アンガウル島

アンガウル島

アンガウル島の戦跡
大東亜戦争におけるアンガウル島の歴史
現地への行き方と現地交通情報(旅行情報)

アンガウル島西部

・アンガウル港
・M4中戦車(シャーマン)
・リン鉱石積出施設跡
・リン鉱石工場・貯蔵庫跡
・灯台跡
・LVT(2両)
・日本軍守備隊長住宅跡
・病院跡

アンガウル島北部

・アンガウル神社
・ブローホール・マリア像(旧那須岬)
・リン鉱石採掘施設跡
・ペリリュー島の遠景
・島民解放記念碑

アンガウル島東部

・WW2セメタリー
・慰霊碑群
・飛行機墓場
・塹壕
・アンガウル飛行場
・ブルービーチ

アンガウル島の戦跡 アンガウル島は、ペリリュー島からさらに南西へ約10km、中心地のコロール島からは約60kmに位置する。パラオ諸島を取巻く珊瑚礁の外にあるため、周囲は外洋で波が高い。南北約4km、東西約3kmの菱形をした隆起珊瑚礁の島であり、面積は約8kuでペリリュー島の半分強の大きさである。現在の人口は約160人であり、ほとんどは島の西部にある「アンガウル港」周辺に居住している。町は小さく、島の外周道路はさながらジャングルのトンネルのようである。

20世紀始めに南洋諸島を植民地としたドイツは蒸気船の燃料となる石炭を必要としていた。ドイツは最初にパラオ諸島で最も大きいバベルダオブ島で石炭の探索を行ったが、ほとんど発見できなかった。しかしその後、アンガウル島でリン鉱石の豊富な鉱脈が発見され、ドイツはこれを植民地開発の有望な資源と判断した。リン鉱石は海鳥の糞が堆積してできたものであり、肥料の原料となるのである。

「ドイツ南太平洋リン鉱石採掘会社」が設立され、明治42年(1909年)2月に採掘が開始された。パラオ諸島には元々人口が少なかったため、中国人やヤップ人、中央カロリン諸島の人々が連れてこられて採掘に従事した。リン鉱石採掘に伴い、アンガウル島には桟橋やリン鉱石を運ぶエレベーター、郵便局、電信施設などが設置された。同年4月にはリン鉱石運搬のため、蒸気機関車も導入された。

アンガウル島の戦跡 第一次世界大戦の結果、大正8年(1919年)に南洋諸島(パラオ諸島・マリアナ諸島等)がドイツ植民地から日本の委任統治領になると、パラオ諸島は日本の南洋統治の中心地となっていた。アンガウル島にも多くの日本人が移住し、学校や病院が建設され、商店が立ち並び、日本人村が形成されていった。また、リン鉱山はドイツ時代の採掘が南洋興発株式会社によって引き継がれた。

開戦後も戦火を免れていたパラオ諸島であったが、戦局が悪化の一途を辿る昭和19年(1944年)の9月17日、ついにアンガウル島に対する米軍の上陸が開始された。アンガウル島に押寄せたのは、米陸軍第81師団(通称「ワイルドキャット(山猫部隊)」)の歩兵321連隊・歩兵322連隊(約21000名)、それを支援する米海軍艦艇・航空機であった。これを迎え撃つのは、パラオ集団アンガウル地区隊(宇都宮歩兵第五九連隊第一大隊基幹)の後藤丑雄少佐以下約1200名であった。彼我の兵力比は実に1:20、火力の差は最早比較のしようも無かった。

米軍はアンガウル島の東北港(「レッドビーチ」)と東港( 「ブルービーチ」)から上陸。圧倒的な兵力・火力で押寄せる米軍の前に日本軍守備隊は後退を余儀なくされた。水際での戦闘を不利と判断した後藤少佐は、残存兵力をアンガウル島北西の高地帯に築いていた複郭陣地に後退させ、持久戦を決意した。

アンガウル島の戦跡 複郭陣地に立て篭もった日本軍守備隊は、押寄せる米軍に対して壮絶な戦闘を続けた。珊瑚礁で出来た堅固な洞窟は米軍の砲爆撃も効果が無なかった。結果、戦闘は歩兵同士の接近戦となり、頑強な抵抗を続ける日本軍守備隊に業を煮やした米軍は火炎放射器や黄燐弾による凄惨な攻撃を行った。

日本軍守備隊の必死の抵抗は米軍上陸後1ヵ月近くに及んだが、武器弾薬・食料・水・医薬品は極度に欠乏、将兵は次々と死傷し、重傷者の多くも自ら命を絶った。遂に、10月19日、後藤少佐以下残存将兵約100名は、最期の攻撃を実施した。後藤少佐以下殆どの将兵が戦死し、アンガウル島の日本軍守備隊は玉砕した。

大東亜戦争が終結し、日本人が撤収したあともリン鉱石採掘は10年間続けられた。アンガウル島のリン鉱石は引き続き日本へ輸送されて肥料となり、戦後の苦しい食糧難の時代を支えたのである。

島内には「M4中戦車(シャーマン)」や「LVT」、航空機の残骸など、遺棄された米軍の兵器類が遺されている。また、ジャングルの中にひっそりと佇むリン鉱石の採掘場跡地や工場、貯蔵庫、積出施設を訪れれば、活気のあった日本統治時代にタイムスリップしたような不思議な感覚に包まれるだろう。

パラオ諸島まで

日本からパラオ国際空港までの主要なルートは4つあるが、それぞれ特徴がある。

@コンチネンタル航空でグアム乗り継ぎ
 このルートが最も一般的であろう。日本の9都市からグアムに就航しており、大都市からは毎日運航である。
 グアムからパラオは毎日運行。グアムで乗り継ぐ手間がかかる。

A日本航空の直行チャーター便
 大都市を中心とした日本各都市からパラオに直行便があり、乗り換えなしで5時間程度で到着する。
 ただし、不定期で出発、到着日が限られており、泊数を選ぶことができない。航空券のみの販売はない。

B中華航空で台北乗り継ぎ
 航空運賃がかなり安い。しかし、台北−パラオ間が週2便しかなく、空席を取るのが困難である。

Cデルタ航空の直行便
 2010年12月から就航した。成田から直行便が週4便である。

情報は2010年12月の時点のものであるので、最新の情報は各社HPを参照のこと。

アンガウル島まで

アンガウル島の戦跡 コロール島−アンガウル島間には州政府が運航する貨客船があるが、週1、2便程度の不定期路線である。時間は頻繁に変更されるので、直前にホテルなどからState Officeに電話をしてもらってスケジュールを確認するのが良いだろう。

片道5ドルで予約は不要。所要時間は3時間半程度である。アンガウル島は環礁の外側の外洋にあり波が高くなりやすいため、天候によっては欠航になることもある。

「ペリリューダイバーズ」がペリリュー島発着でアンガウル島戦跡ツアーを125ドル/人で取り扱っているが、予約はできない。申し込み人数がある程度いないと保有ボートはダイビングツアーに回されてしまうようである。また、当日波が高いとツアーは催行できない。

ペリリューダイバーズ
http://www.dolphinbay-resort-peleliu.com/jpn/index.html

以前はベラウ航空が小型機によってほぼ毎日運航を行っていたが、現在は閉業している。
そのため、現在のアンガウル島への公共交通機関は便数の少ない貨客船しかなく、非常に行きにくい場所となっている。

1つの方法はダイビングショップでボートを一日チャーターしてしまうことである。7時間程度のチャーターで500ドル/隻あたりが相場のようである。

もう1つの方法はペリリュー島で地元島民にボートを出してもらう方法である。ホテルや売店でボートを持っている人を紹介してもらい、直接交渉するのである。
今回の旅では350ドル/隻で往復の送迎をやってもらった。これは多少割高のようであり、交渉次第でもっと安くなるかもしれない。
ペリリュー島南西部のサウスドックからアンガウル島まで片道約30分程度である。

アンガウル島の交通情報

アンガウル島の戦跡

アンガウル島の戦跡を見学するためには、島上陸後にビジターセンターで「ランドツアーパーミット(LAND TOUR PERMIT)」を5ドル/日で購入して携帯しなければならない。

島には2件のホテルがあり、ここで自転車を10ドル/日で貸し出しているようである。なお、ボートオーナーの許可が得られればペリリュー島で借りた自転車をボートに積んで持っていくこともできる。島西側のアンガウル港から島北東側のレッドビーチまで自転車で走ると20分程度である。

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