香港

香港

香港の戦跡
大東亜戦争における香港の歴史
現地への行き方と現地交通情報(旅行情報)
香港市街

・香港歴史博物館
・香港海防博物館

香港郊外

・ジンドリンカーズライン(城門水塘周辺)
・ジンドリンカーズライン(獅子山周辺)

香港の戦跡 香港はユーラシア大陸の東南部にあり、中国大陸を背に西は南シナ海に面している。香港は珠江河口の東側に位置し、古くから珠江の内河と南シナ海の交通の要衝であった。大陸側は深川(「川」は土偏に「川」)市と接しており、珠江上流の北西約100kmには 北京、上海に次ぐ中国第三の大都市である広州市が位置する。

現在の「香港特別行政区」は、香港島、九龍半島、新界及び周囲の南シナ海に浮かぶ235余の島を含めた地域を指し、面積は1104km2で東京23区の約2倍程度である。ランタオ島(大嶼山)が領域内で最大の島であり、香港島の約2倍の面積を持ち、香港国際空港の空港島が隣接している。人口は702万人、人口密度は6350人/km2(2008年)である。香港の地形は全体に山がちであり、中華人民共和国本土との境辺りを除き平地は少ない。

香港はアヘン戦争ののち清からイギリスに割譲され、中国大陸におけるイギリス資本主義の拠点として発展していた。一方、昭和12年(1937年)7月7日の盧溝橋事件は、日本と中国(国民党と共産党)の全面軍事衝突に発展した。戦局は日本に優勢に進み、日本は昭和15年(1940年)頃までに華北及び華東の中国大陸の大部分を占領した。しかし、国民政府(国民党)は国土の主要部分を占領されつつも、重慶に遷都し抗戦を続けた。アメリカやイギリスが国民政府に対して支援を行っていたため、国民政府は継戦能力を保っていたのである。

香港の戦跡 その支援のルートの一つが香港であった。 日本軍は中国国民党政府の補給路を遮断すべく広州などを占領した。しかし、香港は当時イギリスの植民地であり、表面上は中立地帯であったため、日本軍は手が出せなかった。

国民政府(国民党)は香港を諸外国との連絡や物資の中継基地や宣伝の謀略として香港を利用していたため、日本軍にとって目障りな存在となっていた。昭和15年(1940年)6月、日本軍は深川を占領して国境を完全に封鎖し、開戦後香港を攻略すべく準備が進められた。。

昭和16年(1941年)12月8日に大東亜戦争が勃発すると、英米両国に宣戦布告した日本軍は真珠湾攻撃と同時に香港攻略作戦を実行した。香港攻略は難航が予想された。なぜならば、九龍半島に英軍は東洋のマジノ線と呼ばれる要塞地帯ジン・ドリンカーズ・ラインを築いていたからである。攻城用重砲が用意され、攻略には数週間が見込まれた。

9日夜、戦局は急展開を迎える。ジン・ドリンカーズ・ラインを偵察中の若林東一中尉率いる中隊が防衛の不備を突いて陣地の一角を占領してしまったのである。いわゆる「若林中隊挺身突入事件」である。司令官は急遽総攻撃を決断し、総崩れとなった英軍は11日に英軍は九龍半島を放棄して香港島への撤退を発令した。九龍半島の掃討戦は13日までに完了した。

香港の戦跡 14日からの準備砲撃のあと、18日に日本軍は香港島の北東部に奇襲上陸を行った。島内の英軍は急峻な地形を利用して頑強に抵抗し、日本軍側に多くの死傷者が出た。激戦が続いたが、香港島唯一の貯水池が日本軍に奪われたことがきっかけとなり、英軍は12月25日に降伏した。降伏交渉は日本軍が司令部を置いていた「ザ・ペニンシュラ香港」で行われた。香港攻略戦はわずか18日で完了し、以降香港は日本の占領地として統治されることになった。

日本統治時期は3年8ヶ月間に渡ったが、昭和20年(1945年)8月15日、日本は連合国に対し無条件降伏し戦争は終結した。同日、イギリスは香港統治の回復を宣言した。9月16日、中国、イギリスと日本の代表は香港総督府で香港の主権を返還する文章に調印した。

戦後も香港は引き続きイギリスの支配下にあったが、昭和59年(1984年)12月19日、中英双方が署名した中英共同声明により香港返還が発表された。平成9年(1997年)7月1日、香港は正式にイギリスから中華人民共和国に返還(香港島などのイギリスの領土は「譲渡」)された。

市内の博物館には日本軍装備のほか、英軍装備を見ることができる。また、市街地北側の山岳地帯のトレッキングコース沿いには、ジン・ドリンカーズ・ラインの陣地跡が遺されている。

中国まで

日本から中国の各主要都市に直行便が運航されている。

香港の交通情報

市内の交通はMRT(地下鉄)が発達しており、どこに行くにもMRTが便利であろう。

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