航空母艦「蒼龍」

航空母艦「蒼龍(そうりゅう)」

「蒼龍」について  ・「蒼龍」の要目  ・「蒼龍」の艦歴  ・参考文献  ・関連映画

「蒼龍」について

航空母艦「蒼龍(そうりゅう)」は、大東亜戦争に於ける日本海軍の正規航空母艦(空母)である。

航空母艦「蒼龍」 「蒼龍」は、ロンドン海軍軍縮条約に基づき、排水量10000トン級の空母として計画された。昭和9年(1934年)11月10日、広島県の呉海軍工廠で起工され、昭和12年(1937年)12月29日に竣工した。

「蒼龍」は、当初から純粋な正規航空母艦として計画・設計された初めての艦であり、既に運用されていた「鳳翔」「龍驤」「赤城」「加賀」での実績を踏まえ、全通式の1段飛行甲板、島型艦橋、湾曲煙突等を装備した近代的な航空母艦であった。また、15000トン前後の中型空母は、実際に運用してみると実に使い勝手がよく、「蒼龍」は、以後の日本海軍の主力航空母艦の原型となった。
その後、僚艦「飛龍」と第一航空艦隊第二航空戦隊を編成、第一航空戦隊(「赤城」「加賀」)と共に、日本海軍機動部隊の双璧を担った。

大東亜戦争に於いては、ハワイ諸島オアフ島真珠湾の米海軍基地に対する空襲(真珠湾攻撃)に参加した。昭和16年(1941年)12月8日未明、「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」から航空機350機が発艦、米海軍太平洋艦の主力戦艦8隻を始め多数を撃沈破し、航空機多数を破壊する大きな戦果を挙げた。これは世界の海戦史上初めて、航空母艦を集中投入した航空攻撃であった。
また、「蒼龍」「飛龍」は、真珠湾攻撃の帰途にウェーク島を空襲し、同島の攻略を支援した。

航空母艦「蒼龍」 昭和17年(1942年)1月以降、「蒼龍」「飛龍」は、アンボン島アンボン(インドネシア)を空襲した後、「赤城」以下の機動部隊に合流し、蘭印(オランダ領インドネシア)への侵攻を支援した。
4月からはインド洋への侵攻を開始、この時、英海軍東洋艦隊の重巡洋艦「コンウォール」「ドーセットシャー」に対する急降下爆撃は非常に高い命中率を示し、瞬く間に敵艦2隻を撃沈した。

5月、東太平洋からインド洋までを席巻した機動部隊は瀬戸内海西部の柱島泊に帰投、そして、宿敵である米海軍機動部隊との決戦と東太平洋のミッドウェー環礁攻略を目指すミッドウェー作戦が発動された。
昭和17年(1942年)5月27日(海軍記念日)、「赤城」 「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4隻を主力とする機動部隊が瀬戸内海西部の柱島泊地を出撃、6月5日朝にはミッドウェー環礁に対する空襲を開始した。
これに対し米海軍は、ミッドウェー環礁に配備した航空機と航空母艦「エンタープライズ」「ホーネット」「ヨークタウン」の3隻を主力とする艦隊によって迎撃体制を整えていた。

そして、昭和17年(1942年)6月5日10時25分(現地時間)、「蒼龍」上空に、米海軍爆撃機「SBD(ドーントレス)」が飛来、急降下爆撃を開始した。「蒼龍」には爆弾3発が命中、飛行甲板を突き破って格納庫内で爆発した。この時、「蒼龍」では燃料と爆弾を搭載した艦載機が発艦準備中であり、発生した火災はたちまちこれら艦載機に引火、搭載していた爆弾・魚雷が誘爆し始めた。

「蒼龍」は、行き足が完全にとまり、艦全体は炎につつまれ、天に冲する黒煙を吹き上げていた。
乗員は必死に消火活動を行ったが、火災は手の施しようがなかった。遂に艦長の柳本柳作大佐は総員退艦を下令、生存乗員に対して駆逐艦に移乗するよう指示した。
しかし、柳本艦長は退艦を勧める部下に対して手を振りつつ、炎に包まれる艦橋に戻っていったという。やがて「蒼龍」は艦尾から沈みはじめた。

時に昭和17年(1942年)6月5日19時12分(現地時間)、場所はミッドウェー環礁北方の北緯30度42分・西経178度37分、「蒼龍」と運命を共にしたのは艦長の柳本柳作大佐以下718名(士官35名・下士官兵683名)であった。

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「蒼龍」の要目

<竣工時:昭和12年(1937年)>

基準排水量:15900トン
公試排水量:18800トン
満載排水量:19500トン
全長227.5m 水線長:222m 全幅:21.3m 喫水:7.62m
飛行甲板全長:216.9m 飛行甲板全幅:26m
主機:艦本式オールギヤードタービン4基
缶:ロ号艦本式重油専燃缶8基
出力:15万2000馬力
燃料:3670トン(重油)
最大速力:34.59ノット
航続距離:18ノット・7680海里
搭載機数:常用機57機・補用16機
       艦戦 常用12機・補用4機 (九六式艦上戦闘機)
       艦爆 常用27機・補用9機 (九六式艦上爆撃機)
       艦攻 常用9機・補用3機
       艦偵 常用9機
着艦制動装置:呉式四型9基12索
兵装:12.7センチ連装高角砲6基12門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
    25ミリ連装機銃14基28挺 (九六式二十五粍高角機銃
乗員:1100名

<最終時:昭和17年(1942年)>

基準排水量:15900トン
公試排水量:18800トン
満載排水量:19500トン
全長227.5m 水線長:222m 全幅:21.3m 喫水:7.62m
飛行甲板全長:216.9m 飛行甲板全幅:26m
主機:艦本式オールギヤードタービン4基
缶:ロ号艦本式重油専燃缶8基
出力:15万2000馬力
燃料:3670トン(重油)
最大速力:34.59ノット
航続距離:18ノット・7680海里
搭載機数:常用機57機・補用9機
       艦戦 常用18機・補用3機 (零式艦上戦闘機
       艦爆 常用18機・補用3機 (九九式艦上爆撃機)
       艦攻 常用18機・補用3機 (九七式艦上攻撃機)
着艦制動装置:呉式四型9基12索
兵装:12.7センチ連装高角砲6基12門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
    25ミリ連装機銃14基28挺 (九六式二十五粍高角機銃
乗員:1100名

参考文献

真珠湾攻撃
真珠湾攻撃・全記録 日本海軍・勝利の限界点
ミッドウェー

帝国海軍 空母大全
日本空母と艦載機のすべて

関連映画

「聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実

「蒼龍」の艦歴

昭和9年(1934年)11月20日:呉海軍工廠(広島県)で起工。
昭和10年(1935年)12月23日:呉海軍工廠(広島県)で進水。
                   初代艤装員長として大野一郎大佐が着任。
昭和11年(1936年)4月1日:2代目艤装員長として奥本武夫大佐が着任。
昭和11年(1936年)12月1日:3代目艤装員長として別府明朗大佐が着任。
昭和12年(1937年)8月26日:初代艦長として別府明朗大佐が着任。
昭和12年(1937年)12月1日:2代目艦長として寺岡謹平大佐が着任。
昭和12年(1937年)12月29日:呉海軍工廠(広島県)で竣工。横須賀鎮守府籍に編入。
                   第二艦隊第二航空艦隊に編入。
昭和13年(1938年)4月9日:長崎県寺島水道を出航。南支にて作戦行動。
昭和13年(1938年)4月14日:高雄台湾)に入港。
昭和13年(1938年)5月8日:佐世保軍港(長崎県)を出港。南支にて作戦行動。
昭和13年(1938年)10月9日:馬公(台湾)を出航。南支にて作戦行動。
昭和13年(1938年)11月14日:高雄台湾)に入港。
昭和13年(1938年)11月15日:3代目艦長として上野敬三大佐が着任。
昭和14年(1939年)3月21日:佐世保軍港(長崎県)を出港。中支にて作戦行動。
昭和14年(1939年)4月2日:佐世保軍港(長崎県)に入港。
昭和14年(1939年)10月15日:4代目艦長として山田定義大佐が着任。
昭和14年(1939年)10月31日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。南支にて作戦行動。
昭和15年(1940年)3月26日:沖縄本島中城湾を出航。南支にて作戦行動。
昭和15年(1940年)4月2日:基隆(台湾)に入港。
昭和15年(1940年)5月1日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和15年(1940年)5月29日:横須賀海軍工廠(神奈川県)に入渠。
昭和15年(1940年)6月6日:横須賀海軍工廠(神奈川県)を出渠。
昭和15年(1940年)6月8日:館山沖(千葉県)に回航。
昭和15年(1940年)6月22日:木更津沖(千葉県)に回航。
昭和15年(1940年)6月29日:横須賀沖(神奈川県)に回航。
昭和15年(1940年)7月5日:館山沖(千葉県)に回航。
昭和15年(1940年)7月22日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和15年(1940年)7月24日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和15年(1940年)7月29日:函館港(北海道)に入港。
昭和15年(1940年)8月1日:函館港(北海道)を出港。
昭和15年(1940年)8月5日:三重県伊勢湾に入港。
昭和15年(1940年)8月8日:三重県伊勢湾を出航。
昭和15年(1940年)8月10日:大分県佐伯湾に回航。
昭和15年(1940年)8月22日:高知県宿毛湾に回航。
昭和15年(1940年)8月27日:別府沖(大分県)に回航。
昭和15年(1940年)9月2日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和15年(1940年)9月13日:横須賀海軍工廠(神奈川県)に入渠。
昭和15年(1940年)10月1日:横須賀海軍工廠(神奈川県)を出渠。
昭和15年(1940年)10月11日:紀元二千六百年特別観艦式に参加。
昭和15年(1940年)10月15日:5代目艦長として蒲瀬和足大佐が着任。
昭和15年(1940年)11月25日:6代目艦長として上阪香苗大佐が着任。
昭和15年(1940年)12月2日:横須賀海軍工廠(神奈川県)に入渠。
昭和15年(1940年)12月9日:横須賀海軍工廠(神奈川県)を出渠。
昭和15年(1940年)12月17日:館山沖(千葉県)に回航。
昭和15年(1940年)12月25日:館山沖(千葉県)を出航。
昭和15年(1940年)12月29日:九州有明湾に回航。
昭和16年(1941年)1月22日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和16年(1941年)1月26日:呉軍港(広島県)を出港。岩国港(山口県)に入港。
昭和16年(1941年)2月1日:岩国港(山口県)を出港。台湾方面での訓練に向かう。
昭和16年(1941年)2月3日:駆逐艦「夕月」と衝突して艦首を損傷。
昭和16年(1941年)2月6日:佐世保軍港(長崎県)に入港。損傷箇所の修理。
昭和16年(1941年)2月18日:佐世保軍港(長崎県)を出港。
昭和16年(1941年)2月20日:高雄台湾)に入港。
昭和16年(1941年)2月22日:高雄台湾)を出航。
昭和16年(1941年)2月24日:沖縄本島中城湾に入港。
昭和16年(1941年)2月26日:沖縄本島中城湾を出航。
昭和16年(1941年)3月3日:高雄台湾)に入港。
昭和16年(1941年)3月7日:高雄台湾)を出航。
昭和16年(1941年)3月11日:九州有明湾に入港。
昭和16年(1941年)3月26日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和16年(1941年)4月10日:第一航空艦隊第二航空艦隊に編入。
昭和16年(1941年)4月20日:館山沖(千葉県)に回航。
昭和16年(1941年)5月20日:九州有明湾に入港。
昭和16年(1941年)6月30日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和16年(1941年)7月10日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   南部仏印(フランス領インドシナ)進駐を支援。
昭和16年(1941年)7月14日:馬公(台湾)に入港。同日出航。
昭和16年(1941年)7月16日:海南島(中国)三亜に入港。
昭和16年(1941年)7月24日:海南島(中国)三亜を出港。
昭和16年(1941年)7月30日:サンジャック(ベトナム)に入港。同日出航。
昭和16年(1941年)8月1日:海南島(中国)三亜に入港。同日出航。
昭和16年(1941年)8月7日:佐世保軍港(長崎県)に入港。
昭和16年(1941年)8月11日:佐世保軍港(長崎県)を出港。
昭和16年(1941年)9月8日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和16年(1941年)9月12日:7代目艦長として長谷川喜一大佐が着任。
昭和16年(1941年)10月1日:横須賀海軍工廠(神奈川県)に入渠。
昭和16年(1941年)10月6日:8代目艦長として柳本柳作大佐が着任。
昭和16年(1941年)10月8日:横須賀海軍工廠(神奈川県)を出渠。
昭和16年(1941年)10月24日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和16年(1941年)11月7日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和16年(1941年)11月13日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和16年(1941年)11月16日:大分県佐伯湾に回航。
昭和16年(1941年)11月18日:大分県佐伯湾を出航
昭和16年(1941年)11月22日:択捉島単冠湾に入港。
昭和16年(1941年)11月26日:択捉島単冠湾を出航。
昭和16年(1941年)12月08日:真珠湾攻撃に参加。ハワイ諸島オアフ島真珠湾を空襲。
昭和16年(1941年)12月21日〜23日:機動部隊と分離。ウェーク島攻略を支援。
昭和16年(1941年)12月29日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和17年(1942年)1月11日:瀬戸内海西部柱島泊地に回航。
昭和17年(1942年)1月12日:瀬戸内海西部柱島泊地を出航。
昭和17年(1942年)1月17日:パラオ泊地に入港。
昭和17年(1942年)1月21日:パラオ泊地を出航。
昭和17年(1942年)1月23日〜24日:アンボン島アンボン(インドネシア)を空襲。
昭和17年(1942年)1月25日:フィリピン諸島ダバオに入港。
昭和17年(1942年)1月27日:フィリピン諸島ダバオを出航。
昭和17年(1942年)1月28日:パラオ泊地に入港。
昭和17年(1942年)2月15日:パラオ泊地を出航。
昭和17年(1942年)2月19日:ポートダーウィンオーストラリア)を空襲。
昭和17年(1942年)2月21日:セレベス島(インドネシア)スターリング湾に入港。
昭和17年(1942年)2月26日:セレベス島(インドネシア)スターリング湾を出航。
                  ジャワ島(インドネシア)南方に向かう。
昭和17年(1942年)3月1日:ジャワ島(インドネシア)南方で米海軍特務艦「ペスコ」を撃沈。
昭和17年(1942年)3月5日:ジャワ島(インドネシア)南部チラチャップを空襲。
昭和17年(1942年)3月7日:クリスマス島(オーストラリア)を空襲。
昭和17年(1942年)3月11日:セレベス島(インドネシア)スターリング湾に入港。
昭和17年(1942年)3月26日:セレベス島(インドネシア)スターリング湾を出航。
                  インド洋に向かう。
昭和17年(1942年)4月5日:セイロン島コロンボを空襲。
                 英重巡「コンウォール」「ドーセットシャー」を撃沈。
昭和17年(1942年)4月9日:セイロン島トリンコマリーを空襲。
                 英空母「ハーミス」を撃沈。
昭和17年(1942年)4月22日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和17年(1942年)5月27日:瀬戸内海西部柱島泊地を出航。ミッドウェー環礁に向かう。
昭和17年(1942年)6月5日:ミッドウェー海戦に参加。爆弾3発被弾、火災発生。
                 ミッドウェー環礁北方で沈没。
昭和17年(1942年)8月10日:艦籍から除籍される。

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