インディアナ戦争記念博物館(火器展示詳細)

アメリカ中西部(シカゴ・デイトン・インディアナポリス・ルイスビル)

アメリカ中西部(シカゴ・デイトン・インディアナポリス・ルイスビル)の戦跡
大東亜戦争におけるアメリカ中西部(シカゴ・デイトン・インディアナポリス・ルイスビル)の歴史
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「インディアナ戦争記念博物館(火器展示詳細)」

「インディアナ戦争記念博物館」の概略および歩き方
展示内容詳細

「インディアナ戦争記念博物館」の火器展示詳細

「第一次世界大戦@」

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第一次世界大戦 第一次世界大戦 上からドイツ軍の「Kar98」「Kar88」「ドライゼ撃針銃(M71)」「Gew88」と、一番下がオーストリア軍の「Steyr-Mannlicher M1895」。(←)

上から「モーゼル M1893(スパニッシュ・モーゼル)」「M77 小銃」「Vetterli M1878」、イギリス軍の「エンフィールド小銃」、一番下が米軍の「レミントン M1917 小銃」(→)

19世紀後半、金属製薬莢の発明によって後装式小銃が登場した。更に、槓棹式(ボルトアクション式)小銃が開発によって小銃の性能は飛躍的に向上した。

第一次世界大戦 第一次世界大戦 「ショーシャ Mle1915 機関銃」、大正11年(1915年)に登場したフランス軍の軽機関銃。口径8mm、重量8.16kg、発射速度毎分240発、給弾は半円形の弾倉(装弾数20発)を使用した。
併しながら、作動不良が多く信頼性の低い軽機関銃であった。展示品は弾倉が失われている。(←)

「MG08(MaschinenGewehr08)」、明治41年(1908年)に開発されたドイツ軍の重機関銃。「マキシム機関銃」の影響を強く受けている。口径7.92mm、重量66.4kg、移動時は脚を畳んで銃架を橇として使用できた。(→)

第一次世界大戦 第一次世界大戦 「Mle1897 75mm野砲」(←)
明治30年(1897年)に登場したフランス軍の野砲で、初めて液体を利用した復座駐退器を装備した野砲であった。その結果、従来の野砲と比較して発射速度が飛躍的に向上、近代的な野砲の先駆的存在となった。第一次世界大戦に於いては、米陸軍でも「M1897 75mm野砲」として使用した。

個人が使用していた拳銃である。(→)
左上が「コルト 38口径 回転式拳銃」、左下が「コルト 45口径 回転式拳銃」、右上が「コルト 45口径 自動拳銃」、右下が「S&W 38口径」。

第一次世界大戦 第一次世界大戦 「ブローニング M1895/M1914 機関銃」、明治28年(1895年)に登場した米軍の機関銃。(←)
銃身の冷却を考慮していなかった為、連続発射が困難であった。後にこれらを改良し、「ブローニング M1917 機関銃」の開発へと繋がっていった。

「ブローニング M1917 機関銃」、大正6年(1917年)に登場、口径7.62mm、重量14.3kg(銃身)、当時の機関銃としては比較的軽量で、通常は三脚に載せて使用された。(→)
非常に信頼性が高い優秀な機関銃で、反動利用式であった。また、後に空冷式の「ブローニング M1919 機関銃」や50口径(12.7mm)の「ブローニング M2 重機関銃」の基となった。

「第一次世界大戦A」

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第一次世界大戦 第一次世界大戦 「ルイス機関銃」、明治44年(1911年)、米軍のアイザック・ルイス大佐によって開発された軽機関銃であったが、当初米軍はこれを採用しなかった。その後、イギリス軍が口径を7.7mmに変更して採用し、第一次世界大戦では、連合軍の主力軽機関銃として大量に使用された。また航空機用機銃として多くの連合軍機に搭載された。(←)
日本軍も「留式七粍七機銃」として使用、その後の航空機用機銃や7.7mm弾の開発に影響を与えた。

銃身は空冷で、放熱筒の後ろから前に空気が抜けるようになっていた。(→)

第一次世界大戦 第一次世界大戦 「MG08/15」、大正4年(1915年)に開発されたドイツ軍の軽機関銃である。重機関銃であった「MG08」(重量66.4kg)を軽量化して開発された。しかし、当事の一般的な軽機関銃は重量10kg程度であり、重量約15kgの「MG08/15」は軽機関銃としては中途半端な感があった。(←)
取外し可能な二脚や消炎器(フラッシュハイダー)が付属していた。これらも並べて展示されている。

給弾は100発入りドラム型弾倉で行われ、弾倉は機関部右側に装着された。(→)
ドラム型弾倉の使用により、1名で射撃をする事が可能であった。

「第二次世界大戦@」

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第二次世界大戦@ 第二次世界大戦@ 九六式軽機関銃」、昭和10年(1935年)に「十一年式軽機関銃」の後継として登場。当時の各国の軽機関銃がそうであったように、チェコスロバキア製「ブルーノ ZB26」の影響を受けていたが、随所に日本独自の機構も盛り込まれ、命中製度の高い優秀な軽機関銃であった。(←)
排莢孔にはバネの付いた防塵用の蓋があり、排莢された空薬莢がぶつかる事で開く。また、銃身基部のラッチを解放し、捉把(握り)持って引き抜く事により簡単に銃身交換が出来た。口径は6.5mmで、銃身内部にはクロームメッキ処理が施され、銃身寿命の延命が図られていた。(→)

第二次世界大戦@ 第二次世界大戦@ 銃身下部の瓦斯筒の先端には着剣装置が装備されていた。これは日本軍の軽機関銃の特徴であったが、軽機関銃への着剣は白兵戦用としては非現実的であり、実際に白兵戦に使用される事は無かったと思われる。(←)
尚、展示品は銃口先端に銃口蓋(鋼鉄製の覆い)が取付けられている。緊急時には蓋を開き、銃口蓋を取付けたままの射撃も可能であった。(←)

九九式軽機関銃」、昭和14年(1940年)に登場。「九六式軽機関銃」の口径7.7mmの拡大して「九九式実包」を使用した。(→)

第二次世界大戦@ 第二次世界大戦@ 外見的には「九六式軽機関銃」と大きな差は無い。
機関部の上から箱型弾倉によって給弾する為、照準線は左側にオフセットされている。(←)
十一年式軽機関銃」では弾倉が左側にあった為、照準線が右にオフセットされていたが、これは、多くの右利きの兵士が物陰から射撃する場合に余計に体を露出せねばならず、不評であったという。
尚、展示品は銃口が塞がれてしまっている。また、銃口には消炎器(フラッシュハイダー)が装着されるが、展示品では失われている。(←)
銃身はボルトで基部に固定され、銃身交換時はボルトを外す必要があった。(→)

第二次世界大戦@ 第二次世界大戦@ 「九九式短小銃」(奥)、「三八式騎兵銃」(中)、「九九式(長)小銃」(手前)、何れも「三八式歩兵銃」から発展した小銃で、日露戦争から大東亜戦争まで、日本軍の主力小銃として使用された。(←)

「九九式短小銃」(奥)は、昭和14年(1939年)に登場した日本軍の小銃で、「三八式歩兵銃」が口径6.5mmであったのに対し、口径7.7mmであった。(→)
「三八式騎兵銃」(中)は、「三八式歩兵銃」を騎兵用に改造した型式で、銃身が短い為、使い勝手が良く、兵士からは好評であった。(→)

第二次世界大戦@ 第二次世界大戦@ 「九九式小銃」(長銃身)、「九九式長小銃」とも呼ばれ、初期に少数が生産された。その後「九九式短小銃」が大量に生産された。(←)

展示されている「九九式(長)小銃」には「三十年式銃剣」が装着されている。(→)
明治30年(1897年)に正式採用され、日露戦争から大東亜戦争まで、実に50年近くに渡って使用された。銃剣は、現在でも世界中の軍隊で使用される歩兵の基本装備の1つである。大東亜戦争当時の日本軍が銃剣突撃による精神主義一辺倒に陥っていたとする一部の考え方は誤りである。

第二次世界大戦@ 第二次世界大戦@ 「九九式短小銃」の末期生産型と思われる。(←)
「九九式小銃」の初期生産型は、高い精度で品質管理が成され、対空照尺や単脚を装備する等、高品質な小銃であった。併しながら、大東亜戦争末期になると、生産効率を優先して各部が省略されていき、更には品質管理も低下、作動不良や事故も多発した。

「九〇式鉄帽」、昭和5年(1930年)に登場した日本軍の鉄帽(ヘルメット)である。(→)
クロムモリブデン鋼を使用し、重量は約1kg、非常に高品質な鉄帽であった。展示品は、陸軍の星のマークが付いている。

第二次世界大戦@ 第二次世界大戦@ 「九七式手榴弾」、紐の付いた安全栓を抜き、先端を硬いものに叩き付ける事で発火、4〜5秒後に爆発した。大東亜戦争全般では大量に使用された。(←)

「破甲爆雷」(対戦車地雷)、四隅に磁石が付いており、歩兵が敵戦車に接近して車体に吸着させた。吸着後に安全栓を引き抜くと数秒後の爆発した。(→)
日本軍将兵からは「アンパン地雷」と呼ばれ、日本軍の数少ない対戦車兵器であった。多くの将兵が「アンパン地雷」を抱えて敵戦車に肉薄、その多くは壮絶な戦死を遂げた。

第二次世界大戦@ 第二次世界大戦@ 「八九式重擲弾筒」(後ろ)、昭和7年(1932年)に登場した日本軍の擲弾筒で、重量800g(炸薬140g)の擲弾を最大670m先に投射出来た。(←)

「八九式重擲弾筒」の擲弾、右側の2発は信管が外されているが、左側の2発は写真では見えにくいが信管が装着されている。(→)
右側の2発の左に「八九式重擲弾筒」の台座部分が見える。この台座の形状が太ももにぴったりだった為、これを捕獲した米軍兵士が勘違いし、太ももに当てて発射して、反動で大腿骨を複雑骨折するという事があった。

「第二次世界大戦A」

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第二次世界大戦A 第二次世界大戦A (←)

文章02(→)

第二次世界大戦A 第二次世界大戦A ドイツ陸軍の「M36型野戦服」(左 ←)とドイツ空軍の「     」(右 ←)。
「MP40」(上)と「ワルサー P38」(下)。(→)
「MP40」、昭和15年(1940年)に登場したドイツ軍の短機関銃である。第一次世界大戦末期に開発された「MP18」や、その後の「MP28」の後継であった「MP38」の生産効率を更に高めたのが「MP40」であった。市街戦等の接近戦で有効な火器であったが、やや威力不足であり、後に「StG44」等の自動小銃の開発へとつながっていった。
「ワルサー P38」は日仏混血の大泥棒も愛用していることで知られている。

第二次世界大戦A 第二次世界大戦A 「StG44(MP43・MP44)」、昭和18年(1943年)に登場したドイツ軍の自動小銃である。(←)(→)
距離50m〜300mでの歩兵戦闘を想定しており、弾薬は7.92mmx33mm弾(クルツ弾)を使用した。これは小銃弾(7.92x57mm弾)と拳銃弾(9mmx19弾)の中間の威力であった。その結果、通常は小銃として単発射撃を行うが、必要に応じて連続射撃で高い火力密度を得ることも出来た。
「StG44」は、小銃と短機関銃の機能を持った新しい概念の火器であり、襲撃銃(アサルトライフル:Assault Rifle)の先駆的存在で、戦後の各国の自動小銃開発に多大な影響をもたらした。

第二次世界大戦A 第二次世界大戦A 「ワルサー PPK」(←)

「ルガー P08」、明治 年(1908年)に登場したドイツ軍の自動拳銃である。(→)
この時に開発された「9mm拳銃弾(9mm×19弾)」は、後に「9mmパラベラム弾」として自動拳銃に広く使用されていった。
構造が複雑で部品点数が多く、作動不良も発生した為、軍用拳銃としての評価は低いが、その外見と特殊な作動機構によってコレクターアイテムとして人気があった。

第二次世界大戦A 第二次世界大戦A 「MP18」、大正7年(1918年)に登場したドイツ軍の短機関銃である。(←)(→)
拳銃弾を連続発射する短機関銃(サブマシンガン:Submachine Gun)の先駆的存在である。第一次世界大戦末期、ドイツ軍の夏攻勢に於いて大規模に使用された。戦後も各国に輸出され、その後の短機関銃の運用と開発に影響を与えた。
左側に細長い箱型弾倉を装着して給弾した。

「MP18」は昭和初期には日本にも輸入された。
「ベルグマン短機関銃」として主に海軍陸戦隊で使用され、分隊長以上が装備した。

第二次世界大戦A 第二次世界大戦A 「MG42」、昭和17年(1942年)に登場したドイツ軍の汎用機関銃である。(←)(→)
発射速度は毎分1200発、素早い銃身交換が可能、信頼性が高くて殆ど故障しない、生産が容易等、非常に優秀な機関銃であった。その発射速度の高さから、連合軍兵士に「ヒトラーの電気のこぎり」と呼ばれて恐れられた。
更に、二脚を装備すれば軽機関銃となり、三脚に搭載すれば重機関銃になるという、所謂、汎用機関銃の先駆的存在で、「MG42」の登場によって軽機関銃・重機関銃とい区分は事実上消滅した。
現在ももほぼそのままの設計で使用されている。

第二次世界大戦A 第二次世界大戦A 「モシン・ナガンM1891/30(M91/30)」、昭和5年(1930年)に、「モシン・ナガン M1891」を改良して開発されたソ連軍の小銃である。(←)(→)
基となる「M1891」は、帝政ロシア時代の明治24年(1891年)に登場、その後、改良を受けつつ、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦と、実に50年近くにわたってロシア軍・ソ連軍の主力小銃であった。最終的には平成10年(1998年)まで生産され、各型式の総生産数は約3700万丁である。
戦後も、朝鮮戦争で北鮮軍や中共軍が、ベトナム戦争で北ベトナム軍や共産ゲリラ(ベトコン)が使用し、現在でも世界各国の紛争地帯で使用されている。

第二次世界大戦A 第二次世界大戦A 「PPSh-41」、昭和16年(1941年)に登場したソ連軍の短機関銃である。日本軍では「マンドリン銃」の通称で知られていた。(←)(→)
第一次世界大戦後、ドイツ軍から捕獲した「MP18」の影響を強く受けている。給弾はドラム型弾倉か箱型弾倉(バナナ型)の両方が可能であった。展示品にはドラム型弾倉が装着されている。
生産性を優先して設計され、非常に簡素化されていた。その為、昭和20年(1945年)までに約500万挺が生産された。また、単純な機構の為に故障が少なく、信頼性が高かった。更に、命中率度外視で弾丸を発射する為、兵士の射撃訓練すら省けたという。

第二次世界大戦A 第二次世界大戦A 「PIAT」、昭和15年(1940年)に登場したイギリス軍の歩兵用対戦車火器、「Projector Infantory Anti Tank(歩兵用対戦車弾発射器)」の略。(←)(→)
構造は非常に単純で、金属製の筒に撃発用のバネを組んだだけである。引き金を引くと撃発用バネの力で撃針が前進し、先端に置いた砲弾の後部にある発射薬を発火させる。発火薬は少量であった為、射程距離は90m程であったが、発射時に発見されにくい利点があった。併しながら、撃発用バネは90kg近い力で縮める必要があり、扱う兵士にとっては負担であった。また、砲弾は先端に置くだけなので、発射時に俯角が生じると砲弾が落ちてしまうことがあった。

第二次世界大戦A 第二次世界大戦A 米陸軍の標準的な歩兵分隊の小火器。上から「スプリングフィールド M1903 小銃」「M1 ガーランド小銃」「M1A1 トンプソン短機関銃(トミーガン)」「ブローニング M1918A2 自動小銃BAR)」(一部)。(←)

「M1A1」の基となる「M1919」は大正9年(1920年)に登場し、開発者の名前をとって「トンプソン短機関銃(トミーガン)」とも呼ばれた。(→)
「トミーガン」は生産性に難点があった為、昭和17年(1942年)に生産性を向上させた「M1」が開発され、昭和19年(1944年)、更に構造を簡素化した「M1A1」が登場した。

第二次世界大戦A 第二次世界大戦A 「60mm軽迫撃砲」(←)
1個迫撃砲分隊( 名)で1門が運用され、1個歩兵小隊には2〜3個の迫撃砲分隊があった。分解して兵士数人で搬送する事が可能であった。必要に応じて組立て、小隊の攻撃時に火力支援を行った。

「火炎放射器」(→)

第二次世界大戦A 第二次世界大戦A M1918A2BAR:Browning Automatic Rifle)」、大正7年(1918年)に登場した米軍の自動小銃。(←)(→)

軽機関銃よりも軽量な支援火器として開発され、第一次世界大戦末期に初めて実戦で使用された。
銃身の交換が出来ず、長時間の射撃は出来なかったが、頑丈で信頼性が高く、兵士1人で運用出来る大きさであった。その為、使い勝手のよい支援火器として米軍兵士から人気があった。
威力のある小銃弾を連続発射できる自動火器として、後のバトルライフル(Battle rifle)や分隊支援火器の先駆的存在であった。

第二次世界大戦A 第二次世界大戦A コルト モニター(Colt Monitor Machine Rifle)」(上)、「スプリングフィールド M1903 小銃」(中)、「M3 短機関銃(グリースガン)」(下)。(←)

「M1903」(中)は、明治36年(1903年)に登場した米軍の小銃である。(→)
日本軍の「三八式歩兵銃」と同時期の槓棹式小銃(ボルトアクションライフル:Boltaction Rifle)である。第一次世界大戦以降、米軍の主力小銃として使用され、第二次世界大戦に於いても、半自動の「M1 ガーランド小銃」と共に米軍の主力小銃であった。

第二次世界大戦A 第二次世界大戦A モニター」(上)は、「M1918(BAR)」の警察用・民間用の型式で、少数がFBIで使用された。(←)

「M3」は昭和18年(1943年)に登場した短機関銃で、既に配備されていた「M1(トミーガン)」は構造が複雑で生産性が低かった為、戦時の需要に対応する生産性重視の短機関銃として開発された。(→)
プレスと溶接で製造することが可能であり、その独特の形状から「グリースガン」と呼ばれた。また、戦後は西側各国に供与され、現在でも日本の自衛隊で一部使用されている。

第二次世界大戦A 第二次世界大戦A 文章29(←)

「M116 75mm榴弾砲」、昭和2年(1927年)に登場した米軍の榴弾砲である。分解して駄載することが可能であり、実質的には山砲であった。「パック・ハウザー」と通称される。(→)
用途に応じて各種砲架に搭載されて運用された。展示品は空中投下用の「M8砲架」に搭載されている。空中投下時は9つに分割された。
戦後、日本の陸上自衛隊にも供与され、1980年代まで使用された。

「朝鮮戦争・ベトナム戦争」

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朝鮮戦争・ベトナム戦争 朝鮮戦争・ベトナム戦争 「ブローニング M1917 機関銃」、大正6年(1917年)に登場した米軍の水冷式機関銃である。(←)(→)
第一次世界大戦、第二次世界大戦、更には朝鮮戦争でも使用され、非常に息の長い機関銃であった。また、「M1917」を空冷式にした「M1919」が後に登場し、こちらは重機関銃や車載機関銃として、第二次世界大戦や朝鮮戦争で大量に使用された。

この時までの米軍の歩兵用自動火器は、50口径(12.7mm)の「M2 重機関銃」と、30口径(7.62mm)の「M1917 機関銃」「M1919 機関銃」、分隊支援火器の「M1918(BAR)」(30口径)であった。

朝鮮戦争・ベトナム戦争 朝鮮戦争・ベトナム戦争 米軍の「M1 ガーランド小銃」(上・中)とソ連軍の「モシン・ナガン M1944 小銃」(下)。(←)(→)

「モシン・ナガン M1944」は、明治24年(1891年)に登場した「モシン・ナガン M1891」を一部改良し、銃身を短くした型式で、昭和19年(1944年)に登場した。
基本設計は50年近く前であったが、槓棹式小銃(ボルトアクションライフル:Boltaction Rifle)としての完成度は高く、「M1891」の他の型式と共に、第二次世界大戦に於けるソ連軍の主力小銃であった。
尚、「M1944」は銃口に折りたたみ式の銃剣が装着されていた。展示品は銃剣を展開している。

朝鮮戦争・ベトナム戦争 朝鮮戦争・ベトナム戦争 「M1」は、昭和11年(1936年)に登場した米軍の半自動小銃で、「ガーランド小銃」とも呼ばれた。(←)
槓棹(ボルト)の操作をせずに単発射撃をすることが出来たが、実戦に於ける発射速度は、槓棹式(ボルトアクション)小銃と大きく変わることは無かった。
上の「M1」には狙撃用照準器(テレスコープ)が、下の「M1」には「M1 銃剣」が装着されている。(←)

ブローニング M1918A2 自動小銃BAR)」、大正6年(1917年)に登場した米軍の自動小銃である。第二次世界大戦や朝鮮戦争に於いて分隊支援火器として大量に運用された。(→)

朝鮮戦争・ベトナム戦争 朝鮮戦争・ベトナム戦争 「M1 カービン銃」(上)と「ブローニング M1919 機関銃」(下)、「M1 カービン銃」(上)は将校の護身用として使用されることが多かった。(←)

「M1919」は、水冷式の「M1917」を空冷式に改め、大正8年(1919年)に登場した。非常に信頼性の高い機関銃で、第二次世界大戦では米軍の主力機関銃として使用された。(→)
軽機関銃としての運用を考慮した「M1919A6」も登場したが、二脚と肩当を装備しただけで、重量は15kg近くあった為、これは兵士には不評であったという。

朝鮮戦争・ベトナム戦争 朝鮮戦争・ベトナム戦争 「M1A1」、「トミーガン」の通り名で知られる米軍の短機関銃。大正7年(1918年)に登場し、当初は警察や民間にも広く販売された。1930年代のアメリカではギャングの抗争で使用され、特にシカゴに於ける事件報道から「シカゴ・タイプライター」とも呼ばれた。「M1A1」は第二次世界大戦に於ける戦時需要に応ずる為に生産性を考慮した型式であった。(←)

「M3 短機関銃」、「トミーガン」は構造的に生産性が低かった為に、徹底的に簡素化した短機関銃として昭和18年(1943年)に登場した。(→)

朝鮮戦争・ベトナム戦争 朝鮮戦争・ベトナム戦争 「PPSh-41」、昭和16年(1941年)に登場したソ連軍の短機関銃で、朝鮮戦争では北鮮軍や中共軍が使用、ベトナム戦争では北ベトナム軍や共産ゲリラ(ベトコン)が使用した。(←)
当初はドラム型弾倉を使用していたが、生産性が悪く、構造的欠陥による事故もあった為、後に30発入り箱型弾倉(バナナ型)に変更された。展示品では箱型弾倉が装着されている。

「MP18」、大正7年(1918年)に登場したドイツ軍の短機関銃で、第一次世界大戦後も生産・輸出され、各国で使用された。(→)

朝鮮戦争・ベトナム戦争 朝鮮戦争・ベトナム戦争 「SKS シモノフ・カービン銃」(上)、「モシン・ナガン M1944 小銃」(中)、「AK-47 襲撃銃」(下)、何れもベトナム戦争で北ベトナム軍や共産ゲリラ(ベトコン)が使用した。(←)
これらはソ連で開発された火器であるが、戦後多くの東側陣営でライセンス生産された。展示品は何れも中国で生産されたコピー品である。

昭和22年(1947年)に登場した「AK-47](上)は、「StG44」の影響を強く受けていた。(→)
「RPG-2」(下)、昭和24年(1949年)に登場したソ連軍の歩兵用対戦車火器である。展示品では砲弾が失われている。(→)

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