航空母艦「生駒」

航空母艦「生駒(いこま)」

「生駒」について  ・「生駒」の要目  ・「生駒」の艦歴  ・参考文献

「生駒」について

航空母艦「生駒(いこま)」は、大東亜戦争に於ける日本海軍の正規航空母艦(空母)である。
建造工事が途中で中止され、未完成に終わった。日本海軍に於いて最後に起工された正規空母であった。

航空母艦「生駒」 「生駒」は、昭和17年(1942年)9月に策定された改D計画の第5007号艦として計画され、雲龍型航空母艦の六番艦であった。昭和18年(1943年)7月5日、兵庫県の川崎重工神戸造船所で起工され、昭和19年(1944年)11月9日に工事が中止、同年11月17日に進水した。工事進捗は60%であった。

昭和16年(1941年)11月に策定された昭和十六年度戦時建造計画(〇急計画)では、中型航空母艦1隻(後の「雲龍」)が計画されていたが、昭和17年(1942年)と昭和18年(1943年)に竣工予定の正規空母は1隻も無かった。そして、同年12月8日に大東亜戦争が開戦し、半年後の昭和17年(1942年)6月、ミッドウェー海戦に於いて、日本海軍は主力正規空母4隻(「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」)を喪失、これを補う為の空母の増産が急務となった。
そこで、昭和16年(1941年)に策定された第五次海軍軍備充実計画(D計画)を、昭和17年(1942年)9月に改D計画として改定、新たに雲龍型空母15隻の建造を計画した。雲龍型空母は、中型空母「飛龍」を原型とし、小改良を加え、構造の一部を簡略して量産性を高めた戦時急増型空母であった。
これら、空母大増産計画に基づき、昭和17年(1942年)中には、雲龍型空母の一番艦〜三番艦(「雲龍」「天城」「葛城」)が起工、続いて、昭和18年(1943年)4月には四番艦(後の「笠置」)が、6月には五番艦(後の「阿蘇」)が起工、7月5日には、兵庫県の川崎重工神戸造船所に於いて、改D計画の第5007号艦である雲龍型航空母の六番艦(後の「生駒」)が起工した。

しかし、戦局は日増しに悪化、遂に、昭和19年(1944年)6月のマリアナ沖海戦、同年10月のレイテ沖海戦によって日本海軍連合艦隊は事実上壊滅、以後、組織的な艦隊行動が行われる見込みは無くなった。また、航空機や搭乗員の不足によって母艦飛行隊再建の目処もたたず、先に竣工していた同型艦「天城」「葛城」は、載せる飛行機も無いまま広島県の呉軍港外に繋留されていた。更には、燃料事情の逼迫によって艦を動かす燃料にすら事欠く状態だった。
この様な状況下では損傷艦の修理や他艦種の建造が優先され、更に、資材や労働力の不足によって、「生駒」の工事は遅れがちとなっていた。そして、起工から約1年半後の昭和19年(1944年)11月9日、遂に、建造中の空母「阿蘇」「生駒」に対して工事の中止命令が出された。この時、「生駒」はまだ進水すらしておらず、その後の11月17日に進水したが、これは船台を空けるためだけの進水であった。名ばかりの進水をした「生駒」は、艤装作業が行われる事も無く放置され、昭和20年(1945年)2月4日に空襲で焼夷弾を被弾して小破した。4月、空襲を避ける為に兵庫県の小豆島池田湾に回航され、繋留された。
そして、昭和20年(1945年)8月15日、未完成のまま終戦を迎えた。その後、昭和21年(1946年)6月4日から岡山県の三井造船玉野造船所で解体作業が開始され、昭和22年(1947年)3月10日に解体が完了した。

日本海軍が、〇急計画と改D計画に於いて計画した雲龍型航空母は16隻であったが、この内、実際に起工したのは6隻であった。しかし、戦局の悪化と資材・労働力の不足から建造は難航、3隻(「雲龍」「天城」「葛城」)が竣工したものの、3隻(「笠置」「阿蘇」「生駒」)は途中で工事が中止されて未完成に終わった。また竣工した3隻も、時既に遅く、戦局には殆ど貢献できないまま其の生涯を終えていった。尚、大東亜戦争中、アメリカが竣工させた正規空母は、エセックス級空母14隻・インディペンデンス級 隻である。

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「生駒」の要目

<計画時:昭和19年(1944年)>

基準排水量:17260トン
公試排水量:19880トン
満載排水量:22534トン
全長227.4m 水線長:223m 全幅:22m 喫水:7.76m
飛行甲板全長:216.9m 飛行甲板全幅:27m
主機:艦本式オールギヤードタービン4基
缶:ロ号艦本式重油専燃缶8基
出力:10万4000馬力
燃料:3670トン(重油)
最大速力:32.ノット
航続距離:18ノット・8000海里
搭載機数:常用機51機・補用2機(計画)
       艦戦 常用18機・補用2機 (艦上戦闘機「烈風」)
       偵察 常用6機 (艦上偵察機「彩雲」)
       艦攻 常用27機 (艦上攻撃機機「流星」)
兵装:12.7センチ連装高角砲6基12門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
    25ミリ三連装機銃21基63挺 (九六式二十五粍高角機銃
    25ミリ単装機銃30基30挺 (九六式二十五粍高角機銃
    12センチ28連装噴進砲6基168門
乗員:1500名

参考文献

日本空母と艦載機のすべて

「生駒」の艦歴

昭和18年(1943年)7月5日:川崎重工神戸造船所(兵庫県)に発注。
昭和18年(1943年)7月5日:川崎重工神戸造船所(兵庫県)で起工。
昭和19年(1944年)1月15日:軍艦「生駒」と命名。
昭和19年(1944年)11月9日:工事進捗60%で建造中止。
昭和19年(1944年)11月17日:川崎重工神戸造船所(兵庫県)で進水。
昭和20年(1945年)2月4日:空襲で焼夷弾1発被弾。
昭和20年(1945年)4月25日:兵庫県小豆島池田湾に回航の後繋留。
昭和20年(1945年)8月15日:兵庫県小豆島池田湾に繋留されたまま終戦を迎える。
昭和21年(1946年)6月4日:三井造船玉野造船所(岡山県)で解体開始。
昭和22年(1947年)3月10日:三井造船玉野造船所(岡山県)で解体完了。

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