水上機母艦「千歳」・航空母艦「千歳」

水上機母艦「千歳(ちとせ)」・航空母艦「千歳(ちとせ)」

「千歳」について  ・「千歳」の要目  ・「千歳」の艦歴  ・参考文献

「千歳」について

水上機母艦「千歳(ちとせ)」は、大東亜戦争に於ける日本海軍の水上機母艦である。
その後、小型航空母艦(軽空母)への改造工事を受けて航空母艦「千歳」となった。

水上機母艦「千歳」・航空母艦「千歳」 「千歳」は、昭和8年(1933年)に策定された第二次備補充計画(A計画)に於いて計画された。
昭和9年(1934年)11月26日に広島県の呉海軍工廠で水上機母艦として起工され、昭和13年(1938年)7月25日に竣工した。竣工後は水上機母艦として運用されたが、大東亜戦争中に空母への改造工事が行われ、昭和18年(1943年)12月15日に航空母艦に艦種が変更された。

A計画に於いて、「水上機母艦甲」2隻(後の千歳型水上機母艦「千歳」「千代田」)と「水上機母艦乙」1隻(後の「瑞穂」)が計画された。それ以前の水上機母艦は旧式艦や商船を改造した艦であったが、これら3隻は、当初から純粋な水上機空母艦として計画・設計された初めての艦であった。
そして、これら3隻は、水上機母艦としてにも、艦隊に随伴する高速給油艦としての運用も想定されていた。更に、「甲標的(特殊潜航艇)」を搭載する甲標的母艦としての運用も想定されていた。その為、平時には水上機母艦や高速給油艦として運用するが、戦時になった場には、短期間で甲標的母艦に改装できる様に設計されていた。これは、当時は「甲標的」の存在は最高度の機密であり、その母艦となる事を秘匿する為、平時は別艦種とされていた。
尚、戦時の改装に関しては、艦体上部に艦載機着艦用甲板の設置も検討されていたが、この時点では甲標的母艦としての運用が主であり、本格的な航空母艦への改造は想定されていなかった。

水上機母艦「千歳」・航空母艦「千歳」 千歳型水上機母艦の一番艦「千歳」は、昭和13年(1938年)7月25日に水上機母艦として竣工し、同年7月に勃発した支那事変に出動した。その後、二番艦「千代田」は特殊潜航艇母艦としての改装を受けたが、「千歳」は水上機母艦として運用された。

昭和16年(1941年)12月8日に大東亜戦争が開戦、「千歳」は水上機母艦として出動し、艦隊の索敵や対潜哨戒に任じた。併しながら、昭和17年(1942年)6月のミッドウェー海戦に於いて、日本海軍は主力正規空母4隻(「赤城」 「加賀」「蒼龍」 「飛龍」)を喪失、これを補う為の空母の増産が急務となった。
その結果、雲龍型の大量建造(改D計画)が進められる一方で、既存の艦船を空母に改造したり、航空機の搭載を可能にする改装が試みられた。この時、千歳型水上機母艦2隻(「千歳」「千代田」)も空母に改造される事になった。「千歳」の改造工事は、昭和17年(1942年)11月28日に長崎県の佐世保海軍工廠で開始され、翌昭和18年(1943年)9月15日に完了した。

航空母艦「千歳」は、基準排水量約10000トン・搭載機数30機であり、祥鳳型軽空母とほぼ同等、艦橋を前部の飛行甲板直下に集約した全通式飛行甲板(フラッシュデッキ)を持つ等、艦形も大体似通っていた。尚、姉妹艦「千代田」も同様の改造を受け、航空母艦「千代田」となった。

この千歳型航空母艦の特徴としては、機関にタービンエンジンとディーゼルエンジンを装備していた事である。
これは、水上機母艦として設計された際、高速給油艦としての運用も想定していた為、燃費の良いディーゼルエンジンを装備する事で自艦の燃料消費を抑える狙いがあった。航空母艦に改造された後も機関はタービンエンジンとディーゼルエンジンの併用であったが、結果として機関の構造が複雑になってしまった。尚、千歳型水上機母艦と同時に計画された水上機母艦「瑞穂」では、機関をディーゼルエンジンのみとしたが、まだディーゼルエンジンの信頼性が低く、当初は設計上の速度を出す事が出来なかった。

竣工後の航空母艦「千歳」は、瀬戸内海での完熟航行やシンガポール方面での輸送任務に従事した後、姉妹艦「千代田」と共に、再建を急ぐ日本海軍機動部隊の一翼を担った。
そして「千歳」に本格的な海戦に参加する機会がやってきた。昭和19年(1944年)6月、米海軍機動部隊は、日本が絶対国防圏と定めた中部太平洋の要衝マリアナ諸島に来襲、これに対して日本海軍は、乾坤一擲の「あ」号作戦を発動、機動部隊と基地航空隊とによって米海軍機動部隊を覆滅し、一挙に戦局の挽回を図ろうとしたのである。
この決戦に際し、日本海軍は新鋭の重装甲空母「大鳳」以下の第一機動艦隊を投入した。この時、「千歳」も姉妹艦「千代田」・軽空母「瑞鳳」と共に第一機動艦隊第三航空戦隊を編成、一路決戦の海へと向かった。昭和19年(1944年)6月19日〜20日、日米機動部隊最後の決戦となるマリアナ沖海戦が発生、しかし、この海戦に於いて、日本海軍は空母3隻(「大鳳」「翔鶴」「飛鷹」)と艦載機・搭乗員の殆どを失い、日本海軍機動部隊は事実上壊滅した。この海戦が初陣となった「千歳」も、搭載飛行隊を殆ど失い、後退するしかなかった。

昭和19年(1944年)10月17日、米軍はフィリピン諸島に来襲、日本海軍はこれを迎撃する為に捷一号作戦を発動した。しかし、マリアナ沖海戦で機動部隊の壊滅した日本海軍連合艦隊は、既に有機的な戦闘能力を喪失、最早残された手段は残存艦艇の突入と航空機による体当たり攻撃(特別攻撃)しかなかった。
10月20日、航空母艦「瑞鶴」「瑞鳳」「千歳」「千代田」の4隻を主力とする第一機動艦隊は、日本海軍最後の機動部隊として内地を出撃した。しかし、搭載する艦載機は合計108機しかなく、実質的には米海軍機動部隊をひきつける為の囮艦隊であった。24日、第一機動艦隊から攻撃隊合計56機が発進、「千歳」も14機を発進させたが、これが日本海軍機動部隊最後の攻撃隊となった。翌25日、第一機動艦隊は、フィリピン諸島北東に於いて米海軍機動部隊の猛攻を受けた。
「千歳」には米海軍空母「レキシントン」の攻撃隊が殺到、瞬く間に多数の至近弾に包まれた。そして攻撃開始から約15分で爆弾7発が命中、「千歳」は左舷に急速に傾斜すると共に、09時20分には遂に行き足が止まった。艦長の岸良幸大佐は総員上甲板を下令、その後傾斜が更に増加し、攻撃を受けて約1時間後、「千歳」はその艦影を水中に没した。

時に昭和19年(1944年)10月25日09時37分、場所はフィリピン諸島東方の北緯18度37分・東経126度45分、「千歳」と運命を共にしたのは艦長の岸良幸大佐以下数百名であった。

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「千歳」の要目

<竣工時(水上機母艦):昭和13年(1938年)>

基準排水量:11023トン
公試排水量:12550トン
全長:192.5m 水線長:183.9m 全幅:20.8m 喫水:7.21m
主機:艦本式オールギヤードタービン2基
    艦本式一一号一〇型ディーゼルエンジン2基
缶:ロ号艦本式重油専燃缶4基
出力:5万7160馬力
燃料:1600トン(重油)・2750トン(補給用重油)
最大速力:28.9ノット
航続距離:18ノット・11000海里
搭載機数:常用機24機・補用4機 (九四式水上偵察機)
射出機:呉式二号五型射出機4基
兵装:12.7センチ連装高角砲4基8門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
    25ミリ連装高角機銃6基12挺 (九六式二十五粍高角機銃

<改造時(航空母艦):昭和18年(1943年)>

基準排水量:11190トン
公試排水量:13600トン
満載排水量:15300トン
全長:192.5m 水線長:185.93m 全幅:20.8m 喫水:7.51m
飛行甲板全長:180m 飛行甲板全幅:23m
主機:艦本式オールギヤードタービン2基
    艦本式一一号一〇型ディーゼルエンジン2基
缶:ロ号艦本式重油専燃缶4基
出力:5万6800馬力
燃料:2673トン(重油)
最大速力:29ノット
航続距離:18ノット・11810海里
搭載機数:常用機30機
       艦戦 常用21機 (零式艦上戦闘機
       艦攻 常用9機 (九七式艦上攻撃機)
搭載航空兵装:800キロ爆弾36発・250キロ爆弾72発・60キロ爆弾180発・魚雷18本
兵装:12.7センチ連装高角砲4基8門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
    25ミリ連装高角機銃10基30挺 (九六式二十五粍高角機銃
乗員:785名

<最終時(航空母艦):昭和19年(1944年)>

基準排水量:11190トン
公試排水量:13600トン
満載排水量:15300トン
全長:192.5m 水線長:185.93m 全幅:20.8m 喫水:7.51m
飛行甲板全長:180m 飛行甲板全幅:23m
主機:艦本式オールギヤードタービン2基
    艦本式一一号一〇型ディーゼルエンジン2基
缶:ロ号艦本式重油専燃缶4基
出力:5万6800馬力
燃料:2673トン(重油)
最大速力:29ノット
航続距離:18ノット・11810海里
搭載機数:常用機30機
       艦戦 常用21機 (零式艦上戦闘機
       艦攻 常用9機 (九七式艦上攻撃機)
搭載航空兵装:800キロ爆弾36発・250キロ爆弾72発
          60キロ爆弾180発・30キロ爆弾144発・魚雷18本
兵装:12.7センチ連装高角砲4基8門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
    25ミリ連装機銃10基30挺 (九六式二十五粍高角機銃
    12センチ28連装噴進砲6基168門
    二号一型電探1基・一号三型電探1基
乗員:785名

参考文献

機動部隊
激闘マリアナ沖海戦 日米戦争・最後の大海空戦

空母瑞鶴 日米機動部隊最後の戦い

帝国海軍 空母大全
日本空母と艦載機のすべて

「千歳」の艦歴

昭和9年(1934年)11月26日:呉海軍工廠(広島県)で起工。
昭和11年(1936年)11月29日:呉海軍工廠(広島県)で進水。
昭和12年(1937年)3月1日:艤装員長として池内正方大佐が着任。
昭和13年(1938年)7月25日:呉海軍工廠(広島県)で水上機母艦として竣工。
                  佐世保鎮守府籍に編入。
                  初代艦長として池内正方大佐が着任。
昭和13年(1938年)12月5日:2代目艦長として水井静治大佐が着任。
昭和14年(1939年)11月15日:3代目艦長として西田正雄大佐が着任。
昭和15年(1940年)6月3日:4代目艦長として野元為輝大佐が着任。
昭和15年(1940年)10月15日:5代目艦長として田中頼三大佐が着任。
                   (戦艦「金剛」艦長兼任)
昭和15年(1940年)11月15日:6代目艦長として山本親雄大佐が着任。
                   第一艦隊第七航空戦隊に編入。
昭和16年(1941年)8月20日:7代目艦長として古川保大佐が着任。
昭和16年(1941年)12月8日:フィリピン諸島南部レガスピー攻略作戦に参加。
昭和16年(1941年)12月18日:フィリピン諸島南部ダバオ攻略作戦に参加。
昭和17年(1942年)2月7日:ジャワ島(インドネシア)マカッサル攻略作戦に参加。
昭和17年(1942年)2月14日:ジャワ島(インドネシア)スラバヤ攻略作戦に参加。
昭和17年(1942年)3月30日:東部ニューギニア攻略を支援。
昭和17年(1942年)5月22日:瀬戸内海西部柱島泊地を出航。ミッドウェー環礁に向かう。
昭和17年(1942年)6月5日〜7日:ミッドウェー海戦に参加。
昭和17年(1942年)8月24日:第二次ソロモン海戦に参加。
昭和17年(1942年)10月11日:ソロモン諸島ガダルカナル島への輸送任務に従事。
昭和17年(1942年)11月1日:8代目艦長として佐々木静吾大佐が着任。
                  (重巡「最上」艦長兼任)
昭和17年(1942年)11月15日:佐世保軍港(長崎県)に入港。
昭和17年(1942年)11月28日:佐世保海軍工廠(長崎県)で空母への改造工事開始。
昭和18年(1943年)2月1日:第四予備艦となる。
昭和18年(1943年)4月4日:9代目艦長として荒木伝大佐が着任。
昭和18年(1943年)6月10日:第三予備艦となる。
昭和18年(1943年)8月4日:10代目艦長として三浦艦三大佐が着任。
昭和18年(1943年)9月15日:佐世保海軍工廠(長崎県)で空母への改造工事完了。
                  第三艦隊第五〇航空戦隊に編入。
昭和18年(1943年)9月28日:佐世保軍港(長崎県)を出港。
昭和18年(1943年)12月15日:航空母艦に艦種変更。
昭和19年(1944年)1月7日:呉軍港(広島県)を出港。
                  シンガポールへの輸送船団の護送任務に従事。
昭和19年(1944年)1月20日:セレター軍港(シンガポール)に入港。
昭和19年(1944年)1月25日:セレター軍港(シンガポール)を出航。
昭和19年(1944年)2月1日:第三艦隊第三航空戦隊に編入。
昭和19年(1944年)2月4日:佐世保軍港(長崎県)に入港。
昭和19年(1944年)2月14日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和19年(1944年)2月15日:11代目艦長として岸良幸大佐が着任。
                  佐世保軍港(長崎県)を出港。
昭和19年(1944年)6月13日:フィリピン諸島南西部タウイタウイ泊地を出航。
                  「あ」号作戦発動により、マリアナ諸島西方に向かう。
昭和19年(1944年)6月14日:フィリピン諸島中部ギマラス泊地に入港。
昭和19年(1944年)6月15日:フィリピン諸島中部ギマラス泊地を出航。
昭和19年(1944年)6月19日〜20日:マリアナ沖海戦に参加
昭和19年(1944年)6月22日:沖縄本島中城湾に入港。
昭和19年(1944年)10月20日:瀬戸内海西部柱島泊地を出航。
                   捷一号作戦発動により、フィリピン諸島東方に向かう。
昭和19年(1944年)10月24日:エンガノ岬沖海戦に参加。
昭和19年(1944年)10月25日:米軍艦載機の攻撃により爆弾7発が命中。
                   左舷に傾斜・航行不能。
                   フィリピン諸島東方で沈没。
昭和20年(1945年)12月20日:艦籍を除籍される。

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