新潟県中部(中越):長岡市(市街地) 山本五十六元帥ゆかりの地

新潟県

新潟県の戦跡
大東亜戦争における新潟県の歴史
現地への行き方と現地交通情報(旅行情報)

新潟県の戦跡

新潟県中部(中越):長岡市(市街地) 山本五十六元帥ゆかりの地

長岡市(市街地) 長岡市(市街地) 長岡市は、

大東亜戦争末期の昭和20年(1945年)8月1日夜、長岡市は米軍による大規模な空襲を受けた。

山本五十六記念館
     (山本元帥の遺品と乗機の残骸)
   展示内容詳細はこちら
山本記念公園(山本元帥の胸像と生家)
   展示内容詳細はこちら
如是蔵博物館(山本元帥の遺品)
   展示内容詳細はこちら
長興寺(山本元帥の墓)
県立長岡高校(旧制長岡中学校)
     (山本元帥の母校・東郷元帥手植樹)
昌福寺(戦災殉難者之墓)
平潟神社(戦災殉難者慰霊塔)
柳原公園(柿川戦災殉難地の碑)
平和の森公園(平和像)

「山本五十六記念館」(山本元帥の遺品と乗機の残骸)

山本五十六記念館 山本五十六記念館 長岡市の市街地中心部、「JR長岡駅」の北西に「山本五十六記念館」がある。(←)

「山本五十六記念館」は、平成11年(1999年年)4月18日、山本五十六元帥を記念して建てられた。長岡市商工会議所及び山本元帥景仰会が管理運営している。(→)

人々を愛し、郷土を愛し、慈愛の心に満ちた山本元帥の人柄と生涯を紹介する事、山本元帥の遺品の収集と保存する事が記念館の趣旨である。

山本五十六記念館 山本五十六記念館 館内には山本元帥の遺品や写真等、山本元帥関連の品々が展示されている。(←)

また、山本元帥が戦死時に搭乗していた「一式陸上攻撃機」の残骸(左主翼の一部・長官が座っていた座席)が展示されている。これらは、戦後にソロモン諸島ブーゲンビル島で発見され、平成元年(1989年)、パプアニューギニア政府の許可を得て持ち帰ったものである。(→)

尚、館内は撮影禁止である。今回は特別に許可を頂いたが、見学者は無断で撮影してはいけない。

展示内容詳細はこちら

・山本元帥の遺品
・山本元帥の乗機の残骸

「山本五十六記念館」の歩き方

長岡市の市街地中心部、「JR長岡駅」の北西にある。

山本五十六記念館 山本五十六記念館 「JR長岡駅」西口を出て「長岡駅前交差点」から「大手通交差点」に向かう。
「大手通交差点」を右折して「国道351号線(三国街道)」を北に500m程進むと「関東町交差点」があるのでここを左折する。
左折して直ぐの右手に「山本五十六記念館」がある。手前が「駐車場」になっており、その奥に「記念館」がある。

尚、「関東町交差点」を右折すると左手に「河井継之助記念館」がある。
また、「山本五十六記念館」の南の路地を徒歩で100m程行くと「山本記念公園」がある。

入場料:500円
開館時間:10:00-17:00(火曜日〜日曜日)
休館日:月曜日
HP:http://yamamoto-isoroku.com/
住所:〒940-0056  新潟県長岡市呉服町1丁目4-1
電話:(0258) 37-8001
(2011年現在)

「山本五十六記念館」 (N:37°27′08.03″ E:138°51′05.86″)

ページ先頭に戻る

「山本記念公園」(山本元帥の胸像と生家)

山本記念公園 山本記念公園 長岡市の市街地中心部、「JR長岡駅」の北西に「山本記念公園」がある。(←)

「山本記念公園」は、昭和33年(1958年)11月3日、山本五十六元帥を記念して山本元帥景仰会によって造られた。(→)
未来を担う長岡市の青少年に、山本元帥ように自らを愛すると共に他を愛する精神を継いで欲しいという願いが込められている。

また、「公園」には「山本元帥の生家」が復元・移築されて保存されている。(←)

山本記念公園 山本記念公園 奥には「山本元帥の胸像」が建てられている。(←)

この「胸像」は、昭和18年(1943年)12月8日、霞ヶ浦海軍航空隊(茨城県)に建てられた山本元帥の銅像が元になっている。この銅像は終戦直後、進駐軍による略奪を避ける為に霞ヶ浦に沈められた。後に引き上げられ、胸から上の部分の型を採ってここの「胸像」が製作された。

濃紺の第一種軍装に身を包み、大将の階級章を付けた山本元帥の姿が描かれている。(→)

山本記念公園 山本記念公園 手前に「山本元帥の生家」が保存されている。(←)

「生家」の内部は、日中は開放されており、自由に見学をする事ができる。(→)
普段は「公園」の向かいの商店の方が管理されているそうである。

誰かが監視している訳でもないが、悪戯をされる事も無く綺麗に保たれている。地元の長岡市に於いて、山本五十六元帥は世界に誇る郷土の偉人である。その「生家」に悪戯をするような不貞の輩はここにはいないようである。

展示内容詳細はこちら

・山本元帥の生家

「山本記念公園」の歩き方

長岡市の市街地中心部、「JR長岡駅」の北西にある。

山本記念公園 山本記念公園 「JR長岡駅」西口を出て「長岡駅前交差点」から「大手通交差点」に向かう。
「大手通交差点」を右折して「国道351号線(三国街道)」を北に400m程進んだ「交差点」の北西角に「山本記念公園の案内看板」がある。

徒歩や自転車の場合はここを左折して50m程進んだ右手に「山本記念公園」がある。
自動車の場合、ここは東行き一方通行なので、100m程北の「関東町交差点」を左折して「山本五十六記念館」の前を通り、1つ目の交差点を左折する。さらに次の交差点を左折すると「山本記念公園」が左手にある。尚、この通りにはコインパーキングがある。

「山本記念公園」の手前に「山本元帥の生家」があり、奥に「山本元帥の胸像」がある。
また、「山本記念公園」の北の路地を抜けて徒歩で100m程行くと「山本五十六記念館」がある。

住所:〒940-0065  新潟県長岡市坂之上町3丁目

「山本記念公園」 (N:37°27′04.05″ E:138°51′03.50″)

ページ先頭に戻る

「如是蔵博物館」(山本元帥の遺品)

如是蔵博物館 如是蔵博物館 長岡市の市街地中心部、「JR長岡駅」の東に「如是蔵博物館」がある。(←)

「如是蔵博物館」は、昭和11年(1936年)、地元長岡市の思想家であった野本恭八郎(野本互尊)を記念して建てられた。如是蔵とは仏教用語で「知恵の蔵」という意味である。(→)
現在は、日本互尊社が管理運営している。日本互尊社は、野本互尊の唱えた互尊独尊の思想を後世に伝える為、昭和9年(1934年)に設立された。山本元帥もこの思想に共鳴し、ここを度々訪れたという。

如是蔵博物館 如是蔵博物館 敷地内は緑の木々に覆われている。長岡市の中心部であるが、ここだけが周囲の喧騒から隔絶されているようである。(←)

敷地の中央には事務所となっている家屋がある。嘗ては迎賓館として同様の家屋があったが、昭和20年(1945年)8月1日、米軍による長岡空襲で消失し、現在の家屋は戦後に建てられた。
家屋の横に「博物館」が建っている。(←)

「博物館」には、野本互尊関連の品々を始め、地元長岡市の偉人である河井継之助や山本五十六元帥の遺品が多数展示されている。(→)

展示内容詳細はこちら

・山本元帥の遺品(博物館1階)
・山本元帥の遺品(博物館2階)
・如是蔵博物館敷地内の遺構

「如是蔵博物館」の歩き方

長岡市の市街地中心部、「JR長岡駅」の東にある。

如是蔵博物館 如是蔵博物館 「JR長岡駅」の西から行く場合は、「長岡駅前交差点」から北に500m程行くと北西角に「マツダレンタカー長岡駅前店」のある交差点がある。ここを右折して鉄道の高架をくぐり、2つ目の十字路を右折して細い道に入る。この十字路の南西角には「専門学校」がある。
その後、150m程進むと右手に緑に囲まれた区画がある。この区画が「如是蔵博物館」の敷地である。そのまま進むと敷地の東側に「来館者用駐車場」があり、敷地内への入り口がある。

「JR長岡駅」の東から行く場合は、「ホテルニューオータニ長岡」の前の道を通り、2つ目の十字路を左折して細い道に入ると前方に「如是増博物館」の敷地が見える。

徒歩で行く場合は、「JR長岡駅」の直ぐ東隣なので、「ホテルニューオータニ長岡」の西側の細い路地を通って行く事が出来る。

入場料:200円
開館時間:10:00-16:00(火曜日〜日曜日)
休館日:月曜日 (月曜日が祝日等とかさなった場合は翌日)
HP:http://www.city.nagaoka.niigata.jp/kankou/miru/siryou/nyozezou.html
住所:〒940-0034  新潟県岡市福住1丁目3番8号
電話:(0258) 37-1489
(2011年現在)

「如是蔵博物館」 (N:37°26′56.43″ E:138°51′19.28″)

ページ先頭に戻る

「長興寺」(山本元帥の墓)

長興寺 長興寺 長岡市の市街地中心部、「JR長岡駅」の北に「長興寺」がある。(←)
「長興寺」は、元和4年(1618年)に建立された。山号は「普嶽山」である。

「長興寺」には、長岡藩家老職を代々務めた山本家の墓所がある。(→)

山本五十六元帥は、明治17年(1884年)4月4日、長岡藩の儒学者であった高野家の六男として生まれたが、大正5年(1916年)9月20日に山本家の養子となり、山本五十六となった。

長興寺 長興寺 長興寺 写真中央が「山本元帥の墓」である。(←)

その直ぐ左隣には「山本帯刀の墓」がある。山本帯刀は、明治維新後の戊辰戦争に於いて、長岡藩の大隊長として新政府軍(西軍)と戦い、同じく長岡藩の軍事総督であった河井継之助と共に壮絶な戦死を遂げた。
現在も長岡市では、山本五十六元帥や河井継之助と共に、郷土の偉人として尊敬されている。

「山本元帥の墓」の墓石の字は、山本元帥の死後、米内光正海軍大将の手によるものであった。その「掛軸」が長岡市の「如是蔵博物館」に展示されている。 (→)

「長興寺」の歩き方

長岡市の市街地中心部、「JR長岡駅」の北にある。

長興寺 長興寺 「JR長岡駅」西口を出て「長岡駅前交差点」から「大手通交差点」に向かう。
「大手通交差点」を右折して「国道351号線(三国街道)」を北行く。途中、「関東町交差点」を越え、「大手通交差点」から約1km進んだ信号のある交差点を右折する。

右折して次の突き当りを左折すると左手に「病院」が見えてくる。その先の右手にある細い路地があるので右折してこれに入る。路地を抜けて左折すると、左手に「長興寺」が見えてくる。
本堂に向かってやや右手に「参拝者用駐車場」があり、案内の看板が出ている。

境内に入ると、本堂に向かって左側(南側)が墓地になっており、その奥に「山本元帥の墓」がある。墓地内に案内の看板が出ている。

住所:〒940-0054  新潟県長岡市稽古町1636番地
電話:(0258) 36-0341
(2011年現在)

「長興寺」 (N:37°27′28.80″ E:138°51′24.95″)

ページ先頭に戻る

「県立長岡高校(旧制長岡中学校)」(山本元帥の母校・東郷元帥手植樹)

県立長岡高校(旧制長岡中学校) 県立長岡高校(旧制長岡中学校) 長岡市の市街地中心部、「JR長岡駅」の東に「県立長岡高校」がある。(←)
「県立長岡高校」は、

「県立長岡高校」に「東郷元帥手植樹」とそれを示す「石碑」が遺されている。(←)(→)
「石碑」の裏には明治 年 月 日の文字が刻まれている。明治38年(1905年)9月の日露戦争勝利の翌年に植えられた事が分かる。
「東郷元帥手植樹」は現在では大きく育ち、未来の日本を担う学生を見守っている。

「県立長岡高校(旧制長岡中学校)」の歩き方

長岡市の市街地中心部、「JR長岡駅」の東にある。

県立長岡高校(旧制長岡中学校) 県立長岡高校(旧制長岡中学校) 「JR長岡駅」の西から行く場合は、「長岡駅前交差点」から南に450m程行くと「旭町交差点」があるのでこれを左折して「国道352号線」を東に向かう。850m程行くと「学校町交差点」があるのでこれを左折する。そのまま道なりに400m程進むと道路が細くなり、右手に「県立長岡高校」が見えてくる。すぐに「県立長岡高校」の入口が右手に現れる。

「JR長岡駅」の東から行く場合は、「東口通り」を東に向かい、「橋」を越えた次の交差点を右折する。250m程進んだ2つ目の交差点を左折し、そのまま進んで突き当りを左折すると右手に「県立長岡高校」がある。

「東郷元帥手植樹」は入口の直ぐ側にあるが、敷地内なので無断で立ち入ってはいけない。
見学を希望する場合は、入口の正面の校舎に入って直ぐに事務所の受付があるので、そこで許可をもらう事。

ページ先頭に戻る

「昌福寺(戦災殉難者之墓)」

昌福寺(戦災殉難者之墓) 昌福寺(戦災殉難者之墓) 長岡市の市街地中心部、「JR長岡駅」の東に「昌福寺」がある。(←)
「昌福寺」は曹洞宗の寺院で、山号は「万融山」。米百俵を基に設立された長岡国漢学校は、明治2年(1869年)、「昌福寺」の本堂を借りて開校した。

「戦災殉難者之墓」が建てられている。(→)
昭和20年(1945年)8月1日夜、長岡市は米軍よる激しい空襲を受けた。米軍は市街地を爆撃目標に設定し、大量の焼夷弾を投下した。即ち、それは、軍事施設ではなく非戦闘員である一般市民の生命そのもを標的とした空襲であった。

昌福寺(戦災殉難者之墓) 昌福寺(戦災殉難者之墓) その結果、一夜にして一般市民1461人が死亡、多数が負傷した。この時、身元が確認できない犠牲者は合同で荼毘に付され、「昌福寺」に埋葬された。(←)

昭和22年(1947年)9月、長岡市民の浄財によって「戦災殉難者之墓」が建立された。

境内に入って直ぐ右手に「陸軍歩兵大尉正三位田中富次君碑」がある。(→)
地元の長岡市弓町出身のであった田中富次陸軍大尉は日露戦争に従軍し、旅順ロシア軍要塞を攻撃中に戦死した。田中富次陸軍大尉の功績を記念て、明治39年(1906年)10月、親族によって「碑」が建立された。

「昌福寺(戦災殉難者之墓)」の歩き方

長岡市の市街地中心部、「JR長岡駅」の東にある。

昌福寺(戦災殉難者之墓) 昌福寺(戦災殉難者之墓) 「JR長岡駅」の西から行く場合は、「長岡駅前交差点」から南に450m程行くと「旭町交差点」があるのでこれを左折して「国道352号線」を東向かう。500m程行くと「四郎丸交差点」があるのでこれを左折する。そのまま道なりに250m程進むと広い交差点があるのでこれを左折する。少し行くと左手に「昌福寺」の入口がある。

「JR長岡駅」の東から行く場合は、「東口通り」を東に向かい、「橋」を越えた次の交差点を右折する。250m程進んだ2つ目の交差点を右折し、少し行くと左手に「昌福寺」の入口がある。

入口から奥に進むと本堂があり、向かって右手前に「参拝者用駐車場」がある。
本堂の向かって左に墓地があり、その手前に「戦災殉難者之墓」がある。

住所:〒940-0046  新潟県長岡市四郎丸4丁目6-21
電話:(0258) 32-4449
(2011年現在)

「昌福寺」 (N:37°26′36.42″ E:138°51′21.71″)
「戦災殉難者之墓」 (N:37°26′36.98″ E:138°51′23.02″)

ページ先頭に戻る

「平潟神社(戦災殉難者慰霊塔)」

平潟神社(戦災殉難者慰霊塔) 平潟神社(戦災殉難者慰霊塔) 長岡市の市街地中心部、「JR長岡駅」の西に「平潟神社」がある。1250年程前の天平年間(聖武天皇の時代)に建立されたと言われ、祭神は諏訪大明神(健御名方富命)である。(←)
諏訪大明神は武勇の神であり、日清戦争や日露戦争、更には大東亜戦争に到るまで、出征将兵の祈願所でもあった。現在も長岡市民からは智慶様と呼ばれて親しまれている。(→)

昭和20年(1945年)8月1日夜、米軍による空襲によって長岡市は大きな被害を受け、一夜にして一般市民1461人が死亡した。

平潟神社(戦災殉難者慰霊塔) 平潟神社(戦災殉難者慰霊塔) ここ「平潟神社」でも、避難した一般市民多数が炎に巻かれて死亡した。

「平潟神社」の直ぐ横には「平潟公園」があり、「戦災殉難者慰霊塔」が建てられている。(←)

この慰霊碑は、昭和33年(1958年)8月1日、米軍による空襲の犠牲となった一般市民を慰霊する為に「平潟神社」の境内に建てられた。
その後、老朽化した為、戦後50周年にあたる平成7年(1995年)に修復され、現在の場所に移築された。(→)

平潟神社(戦災殉難者慰霊塔) 平潟神社(戦災殉難者慰霊塔) 「平潟神社」の境内を入って直ぐの所に「忠烈靖獻之碑」(獻は献の旧字体)が遺されている。(←)
「忠烈靖獻之碑」は、明治39年(1906年)11月、日清戦争・日露戦争に於ける長岡市出身戦没者を慰霊する為に建立された。

題字は、陸軍の大山巌元帥によるものである。
また、基部には日清戦争・日露戦争に於ける長岡市出身戦没者の氏名が彫られている。(→)

他にも、日露戦争に於ける海軍の司令官であった東郷元帥と上村大将の揮毫額も納められており、現在は絵馬殿に掲額してある。

「平潟神社(戦災殉難者慰霊塔)」の歩き方

長岡市の市街地中心部、「JR長岡駅」の西にある。

平潟神社(戦災殉難者慰霊塔) 平潟神社(戦災殉難者慰霊塔) 「JR長岡駅」西口を出て「長岡駅前交差点」から「大手通交差点」を通って西に向かう。
500m程行くと「表町交差点」があるのでこれを左折する。その後道なりに250m程進むと「平潟神社前交差点」がある。
その先の右手、「平潟神社前交差点」北西に「平潟神社」がある。

「平潟神社」の本殿前に「忠烈靖獻之碑」がある。また、「平潟神社」の隣が「平潟公園」になっており、この奥に「戦災殉難者慰霊塔」がある。本殿に向かって左奥である。

住所:〒940-0046  新潟県長岡市表町1-6-1
電話:(0258) 32-1032
(2011年現在)

「平潟神社」 (N:37°26′48.92″ E:138°50′43.71″)
「忠烈靖獻之碑」 (N:37°26′47.84″ E:138°50′44.83″)
「戦災殉難者慰霊塔」 (N:37°26′48.60″ E:138°50′42.83″)

ページ先頭に戻る

「柳原公園(柿川戦災殉難地の碑)」

柳原公園(柿川戦災殉難地の碑) 柳原公園(柿川戦災殉難地の碑) 長岡市の市街地中心部、「JR長岡駅」の西に「柳原公園」があり、「柳原公園」の片隅に「柿川戦災殉難地の碑」が建てられている。(←)

昭和20年(1945年)8月1日夜、米軍による長岡空襲に於いて、多数の一般市民がここ柳原町の「神明神社」に逃込んだが、そこにも炎が迫った。水を求めて側の柿川に飛び込んだ人も多くが溺れ、その夜、ここで152人もの一般市民が死亡した。
それから50年目の平成7年(1995年)7月31日、「神明神社」の隣にある「柳原公園」に、米軍の長岡空襲による犠牲者を慰霊する「柿川戦災殉難地の碑」が建てられた。「碑」の直ぐ後ろには、炎に追われた大勢の人が水を求めた「柿川」がある。

「柳原公園(柿川戦災殉難地の碑)」の歩き方

長岡市の市街地中心部、「JR長岡駅」の西にある。

柳原公園(柿川戦災殉難地の碑) 柳原公園(柿川戦災殉難地の碑) 「JR長岡駅」西口を出て「長岡駅前交差点」から「大手通交差点」を通って西に向かう。
500m程行くと「表町交差点」があるのでこれを左折する。その後道なりに進み、「平潟神社前交差点」を越え、「表町交差点」から500m程行った交差点を右折する。

右折すると左手に「市立科学博物館」「長岡市役所柳原分庁舎」があり、その後ろ(北側)に「柳原公園」がある。「柳原公園」の南西角に「柿川戦災殉難地の碑」があり、「神明神社」は「柳原公園」の隣にある。

「柿川戦災殉難地の碑」 (N:37°26′46.98″ E:138°50′34.57″)

ページ先頭に戻る

「平和の森公園(平和像)」

平和の森公園(平和像) 平和の森公園(平和像) 長岡市の市街地中心部、「JR長岡駅」の北西に「平和の森公園」がある。(←)

「平和の森公園」は、平成8年(1996年)7月、長岡空襲から半世紀、市制施行90周年を記念し、長岡市民の平和への願いをアピールする為に造られた。

「柿川」に面した親水公園となっている。広くは無いが木立が多く、静かで安らげる場所である。市民の憩いの場としてや、子供の水遊びの場所として親しまれているようである。
「公園」に「平和像」が建てられている。(→)

平和の森公園(平和像) 平和の森公園(平和像) 昭和20年(1945年)8月1日の米軍による長岡空襲に於いて、一般市民1461人が死亡し、その内約280人は児童であった。
「平和像」は、長岡空襲で死亡した児童を慰霊するため、昭和26年(1951年)11月3日、新潟県教職員組合によって建てられた。(←)

当初は「長岡駅」の駅前にあった。写真は昭和33年(1958年)頃の駅前。(→)

その後、「平和の森」の建設に伴い、現在の場所に移設された。

平和の森公園(平和像) 平和の森公園(平和像) 「平和の森公園」に「被爆アオギリ二世」が植えられている。これは、広島県広島市の「被爆アオギリ」の実から育ったものである。(←)(→)

昭和20年(1945年)8月6日、アメリカは広島市に原子爆弾を投下、約20万人の一般市民を無差別に殺戮した。この時、爆心地から1.3kmにあった広島逓信局(現日本郵政中国支社)の中庭にあったアオギリの木は、幹の半分が焼けてしまったが、枯死することなく成長し、現在は広島市の「平和記念公園」に移植されている。
この「被爆アオギリ」の実は全国各地に寄贈され、「被爆アオギリ二世」として成長している。

「平和の森公園(平和像)」の歩き方

長岡市の市街地中心部、「JR長岡駅」の北西にある。

平和の森公園(平和像) 平和の森公園(平和像) 「JR長岡駅」西口を出て「長岡駅前交差点」から「大手通交差点」を通って西に向かう。
500m程行くと「表町交差点」があるので、その次の交差点を右折する。その後300m程行って2つ目の交差点を左折する。100m程進むと右手に「平和の森公園」の入口がある。入口はもう北側にもある。こちらは道が小さなロータリーになって行き止まりになっている。

或いは、「国道351号線(三国街道)」の「関東町交差点」から西に向かい、「山本五十六記念館」の前を通って更に西に行く。「関東町交差点」から2つ目の交差点を左折し、200m程行ったところを右折し進むとその先に「平和の森公園」の入口がある。

「平和像」 (N:37°27′07.32″ E:138°50′48.12″)

ページ先頭に戻る

戦跡の歩き方TOP」へ戻る>> 「大東亜戦争遺跡」へ戻る>> 「日本」へ戻る>> 「新潟県」へ戻る>> 「長岡市(市街地)

Copyright(C)悠久の沙羅双樹
inserted by FC2 system <