航空母艦「加賀」

航空母艦「加賀(かが)」

「加賀」について  ・「加賀」の要目  ・「加賀」の艦歴  ・参考文献  ・関連映画

「加賀」について

航空母艦「加賀(かが)」は、大東亜戦争に於ける日本海軍の正規航空母艦(空母)である。

航空母艦「加賀」 「加賀」は、大正9年(1920年)7月19日、40センチ連装主砲を5基10門搭載する戦艦として、兵庫県の川崎重工神戸造船所で起工されたが、ワシントン海軍軍縮条約の締結によって建造中の戦艦「加賀」と二番艦「土佐」は廃棄される事になった。この時、同様に建造中であった巡洋戦艦「天城」と二番艦「赤城」は航空母艦に改装されることになったが、大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災によって「天城」が大破した。そこで、急遽、「加賀」の航空母艦への改装が決定し、昭和3年(1928年)3月31日、航空母艦として竣工した。

「加賀」は、「鳳翔」「赤城」に次ぐ、日本海軍で3番目の空母であった。しかし、戦艦から改装された「加賀」は、巡洋戦艦から改装された「赤城」対して全長が短く、速力もやや遅かった。また、既に完成していた艦体上に格納庫を搭載した為、飛行甲板の位置が非常に高くなった。尚、竣工当時は「赤城」同様の3段の飛行甲板を装備していたが、後に1段の飛行甲板に改装された。
昭和7年(1932年)1月、第一次上海事変が勃発、「加賀」は「鳳翔」と共に上海の海軍陸戦隊を支援した。これは史上初めての航空母艦の実戦投入であり、この時、所属機が日本軍初の敵機撃墜を記録した。

大東亜戦争に於いては、ハワイ諸島オアフ島真珠湾への空襲(真珠湾攻撃)に参加し、昭和16年(1941年)12月8日未明、「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」と共に、米海軍太平洋艦隊に壊滅的打撃を与えた。

航空母艦「加賀」 昭和17年(1942年)1月以降、「加賀」を含む機動部隊は、ビルマルク諸島ラバウルや蘭印(オランダ領インドネシア)への侵攻を支援、南方に於ける日本軍の快進撃を支えた。
機動部隊は4月からインド洋への侵攻を開始したが、「加賀」はパラオ諸島の泊地入港の際に艦底を損傷した為、インド洋への侵攻には参加せず、修理の為に内地に回航した。

昭和17年(1942年)5月、修理の完了した「加賀」は、インド洋から帰還した機動部隊と瀬戸内海西部の柱島泊地で再び合流、「加賀」の次なる戦場は西太平洋のミッドウェー環礁であった。
そして、昭和17年(1942年)5月27日(海軍記念日)、「赤城」 「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4隻を主力とする機動部隊が瀬戸内海西部の柱島泊地を出撃、6月5日朝にはミッドウェー環礁に対する空襲を開始した。
これに対し米海軍は、ミッドウェー環礁に配備した航空機と航空母艦「エンタープライズ」「ホーネット」「ヨークタウン」の3隻を主力とする艦隊によって迎撃体制を整えていた。

そして、昭和17年(1942年)6月5日10時23分(現地時間)、「加賀」上空に、米海軍爆撃機「SBD(ドーントレス)」が飛来、急降下爆撃を開始した。「加賀」には爆弾4発が命中、飛行甲板を突き破って格納庫内で爆発した。この時、「加賀」では燃料と爆弾を搭載した艦載機が発艦準備中であり、発生した火災はたちまちこれら艦載機に引火、搭載していた爆弾・魚雷が誘爆し始めた。

「加賀」は、艦橋付近に被弾した際に艦長以下幹部多数が戦死、また、艦底の機関室では機関長以下機関科員の殆ども戦死、飛行長と工作長が指揮を執った。
併しながら乗員の必死の消火活動にもかかわらず、火災と誘爆は一向に収まらなかった。飛行長と工作長は、これ以上の消火活動は乗員を危険に晒すと判断し、総員退艦を指示、生存乗員は駆逐艦に救助された。燃え盛る「加賀」は、ほぼ水平のまま少しずつ沈下、やがて飛行甲板が波に消えようとしていた。

時に昭和17年(1942年)6月5日19時26分(現地時間)、場所は北緯30度20分3秒・西経179度17分2秒、「加賀」と運命を共にしたのは艦長以下約800名であった。

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「加賀」の要目

<竣工時:昭和3年(1928年)>

基準排水量:26900トン
全長238.5m 全幅:29.6m 喫水:7.9m
飛行甲板全長:171.4m 飛行甲板全幅:30.5m (上段)
主機:ブラウン・カーチス式オールギヤードタービン4基
缶:ロ号艦本式重油専燃缶12基
出力:9万1000馬力
最大速力:27.5ノット
搭載機数:常用機60機
       艦戦 常用16機 (三年式艦上戦闘機)
       艦偵 常用16機 (一〇式艦上偵察機)
       艦攻 常用28機 (一三式艦上攻撃機)
兵装:20センチ連装砲2基4門 (五十口径三年式二十糎砲)
    20センチ単装砲6基6門 (五十口径三年式二十糎砲)
    12センチ連装高角砲6基12門 (四十五口径十年式十二糎高角砲
    25ミリ連装機銃11基22挺 (九六式二十五粍高角機銃
乗員:1269名

<改装時:昭和10年(1935年)>

基準排水量:38200トン
公試排水量:42541トン
全長247.65m 水線長:240.3m 全幅:32.5m 喫水:9.48m
飛行甲板全長:248.6m 飛行甲板全幅:30.5m
主機:艦本式オールギヤードタービン2基
    ブラウン・カーチス式オールギヤードタービン2基
缶:ロ号艦本式重油専燃缶8基
出力:12万7400馬力
燃料:7500トン(重油)
最大速力:28.3ノット
航続距離:16ノット・10000海里
搭載機数:常用機72機・補用18機
       艦戦 常用12機・補用3機 (九〇式艦上戦闘機)
       艦爆 常用24機・補用6機 (九四式艦上爆撃機)
       艦攻 常用36機・補用9機 (八九式艦上攻撃機)
兵装:20センチ単装砲10基10門 (五十口径三年式二十糎砲)
    12.7センチ連装高角砲8基16門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
    25ミリ連装機銃11基22挺 (九六式二十五粍高角機銃
乗員:1708名

<最終時(改装後):昭和17年(1942年)>

基準排水量:38200トン
公試排水量:42541トン
全長247.65m 水線長:240.3m 全幅:32.5m 喫水:9.48m
飛行甲板全長:248.6m 飛行甲板全幅:30.5m
主機:艦本式オールギヤードタービン2基
    ブラウン・カーチス式オールギヤードタービン2基
缶:ロ号艦本式重油専燃缶8基
出力:12万7400馬力
燃料:7500トン(重油)
最大速力:28.3ノット
航続距離:16ノット・10000海里
搭載機数:常用機70機・補用18機
       艦戦 常用18機・補用3機 (零式艦上戦闘機
       艦爆 常用26機・補用9機 (九九式艦上爆撃機)
       艦攻 常用26機・補用6機 (九七式艦上攻撃機)
兵装:20センチ単装砲10基10門 (五十口径三年式二十糎砲)
    12.7センチ連装高角砲8基16門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
    25ミリ連装機銃11基22挺 (九六式二十五粍高角機銃
乗員:1708名

参考文献

真珠湾攻撃
真珠湾攻撃・全記録 日本海軍・勝利の限界点
ミッドウェー

帝国海軍 空母大全
日本空母と艦載機のすべて

関連映画

「聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実

「加賀」の艦歴

大正9年(1920年)7月19日:川崎重工神戸造船所(兵庫県)で戦艦として起工。
大正9年(1921年)11月1日:初代艤装員長として宮村歴造大佐が着任。
大正13年(1924年)9月2日:横須賀海軍工廠(神奈川県)で航空母艦への改装工事開始。
昭和2年(1927年)3月10日:2代目艤装員長として小林省三郎大佐が着任。
昭和2年(1927年)12月1日:3代目艤装員長として河村儀一郎大佐が着任。
昭和3年(1928年)3月31日:横須賀海軍工廠(神奈川県)で竣工。
                  佐世保鎮守府籍に編入。
                  初代艦長として河村儀一郎大佐が着任。
昭和5年(1930年)12月1日:2代目艦長として宇野積三大佐が着任。
昭和6年(1931年)12月1日:3代目艦長として大西次郎大佐が着任。
昭和7年(1932年)1月29日:佐世保軍港(長崎県)を出港。
                  空母「鳳翔」と上海沖(中国)に向かう。
昭和7年(1932年)2月5日:飛行隊を上海(中国)公大飛行場に派遣。
昭和7年(1932年)2月8日:飛行隊が上海郊外(中国)呉淞砲台を空襲。
昭和7年(1932年)3月22日:飛行隊が敵機を初撃墜。
昭和7年(1932年)11月15日:4代目艦長として岡田x一大佐が着任。
昭和7年(1932年)11月28日:5代目艦長として原五郎大佐が着任。
昭和8年(1933年)2月14日:6代目艦長として野村直邦大佐が着任。
昭和8年(1933年)10月20日:佐世保海軍工廠(長崎県)で第二次改装工事に着手。
                  (3段飛行甲板の廃止・島型艦橋の新設・煙突の改修)
                  7代目艦長として近藤英次郎大佐が着任。
昭和9年(1934年)11月15日:8代目艦長として三竝貞三大佐が着任。
昭和10年(1935年)11月15日:第二艦隊第二航空艦隊に編入。
昭和11年(1936年)12月1日:9代目艦長として稲垣生起大佐が着任。
昭和12年(1937年)8月10日:佐世保海軍工廠(長崎県)を出航。
                  第二次上海事変勃発に伴い、上海沖(中国)に向かう。
昭和12年(1937年)8月15日:上海陸戦隊に対する航空支援を実施。
昭和12年(1937年)8月18日:佐世保軍港(長崎県)に入港。
昭和12年(1937年)8月27日:佐世保軍港(長崎県)を出港。
昭和12年(1937年)9月26日:上海陸戦隊に対する航空支援を実施。
昭和12年(1937年)12月1日:10代目艦長として阿部勝雄大佐が着任。
昭和13年(1938年)4月25日:11代目艦長として大野一郎大佐が着任。
                  広東(中国)攻略を支援。
昭和13年(1938年)12月11日:佐世保軍港(長崎県)に入港。
昭和13年(1938年)12月15日:第二予備艦となる。
                   佐世保海軍工廠(長崎県)で一部改装工事に着手。
                   12代目艦長として吉富説三大佐が着任。
昭和14年(1939年)11月15日:13代目艦長として久保九次大佐が着任。
昭和15年(1940年)10月15日:14代目艦長として山田定義大佐が着任。
昭和15年(1940年)11月15日:第二艦隊第一航空戦隊に編入。
昭和16年(1941年)4月10日:第一航空艦隊第一航空戦隊に編入。
昭和16年(1941年)5月1日:佐世保海軍工廠(長崎県)に入渠。
昭和16年(1941年)9月15日:15代目艦長として岡田次作大佐が着任。
昭和16年(1941年)11月11日:佐世保海軍工廠(長崎県)に入渠。
昭和16年(1941年)11月19日:大分県佐伯湾を出航
昭和16年(1941年)11月22日:択捉島単冠湾に入港。
昭和16年(1941年)11月26日:択捉島単冠湾を出航。
昭和16年(1941年)12月08日:真珠湾攻撃に参加。ハワイ諸島オアフ島真珠湾を空襲。
昭和16年(1941年)12月23日:瀬戸内海西部柱島泊地に回航。
昭和17年(1942年)1月9日:瀬戸内海西部柱島泊地を出航。
昭和17年(1942年)1月15日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)1月17日:トラック泊地を出航。
昭和17年(1942年)1月20日:ビスマルク諸島ラバウルを爆撃。
昭和17年(1942年)1月21日:ビスマルク諸島カビエンを爆撃。
昭和17年(1942年)1月22日:ビスマルク諸島ラバウルを爆撃。
昭和17年(1942年)1月25日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)1月31日:トラック泊地を出航。
昭和17年(1942年)2月8日:パラオ泊地に入港。
昭和17年(1942年)2月9日:パラオ泊地で転錨の際に珊瑚礁によって艦底を損傷。
昭和17年(1942年)2月15日:パラオ泊地を出航。
昭和17年(1942年)2月19日:ポートダーウィンオーストラリア)を空襲。
昭和17年(1942年)2月21日:セレベス島(インドネシア)スターリング湾に入港。
昭和17年(1942年)2月26日:セレベス島(インドネシア)スターリング湾を出航。
                  ジャワ島(インドネシア)南方に向かう。
昭和17年(1942年)3月1日:ジャワ島(インドネシア)南方で米海軍特務艦「ペスコ」を撃沈。
昭和17年(1942年)3月5日:ジャワ島(インドネシア)南部チラチャップを空襲。
昭和17年(1942年)3月11日:セレベス島(インドネシア)スターリング湾に入港。
昭和17年(1942年)3月15日:セレベス島(インドネシア)スターリング湾を出航。
                  艦底修理の為に内地に向かう。
昭和17年(1942年)3月22日:佐世保軍港(長崎県)に入港。
昭和17年(1942年)5月4日:佐世保軍港(長崎県)を出港。
                 瀬戸内海西部柱島泊地に回航。
昭和17年(1942年)5月27日:瀬戸内海西部柱島泊地を出航。ミッドウェー環礁に向かう。
昭和17年(1942年)6月5日:ミッドウェー海戦に参加。爆弾4発被弾、火災発生。
                 ミッドウェー環礁北方で沈没。
昭和17年(1942年)8月10日:艦籍を除籍される。

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