新潟県

新潟県

新潟県の戦跡
大東亜戦争における新潟県の歴史
現地への行き方と現地交通情報(旅行情報)

新潟県中部(中越)

長岡市(市街地)

・山本五十六記念館
     (山本元帥の遺品と乗機の残骸)
・山本記念公園(山本元帥の胸像と生家)
・如是蔵博物館(山本元帥の遺品)
・長興寺(山本元帥の墓)
・県立長岡高校(旧制長岡中学校)
     (山本元帥の母校・東郷元帥手植樹)
・昌福寺(戦災殉難者之墓)
・平潟神社(戦災殉難者慰霊塔)
・柳原公園(柿川戦災殉難地の碑)
・平和の森公園(平和像)

長岡市(郊外)・長岡市(寺泊)

・蒼柴神社(悠久山公園)
・模擬原子爆弾投下地点
・中央海浜公園(平和の礎)
・西生寺(天覧の掛軸)

新潟県北部(下越)

新潟市

・新潟県護国神社
・西海岸公園ドン山
・西海岸公園水戸教公園

新発田市

・陸上自衛隊新発田駐屯地
     (歩兵第十六連隊兵営跡地)
・新発田西公園
     (第一號新発田公園)

五泉市

・村松兵営跡地
     (歩兵第三十連隊兵営跡地)
     (陸軍少年通信兵学校跡地)
・村松陸軍病院跡
・村松練兵場跡地
・村松公園
・村松公園の慰霊碑・記念碑
・村松公園の灯篭・鳥居

新潟県の戦跡 新潟県は日本の都道府県の1つであり、信越地方の経済・産業の中心地である。20市・9郡・6町・4村からなる。面積は12584km2(平成21年10月)であり、人口は約236万人(平成23年9月)である。本州の北に位置し、北は日本海に面し、他は山地に囲まれている。富山県・長野県・群馬県・福島県・山形県などと隣接している。

中世の戦国時代(16世紀末)、現在の新潟県は上杉氏によってほぼ支配されていた。その後、豊臣秀吉の命によって上杉氏が会津(福島県)に移り、代わってほかの大名が入り、現在の新潟県の市町村の基となった。

慶応3年(1867年)、江戸幕府が倒れ、薩摩藩や長州藩を中心とする新政府が樹立された。しかし、旧幕府軍と新政府軍との間に戊辰戦争が勃発、信越・東北地方の諸藩は旧幕府軍(東軍)として新政府軍(西軍)と戦った。特に、長岡藩は、軍事総督河井継之助や大隊長山本帯刀の指揮の元に頑強な抵抗をしたが、遂に両指揮官以下数百名の藩士が壮絶な戦死を遂げ、城下町も灰燼に帰した。そして、敗れた長岡藩は賊軍(反乱軍)の汚名を着せられ、石高も減らされて人々の生活は困窮していた。この時、近隣諸藩から救援物資として米俵百俵が届いたが、時の大参事であった小林虎三郎は、将来を担う人材の育成が大切だとし、これを学校建設の資金とした。この事は、後に「米百俵」の故事として有名になり、平成14年(2002年)、当時の小泉純一郎総理が「米百俵」を引用して構造改革を訴えた事は記憶に新しい。やがて、人々は持ち前の粘り強さによって郷土を復興させ、また、その後も多くの学校が設立されて優秀な人材を多数輩出するようになった。

新潟県の戦跡 大東亜戦争に於ける新潟県出身の著名な軍人としては、海軍の山本五十六海軍元帥(長岡市)と、陸軍の本間雅晴陸軍中将(佐渡島)が挙げられるだろう。
山本五十六元帥は、明治17年(1884年)4月4日に生まれ、旧制長岡中学校から海軍兵学校に入学、日露戦争の日本海海戦にも参加した。その後は駐在武官として欧米に出張、帰国後は主に海軍航空本部で勤務、当時まだ発展途上だった航空機の将来性を見出し、その育成に尽力した。昭和11年(1936年)に海軍次官に就任した山本中将(当時)は、米内光正海軍大臣と井上成美軍務局長と共に、ドイツ・イタリアとの同盟に強硬に反対した。大東亜戦争緒戦に於いては、連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃(ハワイ諸島オアフ島)やミッドウェー海戦を指揮したが、昭和18年(1943年)4月18日、ソロモン諸島ブーゲンビル島上空で乗機が撃墜されて戦死した。享年59歳。
本間雅晴中将は、明治20年(1887年)11月27日に生まれ、旧制佐渡中学校から陸軍士官学校に入学した。少尉任官後、歩兵第十六連隊(新発田市)に配属された。その後、陸軍大学校、参謀本部員へと進み、駐英武官としてイギリスに駐在し、欧州通として知られた。大東亜戦争緒戦に於いては、第十四軍司令官としてフィリピン諸島の攻略を指揮した。本間中将は非常に温和で人間味のある将軍であったという。しかし戦後、米軍によってこの時の米比軍捕虜の処遇(所謂「バターン死の行進」)の責任を問われる事になった。これは偶発的な事故であったが、米軍の報復的な戦犯裁判では、まともな取調べも行われる事無く本間中将に絞首刑が宣告された。これに対し本間中将は全く弁明せず部下の一切の責任を背負い、昭和21年(1946年)4月3日未明、従容として刑の執行を受けた。享年59歳。

新潟県の戦跡 また、新潟県長岡市は、昭和20年(1945年)8月1日夜、米軍による大規模な空襲を受けた。この空襲は大量の焼夷弾を市街地に投下し、非戦闘員である一般市民の殺戮を目的としていた。一晩の空襲で一般市民1461人が死亡、多数が負傷した。 長岡市は、富山市・福井市と並び、日本海側で大きな空襲を受けた数少ない都市であった。

尚、新潟県の郷土部隊としては以下の連隊があった。

新発田市:歩兵第十六連隊・後備歩兵第十六連隊・歩兵第百十六連隊・歩兵第百五十四連隊
五泉市村松:歩兵第三十連隊(高田に移駐)・歩兵第百五十八連隊
上越市高田:歩兵第三十連隊・歩兵第五十八連隊・独立山砲第一連隊

特に、歩兵第十六連隊(新発田市)と歩兵第三十連隊(五泉市村松)は、明治以来の歴戦の連隊として、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、満州事変、支那事変と数々の戦役に従軍した。大東亜戦争に於いても、歩兵第十六連隊は、ジャワ島(オランダ領インドネシア)、ソロモン諸島ガダルカナル島、雲南(中国南部)、ビルマでの過酷な戦闘を経験した。歩兵第五十八連隊も、ビルマからインド東部へのインパール作戦に参加、多くの将兵が散華した。

新潟県まで

関東方面から

自動車で行く場合は、「関越自動車道」に乗り、「長岡JCT」から「北陸自動車道」に乗り換えて北に向かう。
長岡市へは「関越自動車道」の「長岡IC」が、新潟市へは「新潟中央JCT」を経て「日本海北陸自動車道」の「長岡亀田IC」ががぞれぞれ最寄である。
「関越自動車道」の「練馬IC」から「日本海北陸自動車道」の「長岡亀田IC」までは約300km(3時間25分)、普通乗用車で6750円。(2011年現在)

電車で行く場合は、「東京駅」から新幹線「とき」が「長岡駅」「新潟駅」まで運行している。「東京駅」から「長岡駅」までは1時間40分・4620円で、「新潟駅」までは2時間・5460円である。(2011年現在)

関西方面から

自動車で行く場合は、「名神自動車道」に乗り、「米原JCT」から「北陸自動車道」に乗り換えて北に向かい、更に「長岡JCT」から「関越自動車道」に乗り換える。
長岡市へは「関越自動車道」の「長岡IC」が最寄、新潟市へは「新潟中央JCT」から「日本海東北自動車道」に乗り換えて「新潟亀田IC」が最寄である。
「名神自動車道」の「京都南IC」から「関越自動車道」の「長岡IC」までは約500km(5時間45分)、普通乗用車で10250円。(2011年現在)

電車で行く場合は、かなり時間がかかる。
「大阪駅」から「東京駅」まで移動して新幹線「とき」に乗換えるなら、「大阪駅」から「東京駅」まで(「新大阪駅」経由)は新幹線で2時間40分・8510円。「東京駅」から「長岡駅」までは1時間40分・4620円で、「新潟駅」までは2時間・5460円である。
または、「大阪駅」から北陸本線の特急「サンダーバード」で「金沢駅」か「富山駅」まで行き、信越本線の特急「北越」に乗り換えて「長岡駅」「新潟駅」まで行く。「大阪駅」から「長岡駅」までは約6時間・14000円程で、「大阪駅」から「新潟駅」までは約6時間半・15000円程である。
或いは、「JR大阪駅」発の夜行列車(急行「北国」)が1日1便出ている。 「大阪駅」を23時27分発、「長岡駅」07時14分着、「新潟駅」 時 分着

飛行機でいく場合は、「伊丹空港」から「新潟空港」まで1日8便〜9便が運行している。所要時間は約1時間、普通運賃23000円程である。

参考
高速道路料金検索
鉄道ダイヤ検索
国内航空路線検索

新潟県内の交通

新潟県内の各都市間の移動は、電車か自動車(高速道路・新潟バイパス)が便利である。

特に自動車の場合、新潟県を縦(北東から南西)に貫く「新潟バイパス(国道7号線・国道8号線)」が整備されている。「新潟バイパス」は強力な政治力で建設された道路だけあって一部は高速道路のような立派な道路である。新潟県北部(下越)の新発田市新潟市から燕市・三条市を通り、「長岡東バイパス(国道8号線)」として新潟県中部(中越)の長岡市までを結んでいる。
同様に高速道路も、新潟県北部(下越)の新発田市から新潟市までは「日本海東北自動車道」が通じ、新潟市からは「北陸自動車道」が新潟県中部(中越)の長岡市郊外を抜け、日本海に沿って新潟県南部(上越)の上越市・柏崎市を通って富山県に抜けている。
併しながら、新潟県の横(日本海側と内陸部)の移動は、主要幹線道路が余りない為にやや不便である。

電車の場合も同様で、新潟県を縦に「信越本線(JR北日本)」が走るが、横方向には殆ど路線がない。
新潟市長岡市等、主要な都市間の移動は電車でも問題ないが、内陸の五泉市や、日本海側の長岡市寺泊へは自動車の方が便利だろう。

都市内の移動に関しては、新潟市長岡市は路線バスの本数も多く、観光用の循環バスなども整備されているが、五泉市長岡市寺泊等、規模の小さな市町村では路線バスの本数は余り多くない。
こまめに移動するには自動車が便利である。

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