潜水母艦「剣埼」・航空母艦「祥鳳」

潜水母艦「剣埼(つるぎざき)」・航空母艦「祥鳳(しょうほう)」

「剣埼」「祥鳳」について  ・「剣埼」「祥鳳」の要目  ・「剣埼」「祥鳳」の艦歴  ・参考文献

「剣埼」「祥鳳」について

潜水母艦「剣埼(つるぎざき)」は、大東亜戦争に於ける日本海軍の潜水母艦である。
その後、小型航空母艦(軽空母)への改造工事を受けて航空母艦「祥鳳(しょうほう)」となった。

潜水母艦「剣埼」・航空母艦「祥鳳」 「剣埼」は、昭和9年(1934年)12月3日に神奈川県の横須賀海軍工廠で高速給油艦として起工され、途中で潜水母艦に変更された後、昭和14年(1939年)1月15日に竣工した。潜水母艦「剣埼」は、戦時には空母への改造が可能な設計が成されており、大東亜戦争開戦と共に空母への改造工事に着手、昭和16年(1941年)12月12日に航空母艦「祥鳳」と命名された。

日本海軍は、昭和5年(1930年)に締結されたロンドン海軍軍縮条約によって空母の保有量に制限を受けていた為、平時は別艦種であるが、戦時には短期間で空母に改造出来る艦を整備する事になった。これに則り、昭和8年(1933年)に策定された第二次海軍軍備補充計画(A計画)に於いて、高速給油艦2隻(「剣埼」「高埼」)が計画され、後に潜水母艦へと艦種が変更された。
この剣埼型潜水母艦は空母への改造を前提としていた。即ち、艦体の上部構造物は、空母への改造時にそのまま格納庫になり、その平らな天井は飛行甲板として利用できるようになっていた。更に、予め昇降機(エレベーター)を装備し、艦橋の一部はそのまま空母の羅針艦橋として使用出来た。同様の構想によって昭和8年(1933年)に起工した潜水母艦「大鯨」は、条約の制限を受けぬよう排水量10000トン以下としていたが、条約失効を見越して計画・設計された剣埼型潜水母艦では、排水量10000トンを越えていた。機関は「大鯨」同様にディーゼルエンジンであったが、これは不具合が多く、この時点では空母として必要な速力を出す事が難しかった。

潜水母艦「剣埼」・航空母艦「祥鳳」 「剣埼」は、昭和9年(1934年)12月3日、神奈川県の横須賀海軍工廠で高速給油艦として起工された。その後、潜水母艦に艦種変更されて昭和13年(1938年)9月15日から改造工事が行われ、昭和14年(1939年)1月15日、潜水母艦として竣工した。
潜水母艦「剣埼」は、直ちに潜水戦隊旗艦として就役し、北支や南支、南洋方面で活動した。そして、折からの日米関係悪化を受け、竣工後1年で航空母艦への改造が決定、昭和15年(1940年)11月15日、神奈川県の横須賀海軍工廠で改造工事が開始された。そして、大東亜戦争開戦直後の昭和17年(1942年)月26日、空母への改造工事が完了し、航空母艦「祥鳳」として竣工した。

竣工後の「祥鳳」は、第一線の空母戦力として戦列に伍した。当初は、訓練及び南方と内地との航空機輸送任務に従事していたが、昭和17年(1942年)4月18日、日本近海に接近した米海軍艦隊が発見された。この報を受け、内地に在泊していた「祥鳳」も直ちに出動、米海軍の空母「ホーネット」「エンタープライズ」を追撃した。結局、この時は獲物を取逃がして内地に帰投したが、ドゥーリットル中佐率いる「B-25」16機が空母「ホーネット」を発艦して東京その他を空襲、日本軍に大きな衝撃を与えた。
そして、「祥鳳」の次なる任務は、東部ニューギニア南部ポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)であった。昭和17年(1942年)4月23日、「祥鳳」は神奈川県の横須賀軍港を出港、MO攻略部隊と合流すべくトラック泊地へと向かった。これが「祥鳳」にとって内地の見納めとなった。

MO作戦では、MO攻略部隊(空母「祥鳳」・重巡「青葉」「加古」「衣笠」「古鷹」を主力とする)が上陸部隊を搭載した輸送船を護衛して海上よりポートモレスビーに侵攻、予想される米海軍機動部隊に対しては、MO機動部隊(空母「翔鶴」「瑞鶴」を主力とする)がこれを攻撃してMO攻略部隊を支援する手筈であった。
昭和17年(1942年)5月3日、「祥鳳」はMO攻略部隊の一部と共にソロモン諸島ガダルカナル島北方のツラギ島・カブツ島への上陸を支援、翌4日にはMO攻略部隊主力もニューブリテン島ラバウルを出撃し、MO機動部隊もソロモン諸島ガダルカナル島東方を南下していた。同時に、空母「レキシントン」「ヨークタウン」を主力とする米海軍機動部隊もガダルカナル島南方を珊瑚海に向かっていた。いよいよ戦機は熟し、日米機動部隊初の海戦となる珊瑚海海戦の幕が切って落とされようとしていた。

昭和17年(1942年)5月7日朝、MO機動部隊の索敵機が米軍艦艇を、ほぼ同時に米海軍機動部隊も日本軍艦艇を発見した。互いに敵機動部隊主力と判断して攻撃隊を発進させた。併しながら、日本軍攻撃隊が発見したのは油槽船と駆逐艦であり、結果として空振りに終わってしまった。米軍攻撃隊もMO機動部隊の空母「翔鶴」「瑞鶴」は発見できなかったものの、MO攻略部隊の一部を発見、09時07分、数十機の米軍艦載機が空母「祥鳳」に殺到した。直援の「零戦」6機と周囲の重巡は必死の防戦に努めたが、如何せん多勢に無勢、「祥鳳」は群がる敵機に囲まれ、周辺は至近弾に包まれた。そして、攻撃開始から約20分後、魚雷7本・爆弾13発が命中、操舵不能になり、艦は炎に包まれていた。
09時31分、艦長の伊沢石之介大佐は、生存乗員を脱出させるべく総員上甲板を下令、しかしその4分後、「祥鳳」は艦首を突っ込むようにして沈んでいった。その時、多くの乗員は持ち場を離れず、海面上に突き出た艦尾の推進器は尚も回転していたという。

時に昭和17年(1942年)5月7日09時35分、場所は珊瑚海北方の北緯 度 分・東経 度 分、、「祥鳳」と運命を共にしたのは636名(士官34名・下士官602名)であった。
「祥鳳」は、日本海軍が初めて喪失した航空母艦であった。翌8日には、MO機動部隊の空母「翔鶴」「瑞鶴」を発進した攻撃隊が、米海軍空母「レキシントン」を撃沈、同「ヨークタウン」を撃破したが、MO攻略作戦は事実上中止され、日本軍はその戦略的目的を達成する事が出来なかった。

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「剣埼」「祥鳳」の要目

<竣工時(潜水母艦「剣埼」):昭和14年(1939年)>

基準排水量:トン
公試排水量:13350トン
満載排水量:トン
全長:205.5m 水線長:185.5m 全幅:m 喫水:6.68m
主機:艦本式一一号一〇型ディーゼルエンジン4基
    艦本式一一号一二型ディーゼルエンジン4基
出力:56000馬力
燃料:1620トン(重油)・1870トン(補給用重油)
最大速力:28.7ノット
航続距離:18ノット・10000海里
搭載機数:常用機3機 (九四式水上偵察機)
射出機:呉式二号五型射出機1基
兵装:12.7センチ連装高角砲2基4門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
乗員:名

<改造時(航空母艦「祥鳳」):昭和16年(1941年)>

基準排水量:11200トン
公試排水量:13100トン
満載排水量:トン
全長:205.5m 水線長:212m 全幅:18.14m 喫水:6.64m(公試)
飛行甲板全長:180m 飛行甲板全幅:23m
主機:艦本式オールギヤードタービン2基
缶:ロ号艦本式重油専焼水管缶4基
補助缶:ロ号艦本式重油専燃缶2基
出力:52000馬力
燃料:2320トン(重油)
最大速力:28ノット(計画)
航続距離:18ノット・7800海里
搭載機数:常用機27機・補用3機
       艦戦 常用18機・補用3機 (零式艦上戦闘機
       艦攻 常用9機 (九七式艦上攻撃機)
搭載航空兵装:800キロ爆弾 発・250キロ爆弾 発・60キロ爆弾 発・魚雷 本
兵装:12.7センチ連装高角砲4基8門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
    25ミリ連装機銃4基8挺 (九六式二十五粍高角機銃
乗員:785名

参考文献

航跡 造船士官福田烈の戦い
帝国海軍 空母大全
日本空母と艦載機のすべて
潜水艦入門 海底の王者徹底研究

「剣埼」「祥鳳」の艦歴

昭和9年(1934年)12月3日:横須賀海軍工廠(神奈川県)で高速給油艦として起工。
昭和10年(1935年)6月1日:横須賀海軍工廠(神奈川県)で進水。
昭和11年(1936年)6月15日:初代艤装員長として樋口曠大佐が着任。
昭和12年(1937年)6月15日:2代目艤装員長として柿本権一郎大佐が着任。
昭和12年(1937年)12月1日:3代目艤装員長として橋本愛次大佐が着任。
昭和13年(1938年)9月15日:潜水母艦への改造工事開始。
昭和13年(1938年)9月20日:初代艦長として橋本愛次大佐が着任。
昭和13年(1938年)12月15日:2代目艦長として福沢常吉大佐が着任。
昭和14年(1939年)1月15日:横須賀海軍工廠(神奈川県)で潜水母艦として竣工。
                  横須賀鎮守府籍に編入。
昭和14年(1939年)2月5日:第二艦隊第二潜水戦隊に編入。
昭和14年(1939年)11月15日:3代目艦長として伊藤尉太郎大佐が着任。
                   第一艦隊第二潜水戦隊に編入。
昭和15年(1940年)11月15日:予備艦となる。
                   横須賀海軍工廠(神奈川県)で空母への改造工事開始。
昭和16年(1941年)1月:初代艤装員長として城島高次大佐が着任。
昭和16年(1941年)8月8日:2代目艤装員長として小畑長左衛門が着任。
昭和16年(1941年)10月1日:3代目艤装員長として伊沢石之助が着任。
昭和16年(1941年)12月22日:軍艦「祥鳳」と命名。航空母艦に艦種変更。
昭和17年(1942年)1月5日:初代艦長として伊沢石之助が着任。
昭和17年(1942年)1月26日:横須賀海軍工廠(神奈川県)で空母への改造工事完了。
                  第一航空艦隊第四航空戦隊に編入。
昭和17年(1942年)2月4日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                  トラック泊地への航空機輸送任務に従事。
昭和17年(1942年)2月10日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)2月13日:トラック泊地を出航。
昭和17年(1942年)2月26日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)3月7日:トラック泊地を出航。
昭和17年(1942年)4月10日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和17年(1942年)4月18日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                  日本近海に接近した米軍艦隊を追跡。
昭和17年(1942年)4月19日:千葉県野島崎沖合いで飛行隊を収容。
昭和17年(1942年)4月21日:駆逐艦「野分」「嵐」と合流。
昭和17年(1942年)4月22日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和17年(1942年)4月24日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和17年(1942年)4月30日:トラック泊地を出航。ソロモン諸島南方珊瑚海に向かう。
                  ポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)に参加。
昭和17年(1942年)5月2日:ソロモン諸島ツラギ島・カブツ島への上陸を支援。
昭和17年(1942年)5月4日:ソロモン諸島ガダルカナル島西方のソロモン海に進出。
昭和17年(1942年)5月7日:珊瑚海海戦に参加。
昭和17年(1942年)5月20日:艦籍から除籍される。

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