九九式軽機関銃(99式軽機関銃)

「九九式軽機関銃(99式軽機関銃)」

「九九式軽機関銃(99式軽機関銃)」とは

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「九九式軽機関銃(99式軽機関銃)」とは

「九九式軽機関銃(99式軽機関銃)」は大東亜戦争全期間を通じて使用さた日本陸軍の軽機関銃である。

「九六式軽機関銃」(口径6.5mm)に換わる軽機関銃

「九六式軽機関銃」 日本陸軍では日露戦争・第一次世界大戦に於ける各国の戦訓から、大正11年(1922年)に初めて制式採用された軽機関銃である「十一年式軽機関銃」の部隊配備を開始した。この時期の軽機関銃の配備は各国の動向にも合致しており、先見性のあるものであった。併しながら、この時、日本陸軍が制式採用した 「十一年式軽機関銃」は給弾機構が複雑で作動不良が多く、これに換わる、より信頼性の高い軽機関銃の必要性が高まった。
その結果、口径6.5mmの新しい軽機関銃が開発され、昭和13年(1938年)、 「九六式軽機関銃」として制式採用された。

明治中期以降、日本陸軍の歩併用小火器は口径6.5mmの弾薬を使用していた。口径6.5mmの弾薬は対人用としてはそれなりに威力を発揮したが、その後に航空機や車両のが兵器として発達してきた結果、歩併用小火器による対空射撃や弱装甲車両への射撃が行われるようになった。その結果、従来の口径6.5mmの弾薬では、これら対物(アンチ・マテリアル)への射撃では、その威力の不足が指摘されるようになった。
各国でも、口径7mm〜8mmの弾薬を使用しており、更に昭和12年(1937年)に勃発した支那事変での戦訓などから、日本陸軍も歩兵用小火器の弾薬を口径6.5mmから口径7.7mmに拡大する事が検討されるようになった。

既に、昭和8年(1933年)には口径7.7mmの「九二式重機関銃」が完成し、弾薬は口径7.7mmの「九二式実包」(薬莢後部にリム有り)が使用された。

この時、日本陸軍が装備していた軽機関銃は口径6.5mmの 「十一年式軽機関銃」・「九六式軽機関銃」であった。また、小銃は同じく口径6.5mmの「三八式歩兵銃」であった。
これらの歩兵用小火器の弾薬は、基本的に口径6.5mmの「三八式実包」を使用した。多数装備される歩兵用小火器に於いて、特に大量の弾薬を使用する機関銃に於いて、口径6.5mmと口径7.7mmの2種類の弾薬が存在する事は、補給や運用上好ましくない。

以上の事から、日本陸軍では小銃・軽機関銃ともに、従来の口径6.5mmから口径7.7mmに拡大する事となった。

「九九式式軽機関銃」の開発

「九九式軽機関銃」 口径7.7mmの新しい軽機関銃の開発が昭和13年(1938年)に開始された。

当初、陸軍造兵廠(小倉造兵廠)に於いて開発が行われ、昭和16年(1941年)の採用を目指して「壱式軽機関銃(仮称)」という試作銃が完成したが、これは失敗に終わった。

そこで、昭和14年(1939年)、中央工業(南部麒次郎の創設した会社)が、既に採用されていた 「九六式軽機関銃」(口径6.5mm)を口径7.7mmに拡大する改造を実施した。
ガス圧動作式の機関銃は口径変更の改造が比較的容易であり、口径を拡大して装薬が増加した事による機関部の補強も実施して、この改造は成功した。

中央工業ではこれを陸軍技術本部に提出し、昭和14年(1939年・皇紀2399年)中に、この年の皇紀の下2桁を採って「九九式軽機関銃」として制式採用された。

「九九式軽機関銃」の特徴

「九九式軽機関銃」 本銃は、母体となった「九六式軽機関銃」を口径7.7mmに拡大した以外は殆ど同じであり、操作方法もほぼ同じだった。

まず、外見的にも「九六式軽機関銃」と殆ど同じであった。

九六式軽機関銃」との外見的な相違点としては、銃口の先にラッパ型の消炎器が装着できる事であった。これは、口径が6.5mmから7.7mmに拡大した事に伴い、弾薬の装薬量が増加する為、その対策として成されたものであった。

これ以外の外見的な相違点としては、、銃床下部に装備された後脚であった。

十一年式軽機関銃」や 「九六式軽機関銃」では三脚架による運用も想定されていたが、運用上はあまり実用的ではなかった。
本銃では三脚架による運用は廃止されたが、その代替の装備として後脚が装備された。

この後脚と銃口付近に装備された二脚架を使用する事で、本銃の照準を固定したままにしておく事が可能であった。しかし軽機関銃の運用上、同一の場所で照準を固定して長時間射撃する事は殆ど無いく、この後脚はあまり使用されなかった。

「九九式軽機関銃」 本銃の機構も「九六式軽機関銃」の機構がそのまま採用されていた。

給弾方式は30発入りの箱型弾倉(バナナ型)による給弾機構方式で、箱型弾倉は機関部上部に装着され、弾薬が装填された。排莢は機関部右側から行った。
機関部はガス圧動作式であった。

九六式軽機関銃」から実施されていた、銃身内部のクロームメッ処理は本銃では更に入念に行われ、銃身内の磨耗に対する耐久性は更に高まり、銃身寿命が更に向上した。
銃身基部には、これも「九六式軽機関銃」と同様の捉把(握り)が装備されていた。
銃身交換に関しては、「九六式軽機関銃」では銃身基部のラッチを解放する事で行えたが、本銃の場合はボルトで固定されていた為、これを外して銃身を引き抜く必要があった。
腔綫(ライフリング)は「九六式軽機関銃」の右腔綫から、本銃では左腔綫に変更された。

本銃にも、倍率2.5倍の照準眼鏡(「九九式照準眼鏡具」)が用意された。
これは、日本陸軍では軽機関銃の運用は点射による狙撃を主としていた為であった。箱型弾倉が機関部上部にある為、この照準眼鏡は射手から見て機関部左側に装着され、目視用の固定照準器(アイアンサイト)は機関部右側に装備されていた。

「九九式軽機関銃」 日本陸軍では、歩兵用小火器の弾薬を口径6.5mmから口径7.7mmに統一する際、当初は口径7.7mmの「九七式実包」を使用する事を前提としていた。
「九七式実包」は既に「九七式車載重機関銃」の弾薬として開発され、薬莢底部にリムを持たない形状であった。これ以外に、既に「九二式重機関銃」で使用していた口径7.7mmの「九二式実包」は、薬莢底部にリムを持つ形状であった。

そこで、これらを統一する為に、従来の「九二式実包」(リム有り)を「八九式実包」に改称し、従来の「九七式実包」(リム無し)を(新)「九二式実包」に改称した。以後、(新)「九二式実包」を歩兵用小火器の口径7.7mm弾薬とし、「八九式実包」は航空機用機関銃の弾薬として使用する事とした。「九二式重機関銃」は薬莢底部にリムを持たない(新)「九二式実包」を使用出来る様に改正された。 (以下、「九二式実包」は薬莢底部にリムを持たない旧名称「九七式実包」を指す。)

口径7.7mmの歩兵用小火器として開発された、本銃や「九九式小銃」は当初は「九二式実包」を使用する事になっていたが、固定して射撃する重機関銃・車載機関銃用の弾薬である「九二式実包」は装薬量が多く、軽機関銃で用いるには発射時の反動が強ぎた。
そこで、軽機関銃での射撃に適する様に「九七式実包」の装薬量を減らした「九九式実包」を開発し、使用する事になった。そこで、同じ歩兵分隊内で運用される小銃(「九九式小銃})に関しても、軽機関銃と同一の弾薬(「九九式実包」)を用いるのが運用上好ましいと考えられた。

小銃・軽機関銃で同一の弾薬を使用する事に関しては、「十一年式軽機関銃」の開発当時(大正11年・1922年)から考えられていた。
併しながら、「十一年式軽機関銃」や、当初の 「九六式軽機関銃」では、故障(排莢不良による突込み)が頻発した為、専用の減装弾(「三八式実包減装弾」)を使用せざるをえなかった。結果、「三八式普通実包」を使用する小銃(「三八式歩兵銃」)との弾薬の互換性が失われしまった。

この問題については、後に「九六式軽機関銃」に於いて、薬室を改良する事で故障(排莢不良による突込み)が解決し、以後、軽機関銃に専用の減装弾を使用する必要は無くなった。本銃の機構は「九六式軽機関銃」と殆ど同一であった為、本銃にも専用の減装弾は必要なかった。

そこで、本銃と小銃の弾薬は、口径7.7mmの「九九式実包」を使用するで統一する事とし、歩兵用小火器である小銃・軽機関銃の弾薬に完全な互換性を持たせる事ができた。

九六式軽機関銃」同様、小銃(「九九式小銃」)用の挿弾子(クリップ)に装着された弾薬(「九九式実包」)を、本銃の弾倉に装填する為の挿弾器が用された。
九六式軽機関銃」用の装弾器との相違点は、本銃の装弾器には塗油装置が装備され、弾倉への装填時に弾薬に潤滑用油を塗布できるようになっていた。
弾倉は使い捨てず、空になった弾倉は、弾薬を装弾器で装填して再使用した。
また、「九二式重機関銃」の「九二式実包」は、「九九式実包」の強装弾であったが、薬莢後部にリムが無く、外見的には完全に互換性があった。その為、日本陸軍の口径7.7mm火器(航空機用機関銃を除く)は「九二式実包」・「九九式実包」の両方とも使用可能であった。本銃も、装薬量が異なる為に距離照尺は合わないが、「九二式実包」を使用可能であった。

本銃には、着剣装置が装備され、銃口下部に銃剣( 「三十年式銃剣」)を装着する事が出来た。
これは、 「九六式軽機関銃」以後、日本陸軍の軽機関銃の特徴であった。

「九九式軽機関銃」 満州事変以前(〜昭和3年)に於ける歩兵1個分隊は4個班で編成され、1個班は3名で編制されていた。1個分隊(12名)が4個で1個小隊を編成し、内2個分隊にそれぞれ軽機関銃1挺を配備していた。即ち、2個軽機関銃分隊が小隊(4個分隊・48名)全体に対して火力支援を行っていた。

これに対して、満州事変(昭和6年)以降は戦闘の形式が小隊規模から分隊規模へと細分化した。この戦訓を取り入れ、、昭和12年(1937年)、改定歩兵操典草案が編纂され、日本陸軍の軽機関銃の運用は各分隊に1挺の軽機関銃を配備して、分隊ごとに火力支援を行うようになった。即ち、軽機関銃は分隊の歩兵に常に随伴する事になり、歩兵と同様の戦闘行動をとるようになった。

つまり、歩兵の突撃行動時には、本銃の銃手も本銃を保持して他の歩兵と共に突撃行動に参加する事が求められるようになったのあった。

また、突撃行動では、歩兵は着剣した小銃を携帯して突撃したが、通常、敵から発見される事を防ぐ為、突撃時には射撃は行わない事とされており、着剣した小銃からは弾薬を抜いていた。この様な突撃行動に参加する軽機関銃の銃手にも同様の事が求められたが、軽機関銃から弾薬(弾倉)を抜いた場合、無防備になってしまい、軽機関銃にも銃剣の装着が必要だと考えられたのではないだろうか。その結果、着剣装置が装備されたと思われる。

実戦に於ける「九九式軽機関銃」

「九九式軽機関銃」 本銃以前の「九六式軽機関銃」は非常に優秀な軽機関銃であり、その構造を引き継いだ本銃も極めて優れた軽機関銃であった。特に、「九六式軽機関銃」から工作精度が更に一段と向上しており、本銃の命中精度・信頼性ともに非常に高かった。

本銃は、日本陸軍の分隊支援火器として活躍し、同じ米軍の分隊支援火器であった「BAR」との撃ち合いに於いても優位に立つ事が出来き、前線の将兵からは絶大な信頼を得た。

既に「九六式軽機関銃」(口径6.5mm)を装備していた部隊では順次本銃に更新され、特に米軍との主戦線である太平洋方面に配置される部隊には、本銃と共に「九九式小銃」(口径7.7mm)が優先的に本銃が割り当てられ、口径7.7mmの歩兵用小火器で統一されていった。
しかし、本銃は、その製造が需要に追いつかず、常にその数は不足気味であった。依然として、口径6.5mmの 「九六式軽機関銃」も中国大陸などの部隊で装備されており、全ての部隊を口径7.7mmで統一することは出来なかった。

本銃の製造数は約53000挺と推定されるが、それでも必要数を満たす事は出来なかった。
当時の日本の製造能力は各国に比べて劣っており、工作機械の精度の低さを職人の技術で補っていた。結果として、本銃の工作精度は非常に高かったが、職人の手作業による製造では量産性に欠け、各国と比較して、その製造数で上回ることは出来なかった。。

本銃は質に於いては優秀な軽機関銃であったが、量に於いては、各国に対して劣っていたと言わざるを得なかった。しかし、本銃は大東亜戦争全期間を通じて、日本陸軍の分隊支援火器として、あらゆる戦線で活躍し、将兵から信頼され、そして運命を共にした。
大東亜戦争終結後、中国大陸では大量の本銃が中国軍(国民党軍・共産党軍)に引き渡され、その後の国共内戦に於いても使用された。

「九九式軽機関銃」の性能

重量:11.4 kg 口径:7.7mm 銃身長:48.3cm 全長:119.0cm
装弾数:30発(箱型弾倉)
発射速度:550発/分 初速:715m/秒 最大射程距離:3500m 有効射程距離:2000m (九九式普通実包・弾頭重量約9g)
作動方式:ガス圧動作ピストンオペレーテッド
製造数:約53000挺(〜昭和20年)

 

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各地に遺される「九九式軽機関銃」


北京

北京警察博物館」 (1挺)

北京の「九九式軽機関銃」 北京の「九九式軽機関銃」 北京の「九九式軽機関銃」

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オアフ島の「九九式軽機関銃」 オアフ島の「九九式軽機関銃」 オアフ島の「九九式軽機関銃」 (15014)

アメリカ中西部(シカゴ・デイトン・インディアナポリス・ルイスビル) >

インディアナ戦争記念博物館(インディアナポリス)」 (1挺)

インディアナポリスの「九九式軽機関銃」 インディアナポリスの「九九式軽機関銃」 インディアナポリスの「九九式軽機関銃」

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