インディアナ戦争記念博物館(Indiana War Memorial Museum)

アメリカ中西部(シカゴ・デイトン・インディアナポリス・ルイスビル)

アメリカ中西部(シカゴ・デイトン・インディアナポリス・ルイスビル)の戦跡
大東亜戦争におけるアメリカ中西部(シカゴ・デイトン・インディアナポリス・ルイスビル)の歴史
現地への行き方と現地交通情報(旅行情報)

「インディアナ戦争記念博物館(Indiana War Memorial Museum)」

「インディアナ戦争記念博物館」の概略および歩き方
火器展示詳細

「インディアナ戦争記念博物館」の展示内容

「博物館入口」

博物館入口 博物館入口 「インディアナ世界大戦記念館(Indiana World War Memorial)」の裏から「インディアナ戦争記念博物館(Indiana War Memorial Museum)」に入ると、広いロビーがある。(←)

ここには、議会名誉勲章(Medal of Honor)を授与されたインディアナ州出身将兵の氏名が掲げられている。(→)
議会名誉勲章(Medal of Honor)は、文久2年(1862年)に制定され、軍人が授かる勲章では最高位である。特に勇敢な働きをした将兵に大統領から直接授与される。

博物館入口 博物館入口 インディアナ州では、文久3年(1863年)〜昭和45年(1970年)までに合計99名が議会名誉勲章を授与された。議会名誉勲章を授与されるのは、米軍人にとっては最高の名誉である。
ロビーから脇の通路に沿って進むと大理石の立派な廊下がある。(←)

「Heavy Rotation」ではない。(→)
廊下の途中に、第一次世界大戦に於ける米陸軍の志願兵募集のポスターがある。社会の教科書でもお馴染みである。呼びかけている人物はアメリカを擬人化したアンクル・サム。

博物館入口 博物館入口 更に廊下を進むと「インディアナ戦争記念博物館(Indiana War Memorial Museum)」の看板が見えてくる。ここには、アメリカ合衆国が経験した戦争、特にインディアナ州に関係のある戦争に関する展示が成されている。(←)

展示室へは階段を降りていく。建物の地下が展示室になっている。(→)

一番初めは、安永4年(1775年)〜 弘化5年(1848年)まで、独立戦争とその後のインディアン戦争に関する展示である。

「植民地から独立国へ(1775年〜1848年)」

独立戦争とアメリカ合衆国建国 独立戦争とアメリカ合衆国建国 安永4年(1775年)4月18日、イギリスの北米植民地と宗主国イギリス本国との間に戦争がこった。アメリカ独立戦争(The American Revolution)である。

アメリカ中西部では、アメリカ独立軍指揮官ジョージ・ロジャース・クラーク率いる部隊が、インディアナ州ビンセンスにあったイギリス軍のサックビル砦を包囲した。安永8年(1779年)2月25日、サックビル砦を守備するイギリス軍司令官のヘンリー・ハミルトンは降伏した。
その時の様子が再現されている。赤い軍服を着ているのがイギリス軍将校である。(→)

独立戦争とアメリカ合衆国建国 独立戦争とアメリカ合衆国建国 安永5年(1776年)7月4日、アメリカ独立宣言が行われた。現在もこの日は独立記念日(Independence Day)である。独立宣言のコピーが展示されている。その中では、基本的人権や生命・自由・幸福の追求が謳われ、アメリカの理念となっている。(←)

アメリカ合衆国建国当時の国旗。(→)
建国当時は東部13州のみで、国旗の左上の星は円形に13個が配置されていた。その後、州の数が増えるにしたがって星の数が増えていった。赤と白の横線は13本あり、これは現在でも建国当時の州の数を表している。

独立戦争とアメリカ合衆国建国 独立戦争とアメリカ合衆国建国 五大湖周辺の地図である。現在は、ウィスコンシン州・イリノイ州・インディアナ州・オハイオ州・ミシガン州となっている地域である。(←)
建国当時、五大湖周辺は北西部領土と呼ばれ、アメリカ合衆国の領土ではなかった。多数のアメリカ先住民(インディアン)が居住していたが、建国以前から白人の入植者が侵入しつつあった。やがて、アメリカ合衆国建国に伴い、更に大規模な入植が行われるようになり、インディアンとの間に摩擦が起きた。

開拓民の生活用品や、インディアンの弓矢・石の矢じり・戦闘用斧(トマホーク)。(→)

独立戦争とアメリカ合衆国建国 独立戦争とアメリカ合衆国建国 北西部領土に於ける先住民インディアンと白人入植者との摩擦は、遂には北西インディアン戦争と呼ばれる争いに発展していった。
捕らえた白人の頭の皮を剥ぐインディアン。(←)
インディアンが野蛮な人々であるかのように紹介されているが、実際は、白人入植者によるインディアンへの虐殺が、はるかに上回っていた。インディアン戦争の実態は、白人入植者によるインディアンに対するほぼ一方的な虐殺と略奪であった。
寛政7年(1795年)、北西インディアン戦争は一応終結、しかし、そこに居住していたインディアンは土地を奪われ、更に西へと逃れるしかなかった。(→)

独立戦争とアメリカ合衆国建国 独立戦争とアメリカ合衆国建国 文化9年(1812年)、西へと領土拡張を続けるアメリカは、再びイギリスと衝突、米英戦争が勃発した。インディアナ州からはインディアナ第5歩兵連隊が従軍、その時の連隊旗が展示されている。(←)
アメリカは、その後も西へ西へと領土を拡げていった。弘化3年(1846年)、現在のテキサス州を巡って隣国メキシコと米墨戦争が勃発、これに勝利したアメリカは西海岸の領土を手に入れ、ほぼ現在のアメリカ本土が形成された。
米墨戦争に先立つ天保7年(1836年)、現在のテキサス州はメキシコからの独立を目差した。この時、メキシコ軍に包囲されたアラモ砦で玉砕したウィリアム・トラヴィス中佐率いる守備隊の奮戦は、今も尚、アメリカ人の誇りとして語り草になっている。(→)

「南北戦争と西部への領土拡張(1848年〜1914年)@」

南北戦争 南北戦争 19世紀に入るとアメリカにも産業革命が波及し、北部の州を中心として工業化が進んだ。これに対し、南部の州では、大量の黒人奴隷を動員する農業が産業の基盤であった。
万延元年(1860年)、奴隷制度撤廃を主張するエイブラハム・リンカーンがアメリカ合衆国第16代大統領に選出された。 (←)(→)

万延2年(1861年)、リンカーンが大統領に就任すると、奴隷制度を維持する南部の州がアメリカ合衆国から離脱、アメリカ連合国を構成し、北部の州と南部の州との対立が深まった。

南北戦争 南北戦争 文久元年(1861年)4月12日、北部の州(アメリカ合衆国)と南部の州(アメリカ連合国)の、奴隷制度の存続を巡る対立は、遂に南北戦争(Civil War)へと発展した。アメリカは、アメリカ合衆国軍(北軍)と南部の州を中心とするアメリカ連合国軍(南軍)とに分かれて、事実上の内戦となった。
この時、インディアナ州は北軍側に立って参戦、インディアナ州出身将兵で編成された126個歩兵連隊、20個砲兵連隊、13個騎兵連隊が従軍した。
インディアナ第11歩兵連隊の連隊旗である。(←)

南北戦争当時の北軍兵士の装備品。(→)

南北戦争 南北戦争 南北戦争当時、一般的に使用されていた小銃。銃口から弾丸を込める先込め式で、訓練された兵士は1分間に4発を発射する事が出来た。互いに接近すると銃口に装着した銃剣で敵を刺突した。(←)

南北戦争では、奴隷から開放された多くの黒人が、志願して北軍兵士として従軍した。(→)
しかし、北軍内部でも黒人に対する差別は根強く、様々な差別を受けねばならなかった。
黒人のみで編成されたマサチューセッツ第54連隊については、映画「グローリー」(1989年:アメリカ)に描かれている。

南北戦争 南北戦争 南北戦争当時、北軍の砲兵と段列。(←)
    南北戦争当時、野営する北軍兵士。(→)

南北戦争では、両軍合わせて250万名の兵士が従軍した。当初は南軍が優勢であったが、次第に北軍が盛り返し、文久2年(1863年)7月、ペンシルベニア州ゲティスバーグに於ける戦闘で北軍が大勝し、戦争の大勢は決した。元治2年(1865年)4月9日、南北戦争は北軍の勝利で終わった。

戦死者は両軍合わせて62万名、アメリカ建国以来最大の内戦であり、近代的な総力戦でもあった。

南北戦争 南北戦争 文久2年(1863年)11月19日、リンカーン大統領はゲティスバーグで演説を行なった。その際の演説文のコピーである。 Goverment of the people , by the people , for the people (人民の人民による人民の為の政府)という有名な一文がある。

南北戦争前後に於いても、インディアンに対する迫害は続いた。(→)
リンカーン大統領は、黒人奴隷を解放した事で知られるが、インディアンに対して激しい弾圧を行った事は余り知られていない。軍隊を動員した徹底的な弾圧が行われ、多数のインディアンが虐殺された。

「南北戦争と西部への領土拡張(1848年〜1914年)A」

米西戦争 米西戦争 インディアナ州における南北戦争での戦死者は24416名、負傷者は約50000名であった。

南北戦争に於ける、インディアナ州出身の戦没将兵の慰霊と退役軍人の顕彰の為、明治22年(1889年)に記念碑の建設が開始された。明治34年(1901年)に「兵士と水兵の記念碑(Soldiers & Sailors Memorial)」として完成し、現在に至る。(←)

明治31年(1898年)4月25日、カリブ海のスペイン領キューバを巡る問題から、アメリカとスペインの間に米西戦争が勃発した。(→)

米西戦争 米西戦争 アメリカは、カリブ海のスペイン植民地であったキューバやプエルトリコに侵攻、また、太平洋のスペイン領植民地であったフィリピン諸島やマリアナ諸島グアム島にも侵攻した。(←)

「ノルデンフェルト機砲」、明治10年(1877年)に開発された初期の機関銃。(→)
口径1インチ(25.4mm)、4連装の銃身を備え、上部のホッパー式弾倉から重力給弾した。4本の銃身が交互に弾丸の装填・撃発・排莢を行なう事で、最大毎分216発まで発射する事が出来た。2人〜3人で操作した。

米西戦争 米西戦争 米西戦争には、インディアナ州からも多くの将兵が義勇兵として従軍した。インディアナ第161義勇歩兵連隊の連隊旗。(←)

明治31年(1898年)8月12日、米西戦争はアメリカの勝利で終わった。その結果、カリブ海のキューバやプエルトリコ、太平洋のフィリピン諸島やマリアナ諸島グアム島は、アメリカの支配下になった。
その後、アメリカは、明治32年(1899年)に始まった米比戦争によって、フィリピン諸島の独立を武力で弾圧、大正2年(1913年)にはフィリピン諸島を完全に支配化に置いた。20世紀初頭、アメリカは太平洋にまで勢力を拡大していたのである。(→)

「第一次世界大戦(1914年〜1940年)@」

第一次世界大戦 第一次世界大戦 アメリカ合衆国が米西戦や米比戦争に勝利し、北米から太平洋にその勢力を拡大しつつあった頃、ヨーロッパでは成立間もないドイツ帝国と、フランスやイギリスとの間の対立が深まっていた。これに、バルカン半島における民族対立等もあり、非常に情勢が不安定になっていた。(←)
大正3年(1914年)7月28日、ヨーロッパを主戦場として、ドイツやオーストリアを主力とする同盟国と、イギリスやフランスを主力とする連合国との間に戦争が勃発、更には周辺の国々も巻き込んだ第一次世界大戦が始まった。(→)
アメリカは、当初は中立の立場を宣言していた。

第一次世界大戦 第一次世界大戦 しかし、ドイツは無制限潜水艦作戦を開始、中立国の商船に対しても攻撃を開始した。大正4年(1915年)5月7日、客船「ルシタニア号」がドイツ海軍潜水艦(Uボート)に撃沈され、多くのアメリカ人乗客が死亡、世論は一挙にドイツ打倒に傾いた。
そして、大正6年(1917年)に再びドイツが無制限潜水艦作戦を再開すると、大正6年(1917年)4月6日、アメリカ議会は参戦を決定し、ドイツに対して宣戦布告、連合国として第一次世界大戦に参戦した。

「ルシタニア号」撃沈を伝える新聞。(←)
戦時中のアメリカに於ける戦意高揚ポスター。(→)

第一次世界大戦 第一次世界大戦 大正7年(1918年)5月、米陸軍の遠征軍がフランスに到着、西部戦線に展開するイギリス軍やフランス軍と共に、ドイツ軍と激しい戦いを繰り広げた。

当時使用されていた各国の軍靴。短靴は歩兵が使用し、長靴は将校や騎兵が使用した。(←)

当時使用されていた小銃。この頃はボルトアクション式小銃が普及し、小銃の発射速度は著しく向上、19世紀の様な騎兵による突撃は無力化され、歩兵中心の戦術へと移行していった。(→)        <火器展示詳細

第一次世界大戦 第一次世界大戦 第一次世界大戦は、数々の新兵器が登場し、19世紀までの戦争と比較にならない程の戦死者が出た。
戦場を変えた新兵器の1つ、機関銃である。(←)
ドイツ軍の「MG08」、毎分300発〜450発を発射する事が出来た。          <火器展示詳細

1挺の機関銃によって、突撃する歩兵や騎兵は数百人単位でなぎ倒された。第一次世界大戦に於いて、両軍は、対峙する敵側の塹壕を攻略する為に突撃を繰り返し、その度に万単位の将兵が斃れていった。 (→)

第一次世界大戦 第一次世界大戦 ドイツ軍のヘルメットである。(←)
手前は高級将校が使用し、装飾が施されている。しかしこの様なヘルメットは戦場で目立ち、狙撃の対象となり易かった。 奥は下士官や兵卒が使用した。側面に弾丸か弾片による穴が開いてる。これを被っていた兵士は無事だったのだろうか。

毒ガスも新兵器として大量に使用され、それに対する防毒マスクも大量に使用された。
当時の米軍兵士の装備品である。着剣した小銃を持ち、防毒マスクを装着している。胸の前の袋には毒ガスの濾過器が収められた。(→)

第一次世界大戦 第一次世界大戦 米陸軍の「ブローニング M1917 機関銃」、非常に優秀な水冷式機関銃で、第二次世界大戦以降も使用された。(←)       <火器展示詳細

第一次世界大戦は、国家を挙げた総力戦となった。その為、これまでの戦争のように男性だけが戦場で戦うのではなく、女性も従軍し、物資輸送や通信等の後方支援任務に就いた。また、国内でも、多くの男性が出征すると、それを補う為に多くの女性が様々な職場で活躍するようになった。(→)

皮肉にも、国家総力戦となった第一次世界大戦は、後に女性の社会進出を促進する結果となった。

「第一次世界大戦(1914年〜1940年)A」

第一次世界大戦 第一次世界大戦 第一次世界大戦に於いて、インディアナ州からは、同州出身者で編成された米陸軍第38歩兵師団が従軍した。同師団隷下の第150野砲兵大隊の西部戦線に於ける野戦司令部が再現されている。(←)

当時の塹壕も再現されている。(→)
しかし、実際は、ほとんどの塹壕では床に泥水が溜まり、兵士の遺体や汚物が放置され、非常に衛生状態が悪かったという。劣悪な環境で何ヶ月も戦う為、兵士たちの多くは塹壕足と呼ばれる皮膚病に罹った。また、絶間無い砲撃による恐怖から、シェルショックと呼ばれる戦争神経症に罹る兵士も大勢いた。

第一次世界大戦 第一次世界大戦 インディアナ州に関連のある部隊や軍人ゆかりの品々展示されている。
ドイツ軍の「MG08/15機関銃」(左)とイギリス軍の「ルイス機関銃」(右)が展示されている。(←)
                   <火器展示詳細

第150野砲兵大隊の星条旗である。(→)
元々、インディアナ第1砲兵隊という州兵部隊(National Guard)であったが、第一次世界大戦参戦に伴って米陸軍に組み込まれ、改称された。大隊は2旒の旗を持ち、1旒は星条旗、もう1旒は大隊旗であった。

第一次世界大戦 第一次世界大戦 第一次世界大戦中、アメリカ参戦前に、志願してフランス軍戦闘機隊に参加したアメリカ人義勇パイロット達がいた。壁に、インディアナ州に関連のある義勇パイロットの肖像が展示されている。(←)(→)

義勇パイロットで最高の撃墜数(公認26機)を記録したエディ・V・リッケンバーガー大尉は、オハイオ州出身であったが、明治44年(1911年)〜大正5年(1916年)、インディ500マイルレースに参加しており、地元ゆかりの義勇パイロットとして紹介されている。
アメリカ人義勇パイロットに関しては、映画「フライ・ボーイズ」(2006年:アメリカ)にも描かれている。

第一次世界大戦 第一次世界大戦 連合軍で使用された「ルイス機関銃」。後に、日本軍でも使用され、航空機用機関銃の基となった。(←)

大正7年(1918年)11月11日、第一次世界大戦は終結、アメリカや日本を含む連合国が勝利した。
併しながら、第一次世界大戦はこれまで人類が体験した事のない大規模な戦争であった。機関銃・毒ガス・戦車・航空機・潜水艦という新兵器の登場、参戦国の多さ、4年近くに渡る長い戦争期間、これらは全て19世紀までの戦争を凌駕しており、その結果は未曾有の大殺戮となった。
第一次世界大戦に於ける戦死者は約900万人、また、一般市民約1000万人が戦争の犠牲となった。

「第二次世界大戦(1941年〜1945年)@」

第二次世界大戦 第二次世界大戦 第一次世界大戦に於けるインディアナ州出身戦没将兵の慰霊を目的として、大正8年(1919年)に 「インディアナ戦争記念碑群(Indiana War Memorials)」の建設が始まった。第一次世界大戦に於ける、インディアナ州出身将兵の戦死者は1420名であった。(←)

1930年代、ヨーロッパではヒトラー総統率いるドイツ労働者党が国民の支持を得て躍進し、イギリスやフランスによるベルサイユ体制の打破を目指した。
アドルフ・ヒトラーの胸像。(→)
昭和20年(1945年)5月、ベルリン陥落直後、市内に入った米軍将兵が持ち帰った。

第二次世界大戦 第二次世界大戦 昭和14年(1939年)9月1日、ヨーロッパに於ける第二次世界大戦が勃発、アメリカはイギリスに対して物資の援助を行ないつつ、参戦の機会を窺っていた。そして、昭和16年(1941年)12月8日、日本海軍による真珠湾攻撃を口実として、アメリカは第二次世界大戦に参戦した。
第二次世界大戦に従軍した米陸軍・米海兵隊の師団章(ワッペン)が展示されている。(←)

第二次世界大戦に関する展示である。(→)
日本軍やドイツ軍から捕獲した兵器や装備品、米軍の兵器や装備品が展示されている。

第二次世界大戦 第二次世界大戦 九六式軽機関銃」(←)と「九九式軽機関銃」(→)、大東亜戦争に於ける日本陸軍の主力軽機関銃であった。南部麒次郎の設計であった為、米軍はNanbu Light Machinegunと呼んだ。
奥は「八九式重擲弾筒」である。(←)

下は「九九式(短)小銃」(奥)と「三八式騎兵銃」(手前)。基となる「三八式歩兵銃」が有坂成章の設計であった為、米軍は日本軍の小銃をArisaka Rifleと呼んだ。(→)

                   <火器展示詳細

第二次世界大戦 第二次世界大戦 日本軍の将校や下士官は軍刀を装備した。武士の刀に由来し、軍人の精神的な拠り所であった。(←)
軍刀の下は千人針である。出征する将兵が敵弾にあたらないよう、家族や恋人が用意したお守りで、女性が1人1針、合計1000針の縫い目をつけた。(←)
寄せ書きの書かれた日の丸は、家族や知人が出征する兵士の無事を祈って贈った。(→)

アメリカに展示されている軍刀・千人針・日の丸の多くは、戦死した日本軍将兵から、米軍兵士が土産として剥ぎ取って持ち帰ったものである。家族の願いむなしく、持ち主が再び祖国に還ることは無かった。

第二次世界大戦 第二次世界大戦 真珠湾攻撃に関する展示である。(←)(→)

昭和16年(1941年)12月8日、日本海軍機動部隊は、ハワイ諸島オアフ島真珠湾(Pearl Harbor)にある米海軍太平洋艦隊基地を空襲、所謂、真珠湾攻撃である。この時、日本政府からアメリカ政府への宣戦布告通知が手違いによって遅れてしまい、攻撃開始後の宣戦布告になってしまった。しかし、アメリカ政府は日本の外交暗号を解読しており、日本が対米開戦を決意している事は既に知っていた。そこで、日本政府による宣戦布告遅延を絶好の機会と捉えたアメリカ政府は、真珠湾攻撃を日本による騙まし討ちであるとし、国民に対しては「Remember Pearl Harbor」を合言葉に対日参戦機運を盛り上げた。

「第二次世界大戦(1941年〜1945年)A」

第二次世界大戦 第二次世界大戦 順路に沿って進むと、引き続き第二次世界大戦に関する展示室がある。(←)

昭和16年(1941年)12月8日、日本軍による真珠湾攻撃によって大東亜戦争が開戦した。12月11日、アメリカはドイツ・イタリアに宣戦布告し、ヨーロッパや北アフリカに於ける第二次世界大戦にも参戦した。

米海軍に関する展示。(→)
太平洋戦線に於いては、主として米海軍(U.S Navy)や米海兵隊(U.S Marine Corp)が、日本陸海軍と対峙する事になった。

第二次世界大戦 第二次世界大戦 昭和17年(1942年)7月、米陸軍航空隊がイギリス本土に進出、英空軍と共にドイツ本土空襲を開始した。11月には米陸軍が北アフリカに上陸、英陸軍と共にアフリカ戦線のドイツ軍・イタリア軍を撃破した。昭和18年(1943年)7月、連合軍は地中海のシチリア島に上陸、更に、9月にはイタリア南部に上陸した。その結果イタリアが降伏、地中海を含むヨーロッパ南部は連合軍が制圧した。ヨーロッパ戦線の焦点は、ドイツ占領下のフランスとドイツ本土のみとなった。

ヨーロッパ戦線で捕獲されたドイツ軍の火器や制服等の装備品。(←)(→)    <火器展示詳細

第二次世界大戦 第二次世界大戦 そして、昭和19年(1944年)6月6日、米軍・英軍を主力とする連合軍は、北フランスのノルマンディー海岸に上陸した。8月にパリを占領、12月までにはフランス全土を制圧し、西からドイツ本土に迫った。
この時、東からはソ連軍もドイツ本土に迫っていた。

アドルフ・ヒトラーが使用していた銀食器だそうである。ベルリン陥落時に持ち帰ったのだろうか。(←)

こちらもドイツからの戦利品、ドイツ陸軍の制服(左)とドイツ空軍の制服(右)。(→)
               <火器展示詳細

第二次世界大戦 第二次世界大戦 米陸軍の小火器。(←)米軍の火炎放射器。(→)
                   <火器展示詳細

太平洋戦線に於いて、開戦当初は日本軍が優勢であった。しかし、昭和17年(1942年)後半以降、米軍の本格的な対日反抗が開始された。圧倒的な物量を誇る米軍の攻勢を前に、日本軍の防衛線は後退の一途を辿った。
日本軍将兵は、兵力・火力共に勝る米軍に対し、絶望的な戦闘を強いられた。頑強な抵抗を続ける日本軍将兵に対し、米軍部隊は火炎放射器を多用、陣地もろとも日本軍将兵を焼き尽くしていった。

第二次世界大戦 第二次世界大戦 ソ連軍の小銃やイギリス軍の対戦車兵器等、米軍以外の連合軍の兵器。(←)  <火器展示詳細

太平洋戦線に於ける米軍の様子。(→)
インディアナ州インディアナポリスに司令部を置く、第38歩兵師団(通称:サイクロン)はインディアナ州出身者が大半を占めていた。

同師団は、第二次世界大戦に於いて太平洋戦線に投入され、ニューギニアやフィリピン諸島レイテ島での作戦に参加、守備する日本軍と熾烈な戦いを演じた。

第二次世界大戦 第二次世界大戦 第二次世界大戦当時の米海兵隊の戦闘服(左)と下士官の制服(右)。物資に余裕のある米軍では、戦闘服と制服の両方が支給されていた。(←)

戦時下のアメリカ国内に関する展示。(→)
壁の上には当時の戦意高揚ポスターも展示されているが、「進め1億火の玉だ!」「欲しがりません、勝つまでは!」的な標語はどこの国でも同様である。

また、第二次世界大戦は、第一次世界大戦と同様に国家の総力戦となり、多くの女性が、これまで男性の職場とされていた場所に進出、銃後を守った。

第二次世界大戦 第二次世界大戦 昭和20年(1945年)4月30日、ソ連軍包囲下のベルリンでヒトラー総統が自決した。5月8日、ドイツは連合国に降伏、ヨーロッパでの戦争は終わった。
ドイツの降伏を伝える当時の地元新聞。(←)

昭和20年(1945年)8月15日、日本政府はポツダム宣言の受諾を発表し、連合国に対して無条件降伏、第二次世界大戦は終結した。
日本の降伏を伝える当時の地元新聞。(→)

昭和14年(1939年)〜昭和20年(1945年)まで約6年間に及ぶ第二次世界大戦に於いて、約2500万名が戦死、一般市民約3000万人が犠牲になった。

「冷戦(1945年〜1991年)」

朝鮮戦争・ベトナム戦争 朝鮮戦争・ベトナム戦争 米ソによる冷戦(Cold War)に関する展示。(←)
昭和20年(1945年)8月15日、第二次世界大戦が終結した。戦後の世界は、アメリカを中心とする西側陣営と旧ソ連を中心とする東側陣営に分かれて対立した。アメリカとソ連が直接戦火を交えることは無かったが、互いに核戦力を中心とした軍備を増強してにらみ合う、所謂、冷たい戦争(冷戦)が発生した。

昭和22年(1947年)9月18日、米陸軍航空隊が独立し、米空軍(U.S Air Force)が創設された。創設された当時の米空軍の制服や搭乗員服が展示されている。(→)

朝鮮戦争・ベトナム戦争 朝鮮戦争・ベトナム戦争 昭和25年(1950年)6月25日、ソ連と中国の支援を受けた北朝鮮軍が大韓民国に進撃を開始、朝鮮戦争(Korean War)が勃発した。アメリカは大韓民国を支援する為に大規模な派兵を行った。
昭和16年(1941年)4月にインディアナ州エジンバラに建設された米陸軍のアターバリー訓練所(Camp Atterbury)の様子。(←)
朝鮮戦争に於いても、米陸軍の第28歩兵師団や第31歩兵師団の訓練所として使用された。

第一次世界大戦で登場した「M1917機関銃」は朝鮮戦争でも使用された。(→)

朝鮮戦争・ベトナム戦争 朝鮮戦争・ベトナム戦争 朝鮮戦争時の米軍火器。(←)<火器展示詳細

第二次世界大戦後、フランスから独立したベトナムは南北に分断され、昭和35年(1960年)には南北ベトナム間にベトナム戦争(第2次インドシナ戦争)が勃発した。アメリカは南ベトナムを支援し、昭和40年(1965年)からは大規模な軍事介入を開始した。しかし、北ベトナム軍や共産ゲリラ(ベトコン)の激しい抵抗によって、多くの犠牲を出し、昭和48年(1973年)に全面撤退した。

ベトナム戦争時、北ベトナム軍や共産ゲリラ(ベトコン)が使用した火器。(→)   <火器展示詳細

「ベトナム戦争・湾岸戦争・イラク戦争」

ベトナム戦争・湾岸戦争・イラク戦争 ベトナム戦争・湾岸戦争・イラク戦争 順路に沿って進むと、地下の展示室から1階の展示室に上がる。ここから先は、ベトナム戦争(1960年〜1975年)や、冷戦終結後に起こった湾岸戦争(1991年)・イラク戦争(2003年)に於ける米軍の活動に関する展示が成されている。(←)
平成3年(1991年)、ソ連の崩壊によって冷戦は事実上終結した。しかし、冷戦終結後の世界は民族主義や原理主義が台頭、国際情勢は複雑化した。

ベトナム戦争に於ける米海兵隊(U.S Marine Corps)の装備品(手前)と航空機搭乗員の装備品(奥)。(→)

ベトナム戦争・湾岸戦争・イラク戦争 ベトナム戦争・湾岸戦争・イラク戦争 「ベル AH-1F コブラ」である。(←)
昭和40年(1965年)に開発された世界初の攻撃用ヘリコプターで、ベトナム戦争に於いても使用された。米陸軍では、平成13年(2001年)までに全機退役したが、米海兵隊や日本の陸上自衛隊では現在でも使用されている。機首に「M197機関砲」(3砲身・口径20mm)を装備、翼下に「BGM-71(TOW対戦車ミサイル)」8発と「M261ロケット弾ポッド」(ハイドラ70ロケット弾19発)を装備した。

エンジンは「ライカミング T53-L-703」(離翔:1800馬力)1基を装備した。(→)

ベトナム戦争・湾岸戦争・イラク戦争 ベトナム戦争・湾岸戦争・イラク戦争 平成2年(1990年)、中東のイラクが隣国クウェートに侵攻、これを契機として翌年に湾岸戦争が勃発、アメリカは大規模な派兵行った。中東は世界有数の油田地帯であり、アメリカを含め世界各国が中東での利権確保や影響力行使に関心を持っていた。

「M998」、昭和60年(1985年)に採用された米軍の高機動多目的装輪車両。通称「ハンビー(HMMWV:High Mobility Multi-purpose Wheeled Vehicle)」。湾岸戦争やイラク戦争で使用された。(←)

     「ノースロップ B-2」の模型。(→)

ベトナム戦争・湾岸戦争・イラク戦争 ベトナム戦争・湾岸戦争・イラク戦争 現在の米空軍の戦闘機搭乗員(パイロット等)の装備品。空中での機動時にかかる大きなG(重力)に対応する為の耐Gスーツ等が展示されている。(←)

インディアナ州インディアナポリスに司令部を置く州兵(National Guard)、米陸軍第38歩兵師団(通称:サイクロン)に関する展示。(→)
大正6年(1917年)に創設された第38歩兵師団はインディアナ州出身者で編成され、第一次世界大戦・第二次世界大戦に従軍した。近年では湾岸戦争やイラク戦争に従軍し、アフガニスタン、コソボ、ボスニアにも派遣された。

ベトナム戦争・湾岸戦争・イラク戦争 ベトナム戦争・湾岸戦争・イラク戦争 更に進むと廊下にでる。この先に米海軍重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示室がある。(←)

廊下の途中に、第二次世界大戦中に作製された、歩兵向けの対戦車戦闘要領が展示されている。描かれている敵戦車はドイツ軍の「V号戦車」であろう。(→)
@敵戦車の監視孔を狙って射撃し、乗員に監視孔を閉じさせる。 A更に射撃を続け、敵戦車の視界を奪う。 B地面に掘った穴に潜み、敵戦車が通過するのを待つ。 C敵戦車をやり過ごしたら、敵戦車の給排気孔に火炎瓶(Molotov Cocktail)を投げつける。

「イラク戦争・対テロ戦争」

イラク戦争・対テロ戦争 イラク戦争・対テロ戦争 順路に沿って進むと、廊下の途中にイラク戦争・対テロ戦争に関する展示室がある。(←)
平成15年(2003年)3月20日、アメリカを主力とする多国籍軍がイラクへの侵攻を開始、これは「イラクの自由作戦」と呼称され、後にイラク戦争と呼ばれた。
イラクの国連安保理決議違反や大量破壊兵器の所持を理由に、フセイン政権打倒を目指していた。しかし、大量破壊兵器は発見されず、戦争の大義名分が不明確であり、アメリカへの批判が強まった。

イラク貨幣やフセイン大統領の胸像等。(→)
イラク戦争での戦利品だろうか。

イラク戦争・対テロ戦争 イラク戦争・対テロ戦争 「ロッキード・マーチン F-16」の操縦席(コックピット)の実物大模型(モックアップ)(←)(→)
「F-16」は、昭和50年(1975年)に採用された、米空軍の主力戦闘機である。イラク戦争にも参加した。

平成15年(2003年)4月にはフセイン政権が崩壊、フセイン大統領も同年12月14日に逮捕され、平成18年(2006年)12月30日に処刑された。
しかし、国内各地で武装組織による抵抗活動が続き、国外からもテロ組織が流入、治安は極度に悪化した。平成22年(2010年)8月に一応の終結宣言は出されたものの、現在に至るまで混乱が続いている。

イラク戦争・対テロ戦争 イラク戦争・対テロ戦争 平成9年(2001年)9月11日、アメリカで同時多発テロが発生、約5000人が犠牲になった。(←)(→)

同時多発テロの発生によって、当時のジョージ・ブッシュ大統領は対テロ戦争の開始を宣言、平成9年(2001年)10月7日、テロ組織アルカイーダの拠点があるとされたアフガニスタンに侵攻、平成15年(2003年)3月のイラク戦争もその一環であった。
しかし、テロ組織という実態の不明確な相手との戦争は困難を極めた。また、戦闘によって民間人に多くの犠牲者が出た事や、あくまでもアメリカ主導による世界戦略等、多くの矛盾をはらんでいた。
同時多発テロ発生から約10年(2011年現在)、未だに対テロ戦争は終結していない。

「重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示@」

重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 廊下を進むと、米海軍の重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示がある。(←)

米海軍の重巡洋艦「インディアナポリス(USS Indianapolis:CA-35)」は、ポートランド級重巡洋艦の2番艦であり、条約型重巡洋艦として建造された。(→)
昭和5年(1930年)3月31日、ニュージャージー州のニューヨーク造船所で起工され、昭和6年(1931年)11月7日に進水した。その後、フェラデルフィア米海軍造船所で艤装され、昭和7年(1932年)11月15日に竣工した。

重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 全長186m・全幅20m・基準排水量9800トン、主砲は20.3cm(8インチ)砲9門(3連装砲塔3基)、副砲は12.5cm(5インチ)砲8門を搭載、最高速力32ノットであった。「インディアナポリス」は、ロンドン軍縮条約に基づいて設計され、日本海軍の高雄型重巡洋艦と同時期、重巡洋艦「鳥海」とほぼ同期生であった。

昭和17年(1942年)の「インディアナポリス」(←)
艦体前部(写真左 ←)と艦隊中央(写真右 ←)。

当時の最新鋭巡洋艦であった「インディアナポリス」には、ルーズベルト大統領も何度か乗艦した。(→)

重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 特に、昭和11年(1936年)11月18日〜12月15日に渡り、南米遊説に向かうルーズベルト大統領のお召し艦となる栄誉を受けた。

昭和11年(1936年)11月、南米に向けて出向する「インディアナポリス」(←)
昭和11年(1936年)12月、ブラジルのブエノスアイレスに入港する「インディアナポリス」(→)

昭和16年(1941年)12月8日、大東亜戦争が勃発、「インディアナポリス」は米海軍第11任務部隊に配属され、太平洋戦線で日本軍と戦う事になった。

重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 昭和17年(1942年)〜昭和18年(1943年)5月まではニューギニア周辺海域や北太平洋で作戦に参加した後、11月5日、米海軍第5艦隊の旗艦となり、司令長官スプルーアンス中将が座乗した。

昭和18年(1943年)5月2日、定期点検の為に入港したメアアイランド米海軍造船所にて。(写真上 ←)
昭和19年(1944年)5月1日、サンフランシスコ沖合いにて。迷彩が施されている。(写真下 ←)

「インディアナポリス」の航海艦橋内。(→)
戦前に撮影された写真である。

重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 「インディアナポリス」は、昭和18年(1943年)11月のギルバート諸島攻略作戦、昭和19年(1944年)2月のマーシャル諸島攻略作戦に参加した。この時、第5艦隊旗艦は戦艦「ニュージャージー」であったが、同年6月のマリアナ諸島攻略作戦では再び第5艦隊旗艦となり、サイパン島チャランカノア海岸沖合いからの艦砲射撃にも参加した。

昭和19年(1944年)6月、サイパン島チャランカノア海岸沖合で艦砲射撃を行う「インディアナポリス」(奥)、手前は重巡洋艦「バーミンガム」。(←)
昭和19年(1944年)、米軍の補給基地にて。(→)

重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 その後、第5艦隊は第3艦隊に改称され、「インディアナポリス」は第3艦隊の1艦として、昭和19年(1944年)9月のペリリュー島アンガウル島攻略作戦に参加した。昭和20年(1945年)1月には再び第5艦隊旗艦となり、同年2月の小笠原諸島硫黄島攻略作戦に参加した。3月には第5艦隊隷下の第58任務部隊に配属され、沖縄本島への艦砲射撃に参加したが、3月31日、日本軍特攻機の攻撃により損傷、修理の為にメアアイランド米海軍造船所に向かった。

昭和20年(1945年)7月10日、メアアイランド造船所にて。アメリカ本土での最後の姿である。(←)(→)

重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 修理の完了した「インディアナポリス」を重要任務が待っていた。原子爆弾用の核燃料と部品をマリアナ諸島テニアン島に輸送する事になったのである。核燃料と部品を搭載した「インディアナポリス」は、昭和20年(1945年)7月16日、サンフランシスコを出航、19日にハワイ諸島オアフ島真珠湾に寄航した後、26日、テニアン島に到着、無事に貨物を揚陸した。

沈没数日前、テニアン島に於ける最期の一葉。(←)
届けられた核燃料と部品は「原爆組立工場」で組み立てられた。「原爆組立工場」は、その土台が現在もテニアン島に遺されている。(詳細)(→)

重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 7月28日、「インディアナポリス」はフィリピン諸島レイテ島に向かった。この時、日本海軍潜水艦「伊−五八」(潜水艦長:橋本以行少佐・乗員95名)が、回天特別攻撃隊多聞隊の1艦として、パラオ諸島北方340kmの海域に於いて作戦行動中であった。
7月29日23時、「伊−五八」は距離4000mに艦影を発見、直ちに潜航、潜望鏡による観察で米海軍巡洋艦と判断した橋本艦長は魚雷戦を下令、23時26分、距離1500mから合計6本の魚雷を発射した。

日本海軍潜水艦「伊−五八」。(←)
「伊−五八」の魚雷発射管室。戦後の撮影。(→)

重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 約1分後、「インディアナポリス」の右舷に3本の魚雷が命中、内1発は第二砲塔火薬庫を誘爆させた。これが致命傷となり、「インディアナポリス」は急速に傾斜、被弾から約12分後に沈没した。乗員1197名の内約300名が沈没時に戦死、残り約900名が脱出した。しかし、米海軍は「インディアナポリス」の遭難に直ぐに気づかず、救助活動が開始されたのは沈没から3日後であった。その為、脱出した約900名の7割近くが死亡、救助されたのは317名に過ぎなかった。
また、「インディアナポリス」は、第二次世界大戦に於いて撃沈された最後の米海軍艦艇となった。

米軍船舶に救助された生存者。(←)
    グアム島の病院に搬送される生存者。(→)

「重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示A」

重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 戦後の昭和20年(1945年)11月、艦長のチャールズ・B・マクベイ3世大佐は、艦を撃沈されて乗員多数が戦死した責任を問われて軍法会議にかけられた。しかし、これは米海軍による責任転嫁であった。何故なら、第二次世界大戦中に撃沈された米海軍艦艇でその責任を問われた艦長はマクベイ大佐のみであり、乗員多数が漂流中に死亡したのは、極秘任務を帯びた「インディアナポリス」の行動が秘匿されていた事による救助活動の遅延が原因であった。

「インディアナポリス」の生存者を収容した米海軍病院船「トランクィリティ」。グアム島にて。(←)(→)

重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 軍法会議では、マクベイ元艦長が艦の之字運動(ジグザグ航行)を怠って艦を危険にさらしたと指摘された。これに対し、実際に雷撃した日本海軍潜水艦「伊−五八」の潜水艦長であった橋本以行少佐が証人として出席、「インディアナポリス」は之字運動を行っていたが、「伊−五八」は相手が回避不能な距離から雷撃したので、何れにせよ撃沈可能であった、と証言した。つまり、マクベイ元艦長の操艦は適切であったのである。しかし、マクベイ元艦長には有罪が宣告された。

米海軍重巡洋艦「インディアナポリス」艦長のチャールズ・バトラー・マクベイ3世大佐(写真右 ←)と日本海軍潜水艦「伊−五八」潜水艦長の橋本以行少佐(写真左 ←)。
戦後、証人として軍法会議に出席した際の橋本元潜水艦長。(→)

重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 軍法会議の有罪判決は後に取消されたが、マクベイ元艦長は乗員の遺族に責任を追及された。そして、昭和33年(1968年)11月6日、マクベイ元艦長は拳銃によって自ら命を絶った。享年 才、軍法会議の有罪判決が取消されたとはいえ、米海軍にあらぬ罪を着せられ、乗員の死の責任を押付けられた末の無念の死であった。

マクベイ元艦長の死から約 年後、映画「ジョーズ」(1975年:アメリカ)を観て「インディアナポリス」の沈没に興味をもったハンター・スコット氏(当時12歳)は、マクベイ元艦長の死に疑問を抱いて独自に調査を開始した。その結果、軍法会議で、橋本艦長の証言が採用されていない事を突き止め、米海軍がマクベイ元艦長に責任転嫁をしたと結論付けた。そして、マクベイ元艦長は「インディアナポリス」の沈没に対しての責任は無く、乗員多数が死亡したのは極秘任務を帯びた「インディナアポリス」の行動が秘匿されていた事による救助活動の遅れが原因であったと主張した。

司令塔で潜望鏡を操作する橋本艦長。(←)
第一種軍装(濃紺の詰襟と制帽)を着用している事から、戦闘時の撮影ではないと思われる。

重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示

スコット氏による主張は全米で大きく報道され、マクベイ元艦長の名誉回復運動が起こった。
そして平成12年(2000年)、マクベイ元艦長の名誉回復が議会で承認され、当時のクリントン大統領が署名、ここにマクベイ元艦長の名誉は回復した。

展示室は、平成19年(2007年)7月7日、「インディアナポリス博物館」としてオープンした。(詳細
重巡洋艦「インディアナポリス」にゆかりのあるの品々が展示されている。(←)

「インディアナポリス」の戦友会の様子。(→)

重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 「インディアナポリス」の艦内新聞。(←)
乗員の有志が余暇を利用して製作していたようである。展示されている艦内新聞には、昭和17年(1942年)6月のミッドウェー海戦や昭和18年(1943年)8月のキスカ島攻略の様子が書かれている。

「大統領旗」や銀食器が展示されている。(→)
他にも、模型や当時の写真が展示されおり、在りし日の姿を偲ぶ事が出来る。

通常、各国の海軍では、軍艦に国家元首や高級指揮官が乗艦した際、その所在を表す旗を掲揚する。

重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 日本海軍に於いても、天皇陛下のお召し艦には菊の御紋章の描かれた「大元帥旗」が掲げられた。

昭和11年(1936年)11月18日〜12月15日、ルーズベルト大統領の南米遊説に際して「インディアナポリス」は大統領のお召し艦に選ばれ、リオデジャネイロ、ブエノスアイレス、モンテビデオ等に入港した。
この時、「インディアナポリス」には「大統領旗」が掲げられた。(←)

ルーズベルト大統領の南米遊説の際に掲げられた「大統領旗」の当時の様子。(→)

重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 戦前に「インディアナポリス」で使用されていた鐘。戦時中は重量軽減の為に降ろされていた。(←)

「インディアナポリス」はマリアナ諸島テニアン島に原子爆弾の核燃料と部品を輸送するという極秘任務を帯びていた。(→)
「インディアナポリス」が撃沈された事は、この極秘任務とは無関係であったが、乗員多数が死亡したのは、極秘任務によって行動が秘匿され、救助活動が遅延したのが原因であった。そして、戦後、これらの事によって「インディアナポリス」は一躍有名になった。

重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 「インディアナポリス」の戦友会が中心となり、平成6年(1995年)8月2日、インディアナポリス市街の西側を流れる運河沿いに「米海軍重巡洋艦「インディアナポリス」記念碑(USS Indianapolis Memorial)」が建てられた。
記念碑の模型や、計画書、着工の記念品等。(←)

インディアナポリス市街に建てられた「米海軍重巡洋艦「インディアナポリス」記念碑(USS Indianapolis Memorial)」、最後の航海に参加した全乗組員の氏名が刻まれている。(→)

重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 重巡洋艦「インディアナポリス」に関する展示 日本海軍潜水艦「伊−五八」の模型。(←)
「伊−五八」や橋本艦長は、映画「真夏のオリオン」(2009年:日本)のモデルになった。

「インディアナポリス」は昭和20年(1945年)7月30日に撃沈され、8月2日から米海軍による救助活動が開始された。救助活動は8月7日まで続けられたが、沈没時に脱出した乗員約900名の内、救助されたのは317名であった。
後に、多くが鮫に襲われて命を落としたと説明されたが、これは誤りである。実際は、漂流中の飢えと疲労による犠牲者であった。

展示室の外の壁に、当時の救助活動の様子が紹介されている。(→)

「霊廟(Shrine Room)」

霊廟(Shrine Room) 霊廟(Shrine Room) 霊廟(Shrine Room) 「インディアナ世界大戦記念館」の上階には「霊廟(Shrine Room)」が設けられている。(←)
インディアナ州出身戦没将兵を奉る「霊廟」である。

1階のロビーの左右に階段があり、ここから上階に登る事ができる。階段を登りきると、周囲を柱に囲まれ、屋根の高い場所がある。

巨大な星条旗(9.1m×5.1m)が掲げられ、天井には大きな星と小さな多数の星を模した青い照明がある。大きな星はスウェーデンのクリスタルだそうである。(→)

霊廟(Shrine Room) 霊廟(Shrine Room) 照明は暗めに抑えられ、「霊廟」全体が厳かな雰囲気に包まれている。
「霊廟」の中央には「祭壇」が据えられている。(←)

「霊廟」は高さ34m、縦横18m(→)

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