航空母艦「龍驤」

航空母艦「龍驤(りゅうじょう)」

「龍驤」について  ・「龍驤」の要目  ・「龍驤」の艦歴  ・参考文献

「龍驤」について

航空母艦「龍驤(りゅうじょう)」は、大東亜戦争に於ける日本海軍の小型航空母艦(軽空母)である。

航空母艦「龍驤」 航空母艦「龍驤」は、大正10年(1921年)に締結されたワシントン海軍軍縮条約の制限を受けない排水量8000トン前後の小型航空母艦(軽空母)として計画・設計された。その後、昭和5年(1930年)に締結されたロンドン海軍軍縮条約を受けて設計変更され、最終的に排水量10000トン前後となった。
「龍驤」は、昭和4年(1929年)11月26日に神奈川県横浜市の横浜船渠で起工され、昭和6年(1931年)4月2日に進水したのち、横須賀海軍工廠で艤装され、昭和8年(1933年)5月9日に竣工した。

「龍驤」は、「鳳翔」「赤城」「加賀」に続く日本海軍の4隻目の空母であった。
また、「鳳翔」が実験艦的な軽空母であったのに対し、「龍驤」は初めての本格的な軽空母であり、「鳳翔」の運用で得られた経験が盛り込まれた。

艦橋の無い全通式1段飛行甲板(フラッシュデッキ)を備え、艦橋は飛行甲板直下の艦首に集約された。また、煙突は右舷下向きの湾曲煙突を装備した。
併しながら、「鳳翔」とほぼ同じ8000トン級として設計された艦体に「鳳翔」の倍の36機の搭載機数を積む為、格納庫は2段になり、全幅に対して喫水が異様に高い特異な形状となった。その結果、重心位置が非常に高い構造(トップヘビー)となってしまい、艦の復元性に大きな不安があった。
また、同時期の日本海軍艦艇と同様、艦体の軽量化を優先した結果、強度不足の感が否めなかった。

航空母艦「龍驤」 竣工後の「龍驤」は、復元性改善の為に改修を受けたが、根本的な解決には至っていなかった。そして、昭和10年(1935年)9月26日、三陸沖で演習中の第四艦隊(臨時編成)が台風に遭遇し、多数の艦艇が損傷するという第四艦隊事件が発生、「龍驤」も艦体に大きな損傷を受けた。
この事故を受けて、艦艇の復元性と艦体強度の見直しが行われ、「龍驤」に対しても大規模な改修が実施された。その結果、排水量は2000トン近く増加し、10000トン級の軽空母となった。

その後は、昭和12年(1937年)8月に第二次上海事変が勃発。この当時、「赤城」は大規模な改装で戦列を離れていた為、「鳳翔」「加賀」と共に、上海沖に出動し、上海市内の海軍陸戦隊や陸軍部隊の上陸を支援した。その後も同方面で作戦行動し、支那事変に於ける海軍航空戦力の主力を担った。

大東亜戦争緒戦は南遣艦隊に編入され、フィリピン諸島南部や蘭印(オランダ領インドネシア)への侵攻を支援し、要地に対する空襲や連合軍船舶多数を撃沈した。また、スラバヤ沖海戦に参加した後、ビルマ攻略作戦やインド洋作戦にも参加、南方作戦に於ける海軍航空兵力の中核として活躍した。
その後、昭和17年(1942年)6月、アリューシャン作戦(ミッドウェー作戦の支作戦)に参加、「隼鷹」と共に第二機動部隊(指揮官:角田覚治中将)に編入され、アリューシャン列島ダッチハーバーを空襲した。

昭和17年(1942年)8月、ソロモン諸島ガダルカナル島に米軍が来襲した。
これに対し、「翔鶴」「瑞鶴」「龍驤」を主力とする日本海軍機動部隊は同方面に進出、8月24日、ガダルカナル島北方の海域に於いて、同島に対して陸軍部隊を送り込もうとする日本軍艦隊と、これを阻止しようとする米軍艦隊との間に第二次ソロモン海戦が発生した。
この時、「龍驤」は、一部の艦艇と共に機動部隊本体から離れ、陸軍部隊の上陸を支援すべくガダルカナル島を空襲した。併しながら、米海軍機動部隊に発見され、航空母艦「サラトガ」から発進した米軍艦載機の激しい攻撃を受けた。この攻撃によって「龍驤」には魚雷3本・爆弾4発が命中した。被弾した「龍驤」は、大きく傾斜し、火災が発生した。そして被弾から約4時間後、ガダルカナル島北方海域において沈没した。

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「龍驤」の要目

<竣工時:昭和4年(1929年)>

基準排水量:8000トン(計画)
公試排水量:9800トン(計画)・11733トン(実際)
全長180m 水線長:175.39m(公試) 全幅:20.32m 喫水:5.56m(平均)
飛行甲板全長:158.6m 飛行甲板全幅:23m
主機:艦本式高低圧ギヤードタービン2基
缶:ロ号艦本式重油専燃缶6基
出力:65000馬力(計画)・65273馬力(公試)
燃料:2943トン(重油) 最大速力:29ノット(計画)・29.5ノット(公試)
航続距離:14ノット・10000海里
搭載機数:常用機36機・補用12機
兵装:12.7センチ連装高角砲6基12門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
    13ミリ四連装機銃6基24挺 (保式十三粍機銃)
乗員:924名

<改修後:昭和11年(1936年)>

基準排水量:10600トン
公試排水量:12732トン
全長180m 水線長:176.62m(公試) 全幅:22m 喫水:7.08m(平均)
飛行甲板全長:156.5m 飛行甲板全幅:23m
主機:艦本式高低圧ギヤードタービン2基
缶:ロ号艦本式重油専燃缶6基
出力:65000馬力
燃料:2943トン(重油) 最大速力:28ノット
航続距離:14ノット・10000海里
搭載機数:常用機36機・補用12機
兵装:12.7センチ連装高角砲6基12門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
    25ミリ連装機銃2基4挺 (九六式二十五粍高角機銃
    13ミリ四連装機銃6基24挺 (保式十三粍機銃)
乗員:924名

参考文献

日本空母と艦載機のすべて

「龍驤」の艦歴

昭和4年(1929年)11月26日:横浜船渠(神奈川県)で起工。
昭和6年(1931年)4月2日:横浜船渠(神奈川県)で進水。
                 初代艤装員長として原五郎大佐が着任。
昭和6年(1931年)12月1日:2代目艤装員長として松永寿雄大佐が着任。
昭和8年(1933年)5月9日:横須賀海軍工廠(神奈川県)で竣工。呉鎮守府籍に編入。
                 初代艦長として松永寿雄大佐が着任。
昭和8年(1933年)10月20日:2代目艦長として桑原虎雄大佐が着任。
昭和9年(1934年)8月20日〜:第一次改修。復元性改善工事に着手。
昭和9年(1934年)11月15日:3代目艦長として大野一郎大佐が着任。
昭和10年(1935年)9月26日:三陸沖での演習中に台風に遭遇して艦体を損傷する。
                  (第四艦隊事件)
昭和10年(1935年)10月31日:4代目艦長として吉良俊一大佐が着任。
昭和11年(1936年)5月26日〜31日:第二次改修。(傷箇所の修理・復元性改善)
昭和11年(1936年)11月16日:5代目艦長として阿部勝雄大佐が着任。
昭和12年(1937年)8月12日:佐世保軍港(長崎県)を出港。
                   空母「鳳翔」と上海沖(中国)に向かう。
昭和12年(1937年)8月19日:上海沖(中国)にて作戦行動。
昭和12年(1937年)9月26日:馬公(台湾)を出港。広東(中国)を爆撃。
昭和12年(1937年)10月5日:飛行隊を公大飛行場へ派遣。
昭和12年(1937年)12月1日:6代目艦長として岡田次作大佐が着任。
昭和13年(1938年)12月15日:7代目艦長として長谷川喜一大佐が着任。
昭和14年(1939年)11月15日:8代目艦長として阿部勝雄大佐が着任。
昭和15年(1940年)6月21日:9代目艦長として杉本丑衛大佐が着任。
昭和16年(1941年)12月6日:パラオ泊地を出航。
                  フィリピン諸島南部に向かう。
昭和16年(1941年)12月8日:フィリピン諸島南部ダバオを空襲。
昭和16年(1941年)12月9日:フィリピン諸島南部レガスピーを空襲。
昭和16年(1941年)12月17日:フィリピン諸島南部ダバオ攻略を支援。
昭和17年(1942年)1月23日:アナンバス諸島(インドネシア)攻略を支援。
昭和17年(1942年)2月10日:スマトラ島(インドネシア)パレンバン攻略を支援。
昭和17年(1942年)2月13日:バンカ海峡(インドネシア)で連合軍商船9隻を撃沈。
昭和17年(1942年)2月14日:バンカ海峡(インドネシア)で連合軍艦艇3隻を撃沈。
昭和17年(1942年)2月15日:ガスパル海峡(インドネシア)で連合軍艦隊を攻撃。
昭和17年(1942年)3月1日:スラバヤ沖海戦に参加。
                  カリマタ海峡(インドネシア)で米駆逐艦「ポープ」を爆撃。
                  ジャワ島(インドネシア)セマラン港を空襲。
昭和17年(1942年)3月20日:ビルマ攻略を支援。
昭和17年(1942年)4月1日:インド洋作戦に参加。連合軍商船8隻を撃沈。
昭和17年(1942年)4月11日:シンガポールに入港。
昭和17年(1942年)4月23日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和17年(1942年)5月26日:大湊港(青森県)を出港。アリューシャン列島に向かう。
                  アリューシャン攻略作戦に参加。
昭和17年(1942年)6月3日〜5日:アリューシャン列島ダッチハーバーを空襲。
昭和17年(1942年)8月24日:瀬戸内海西部柱島泊地を出航。ソロモン諸島に向かう。
昭和17年(1942年)8月24日:第二次ソロモン海戦に参加。魚雷3本・爆弾弾4発が命中。
                  ソロモン諸島ガダルカナル島北方で沈没。
昭和17年(1942年)11月10日:艦籍を除籍される。

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