航空母艦「翔鶴」

航空母艦「翔鶴(しょうかく)」

「翔鶴」について  ・「翔鶴」の要目  ・「翔鶴」の艦歴  ・参考文献  ・関連映画

「翔鶴」について

航空母艦「翔鶴(しょうかく)」は、大東亜戦争に於ける日本海軍の正規航空母艦(空母)である。

航空母艦「翔鶴」 「翔鶴」は、ワシントン海軍軍縮条約失効後の昭和12年(1937年)に策定された第三次海軍軍備補充計画(B計画)で計画された。第二次補充計画(A計画)で建造された「蒼龍」「飛龍」が軍縮条約の影響を受けた中型空母だったのに対し、「翔鶴」は条約の制限を受けない大型空母として設計された。昭和12年(1937年)12月12日、神奈川県の横須賀海軍工廠で起工され、昭和16年(1941年)8月8日に竣工した。

「翔鶴」の設計では、これ以前に建造され運用されていた航空母艦の経験が余す所無く反映された。
外見的には、中型空母として一定の成功を収めた「蒼龍」「飛龍」の拡大版と言えたが、球状艦首(バルバス・バウ)の採用や大出力機関の搭載によって最高速度34ノットを実現し、防御面においても十分な考慮がなされていた。また、大型空母であった「赤城」「加賀」と同等の搭載機数を確保しつつ、排水量では10000トン近い軽量化を達成していた。特に、搭載可能な航空兵装(爆弾・魚雷)は「赤城」「加賀」の倍近くになり、その内在する戦闘力によって、文字通り世界最強の航空母艦と言えた。

しかし、30000トン近い大型空母の建造には多大な労力と時間を要する為に量産性に難があり、戦時の需要に対応することは難しかった。そこで、後に戦時急造型として計画・設計された雲龍型は、中型空母「蒼龍」「飛龍」を基にしており、大型空母であった翔鶴型の建造は二番艦「瑞鶴」までに留まった。

航空母艦「翔鶴」 大東亜戦争に於いては、ハワイ諸島オアフ島真珠湾の米海軍基地に対する空襲(真珠湾攻撃)に参加した。昭和16年(1941年)12月8日未明、「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」から成る機動部隊から航空機350機が発艦、米海軍太平洋艦に壊滅的打撃を与えるという戦果を挙げた。これは世界の海戦史上初めて、航空母艦を集中投入した航空攻撃であった。
昭和17年(1942年)1月以降は、機動部隊の一員としてビルマルク諸島ラバウルへの侵攻を支援、同年4月にはインド洋に進撃して英海軍東洋艦隊を駆逐した。

「翔鶴」は、昭和17年(1942年)5月7日〜9日、僚艦「瑞鶴」と共にソロモン諸島南方に於ける珊瑚海海戦に参加、米海軍機動部隊と、史上初となる航空母艦同士の海戦を演じた。結果、米海軍の航空母艦「レキシントン」を撃沈し、同「ホーネット」を撃破したが、「翔鶴」も損傷を受けて修理を余儀なくされた。
「翔鶴」は、珊瑚海海戦の損傷により、同年6月5日〜7日のミッドウェー海戦には参加できなかったが、この時、日本海軍は「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の主力正規空母4隻を一挙に失うという大損害を蒙った。その結果、「翔鶴」「瑞鶴」は、この時点で残存するただ2隻の主力正規空母となってしまい、以後、日本海軍機動部隊の中核として、日々増強されていく米海軍と死闘を演じる事になった。

昭和17年(1942年)8月7日、ソロモン諸島ガダルカナル島に米軍が来襲。
これを受けて、「翔鶴」「瑞鶴」「龍驤」を主力とする日本海軍機動部隊は同方面に進出、8月24日には米海軍機動部隊との間に第二次ソロモン海戦が発生した。この海戦では、双方共に決定的な勝利を得る事は出来なかったが、ソロモン諸島を巡る戦闘はいよいよ激しさを増していった。更に10月26日には南太平洋海戦が発生、米海軍の航空母艦「ホーネット」を撃沈したものの、「翔鶴」は再び大きな損害を蒙った。僚艦「瑞鶴」がいつも軽微な被害で済む幸運艦であったのに対し、「翔鶴」は被害担当艦となっている感があった。
また、ソロモン諸島を巡る戦闘は航空消耗戦の様相を呈し、基地航空隊の損失を補う為に母艦航空隊を陸上に派遣する事が度々行われた。「翔鶴」所属機もその例外ではなかった。派遣された航空隊は相応の戦果を挙げつつも、また熟練搭乗員の多くを失った。そして、補充される搭乗員が増えるに従い、その練度は低下していった。

昭和19年(1944年)6月、米海軍機動部隊は、日本が絶対国防圏と定めた中部太平洋の要衝マリアナ諸島に来襲、日本海軍は、米海軍機動部隊の撃滅を目指し、乾坤一擲の「あ」号作戦を発動した。これは、マリアナ諸島近海に於いて基地航空隊と機動部隊が協同し、米海軍機動部隊を撃破して一挙に戦局の打開を図ろうとしたものであった。この時、「翔鶴」は僚艦「瑞鶴」と新鋭の重装甲空母「大鳳」と共に第一機動艦隊第一航空戦隊を編成し、一路戦場の海へと向かった。
6月19日、日米機動部隊最後の決戦となるマリアナ沖海戦が始まった。併しながら、圧倒的な兵力を誇る米海軍機動部隊に対し、数的にも技量的にも劣勢な日本海軍機動部隊は苦戦、出撃した日本軍機の多くは再び帰ってこなかった。更に、日本海軍機動部隊に米海軍の潜水艦が迫っていた。同日08時10分、まず旗艦「大鳳」が被雷、更に、11時20分、潜水艦「カヴァラ(キャバラ)」の発射した魚雷4本が「翔鶴」に命中した。「翔鶴」は大きく傾くと共に火災が発生た。そして、14時01分、「翔鶴」は燃えながら海中に没した。

時に昭和19年(1944年)6月19日14時01分、場所はマリアナ諸島西方の北緯11度40分・東経137度40分、「翔鶴」と運命を共にしたのは1272名であった。

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「翔鶴」の要目

<竣工時:昭和16年(1941年)>

基準排水量:25675トン
公試排水量:29800トン
満載排水量:32105トン
全長257.5m 水線長:250m 全幅:26m 喫水:8.87m
飛行甲板全長:242.2m 飛行甲板全幅:29m
主機:艦本式オールギヤードタービン4基
缶:ロ号艦本式重油専燃缶8基
出力:16万馬力
最大速力:34.2ノット
航続距離:18ノット・9700海里
搭載機数:常用機72機・補用12機
搭載機数:常用機72機・補用12機
       艦戦 常用18機・補用2機 (零式艦上戦闘機
       艦爆 常用27機・補用5機 (九九式艦上爆撃機)
       艦攻 常用27機・補用5機 (九七式艦上攻撃機)
搭載航空兵装:800キロ爆弾90発・250キロ爆弾300発
          60キロ爆弾540発・魚雷45本・航空燃料496トン
兵装:12.7センチ連装高角砲8基16門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
    25ミリ三連装機銃12基36挺  (九六式二十五粍高角機銃
乗員:1660名

参考文献

真珠湾攻撃
真珠湾攻撃・全記録 日本海軍・勝利の限界点
ミッドウェー
機動部隊
激闘マリアナ沖海戦 日米戦争・最後の大海空戦

猛き艨艟 太平洋戦争日本軍艦戦史

帝国海軍 空母大全
日本空母と艦載機のすべて

関連映画

「聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実

「翔鶴」の艦歴

昭和12年(1937年)12月12日:横須賀海軍工廠(神奈川県)で起工。
昭和14年(1939年)6月1日:横須賀海軍工廠(神奈川県)で進水。
昭和15年(1940年)10月15日:初代艤装員長として城島高次大佐が着任。
昭和16年(1941年)4月17日:初代艦長として城島高次大佐が着任。
昭和16年(1941年)8月8日:横須賀海軍工廠(神奈川県)で竣工。呉鎮守府籍に編入。
昭和16年(1941年)8月25日:第一航空艦隊第五航空戦隊に編入。
昭和16年(1941年)10月4日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和16年(1941年)10月6日:別府沖(大分県)に回航。
昭和16年(1941年)10月12日:大分県佐伯湾に回航。
昭和16年(1941年)10月14日:高知県宿毛湾に回航。
昭和16年(1941年)10月28日:佐世保軍港(長崎県)に入港。
昭和16年(1941年)10月29日:佐世保軍港(長崎県)を出港。
昭和16年(1941年)10月31日:別府沖(大分県)に回航。
昭和16年(1941年)11月2日:別府沖(大分県)を出航。
昭和16年(1941年)11月3日:九州有明湾に入港。
昭和16年(1941年)11月5日:九州有明湾を出航。
昭和16年(1941年)11月19日:別府沖(大分県)を出航
昭和16年(1941年)11月22日:択捉島単冠湾に入港。
昭和16年(1941年)11月26日:択捉島単冠湾を出航。
昭和16年(1941年)12月08日:真珠湾攻撃に参加。ハワイ諸島オアフ島真珠湾を空襲。
昭和16年(1941年)12月24日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和17年(1942年)1月5日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和17年(1942年)1月14日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)1月17日:トラック泊地を出航。
昭和17年(1942年)1月20日:ビスマルク諸島ラバウルを爆撃。
昭和17年(1942年)1月21日:東部ニューギニア北岸ラエを爆撃。
昭和17年(1942年)1月29日:トラック泊地に入港。同日出航。
昭和17年(1942年)2月3日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和17年(1942年)2月27日:横須賀海軍工廠(神奈川県)に入渠。
昭和17年(1942年)3月4日:横須賀海軍工廠(神奈川県)を出渠。
昭和17年(1942年)3月17日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和17年(1942年)3月24日:セレベス島(インドネシア)スターリング湾に入港。
昭和17年(1942年)3月26日:セレベス島(インドネシア)スターリング湾を出航。
                  インド洋に向かう。
昭和17年(1942年)4月5日:セイロン島コロンボを空襲。セイロン島沖海戦に参加。
昭和17年(1942年)4月9日:セイロン島トリンコマリーを空襲。
                 英空母「ハーミス」を撃沈。
昭和17年(1942年)4月12日:第四艦隊に編入。
昭和17年(1942年)4月18日:馬公(台湾)に入港。
昭和17年(1942年)4月19日:馬公(台湾)を出航。
昭和17年(1942年)4月25日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)5月1日:トラック泊地を出航。ソロモン諸島南方珊瑚海に向かう。
                 ポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)に参加。
昭和17年(1942年)5月7日〜9日:珊瑚海海戦に参加。
                     米空母「レキシントン」を撃沈。
                     爆弾3発被弾、飛行甲板を損傷。
昭和17年(1942年)5月17日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和17年(1942年)5月25日:2代目艦長として有馬正文大佐が着任。
昭和17年(1942年)6月16日:呉海軍工廠(広島県)に入渠。損傷の修理を行う。
昭和17年(1942年)6月27日:呉海軍工廠(広島県)を出渠。
昭和17年(1942年)7月14日:第三艦隊第一航空戦隊に編入。
昭和17年(1942年)8月15日:瀬戸内海西部柱島泊地に回航。
昭和17年(1942年)8月16日:瀬戸内海西部柱島泊地を出航。
                  ソロモン諸島ガダルカナル島北方に向かう。
昭和17年(1942年)8月24日:第二次ソロモン海戦に参加。
昭和17年(1942年)8月27日〜9月4日:飛行隊をビスマルク諸島カビエンに派遣。
昭和17年(1942年)9月5日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)9月10日:トラック泊地を出航。
昭和17年(1942年)9月23日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)10月11日:トラック泊地を出航。
                   ソロモン諸島ガダルカナル島北方に向かう。
昭和17年(1942年)10月26日:南太平洋海戦に参加。
                   米空母「ホーネット」を撃沈。
                   爆弾4発被弾、飛行甲板等を損傷。
昭和17年(1942年)10月28日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)11月2日:トラック泊地を出航。
昭和17年(1942年)11月6日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)2月16日:3代目艦長として岡田為次大佐が着任。
昭和18年(1943年)3月19日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和18年(1943年)7月6日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和18年(1943年)7月15日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)11月1日:「ろ」号作戦に参加。
                  飛行隊をビスマルク諸島ラバウルに派遣。
昭和18年(1943年)11月11日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)11月15日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)11月17日:4代目艦長として松原博大佐が着任。
昭和18年(1943年)11月26日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和18年(1943年)12月1日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)12月12日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)12月17日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)12月27日:横須賀海軍工廠(神奈川県)に入渠。
昭和19年(1944年)1月6日:横須賀海軍工廠(神奈川県)を出渠。
昭和19年(1944年)1月17日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和19年(1944年)1月27日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和19年(1944年)2月6日:瀬戸内海西部柱島泊地を出航。
昭和19年(1944年)2月13日:セレター軍港(シンガポール)に入港。
昭和19年(1944年)2月20日:スマトラ島(インドネシア)西方リンガ泊地に回航。
昭和19年(1944年)3月31日:セレター軍港(シンガポール)に回航。
昭和19年(1944年)4月3日:スマトラ島(インドネシア)西方リンガ泊地に回航。
昭和19年(1944年)5月12日:スマトラ島(インドネシア)西方リンガ泊地を出航。
昭和19年(1944年)5月15日:フィリピン諸島南西部タウイタウイ泊地に入港。
昭和19年(1944年)6月13日:フィリピン諸島南西部タウイタウイ泊地を出航。
                  「あ」号作戦発動により、マリアナ諸島西方に向かう。
昭和19年(1944年)6月14日:フィリピン諸島中部ギマラス泊地に入港。
昭和19年(1944年)6月15日:フィリピン諸島中部ギマラス泊地を出航。
昭和19年(1944年)6月19日:マリアナ沖海戦に参加。魚雷4本被雷、火災発生。
                  マリアナ諸島西方で沈没。
昭和20年(1945年)8月20日:艦籍を除籍される。

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