1階は、日本互尊社の創設者で、思想家であった野本恭八郎(野本互尊)に関する展示である。(←) 野本恭八郎は、嘉永5年(1852年)10月24日、新潟県長岡市に生まれ、第六十九国立銀行取締役や新潟県会議員等を務めた。互尊即独尊を説き、大正4年(1915年)に長岡市に互尊文庫を創設。昭和9(1934年)に日本互尊社を設立して全財産を寄付した。昭和11年(1936年)12月4日に死去。享年85歳。
山本元帥も、互尊独尊の思想に共鳴し、ここを度々訪れた。昭和11年(1936年)に「如是蔵博物館」が完成した際、山本中将(当時)が送った祝辞が展示されている。(→)
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2階には山本元帥の遺品が多数展示されている。何れも遺族や知人から寄贈された本物である。(←) 正面には山本大将(当時)の肖像画と、父高野貞吉と母峯子の写真が置かれている。また、山本元帥が少尉候補生時代に使用していた帯剣、山本元帥の国葬の際に使用された御鏡、山本元帥が生まれた日の父高野貞吉の日記等が展示されている。
少年時代から連合艦隊司令長官時代に至るまで、各方面に当てた手紙や書簡、当時の写真等が展示されている。(→)
「旧制長岡中学校(現県立長岡高校)」に在学中の五十六少年が、兄に宛てて書いた手紙。15,6歳の少年が書いたとは思えない程の達筆である。(←)
明治38年(1905年)5月27日、軍艦「日進」に乗組んだ山本少尉候補生(当時)は、日本海海戦に参加した。 この時、ロシア軍艦の砲弾の破片によって左手と右足に重傷を負った。その手当てに使った血染めの手拭である。手拭には、後に母峯子が詠んだ歌を父貞吉が書いた。(→)
日本海海戦で重傷を負った山本少尉候補生(当時)が、佐世保海軍病院から父に宛てた手紙。(←) 左手の指2本を失い右足にも重傷を負ったものの、命に別状は無い旨や、今後はますます国の為にご奉公する決意である事などを報告している。 手紙の後ろには、負傷の原因となったロシア軍艦の砲弾の破片が展示されている。(←)
昭和14年(1939年)6月、天皇陛下より山本中将(当時)に再下賜された義指。(→)
山本中将(当時)は、昭和11年(1936年)12月1日に海軍次官に就任し、昭和14年(1939年)8月30日に連合艦隊司令長官に就任した。当時の写真が多数展示されている。(←)
昭和18年(1943年)4月18日、山本連合艦隊司令長官は、ソロモン諸島ブーゲンビル島上空で乗機を撃墜されて戦死した。 この時、海軍参謀であった草鹿任一中将が現場から長官機の残骸の一部を持ち帰り、戦後、ここに寄贈した。また、現地で採取した墜落現場の土も展示されている。(→)
山本元帥の戒名は、大義院殿誠忠長陵大居士であった。この掛軸は米内光政海軍大将が書いたもので、「長興寺」にある山本元帥の墓石の文字は、この米内大将の書によるものである。(←)
昭和18年(1943年)6月5日、東京都の日比谷公園で山本元帥の国葬が営まれた。葬儀委員長は米内光政海軍大将であった。 この時、葬列の先頭を進んだのは天皇陛下より賜った幣(旗)であった。その実物が展示されている。(→)
明治38年(1905年)5月27日の日本海海戦に於いて、軍艦「日進」に乗組んだ山本少尉候補生(当時)は左手と右足に敵弾の破片を受けて重傷を負った。この時、山本少尉候補生(当時)が着用していた軍服である。ズボンの右下が破けているのが分かる。(写真左 →) 昭和18年(1943年)4月18日にソロモン諸島ブーゲンビル島上空で戦死する前日まで、山本大将(当時)が着用していた純白の第二種軍装。ラバウルでの最期の写真に写っている軍服である。(写真右 →)
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「如是蔵博物館」の完成を記念した「石碑」(←) 昭和15年(1940年)6月5日に建立された。題字と碑文は山本五十六中将(当時)によるものである。
「如是蔵博物館」の敷地内の戦災樹木。(→) 昭和20年(1945年)8月1日夜の米軍による空襲では、この敷地にも40発近い焼夷弾が落下したそうである。この時に幹が焼けてしまった樹木も、戦後70年近い年月を経て、新しい幹が焼けた幹を覆うように育っている。
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