オアフ島

オアフ島

オアフ島の戦跡
大東亜戦争におけるオアフ島の歴史
現地への行き方と現地交通情報(旅行情報)

オアフ島南部

カポレイ周辺

・バレット要塞(Frot Barrette)
・バレット要塞指揮所・兵舎・倉庫
・ハッチ砲台 西(Battery Hatch)
・ハッチ砲台 東(Battery Hatch)

パールハーバー(真珠湾)周辺

・Pearl Harbor Historic Site
 (ビジターセンター)
・戦艦「アリゾナ」記念館
 (USS Arizona Memorial)
・潜水艦「ボーフィン」博物館
 (USS Bowfin submarine Museum)
・戦艦「ミズーリ」記念館
 (Battleship Missouri Memorial)
・太平洋航空博物館
 (Pacific Aviation Museum)

ヒッカム米空軍基地

・記念碑・A26(インベーダー)
・司令部・格納庫
・ジェット戦闘機
・バリー・チャンドラー砲台跡
 (Battery Barri/Battery Chandler)
・ハスブルック砲台(Battery Hasbrouck)
・ホーキンス砲台(Battery Hawkins)
・ジャクソン砲台(Battery Jackson)
・セルフリッジ砲台(Battery Selfridge)
・クロッソン砲台(Battery Closson)

オアフ島東部

ワイキキ・アラモアナ周辺

・フォートデラッシー公園(Fort DeRussy Park)
・米陸軍博物館(US Army Museum)
・太平洋国立記念墓地(パンチボール)

ダイヤモンドヘッド周辺

・ダイヤモンドヘッド(Fort Ruger)
・ルージャー要塞射撃指揮所(Fort Ruger)
・ルージャー要塞ハーロウ砲台
 (Battery Harlow)

マカプウ岬周辺

・マカプウ岬
・沿岸警備隊監視所跡
・PBYカタリナ飛行艇遭難慰霊碑

オアフ島の戦跡 ハワイ諸島は、北緯19度から29度の間、北太平洋の北西部微南東部方向にある多数の島と環礁からなる諸島である。一直線に並ぶハワイ諸島は、ホットスポットによる火山形成とプレートの移動によって成立した。さらに北西には水没した火山(海山)も連なっており、ハワイ-天皇海山群を形成している。太平洋プレートが北西方向へ、百万年間に51kmという速度で移動しているため、その上にある列島は北西にある島ほど古く、浸食された期間も長いため小さい。

ハワイ諸島で最大の島は南東のハワイ島である。その面積は10430km2、日本の四国の約半分程度の大きさである。島の人口は約15万人である。また、ハワイ諸島の北西に位置するミッドウェー島もハワイ-天皇海山群に属しており、長年の侵食と沈降で面積はわずか6.2km2である。

ハワイ諸島で最大の人口を擁するのはオアフ島であり、面積1540km2であるが人口は86万人でハワイ州の8割がこの島に住んでいる。ハワイ州都ホノルル市を擁し、ハワイ諸島のみならず太平洋の経済、政治、文化の中心である。一番高い地点は標高1225m(4019ft)に達するWaianae(ワイアナエ)山脈にあるMt. Ka‘alaである。島の南部には内陸に深く食い込んでパールハーバー(真珠湾)がある。

オアフ島の戦跡 1893年、アメリカ人農場主らが海兵隊の支援を得てクーデターを起こし、王政を打倒して「臨時政府」を樹立。「臨時政府」はアメリカに併合を求めるが、就任直後のクリーブランド大統領は海外進出に消極的な政策を採っており、併合を渋る。結局、クリーブランドは大統領の任期中、ハワイを併合しなかった。

1898年、アメリカ合衆国、ハワイ共和国を併合、ハワイ準州(米自治領)となる。アメリカの大統領は、前任者と対照的に帝国主義政策を推し進めたウィリアム・マッキンリーである。以後ハワイはアメリカの太平洋支配の拠点となり、オアフ島のパールハーバー(真珠湾)に大海軍基地が建設された。

昭和16年(1941年)12月7日、日本軍による真珠湾攻撃が行われた。ハワイは重要な軍事拠点としてその役割を果たすこととなり、軍事基地の建設が加速し、太平洋戦遂行の本部としてイオラニ宮殿に軍事政府が新設された。裁判権も軍の管理下におかれ、逮捕令状無しでの拘束が認められた。また、当時人口26万人だったハワイに、100万人とも言われる兵士と10万人近い新しい労働者たちがやってきた。軍需景気に沸くかたわら、男女比は著しく不均衡となり、アメリカ本土では1941年に兵士に対する売春行為が禁止されていたにも関わらず、特例的に認可される程であった。こうした現象は地元の女性にとっては脅威となり、アメリカ人兵士によるレイプ犯罪は後を絶たなかった。

オアフ島の戦跡 昭和17年(1942年)6月、ミッドウェー海戦で米軍が勝利を掴み、日本軍によるハワイ侵攻の可能性が低減すると、1943年に灯火管制が解除され、昭和19年(1944年)10月に戒厳令が解除された。翌年、第二次世界大戦が終結すると、ハワイでの日常に変化が見られるようになる。それまで白人に牛耳られていた政治・経済体制が、一時的にせよ権力を取り上げられたことで弱体化し、1946年に発生したストライキでは初めて労働者側が賃上げに成功した。

また、アメリカ本土からやってきた兵士たちにとって、戦地へ赴くための一時の安息地として機能したハワイは彼らに「ハワイは身近な楽園」というイメージを広めた。これを契機として、戦争特需に代わるものとしてハワイは観光施設の拡充に着手し始め、後の観光都市としての第一歩を踏み出すようになる。

現在も真珠湾は米海軍の重要な拠点である。軍事区域が多く、一般人の立ち入れないところは多いが、一部観光客に解放されている。「戦艦ミズーリ記念館」や「潜水艦ボーフィン博物館」では第二次世界大戦に投入され、その後退役した米艦艇の中を実際に歩くことができる。また、真珠湾攻撃で沈没した戦艦「アリゾナ」は現在記念館となっており、今もなお艦体から油が流れ出ているのを見ることができる。

真珠湾は17世紀から重要な軍事拠点であった。そのため、オアフ島南側には沿岸要塞がたくさん築かれた。そのほとんどは特に管理されないまま放置されており、年月の経過を感じさせる。

ハワイ諸島まで

日本からは約8時間の空の旅である。

オアフ島の交通情報

オアフ島の戦跡 オアフ島内では「The Bus」という路線バス網が張り巡らされており、たいていの場所にはバスで行くことができる。

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