潜水母艦「大鯨」・航空母艦「龍鳳」

潜水母艦「大鯨(たいげい)」・航空母艦「龍鳳(りゅうほう)」

「大鯨」「龍鳳」について  ・「大鯨」「龍鳳」の要目  ・「大鯨」「龍鳳」の艦歴  ・参考文献

「大鯨」「龍鳳」について

潜水母艦「大鯨(たいげい)」は、大東亜戦争に於ける日本海軍の潜水母艦である。
その後、小型航空母艦(軽空母)への改造工事を受けて航空母艦「龍鳳(りゅうほう)」となった。

潜水母艦「大鯨」・航空母艦「龍鳳」 「大鯨」は、昭和8年(1933年)4月12日に神奈川県の横須賀海軍工廠で起工され、昭和9年(1934年)3月31日に潜水母艦として竣工した。潜水母艦「大鯨」は、戦時には空母への改造が可能な設計が成されており、大東亜戦争開戦と共に空母への改造工事に着手、昭和17年(1942年)11月28日に改造工事が完了、航空母艦「龍鳳」として竣工した。

日本海軍は、昭和5年(1930年)に締結されたロンドン海軍軍縮条約によって空母の保有量に制限を受けていた為、平時は別艦種であるが、戦時には短期間で空母に改造出来る艦を整備する事になった。これを受けて計画・設計されたのが潜水母艦「大鯨」であった。「大鯨」は、潜水母艦「迅鯨」「長鯨」に続き、当初から潜水母艦として計画・設計された艦であったが、その設計は空母への改造を前提としていた。
即ち、艦体の上部構造物を平らにし、空母への改造時はこれをそのまま格納庫として、その天井は飛行甲板として利用できるようになっていた。更に、水上機用として予め昇降機(エレベーター)を装備し、艦前方の艦橋の一部はそのまま空母の羅針艦橋として使用出来る様になっていた。尚、条約の制限を受けぬよう排水量10000トン以下・最大速力20ノット以下としていた。
その後も、昭和8年(1933年)に策定された第二次補充計画(A計画)に於いて、高速給油艦(後に潜水母艦)「剣埼」「高埼」が計画・設計され、後の祥鳳型航空母艦(「祥鳳」「瑞鳳」)になった。

潜水母艦「大鯨」・航空母艦「龍鳳」 潜水母艦「大鯨」は、昭和8年(1933年)4月12日、神奈川県の横須賀海軍工廠で潜水母艦として起工された。艦体の建造には、世界で初めて総て電気溶接が用いられ、同年11月16日に進水、翌昭和9年(1934年)3月31日に竣工という異例の早さであった。併しながら、艦体強度の不足や機関として搭載したディーゼルエンジンの不具合が発生、これらの改修や修理の為、実際に潜水戦隊旗艦としての任務に就いたのは竣工から4年後の昭和13年(1938年)9月以降となった。
その後、第二潜水戦隊旗艦としてマーシャル諸島クウェゼリン環礁に進出していたが、大東亜戦争開戦直前に内地に帰投、空母への改造工事を受けることになった。

「大鯨」は、空母への改造を前提とした設計が成されており、約3ヶ月で改造出来るはずであった。併しながら、機関として搭載していたディーゼルエンジンをタービンエンジンに換装したり、構造を一部変更するなどした為、改造工事は長引いた。また改造工事中の昭和17年(1942年)4月18日、ドゥーリットル空襲によって爆弾1発が命中し、その修理にも日数を要した。そして、改造工事開始から約1年後の昭和17年(1942年)11月28日、空母への改造工事が完了、その後、航空母艦「龍鳳」と命名された。
この時、日本海軍は同年6月のミッドウェー海戦で主力正規空母4隻(「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」)を喪失しており、「龍鳳」は直ちに第一線空母戦力としての活躍を期待された。

航空母艦「龍鳳」は、基準排水量約10000トン・搭載機数31機、艦橋を前部の飛行甲板直下に集約した全通式飛行甲板(フラッシュデッキ)を持つ等、剣埼型潜水母艦から改造された祥鳳型軽空母(「祥鳳」「瑞鳳」)とほぼ同様であった。その為、「龍鳳」も公式類別では祥鳳型軽空母に分類されるが、基となる潜水母艦「大鯨」は剣埼型潜水母艦とは多少異なっている為、厳密には「龍鳳」は祥鳳型軽空母とは同型艦ではない。

竣工した「龍鳳」は直ちに戦列に伍し、内地での訓練や南方との輸送任務に従事したが、米海軍潜水艦の雷撃を受けて損傷する等、直ぐには実戦に参加できなかったが、やがて、「龍鳳」に本格的な海戦に参加する機会がやってきた。昭和19年(1944年)6月、米海軍機動部隊は、日本が絶対国防圏と定めた中部太平洋の要衝マリアナ諸島に来襲、これに対して日本海軍は、乾坤一擲の「あ」号作戦を発動、機動部隊と基地航空隊とによって米海軍機動部隊を覆滅し、一挙に戦局の挽回を図ろうとしたのである。
この決戦に際し、日本海軍は新鋭の重装甲空母「大鳳」以下の第一機動艦隊を投入した。この時、「龍鳳」は、商船を改造した中型空母「隼鷹」「飛鷹」と共に第一機動艦隊第二航空戦隊を編成、一路決戦の海へと向かった。昭和19年(1944年)6月19日〜20日、日米機動部隊最後の決戦となるマリアナ沖海戦が発生、しかし、この海戦に於いて、日本海軍は空母3隻(「大鳳」「翔鶴」「飛鷹」)を喪失、出撃した艦載機・搭乗員の多くも戻らなかった。再建した母艦飛行隊の殆どを失った日本海軍機動部隊は事実上壊滅した。この海戦が初陣となった「龍鳳」もただ後退するしかなかった。

その後、「龍鳳」は、内地と南方との輸送任務に従事していたが、搭載する航空機は最早無く、空母として活躍する機会は巡って来なかった。やがて、国内の燃料事情が逼迫すると艦を動かす燃料も底を尽き、広島県の呉軍港港外に係留されたまま空襲によって大破、空母としての機能を失った。その後は防空砲台となり、昭和20年(1945年)8月15日、大破したまま終戦を迎えた。戦後は、復員船としては使用されず、昭和21年(1946年)4月2日に解体が開始され、同年9月25日に解体が終了した。

潜水母艦「大鯨」は、多分に実験艦としての役割も担っており、その建造から試行錯誤の連続であった。
新技術である電気溶接の採用や新開発のディーゼルエンジンの搭載によって建造期間の短縮を狙ったものの、これらに不具合が多発、その改修や手直しによって実質的に竣工したのは起工から4年後となってしまった。また、短期間に空母への改造が可能な設計が成されていたが、実際に改造工事に着手してみると構造の変更や機関の換装などに手間取りった。その為、「大鯨」より後から起工した剣埼型潜水母艦の方が先に実戦配備され、その後の空母への改造も先を越される形となってしまった。結果、祥鳳型軽空母(「祥鳳」「瑞鳳」)とは対照的に、改造後の「龍鳳」も主要な海戦に参加する機会もあまり無いまま終戦を迎えた。
しかし、潜水母艦「大鯨」・航空母艦「龍鳳」の建造・改造に於いて得られた経験は、戦時の艦艇建造や改造工事に生かされ、決して無駄では無かったと言えるだろう。

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「大鯨」「龍鳳」の要目

<竣工時(潜水母艦「大鯨」):昭和9年(1934年)>

基準排水量:トン
公試排水量:10500トン
満載排水量:トン
全長211.12.m 全幅:18.07m 喫水:5.53m
主機:艦本式一一号一〇型ディーゼルエンジン4基
補助缶:ロ号艦本式重油専燃缶2基
出力:14000馬力(計画:25600馬力)
燃料:1897(重油)
最大速力:20ノット
航続距離:18ノット・10000海里
搭載機数:常用機3機 (九四式水上偵察機)
射出機:呉式二号五型射出機1基
兵装:12.7センチ連装高角砲2基4門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
    40ミリ連装機銃2基4挺 (毘式四十粍機銃)
    13ミリ四連装機銃2基8挺 (保式十三粍機銃)

<改修時(潜水母艦「大鯨」):昭和13年(1938年)>

基準排水量:トン
公試排水量:14400トン
満載排水量:トン
全長210m 全幅:19.58m 喫水:6.53m
主機:艦本式一一号一〇型ディーゼルエンジン4基
補助缶:ロ号艦本式重油専燃缶2基
出力:25600馬力(計画:25600馬力)
燃料:1255トン(重油)
最大速力:22.2ノット
航続距離:18ノット・10000海里
搭載機数:常用機3機 (九四式水上偵察機)
射出機:呉式二号五型射出機1基
兵装:12.7センチ連装高角砲2基4門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
    40ミリ連装機銃2基4挺 (毘式四十粍機銃)
乗員:430名

<改造時(航空母艦「龍鳳」):昭和18年(1943年)>

基準排水量:13360トン
公試排水量:15300トン
満載排水量:16700トン
全長215.65m 水線長:212m 全幅:19.58m 喫水:6.67m(公試状態)
飛行甲板全長:185m 飛行甲板全幅:23m
主機:艦本式オールギヤードタービン2基
缶:ロ号艦本式重油専燃缶4基
出力:52000馬力
燃料:2400トン(重油)
最大速力:26.5ノット
航続距離:18ノット・8000海里
搭載機数:常用機24機・補用7機
       艦戦 常用18機・補用6機 (零式艦上戦闘機
       艦攻 常用6機・補用1機 (九七式艦上攻撃機)
搭載航空兵装:800キロ爆弾 発・250キロ爆弾 発・60キロ爆弾 発・魚雷 本
兵装:12.7センチ連装高角砲4基8門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
    25ミリ三連装機銃10基30挺 (九六式二十五粍高角機銃
乗員:785名

<最終時(航空母艦「龍鳳」):昭和20年(1945年)>

基準排水量:13360トン
公試排水量:15300トン
満載排水量:16700トン
全長215.65m 水線長:212m 全幅:19.58m 喫水:6.67m(公試状態)
飛行甲板全長:200m 飛行甲板全幅:23m
主機:艦本式オールギヤードタービン2基
缶:ロ号艦本式重油専燃缶4基
出力:52000馬力
燃料: トン(重油)
最大速力:26.5ノット
航続距離:18ノット・8000海里
搭載機数:常用機30機・補用2機
       艦戦 常用21機 (零式艦上戦闘機
       艦攻 常用9機・補用2機 (艦上攻撃機「天山」)
搭載航空兵装:800キロ爆弾 発・250キロ爆弾 発・60キロ爆弾 発・魚雷 本
兵装:12.7センチ連装高角砲4基8門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
    25ミリ三連装機銃10基30挺 (九六式二十五粍高角機銃
    25ミリ単装機銃12基12挺 (九六式二十五粍高角機銃
    13ミリ単装機銃6基6挺
    12センチ28連装噴進砲6基168門
    二号一型電探1基・一号三型電探1基
乗員:989名

参考文献

機動部隊
激闘マリアナ沖海戦 日米戦争・最後の大海空戦

航跡 造船士官福田烈の戦い
帝国海軍 空母大全
日本空母と艦載機のすべて
潜水艦入門 海底の王者徹底研究

「大鯨」「龍鳳」の艦歴

昭和08年(1933年)04月12日:横須賀海軍工廠(神奈川県)で潜水母艦として起工。
昭和08年(1933年)10月20日:艤装員長として鋤柄玉造大佐が着任。
昭和08年(1933年)11月16日:横須賀海軍工廠(神奈川県)で進水。
昭和09年(1934年)03月31日:横須賀海軍工廠(神奈川県)で潜水母艦として竣工。
                   初代艦長として鋤柄玉造大佐が着任。
                   横須賀鎮守府籍に編入。予備艦となる。
昭和09年(1934年)07月31日:呉鎮守府籍に転籍。
昭和09年(1934年)11月15日:2代目艦長として高須三二郎大佐が着任。
昭和11年(1936年)11月16日:3代目艦長として茂泉慎一大佐が着任。
昭和11年(1936年)12月01日:4代目艦長として蓑輪中五大佐が着任。
昭和12年(1937年)11月15日:5代目艦長として森徳治大佐が着任。
昭和13年(1938年)05月25日:6代目艦長として中里隆治大佐が着任。
昭和13年(1938年)09月05日:第一艦隊第一潜水戦隊に編入。
昭和13年(1938年)12月15日:7代目艦長として原田覚大佐が着任。
昭和14年(1939年)11月15日:予備艦となる。
                   8代目艦長として中邑元司大佐が着任。
昭和15年(1940年)11月15日:第六艦隊第一潜水戦隊に編入。
昭和16年(1941年)04月10日:第六艦隊第二潜水戦隊に編入。
                   9代目艦長として大倉留三郎大佐が着任。
昭和16年(1941年)11月10日:10代目艦長として木山辰雄大佐が着任。
昭和16年(1941年)12月04日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和16年(1941年)12月20日:予備艦となる。
                   横須賀海軍工廠(神奈川県)で空母への改造工事開始。
昭和17年(1942年)04月18日:改造工事中のドゥーリットル空襲によって爆弾1発命中。
昭和17年(1942年)04月23日:11代目艦長として相馬信四郎大佐が着任。
昭和17年(1942年)11月01日:12代目艦長として亀井凱夫大佐が着任。
昭和17年(1942年)10月20日:舞鶴鎮守府籍へ転籍。
昭和17年(1942年)11月28日:横須賀海軍工廠(神奈川県)で空母への改造工事完了。
昭和17年(1942年)11月30日:軍艦「龍鳳」と命名。第三艦隊に編入。
                   初代艦長として亀井凱夫大佐が着任。
昭和17年(1942年)12月12日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   空母「冲鷹」・駆逐艦「時雨」「朝雲」とトラック諸島に向かう。
                   陸軍飛行第四十五戦隊をトラック諸島に輸送。
                   東京都八丈島沖で米海軍潜水艦の雷撃を受けて損傷。
昭和17年(1942年)12月14日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和17年(1942年)12月16日:横須賀海軍工廠(神奈川県)に入渠。損傷箇所の修理。
昭和18年(1943年)01月15日:第三艦隊第五〇航空戦隊に編入。
昭和18年(1943年)02月10日:横須賀海軍工廠(神奈川県)を出渠。
昭和18年(1943年)03月19日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和18年(1943年)03月31日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和18年(1943年)05月25日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和18年(1943年)06月11日:瀬戸内海西部柱島泊地を出航。
昭和18年(1943年)06月12日:第三艦隊第二航空戦隊に編入。
昭和18年(1943年)06月13日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)06月16日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。トラック泊地に向かう。
昭和18年(1943年)06月21日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)07月02日:戦闘機隊の一部をソロモン諸島ブインに派遣。
昭和18年(1943年)07月05日: 残部の飛行隊をソロモン諸島ブイン基地に派遣。
昭和18年(1943年)07月15日:空母「飛鷹」の飛行隊が転属。
昭和18年(1943年)07月19日:トラック泊地を出航。
                   空母「雲鷹」と内地に向かう。
昭和18年(1943年)07月24日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和18年(1943年)09月22日:呉海軍工廠(広島県)に入渠。
昭和18年(1943年)09月27日:呉海軍工廠(広島県)を出渠。
昭和18年(1943年)10月06日:呉軍港(広島県)を出港。岩国沖(山口県)に回航。
昭和18年(1943年)10月09日:岩国沖(山口県)を出航。
                   シンガポールへの輸送任務に従事。
昭和18年(1943年)10月15日:海南島(中国)三亜に入港。
昭和18年(1943年)10月16日:海南島(中国)三亜を出港。
昭和18年(1943年)10月19日:セレター軍港(シンガポール)に入港。
昭和18年(1943年)10月26日:セレター軍港(シンガポール)を出港。
昭和18年(1943年)10月30日:海南島(中国)三亜に入港。
昭和18年(1943年)10月31日:海南島(中国)三亜を出港。
昭和18年(1943年)11月05日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和18年(1943年)11月22日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和18年(1943年)11月25日:瀬戸内海西部柱島泊地を出航。航空機輸送任務に従事。
昭和18年(1943年)11月29日:マニラ港フィリピン諸島)に入港。
昭和18年(1943年)11月30日:マニラ港フィリピン諸島)にを出港。
昭和18年(1943年)12月03日:セレター軍港(シンガポール)に入港。
昭和18年(1943年)12月11日:セレター軍港(シンガポール)を出港。
昭和18年(1943年)12月14日:ボルネオ島北東部(インドネシア)タラカンに入港。
昭和18年(1943年)12月15日:ボルネオ島北東部(インドネシア)タラカンを出港。
昭和18年(1943年)12月18日:パラオ泊地に入港。
昭和18年(1943年)12月19日:パラオ泊地を出航。
昭和18年(1943年)12月22日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)12月27日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)12月29日:サイパン島に入港。同日出航。
昭和19年(1944年)01月02日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和19年(1944年)01月17日:呉軍港(広島県)を出港。広島県因島に入港。
昭和19年(1944年)01月18日:因島造船所(広島県)に入渠。
昭和19年(1944年)01月26日:因島造船所(広島県)を出渠。
昭和19年(1944年)01月28日:広島県因島を出港。呉軍港(広島県)に入港。
昭和19年(1944年)03月16日:2代目艦長として松浦義大佐が着任。
昭和19年(1944年)03月19日:呉軍港(広島県)を出港。
                   サイパン島への輸送任務に従事。
昭和19年(1944年)03月30日:三重県伊勢湾を出航。
昭和19年(1944年)04月01日:サイパン島に入港。
昭和19年(1944年)04月03日:サイパン島を出航。
昭和19年(1944年)04月07日:岩国沖(山口県)に回航。
昭和19年(1944年)04月08日:呉軍港(広島県)に入港。瀬戸内海西部で訓練に従事。
昭和19年(1944年)04月29日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和19年(1944年)05月11日:大分県佐伯湾を出航。
昭和19年(1944年)05月16日:フィリピン諸島南西部タウイタウイ泊地に入港。
昭和19年(1944年)06月13日:フィリピン諸島南西部タウイタウイ泊地を出航。
                   「あ」号作戦発動により、マリアナ諸島西方に向かう。
昭和19年(1944年)06月14日:フィリピン諸島中部ギマラス泊地に入港。
昭和19年(1944年)06月15日:フィリピン諸島中部ギマラス泊地を出航。
昭和19年(1944年)06月19日〜20日:マリアナ沖海戦に参加
                        爆弾1発命中。小破。
昭和19年(1944年)06月22日:沖縄本島中城湾に入港。
昭和19年(1944年)06月23日:沖縄本島中城湾を出航。
昭和19年(1944年)06月24日:瀬戸内海西部柱島泊地に入港。
昭和19年(1944年)07月03日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和19年(1944年)07月09日:呉海軍工廠(広島県)に入渠。
                   損傷箇所の修理・飛行甲板の延長・対空兵装を増設。
昭和19年(1944年)07月10日:第三艦隊第一航空戦隊に編入。
昭和19年(1944年)07月20日:呉海軍工廠(広島県)を出渠。
昭和19年(1944年)08月10日:第三艦隊第四戦隊に編入。
昭和19年(1944年)10月04日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和19年(1944年)10月25日:佐世保軍港(長崎県)を出港。
昭和19年(1944年)10月27日:基隆(台湾)に入港。
昭和19年(1944年)10月30日:基隆(台湾)を出港。
昭和19年(1944年)11月02日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和19年(1944年)11月15日:連合艦隊第一航空戦隊に編入。
昭和20年(1945年)01月20日:3代目艦長として高橋長十郎大佐が着任。
昭和20年(1945年)03月19日:呉軍港(広島県)への空襲によって爆弾3発命中。大破。
昭和20年(1945年)04月20日:予備艦となる。
昭和20年(1945年)04月28日:4代目艦長として佐々木喜代治大佐が着任。
昭和20年(1945年)06月01日:広島県江田島に係留。
                   特務予備艦(防空砲台)となる。
                   高角砲要員と機銃要員以外は下艦。
昭和20年(1945年)08月15日:大破したまま終戦を迎える。
昭和20年(1945年)11月30日:艦籍から除籍される。
昭和21年(1946年)04月2日:呉海軍工廠(広島県)で解体開始。
昭和21年(1946年)09月25日:呉海軍工廠(広島県)で解体完了。

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