kmで沈没。
昭和19年(1944年)02月05日:艦籍から除籍される。

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