航空母艦「飛龍」

航空母艦「飛龍(ひりゅう)」

「飛龍」について  ・「飛龍」の要目  ・「飛龍」の艦歴  ・参考文献  ・関連映画

「飛龍」について

航空母艦「飛龍(ひりゅう)」は、大東亜戦争に於ける日本海軍の正規航空母艦(空母)である。

航空母艦「飛龍」 「飛龍」は、ロンドン海軍軍縮条約に基づいて計画された航空母艦「蒼龍」の二番艦として、昭和11年(1936年)7月8日、神奈川県の横須賀海軍工廠で起工され、昭和14年(1939年)7月5日に竣工した。

「飛龍」は、当初から純粋な正規航空母艦として計画設計された「蒼龍」の二番艦として起工され、既に竣工していた「蒼龍」での運用実績を踏まえた設計変更が行われた。「蒼龍」との大きな相違点としては、艦橋が左舷中央に配置された事、舵が平衡式吊舵2枚から半平衡式中央支持舵1枚となった事、船体と飛行甲板の幅拡と昇降機(エレベーター)の大型化等であった。この設計変更の結果、「蒼龍」よりも1000トン以上排水量が増加し、実質的には異なった艦となった。尚、日本海軍の航空母艦で、島型艦橋が左舷に配置されたのは「赤城」と「飛龍」のみで、これは日本海軍艦載機にとっては運用上の不具合があり、それ以外の航空母艦の島型艦橋は全て右舷に配置された。
日本海軍の中型正規航空母艦の設計は、「蒼龍」を雛形とし、「飛龍」でほぼ完成した。以後、その拡大版である「翔鶴」型や、量産型である雲龍型へと繋がっていった。

大東亜戦争に於いては、ハワイ諸島オアフ島真珠湾の米海軍基地に対する空襲(真珠湾攻撃)に参加した。また、「蒼龍」「飛龍」は、真珠湾攻撃の帰途にウェーク島を空襲し、同島の攻略を支援した。

航空母艦「飛龍」 昭和17年(1942年)1月以降、「蒼龍」「飛龍」は、アンボン島アンボン(インドネシア)を空襲した後、「赤城」以下の機動部隊に合流し、蘭印(オランダ領インドネシア)への侵攻を支援した。
4月からはインド洋への侵攻を開始、この時、英海軍東洋艦隊の重巡洋艦「コンウォール」「ドーセットシャー」に対する急降下爆撃は非常に高い命中率を示し、瞬く間に敵艦2隻を撃沈した。

日本海軍の次なる目標は、東太平洋のミッドウェー環礁の攻略、即ちミッドウェー作戦の発動であった。
昭和17年(1942年)5月27日(海軍記念日)、「赤城」 「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4隻を主力とする機動部隊が瀬戸内海西部の柱島泊地を出撃、6月5日朝にはミッドウェー環礁に対する空襲を開始した。これに対し米海軍は、ミッドウェー環礁に配備した航空機と航空母艦「エンタープライズ」「ホーネット」「ヨークタウン」の3隻を主力とする艦隊によって迎撃体制を整えていた。
ミッドウェー海戦に於いて、米海軍艦載機の攻撃によって「赤城」「加賀」「蒼龍」が相次いで被弾炎上する中、「飛龍」1隻のみが被弾を免れていた。「飛龍」に座乗する第二航空戦隊司令官山口多聞少将は直ちに反撃を開始、残り少ない艦載機の必死の攻撃よって、米海軍航空母艦「ホーネット」に致命傷を与え、後に潜水艦「伊一六八」が止めを刺した。「飛龍」の活躍によって米海軍機動部隊に一矢報いる事が出来たのである。併しながら、残り1隻となった「飛龍」と2隻残存の米海軍機動部隊では多勢に無勢であった。5日17時01分(現地時間)、「飛龍」は遂に被弾して戦闘能力を喪失した。

被弾した「飛龍」の艦内は激しい火災に包まれたれ、発艦準備中の艦載機に燃え移った炎は爆弾や魚雷を誘爆させた。乗員の必死の消火活動にも関わらず火災は最早手の施しようが無かった。6日03時15分(現地時間)、艦長の加来止男大佐は乗員に退艦を指示、駆逐艦に対して生存乗員の救助と「飛龍」の処分を命じた。
この時、加来艦長と山口司令官は、退艦を勧める部下を静かに制した。そして、2人は月夜に浮かぶ艦橋に消えていったという。

「飛龍」はその後一晩海を漂流し、翌朝、日本軍偵察機にその艦影を目撃された。しかし、救助の駆逐艦が現場に到着した時にはその姿は無く、最後の様子を見たものはいない。
「飛龍」と運命を共にしたのは第二航空戦隊司令官の山口多聞少将と艦長の加来止男大佐以下416名であった。

戦跡の歩き方TOP」へ戻る>> 「大東亜戦争兵器」へ戻る>> 「日本海軍」へ戻る

「飛龍」の要目

<竣工時:昭和14年(1939年)>

基準排水量:17300トン
公試排水量:20165トン
全長227.35m 水線長:222m 全幅:22.32m 喫水:7.74m
飛行甲板全長:216.9m 飛行甲板全幅:27m
主機:艦本式オールギヤードタービン4基
缶:ロ号艦本式重油専燃缶8基
出力:15万3000馬力
燃料:3750トン(重油)
最大速力:34.59ノット
航続距離:18ノット・7670海里
搭載機数:常用機57機・補用16機
       艦戦 常用12機・補用4機 (九六式艦上戦闘機)
       艦爆 常用27機・補用9機 (九六式艦上爆撃機)
       艦攻 常用9機・補用3機
       艦偵 常用9機
兵装:12.7センチ連装高角砲6基12門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
    25ミリ三連装機銃7基21挺 (九六式二十五粍高角機銃
    25ミリ連装機銃5基10挺 (九六式二十五粍高角機銃
乗員:1101名

<最終時:昭和17年(1942年)>

基準排水量:17300トン
公試排水量:20165トン
全長227.35m 水線長:222m 全幅:22.32m 喫水:7.74m
飛行甲板全長:216.9m 飛行甲板全幅:27m
主機:艦本式オールギヤードタービン4基
缶:ロ号艦本式重油専燃缶8基
出力:15万3000馬力
燃料:3750トン(重油)
最大速力:34.59ノット
航続距離:18ノット・7670海里
搭載機数:常用機57機・補用16機
兵装:12.7センチ連装高角砲6基12門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
    25ミリ三連装機銃7基21挺 (九六式二十五粍高角機銃
    25ミリ連装機銃5基10挺 (九六式二十五粍高角機銃
乗員:1101名

参考文献

真珠湾攻撃
真珠湾攻撃・全記録 日本海軍・勝利の限界点
ミッドウェー

帝国海軍 空母大全
日本空母と艦載機のすべて

関連映画

「聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実

「飛龍」の艦歴

昭和11年(1936年)7月8日:横須賀海軍工廠(神奈川県)で起工。
昭和12年(1937年)11月16日:横須賀海軍工廠(神奈川県)で進水。
昭和13年(1938年)8月10日:初代艤装員長として城島高次大佐が着任。
昭和13年(1938年)12月25日:2代艤装員長として竹中龍造大佐が着任。
昭和14年(1939年)7月5日:横須賀海軍工廠(神奈川県)で竣工。
                  佐世保鎮守府籍に編入。
                  初代目艦長として竹中龍造大佐が着任。
昭和14年(1939年)11月15日:第二艦隊第二航空艦隊に編入。
                   2代目艦長として横川市平大佐が着任。
昭和15年(1940年)3月26日:沖縄本島中城湾を出航。南支にて作戦行動。
昭和15年(1940年)9月17日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   北部仏印(フランス領インドシナ)進駐を支援。
昭和15年(1940年)10月6日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和15年(1940年)10月11日:紀元二千六百年特別観艦式に参加。
昭和15年(1940年)11月15日:3代目艦長として矢野志加三大佐が着任。
昭和15年(1940年)12月29日:第二艦隊第二航空艦隊旗艦となる。
昭和16年(1941年)3月26日:沖縄本島中城湾を出航。南支にて作戦行動。
昭和16年(1941年)4月10日:第一航空艦隊第二航空戦隊に編入。
昭和16年(1941年)7月10日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   南部仏印(フランス領インドシナ)進駐を支援。
昭和16年(1941年)7月14日:馬公(台湾)に入港。同日出航。
昭和16年(1941年)7月30日:サンジャック(ベトナム)に入港。同日出航
昭和16年(1941年)8月7日:佐世保軍港(長崎県)に入港。
昭和16年(1941年)9月8日:4代目艦長として加来止男大佐が着任。
昭和16年(1941年)11月13日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和16年(1941年)11月16日:大分県佐伯湾に回航。
昭和16年(1941年)11月18日:大分県佐伯湾を出航
昭和16年(1941年)11月22日:択捉島単冠湾に入港。
昭和16年(1941年)11月26日:択捉島単冠湾を出航。
昭和16年(1941年)12月08日:真珠湾攻撃に参加。ハワイ諸島オアフ島真珠湾を空襲。
昭和16年(1941年)12月21日〜23日:機動部隊と分離。ウェーク島攻略を支援。
昭和16年(1941年)12月29日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和17年(1942年)1月11日:瀬戸内海西部柱島泊地に回航。
昭和17年(1942年)1月12日:瀬戸内海西部柱島泊地を出航。
昭和17年(1942年)1月17日:パラオ泊地に入港。
昭和17年(1942年)1月21日:パラオ泊地を出航。
昭和17年(1942年)1月23日〜24日:アンボン島(インドネシア)アンボンを空襲。
昭和17年(1942年)1月25日:フィリピン諸島ダバオに入港。
昭和17年(1942年)1月27日:フィリピン諸島ダバオを出航。
昭和17年(1942年)1月28日:パラオ泊地に入港。
昭和17年(1942年)2月15日:パラオ泊地を出航。
昭和17年(1942年)2月19日:ポートダーウィンオーストラリア)を空襲。
昭和17年(1942年)2月21日:セレベス島(インドネシア)スターリング湾に入港。
昭和17年(1942年)2月26日:セレベス島(インドネシア)スターリング湾を出航。
                  ジャワ島(インドネシア)南方に向かう。
昭和17年(1942年)3月1日:米特務艦「ペスコ」を撃沈。
昭和17年(1942年)3月5日:ジャワ島(インドネシア)南部チラチャップを空襲。
昭和17年(1942年)3月7日:クリスマス島(オーストラリア)を空襲。
昭和17年(1942年)3月11日:セレベス島(インドネシア)スターリング湾に入港。
昭和17年(1942年)3月26日:セレベス島(インドネシア)スターリング湾を出航。
                  インド洋に向かう。
昭和17年(1942年)4月5日:セイロン島コロンボを空襲。
                 英重巡「コンウォール」「ドーセットシャー」を撃沈。
昭和17年(1942年)4月9日:セイロン島トリンコマリーを空襲。
                 英空母「ハーミス」を撃沈。
昭和17年(1942年)4月22日:佐世保軍港(長崎県)に入港。
昭和17年(1942年)5月27日:瀬戸内海西部柱島泊地を出航。ミッドウェー環礁に向かう。
昭和17年(1942年)6月5日:ミッドウェー海戦に参加。爆弾4発被弾、火災発生。
昭和17年(1942年)6月6日:ミッドウェー環礁北方で沈没。
昭和17年(1942年)9月25日:艦籍から除籍される。

戦跡の歩き方TOP」へ戻る>> 「大東亜戦争兵器」へ戻る>> 「日本海軍」へ戻る

Copyright(C)悠久の沙羅双樹
inserted by FC2 system