新潟市は、新潟県の県庁所在地であり、日本海側では有数の規模を誇る都市である。 江戸時代から港町として栄え、明治維新後も日本海側の主要な港湾都市として機能した。現在でも市内には明治時代に建てられた税関や市庁舎等の近代建築が多数遺されている。
大東亜戦争に於いて、新潟市は、米軍による原子爆弾投下の候補都市の1つであった為、大規模な空襲を受ける事は無かった。しかし、新潟港は米軍機による機銃掃射や機雷敷設を受け、港湾施設や船舶、工場や民家、一般市民に少なからぬ被害がでた。
・新潟県護国神社 展示内容詳細はこちら ・西海岸公園ドン山 ・西海岸公園水戸教公園
「新潟県護国神社」は、明治元年(1868年)10月29日、戊辰戦争に於ける戦没者を祀る「招魂社」を常磐ケ岡(旧新潟大学本部跡地)に置いた事に始まる。 明治8年(1875年)には「新潟招魂社」となり、昭和14年(1939年)に「新潟縣護國神社」となった。 その後、昭和16年(1941年)7月に現在の場所(西船見町)に新しい社殿の建設が開始され、昭和20年(1945年)5月に竣工、現在に至る。
一の鳥居から本殿まで続く参道。(→)
「新潟県護国神社」では、戊辰戦争から大東亜戦争までの新潟県出身戦没者を英霊として祀り、現在の御祭神の数は75000余柱となっている。
二の鳥居、この先に拝殿と本殿がある。(←) 拝殿と本殿。平成7年(2004年)に改修された。(→)
「新潟県護国神社」の御祭神(祀られている神様)は、国家の大事に一身を捧げて殉ぜられた方々である。その「みたま」を慰め、護國の神に現在の平和を感謝し、国の幸福と繁栄を祈る事は日本国民として至極当たり前の事である。
「新潟県護国神社」の参道の途中に「戊辰の役殉難者墓苑」がある。(←)
明治元年(1868年)、新政府軍(西軍)と旧幕府軍(東軍)との間に戊辰戦争が勃発、東軍として戦った東北諸藩は、薩摩藩・長州藩を主力とする西軍の侵攻を受けた。同年7月には新潟市・長岡市が西軍に攻略され、町は焦土となった。 この時に戦死した東軍将兵の墓碑が明治8年(1875年)新潟市内に建てられ、昭和20年(1945年)、「新潟県護国神社」敷地内の「戊辰の役殉難者墓苑」に移された。(→)
更に、昭和60年(1985年)には旧新潟大学本部跡地から東軍将兵92名の遺骨が発見され、この「墓苑」に埋葬された。
また、参道の途中には大東亜戦争に於いて、新潟県から出征した部隊の慰霊碑や記念碑が多数建てられている。これらは、戦後に戦友会や当時の関係者によって建立されたものである。(←)
参道の両脇は森になっており、遊歩道が整備されて歌碑が多数建てられている。(→)
・墓苑内の慰霊碑 ・参道付近の慰霊碑 ・拝殿付近の慰霊碑
新潟市の北部にある。
新発田市方面から新発田市へ行く場合は、「国道7号線(新潟バイパス)」を南西に向かう。新発田市中心部から約20kmで新潟市内(「JR新潟駅」付近)に到着する。
長岡市方面から新発田市へ行く場合は、「北陸自動車道」の「長岡IC」から乗り、「日本海東北自動車道」の「新潟亀田IC」で降りる。「長岡IC」から「新潟亀田IC」は約60km(40分)である。 「新潟亀田IC」で降りて「国道49号線(亀田バイパス)」を北に向かうと新潟市内(「JR新潟駅」付近)に到着する。(高速道路料金検索)
「JR新潟駅」から「国道7号線」を北に向かい、「萬代橋」を越えて更に進む。途中、新潟市の繁華街(古町)がある。古町の「三越」(西堀交差点)から200m程行った「寄居町交差点」を左折し、更に150m程行った「営所通一交差点」を右折する。 「営所通一交差点」から850m程行くと、左手に「新潟県護国神社」の「参道入口」があり、右手に「駐車場」がある。
この周辺は西海岸公園として整備されている。直ぐ北側(海側)には、日本海側最大級の水族館である「マリンピア日本海」がある。
HP:http://www.niigata-gokoku.or.jp/
住所:〒951-8101 新潟県新潟市中央区西船見町5932-300
電話:(025) 229-4345
(2011年現在)
ページ先頭に戻る
新潟市北部の西海岸公園に「ドン山」がある。「ドン山」は大正8年(1919年)から大正13年(1924年)まで新潟市の午砲所が置かれていた。現在は当時の午砲所の様子が復元されている。(←)(→)
時計の普及していなかった明治時代、空砲で正午を知らせる午砲が日本各地に置かれた。午砲は、旧暦から新暦に改められた明治6年(1873年)に始まり、大正13年(1924年)まで続いた。現在でも、土曜日の半ドンは、午砲のドーンという砲声に由来する。 新潟市の午砲所は、明治6年(1873年)6月15日に寄居砂山に置かれ、「ドン山」として親しまれた。
当時は、周囲に石垣を組んだ小山の上に白い番小屋があった。その後、大正8年(1919年)に海岸沿いのこの場所に移された。
当時、使用していた大砲が復元されている。明治6年(1873年)から明治38年(1905年)まで車輪の無い大砲が使用され、明治39年(1906年)からは個人の寄贈によって車輪の有る大砲が使用されていた。復元されたのは2代目の車輪の有る大砲である。(←)
各種資料によって、明治初期に陸軍が使用していたフランス式の前装式野砲であったと考えられている。(→)
新潟市北部の西海岸公園にある。
「ドン山」は「新潟県護国神社」の東隣にある。また、付近には日本海側最大級の水族館である「マリンピア日本海」がある。周辺までは「新潟県護国神社」の歩き方を参照。
「新潟県護国神社」の「参道入口」の前の道を海側(北西)に進み、海岸で突き当たる「T字路」を右折する。尚、ここを左折すると「マリンピア日本海」がある。 「T字路」から海岸沿いに600m程進んだ辺りの右手が「ドン山」であり、上までは徒歩で登る道がある。登り口には「案内看板」が出ている。
車で来た場合は、海岸沿いの道に駐車場があるのでこれを利用すると良いだろう。 また、西海岸公園一帯はサイクリング道(西海岸線)が整備されているので、自転車で行く事も出来る。
ページ先頭に戻る
新潟市北部の西海岸公園の東端、海を見下ろせる高台に「水戸教公園」がある。(←)(→) 水戸教とは、江戸時代活躍した信濃川河口の水先案内人の事である。近代に入って港湾が整備されるとその役割を終えたが、新潟港の発展に貢献してきた水戸教を記念して「水戸教公園」が造られた。
大東亜戦争末期、新潟市は大規模な空襲こそ受けなかったが、新潟港は米軍機の機銃掃射を受けた。また、新潟港沖には米軍によって機雷が敷設され、艦艇や船舶が沈没した。また、多くの新潟市出身者が祖国と家族を護る為に散華していった。
「水戸教公園」の中央の丘の上には「平和祈念碑」が建てられている。(←) 「平和祈念碑」は、平成10年(1998年)8月10日、祖国の平和と繁栄の為に散華した人々を慰霊する為に建てられた。我々は、今日の平和な暮らしが、先人たちの尊い犠牲の上に成り立っている事を忘れてはならない。
「平和祈念碑」の後ろには、江戸時代から昭和の初めまで水戸教が港の監視に使用していた櫓が再現されている。櫓の高さは4m、海抜は14mになる。(→)
新潟市北部の西海岸公園にある。
西海岸公園は海岸線にそって約5kmに渡っており、「水戸教公園」はその最も東端にある。 「新潟県護国神社」からは北東に約3km。
「新潟県護国神社」の「参道入口」の前の道を海側(北西)に進み、海岸で突き当たる「T字路」を右折する。尚、ここを左折すると「マリンピア日本海」がある。 「T字路」から途中「ドン山」を越えて海岸沿いに約2.5km進むと「交差点」がある。ここを右折して150m程進むと左手の住宅地の奥に「水戸教公園」がある。
自動車で来た場合、「交差点」は右折禁止なので左折する。左折して途中「陸橋」を越えて道なりに進む。 「陸橋」を越えてから150m程行って右折する。 右折して150m程進んだ右手の住宅地の奥に「水戸教公園」がある。
ページ先頭に戻る