航空母艦「伊吹」

航空母艦「伊吹(いぶき)」

「伊吹」について  ・「伊吹」の要目  ・「伊吹」の艦歴  ・参考文献

「伊吹」について

航空母艦「伊吹(いぶき)」は、大東亜戦争に於ける日本海軍の重巡改造小型航空母艦(軽空母)である。
建造中の改鈴谷型重巡洋艦から航空母艦に改造されたが、改造工事が途中で中止され、重巡洋艦としても航空母艦としても未完成に終わった。

航空母艦「伊吹」 「伊吹」は、昭和十六年度戦時建造計画(○急計画)の第300号艦として計画された改鈴谷型重巡洋艦の一番艦であった。昭和17年(1942年)4月24日、広島県の呉海軍工廠で起工され、昭和18年(1943年)5月21日に進水、その後、空母への改造が決定し、長崎県の佐世保海軍工廠で改造工事が行われていたが、昭和20年(1945年)3月24日に工事が中止された。工事進捗は80%であった。

昭和16年(1941年)11月、昭和十六年度戦時建造計画(○急計画)が策定され、その中で重巡洋艦2隻が計画されたが、既存艦の図面が流用される事になり、鈴谷型重巡に改良を加えた改鈴谷型重巡2隻(第300号艦・第301号艦)の建造が計画された。昭和17年(1942年)4月24日、広島県の呉海軍工廠で〇急計画の第300号艦である改鈴谷型重巡一番艦(後の「伊吹」)が起工され、6月1日には二番艦(第301号艦)も長崎県の三菱重工長崎造船所で起工された。
ところが、昭和17年(1942年)6月、ミッドウェー海戦に於いて、日本海軍は主力正規空母4隻(「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」)を喪失、これを補う為の空母の増産が急務となった。その結果、昭和17年(1942年)9月に改D計画を策定、新たに雲龍型空母15隻の建造が計画された。
そして、これら空母の建造を優先する為、改鈴谷型重巡2隻(第300号艦・第301号艦)の建造は見直される事になり、起工したばかりの第301号艦は直ちに解体された。しかし、既にある程度工事が進んでいた第300号艦は船台を明ける空ける為に艦体の建造を急ぐ事になった。

航空母艦「伊吹」 昭和18年(1943年)5月21日、第300号艦は、改鈴谷型重巡洋艦「伊吹」として呉海軍工廠(広島県)で進水した。尚、解体された第301号艦の機関は、雲龍型空母の四番艦「笠置」の機関として流用された。「伊吹」は、進水後も重巡洋艦としての艤装工事が続けられていたが、これを重巡としてではなく、他艦種に改造する検討が成されていた。当初は、高速給油艦とする案もあったが、空母の増産が急務という観点から、小型空母(軽空母)に改造する事が決定された。
昭和18年(1943年)12月19日、「伊吹」は、潜水母艦「迅鯨」に曳航されて広島県の呉軍港を出港、21日に長崎県の佐世保軍港に入港し、佐世保海軍工廠に於いて空母に改造する工事が開始された。

「伊吹」は排水量1万トン強の重巡であった為、これを空母に改造した場合は軽空母となり、大型化する新型艦載機の運用が困難になる事が考えられた。そこで、可能な限り飛行甲板を大きくした結果、飛行甲板が艦体の全長・全幅をはみ出す事になった。また、従来の軽空母の艦橋は飛行甲板直下の艦体前部にあり、飛行甲板上には艦橋構造物を設けていなかったが、「伊吹」では運用の便を考えて飛行甲板上に島型艦橋を設置した。しかし、これも艦体から大きく右舷にはみ出して設置せざるを得なかった。結果、艦体の大きさに対して異様に大きな飛行甲板を装備する事になった。そこで、格納庫を1段として重心を下げ、艦体を安定させる為に両舷に幅820mmのバルジを装着した。機関は、重巡として計画・設計された時点では、缶(ボイラー)4基搭載・出力15万2000馬力・4軸推進・最高速力35ノットであったが、缶を半分の2基(72000馬力)とし、2軸推進で最高速力29ノットとなった。

しかし、「伊吹」は重巡としての工事がある程度進んでおり、艦体上部には主砲塔も搭載されていた。その為、これらの撤去をせねばならなかった。更に、昭和19年(1944年)に入ると、他艦種の建造や損傷艦の修理が優先されたり、資材や労働力の不足し始め、「伊吹」の改造工事はなかなか進まなかった。更に、6月のマリアナ沖海戦、10月のレイテ沖海戦によって日本海軍連合艦隊は事実上壊滅、以後、組織的な艦隊行動が行われる見込みは無かった。また、航空機や搭乗員の不足によって母艦飛行隊再建の目処もたたず、更には、燃料事情の逼迫によって艦を動かす燃料にすら事欠く状態だった。 この様な状況では、新たに空母を竣工させても作戦行動に使用できる見込みは無かった。
昭和20年(1945年)3月24日、遂に「伊吹」の改造工事に中止命令が出された。工事進捗は80%であった。4月25日には艤装員事務所も撤去され、5月20日には計画中止が決定し、佐世保軍港外の恵美須湾に回航、放置された。そして、昭和20年(1945年)8月15日、「伊吹」は未完成で終戦を迎えた。その後、昭和21年(1946年)11月22日に佐世保海軍工廠解体が開始され、翌昭和22年(1947年)8月1日に解体が完了した。

「伊吹」は、重巡洋艦から軽空母に改造されたという点では、米海軍に於いてクリーブランド級軽巡洋艦から改造されたインディペンデンス級軽空母に相当する艦であた。併しながら、起工したのは「伊吹」は1隻のみで、しかも未完成に終わったのに対し、米海軍のインディペンデンス級軽空母は実に 隻が竣工した。更に、設計的に無理があった「伊吹」に対し、インディペンデンス級軽空母は最高速力31.6ノット、搭載機数45機、飛行甲板に発艦用射出機(カタパルト)を装備する等、非常に優れた性能を有していた。
結果、巡洋艦改造軽空母に関して、日本海軍と米海軍とを比較した場合、質・量共に米海軍が優れていたと言わざるを得ないだろう。

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「伊吹」の要目

<計画時(航空母艦「伊吹」):昭和19年(1944年)>

基準排水量:12500トン
公試排水量:14570トン
全長205m 水線長:198.35m 全幅:21.2m 喫水:6.31m
飛行甲板全長:205m 飛行甲板全幅:23m
主機:艦本式高低圧型ギヤードタービン2基
缶:ロ号艦本式重油専燃缶4基
出力:72000馬力
燃料:3060トン(重油)
最大速力:29ノット
航続距離:18ノット・7500海里
搭載機数:常用機27機(計画)
       艦戦 常用15機 (艦上戦闘機「烈風」)
       艦攻 常用12機 (艦上攻撃機機「流星」)
兵装:7.6センチ連装高角砲2基4門 (六十五径九八式七糎六高角砲)
    25ミリ三連装機銃17基51挺 (九六式二十五粍高角機銃
    12センチ28連装噴進砲4基112門
    二号一型電探1基・二号二型電探1基・一号三型電探2基
    零式水中聴音機1基・三式水中探信儀1基・四式水中聴音機1基
    爆雷30発・110センチ探照灯1基
乗員:1015名

参考文献

帝国海軍 空母大全
日本空母と艦載機のすべて

「伊吹」の艦歴

昭和17年(1942年)4月24日:呉海軍工廠(広島県)で起工。
昭和18年(1943年)4月5日:軍艦「伊吹」と命名。
昭和18年(1943年)5月21日:呉海軍工廠(広島県)で進水。
昭和18年(1943年)12月19日:潜母「迅鯨」に曳航されて呉軍港(広島県)を出港。
昭和18年(1943年)12月21日:潜母「迅鯨」に曳航されて佐世保軍港(長崎県)に入港。
                   佐世保海軍工廠(長崎県)で改造工事に着手。
昭和20年(1945年)1月20日:初代艤装員長として松浦義大佐が着任。
昭和20年(1945年)2月25日:2代目艤装員長として清水正心大佐が着任。
昭和20年(1945年)3月24日:工事進捗80%で建造中止。
昭和20年(1945年)4月25日:艤装員事務所を撤去。
昭和20年(1945年)5月20日:計画中止。
                  佐世保軍港(長崎県)外の恵美須湾に回航の後繋留。
昭和20年(1945年)8月15日:未完成で終戦を迎える。
昭和21年(1946年)11月22日:佐世保海軍工廠(長崎県)で解体開始。
昭和22年(1947年)8月1日:佐世保海軍工廠(長崎県)で解体完了。

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