・エーブル滑走路跡(RUNWAY ABLE) ・原爆ピット(ATOMIC BOMB PIT) ・原爆組立工場跡(BOMB ASSEMBLY AREA)
上空から見た「ノース・フィールド飛行場跡」。(←) 2本の滑走路跡が確認できる。右がA滑走路跡(「エーブル滑走路跡」)、左がB滑走路跡(「ベイカー滑走路跡」)である。
滑走の向こう側(東側)は米軍が上陸した「チュルビーチ(CHULU BEACH)」である。 (←)
当時、米軍の造った「ノース・フィールド飛行場」には8500ft(2590m)の滑走路が4本あった。
その1本である「エーブル滑走路跡」は当時のままに真っ直ぐ伸びている。滑走路は珊瑚礁の石灰岩を砕いて敷き詰めてある。(→)
昭和20年(1945年)1月〜8月、この「ノース・フィールド飛行場」から飛び立った「B-29」は日本各地の都市に無差別絨毯爆撃を行い、大勢の一般市民が殺傷された。
「ノース・フィールド飛行場跡」の北側にある。 「ノース・フィールド飛行場跡」はテニアン島北端の大部分を占めている。
「ノース・フィールド飛行場跡」までは、テニアン島の東側を南北に貫く「ブロードウェイ」か、西側を南北に貫く「8番街(8th Ave.)」を北上する。
「ブロードウェイ」を北上する場合は、途中「日本軍通信局跡」を超えて、「テニアン空港」から約4km進むと「アメリカ記念碑(日の出神社)」のロータリーがある。このロータリーから更に道なりに進む。
約2.5km程進むと、小さな十字路がある。(→) 左手に小さな看板があり、右が「BLOW HOLE(潮吹き海岸)」、左が「RUNWAY ABLE(エーブル滑走路)」と書いてある。ここを右に曲がる。
看板を右に曲がるとダート道になる。突き当りまで進み、右に曲がって少し進むと「エーブル滑走路」の東端にでる。 ここには「エーブル滑走路」の看板があり、英語と日本語で表記されている。
「8番街(8th Ave.)」を北上する場合は、途中「LVT」のあるロータリーを過ぎ、舗装道路を道なりに進むと「ノース・フィールド飛行場跡」の西側に行く事が出来る。
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「エーブル滑走路」の北西に、広島・長崎に投下された原子爆弾を「B-29」に搭載した場所が遺されている。 ここには、「B-29」への原子爆弾搭載作業を行った「搭載ピット」が造られていた。戦後、「搭載ピット」は埋められ、「記念碑」と「看板」のみが建てられていた。 平成16年(2004年)6月、「搭載ピット」が掘り起こされ、保存と展示の為に現在はガラス張りのシェルターが設置されている。
「エーブル滑走路」の北西に「原爆ピット(ATOMIC BOMB PIT)」と呼ばれる広場がある。(←) 「原爆組立工場」で組立てられた原子爆弾を「B-29」に搭載した場所である。当時は、駐機場の1つであり、ここから滑走路まで誘導路が設けられていた。
現在は、広場には「記念碑」と戦跡看板が建てられている。(→) 原子爆弾搭載作業を行ったコンクリート製の「搭載ピット」が広場の左右に2ヶ所遺されており、ガラス張りのシェルターで保護されている。
「原爆ピット」の広場に入って左側にあるのが「No1ピット」である。(←) 昭和20年(1945年)8月6日、広島に世界初の原子爆弾を投下した「B-29 エノラ・ゲイ号」に、ウラニウム原子爆弾「リトル・ボーイ」を搭載した場所である。
「No1ピット」内部には、当時の原子爆弾搭載作業風景や「リトル・ボーイ」の写真が展示されている。
「No1ピット」を示す記念碑。(→)
右側にあるのが「No2ピット」である。(←) 昭和20年(1945年)8月9日、長崎に原子爆弾を投下した「B-29 ボックス・カー号」に、プルトニウム原子爆弾「ファット・マン」を搭載した場所である。 「B-29 ボックス・カー号」は、アメリカ中西部デイトンの「国立米空軍博物館」に保存されている。
「No2ピット」を示す記念碑。(→)
「No1ピット」と「No2ピット」は、平成16年(2004年)6月に掘り起こされるまで逆に紹介されていた。現在は、「記念碑」の表記も改められ、正しく紹介されている。
「搭載ピット」内は約2m程掘り下げられている。(←) 「搭載ピット」の底の中央の穴には油圧ジャッキが設置されていた。(←)
「搭載ピット(No1)」内に置かれた原子爆弾(「リトル・ボーイ」)。 (→)
当時、「B-29」に爆弾を搭載する際は機体の下に爆弾を置き、機体下面の爆弾倉の扉を開いて爆弾を搭載した。 併しながら、原子爆弾は大きかった為に「B-29」の機体の下に納まらなかった。そこで、地面を掘り下げた「搭載ピット」内に予め原子爆弾を置き、その上に「B-29」を誘導した後、油圧ジャッキを用いて「B-29」の機体の下から爆弾倉に原子爆弾を搭載した。
「ノース・フィールド飛行場跡」の北側、「エーブル滑走路」の北西にある。
「エーブル滑走路」から北に向かう道が、「滑走路」の東端(看板あり)から西に約1200m地点(滑走路の中間)に1本、そこから西に約600m地点に1本(「日本軍牛飛行場駐機場」に通じる道)、「滑走路」の西端に1本ある。 これら何れかの道を北に進むと、「エーブル滑走路」の北側を東西に走る舗装道路に出る。
舗装道路に出たら、「滑走路」の中間の道を通った場合は突き当りを左折する。 「日本軍牛飛行場駐機場」に通じる道を通った場合は、突き当りに「CHULU BEACH」と「ATOMIC BOMB PIT」の看板があるので、看板に従って突き当りを右に曲がる。
「エーブル滑走路」の西端からは舗装道路を道なり北に進む。
舗装道路の途中に「原爆ピット(ATOMIC BOMB PIT)」の南側の入口が見えてくる。 入口から入ってすぐ右手に戦跡看板がある。奥は更に広くなっており、左手に「No1ピット」、中央に「記念碑」、右手に「No2ピット」が見える。
「ノース・フィールド飛行場跡」の外周を通る道には「原爆ピット」の北側の入口がある。 北側の入口付近には「CHULU BEACH」と「BOMB ASSEMBLY AREA」の看板がある。
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人類史上初めて実践で使用された核兵器は、マンハッタン計画に基づき米国国内で製造された。 昭和20年(1945年)7月26日、「テニアン港」に原子爆弾の部品と核燃料を積載した米海軍重巡洋艦「インディアナポリス」が入港した。 荷揚げされた部品と核燃料は「ブロードウェイ」を通り、「原爆ピット」の北の「原爆組立工場」に運び込まれた。5日後の7月31日、広島型ウラニウム原子爆弾「リトル・ボーイ」の組立てが完了した。(←) 当時、「原爆組立工場」には空調が完備され、温度差によって原子爆弾の部品同士が合わなくなるのを防止していた。(→)
「原爆ピット」」の北に「リトル・ボーイ」が組立てられた「原爆組立工場跡」が遺されている。(←)
森の中に建物の土台が遺されており、壁の区切り部分や柱の跡が見てとれる。(→)
原子爆弾の部品と核燃料がテニアン島に届けられた4日後の昭和20年(1945年)7月30日、日本海軍潜水艦「伊−五八」によって米海軍重巡洋艦「インディアナポリス」は撃沈された。部品と核燃料がテニアン島に届けられる前に撃沈されていれば、歴史は違ったものになっていたかもしれない。 現在、アメリカ中西部インディアナポリスには「米海軍重巡洋艦「インディアナポリス」記念碑」がある。
「原爆ピット」の北にある。
「原爆ピット」のすぐ北側を東西に通る舗装路からダート道が北に伸びている。
ダート道の入り口に看板がある。(写真右 →)
下の板には「CHULU BEACH」(チュルビーチ)、上の板には「BOMB ASSEMBLY AREA」(原爆組立工場)と書かれている。(写真右 →)
ダート道を100m程行くと「分岐点」があるが、ここは右手にすすむ。
「分岐点」からさらに700m程進んだところに「原爆組立工場跡」がある。
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