航空母艦「飛鷹」

航空母艦「飛鷹(ひよう)」

「飛鷹」について  ・「飛鷹」の要目  ・「飛鷹」の艦歴  ・参考文献

「飛鷹」について

航空母艦「飛鷹(ひよう)」は、大東亜戦争に於ける日本海軍の航空母艦である。
日本郵船の豪華客船「出雲丸」を改造した特設航空母艦(商船改造空母・特空母)であったが、後に航空母艦に類別されて「飛鷹」と命名された。

航空母艦「飛鷹」 「飛鷹」は、昭和14年(1939年)11月30日、兵庫県の川崎重工神戸造船所で日本郵船の豪華客船「出雲丸」として起工され、その後、建造途中で空母への改造が決定、昭和17年(1941年)7月31日、日本海軍の航空母艦「飛鷹」として竣工した。

「飛鷹」は、当初は民間商船として起工され、純粋な航空母艦として建造された艦ではなかった。しかし、戦時には空母への改造が可能な設計が成されていた。これは以下のような事情による。
昭和5年(1930年)に締結されたロンドン海軍軍縮条約によって、日本海軍は空母の保有量に制限を受けた。そこで、建造費用の一部を海軍が負担する代わりに、戦時になった場合は海軍が買収して空母へ改造する事を前提とした民間の優秀商船を整備する事になった。これは、「優秀船舶建造助成法」として昭和12年(1937年)4月に施行された。
この「優秀船舶建造助成法」を適応し、逓信省は日本郵船の豪華客船「出雲丸」「橿原丸」の建造を計画、昭和14年(1939年)11月30日、「出雲丸」は兵庫県の川崎重工神戸造船所で起工された。しかし、建造途中の昭和15年(1940年)10月、日本海軍はこれら商船の空母への改造を決定した。そして、翌昭和16年(1941年)2月10日、建造中の「出雲丸」は第1001号艦として空母への改造が開始された。尚、姉妹船「橿原丸」も第1002号艦(後の「隼鷹」)として空母への改造が開始された。

航空母艦「飛鷹」 昭和17年(1942年)7月31日、第1001号艦は航空母艦「飛鷹」として竣工した。
「飛鷹」は、商船を改造した特設航空母艦であったが、基となったのは優秀商船であった為、中型正規空母に匹敵する性能を備えていた。即ち、搭載可能な艦載機数や航空兵装(爆弾・魚雷)は正規空母であった「蒼龍」「飛龍」とほぼ同等、最大速力25.68ノットは正規空母にはやや劣るものの、艦隊に随伴して航空作戦を行う事が可能であった。これは、急速な空母増産が困難な日本海軍にとっては貴重な戦力となり、同様の改造を受けた姉妹艦「隼鷹」と共に、日本海軍機動部隊の一部を担っていく事になる。

「飛鷹」と同型艦「隼鷹」には、日本海軍の航空母艦としては初めて艦橋と一体化した煙突が装備された。これは、艦橋構造物の上に設けた斜め外側に傾斜した煙突によって排煙するものであった。この形式の煙突は、「飛鷹」「隼鷹」で実際に運用してみると非常に良好な結果が得られた。そこで、後に竣工する重装甲空母「大鳳」「信濃」では、乾舷(海面から飛行甲板までの高さ)の低さによって舷側に下向きの煙突を装備する事が難しかった為、この艦橋と一体化した煙突が装備された。
「飛鷹」は、一般的には飛鷹型航空母艦の一番艦とされ、竣工前は「飛鷹」が第1001号艦、「隼鷹」が第1002号艦と呼称されていた。しかし、実際に竣工したのは、「隼鷹」が昭和17年(1941年)5月3日で、「飛鷹」が昭和17年(1941年)7月31日であり、一番艦である「飛鷹」は後であった。

大東亜戦争に於いては、昭和17年(1942年)10月、ソロモン諸島北方に於いて行われた南太平洋海戦が「飛鷹」の初陣となるはずであった。
この時「飛鷹」は、僚艦「隼鷹」と第三艦隊第二航空戦隊を編成、同第一航空戦隊の「翔鶴」「瑞鶴」「瑞鳳」と共にソロモン諸島ガダルカナル島北方に進出、同島に対する陸軍部隊の攻撃と輸送を支援する事になっていた。併しながら、トラック泊地出航後の10月20日、「飛鷹」は機関が故障し後退を余儀なくされ、10月26日に米海軍機動部隊との間に発生した南太平洋海戦に参加することが出来なかった。尚、この時、僚艦「隼鷹」は奮戦し、米海軍の空母「ホーネット」を撃沈、同「エンタープライズ」を撃破する戦果を挙げた。
その後は、ソロモン諸島に於ける航空戦を支援する為に搭載する飛行隊を陸上基地に派遣したり、内地と南方との輸送任務に従事した。

昭和19年(1944年)6月、米海軍機動部隊は、日本が絶対国防圏と定めた中部太平洋の要衝マリアナ諸島に来襲した。これに対し、日本海軍は「あ」号作戦を発動、マリアナ諸島の基地航空隊と機動部隊によって米海軍機動部隊を撃破して、一挙に戦局の打開を図ろうとした。この決戦に際し、日本海軍は新鋭の重装甲空母「大鳳」以下空母9隻・艦載機約450機を擁する第一機動艦隊を投入、「飛鷹」も、「隼鷹」「龍鳳」と共に第一機動艦隊第二航空戦隊を編成し、一路決戦の海に馳せ参じた。

昭和19年(1944年)6月19日、日米機動部隊最後の決戦となるマリアナ沖海戦が開始されたが、日本海軍は「大鳳」「翔鶴」を失い、発進した航空機の多くも戻らなかった。
そして翌20日、米海軍の追撃が開始された。残存の日本軍空母は迎撃の戦闘機を発艦させ、各艦必死の対空戦闘によってこれを迎え撃った。しかし、夕方、遂に「飛鷹」の右舷後部に魚雷1本が命中、更に煙突付近で炸裂した爆弾によって艦長の横井大佐以下多数が死傷した。「飛鷹」は被雷によって速度が低下し、火災も発生した。その後、左舷にも魚雷1発が命中して艦内の動力が絶たれ、消火活動が困難になった。火災は各所に広がり、魚雷や爆弾の誘爆や航空機用揮発油(ガソリン)への引火が起こった。ここに至り、艦長の横井大佐は総員退艦を決意、負傷者の搬出と他艦への移乗を指示した後、残存乗員を前甲板へと集合させた。夕焼けの洋上で「飛鷹」の軍艦旗が降ろされ、御真影も駆逐艦に移された。横井大佐は総員退艦を命じた後、部下に別れを告げると艦に残った。やがて、「飛鷹」は左舷に大きく傾くと艦尾から沈んでいった。

時に昭和19年(1944年)6月20日19時32分、場所はマリアナ諸島西方730海里の北緯15度30分・東経133度50分、「飛鷹」と運命を共にしたのは247名であった。艦長横井俊之大佐は、一旦は艦と共に海中に沈んだが、意識を失ったまま浮上、幸いにも付近にいた駆逐艦に救助されて一命を取り留めた。
姉妹艦「隼鷹」が多くの海戦で活躍したのに対し、「飛鷹」は余り華々しい戦果を挙げる事も無く、武運に恵まれないまま、マリアナ沖海戦に於いて沈んでいった。

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「飛鷹」の要目

<計画時(「出雲丸」):昭和14年(1939年)>

総トン数:28950トン
満載排水量:31915トン
全長206.m 全幅:26.7m 喫水:9.175m
主機:川崎オールギヤードタービン2基
缶:川崎ラ・モント式強制循環缶6基
出力:5万6350馬力
最大速力:25.5ノット
積載重量:10415トン
貨物艙容量:5824立法メートル
旅客定員:890名(一等320名・二等120名・三等550名)

<竣工時:昭和17年(1942年)>

基準排水量:24140トン
公試排水量:27500トン
満載排水量:トン
全長219.32m 水線長:215.3m 全幅:26.7m 喫水:8.15m
飛行甲板全長:210.3m 飛行甲板全幅27.3m
主機:川崎オールギヤードタービン2基
缶:川崎ラモント式強制循環缶6基
出力:5万6250馬力
燃料:4100トン(重油)
最大速力:25.68ノット
航続距離:18ノット・12251海里
搭載機数:常用機48機・補用5機
       艦戦 常用12機・補用3機 (零式艦上戦闘機
       艦爆 常用18機 (九九式艦上爆撃機)
       艦攻 常用18機・補用3機 (九七式艦上攻撃機)
搭載航空兵装:800キロ爆弾54発・250キロ爆弾198発・60キロ爆弾348発・魚雷27本
兵装:12.7センチ連装砲6基12門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
    25ミリ三連装機銃8基24挺 (九六式二十五粍高角機銃
    二号一型電探1基
乗員:1300名

参考文献

機動部隊
激闘マリアナ沖海戦 日米戦争・最後の大海空戦

帝国海軍 空母大全
日本空母と艦載機のすべて

「飛鷹」の艦歴

昭和14年(1939年)11月30日:川崎重工神戸造船所(兵庫県)で豪華客船として起工。
昭和15年(1940年)10月:航空母艦への改造決定。
昭和16年(1941年)2月10日:豪華客船としての建造中止。逓信省から海軍省へ買収。
昭和16年(1941年)6月24日:川崎重工神戸造船所(兵庫県)で進水。
昭和16年(1941年)11月15日:初代艤装員長として別府明朋大佐が着任。
昭和17年(1942年)7月31日:航空母艦として竣工。呉鎮守府籍に編入。
                  初代艦長として別府明朋大佐が着任。
                  第三艦隊第二航空戦隊に編入。
昭和17年(1942年)8月10日:神戸港(兵庫県)を出港。
昭和17年(1942年)8月11日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和17年(1942年)8月12日:第三艦隊第二航空戦隊旗艦となる。
昭和17年(1942年)8月13日:瀬戸内海西部柱島泊地に回航。
昭和17年(1942年)8月17日:瀬戸内海西部柱島泊地を出航。
昭和17年(1942年)8月20日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和17年(1942年)8月22日:呉海軍工廠(広島県)に入渠。
昭和17年(1942年)8月29日:呉海軍工廠(広島県)を出渠。
昭和17年(1942年)9月1日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和17年(1942年)9月4日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和17年(1942年)9月7日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和17年(1942年)9月13日:大分県佐伯湾に回航。
昭和17年(1942年)9月15日:大分県佐伯湾を出航。
昭和17年(1942年)9月25日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和17年(1942年)10月3日:呉軍港(広島県)を出港。
                  大分県佐伯湾に回航。同日出航。
昭和17年(1942年)10月9日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)10月11日:トラック泊地を出航。
                   ソロモン諸島ガダルカナル島北方に向かう。
昭和17年(1942年)10月20日:ソロモン諸島東方で機関故障。トラック泊地に向かう。
昭和17年(1942年)10月26日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)11月22日:2代目艦長として澄川道男大佐が着任。
昭和17年(1942年)12月5日:トラック泊地を出航。
昭和17年(1942年)12月10日:大分県佐伯湾に回航。
昭和17年(1942年)12月11日:大分県佐伯湾を出航。呉軍港(広島県)に入港。
昭和17年(1942年)12月29日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和17年(1942年)12月30日:徳山港(山口県)に入港。
昭和18年(1943年)1月14日:徳山港(山口県)を出港。岩国沖(山口県)に回航。
昭和18年(1943年)1月20日:岩国沖(山口県)を出航。徳山港(山口県)に入港。
昭和18年(1943年)1月24日:徳山港(山口県)を出港。
昭和18年(1943年)2月16日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和18年(1943年)2月26日:呉海軍工廠(広島県)に入渠。
昭和18年(1943年)3月4日:呉海軍工廠(広島県)を出渠。
昭和18年(1943年)3月6日:呉軍港(広島県)を出港。徳山港(山口県)に入港。
昭和18年(1943年)3月14日:徳山港(山口県)を出港。呉軍港(広島県)に入港。
昭和18年(1943年)3月19日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和18年(1943年)3月20日:大分県佐伯湾に回航。
昭和18年(1943年)3月22日:大分県佐伯湾を出航。
昭和18年(1943年)3月27日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)4月1日〜17日:「い」号作戦に参加。
                      飛行隊をビスマルク諸島ラバウルに派遣。
昭和18年(1943年)5月17日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)5月22日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。北方作戦に備えて待機。
昭和18年(1943年)5月25日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。木更津沖(千葉県)に回航。
昭和18年(1943年)6月2日:木更津沖(千葉県)を出航。横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)6月5日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。木更津沖(千葉県)に回航。
昭和18年(1943年)6月7日:木更津沖(千葉県)を出航。横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)6月10日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和18年(1943年)6月11日:東京都三宅島沖で米海軍潜水艦の雷撃を受けて損傷。
昭和18年(1943年)6月12日:軽巡「五十鈴」に曳航されて横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)6月29日:横須賀海軍工廠(神奈川県)に入渠。
昭和18年(1943年)8月15日:3代目艦長として別府明朋大佐が着任。
                  (空母「千代田」艦長兼任)
昭和18年(1943年)9月1日:4代目艦長として古川保大佐が着任。
昭和18年(1943年)9月15日:横須賀海軍工廠(神奈川県)を出渠。
昭和18年(1943年)10月26日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和18年(1943年)10月27日:瀬戸内海西部柱島泊地に回航。
昭和18年(1943年)10月29日:瀬戸内海西部柱島泊地を出航。呉軍港(広島県)に入港。
昭和18年(1943年)11月17日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和18年(1943年)11月20日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和18年(1943年)11月24日:瀬戸内海西部柱島泊地を出航。
昭和18年(1943年)11月29日:マニラ港フィリピン諸島)に入港。
昭和18年(1943年)11月30日:マニラ港フィリピン諸島)を出港。
昭和18年(1943年)12月3日:セレター軍港(シンガポール)に入港。
昭和18年(1943年)12月9日:セレター軍港(シンガポール)を出港。
昭和18年(1943年)12月14日:ボルネオ島北東部(インドネシア)タラカンに入港。
昭和18年(1943年)12月15日:ボルネオ島北東部(インドネシア)タラカンを出港。
昭和18年(1943年)12月18日:パラオ泊地に入港。
昭和18年(1943年)12月19日:パラオ泊地を出航。
昭和18年(1943年)12月22日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)12月27日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)12月29日:サイパン島に入港。同日出航。
昭和19年(1944年)1月2日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和19年(1944年)1月18日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和19年(1944年)1月20日:瀬戸内海西部柱島泊地に回航。
昭和19年(1944年)1月25日:瀬戸内海西部柱島泊地を出航。
昭和19年(1944年)2月1日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和19年(1944年)2月16日:5代目艦長として横井俊之大佐が着任。
昭和19年(1944年)2月28日:呉軍港(広島県)を出港。瀬戸内海西部柱島泊地に回航。
昭和19年(1944年)3月9日:瀬戸内海西部柱島泊地を出航。
昭和19年(1944年)3月10日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和19年(1944年)4月2日:呉軍港(広島県)を出港。岩国沖(山口県)に回航。
昭和19年(1944年)4月12日:岩国沖(山口県)を出航。徳山港(山口県)に入港。
昭和19年(1944年)4月14日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和19年(1944年)4月22日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和19年(1944年)4月26日:岩国沖(山口県)に回航。
昭和19年(1944年)4月27日:岩国沖(山口県)を出航。呉軍港(広島県)に入港。
昭和19年(1944年)4月29日:呉軍港(広島県)を出港。岩国沖(山口県)に回航。
昭和19年(1944年)5月1日:岩国沖(山口県)を出航。
昭和19年(1944年)5月3日:岩国沖(山口県)に回航。飛行隊を収容。
昭和19年(1944年)5月6日:岩国沖(山口県)を出航。大分県佐伯湾に回航。
昭和19年(1944年)5月11日:大分県佐伯湾を出航。
昭和19年(1944年)5月12日:沖縄本島中城湾に入港。同日出航。
昭和19年(1944年)5月16日:フィリピン諸島南西部タウイタウイ泊地に入港。
昭和19年(1944年)6月13日:フィリピン諸島南西部タウイタウイ泊地を出航。
                  「あ」号作戦発動により、マリアナ諸島西方に向かう。
昭和19年(1944年)6月14日:フィリピン諸島中部ギマラス泊地に入港。
昭和19年(1944年)6月15日:フィリピン諸島中部ギマラス泊地を出航。
昭和19年(1944年)6月19日:マリアナ沖海戦に参加
昭和19年(1944年)6月20日:魚雷2本・爆弾1発命中。マリアナ諸島西方で沈没。
昭和20年(1945年)11月10日:艦籍から除籍される。

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