新潟県中部(中越):長岡市(郊外)・長岡市(寺泊)

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新潟県の戦跡
大東亜戦争における新潟県の歴史
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新潟県の戦跡

新潟県中部(中越):長岡市(郊外)・長岡市(寺泊)

長岡市(郊外) 長岡市(郊外) 長岡市の中心部は「JR長岡駅」を中心とした昔の城下町であるが、中心部からやや離れた郊外に「長岡市役所」がある。ここでは、長岡市に関する各種の文献を閲覧・購入する事ができる。

また、中心部から南東に約3kmの場所に「悠久山公園」があり、長岡市民の憩いの場所として「お山」の愛称で親しまれている。

長岡市公式HP
悠久山公園

長岡市(郊外)
蒼柴神社(悠久山公園)
模擬原子爆弾投下地点

長岡市(寺泊) 長岡市(寺泊) 長岡市の寺泊は、新潟県中部(中越)の日本海に面した港町である。かつては寺泊町であったが、平成18年(2006年)1月1日、長岡市に編入された。

現在でも、豊富な海産物、地ビールや地酒、温泉、風光明媚な景色、日本海に沈む美しい夕日等、豊富な観光資源を生かして主に首都圏から多くの観光客を集めている。

また、佐渡汽船の航路が「寺泊港」から運行しており、佐渡島への玄関口しても機能している。

寺泊観光協会

長岡市(寺泊)
中央海浜公園(平和の礎)
西生寺(天覧の掛軸)
   展示内容詳細はこちら

「蒼柴神社(悠久山公園)」

蒼柴神社(悠久山公園) 蒼柴神社(悠久山公園) 長岡市郊外の南西に「蒼柴神社」がある。(←)(→)
「蒼柴神社」は、享保7年(1722年)に死去した長岡藩第3代目藩主牧野忠辰に、京都の吉田管領家から蒼柴明神の神号が贈られた事に始まる。その後、天明元年(1781年)に悠久山に社殿が造営されて現在の形となった。社殿は造営当時のものである。
「蒼柴神社」の周辺は、大正6年(1917年)に長岡開府300周辺記念事業として整備が開始され、大正8年(1919年)に「悠久山公園」として完成した。現在も長岡市民からは「お山」の愛称で親しまれ、桜、ツツジ、花菖蒲、紅葉、雪景色といった四季折々の景色が楽しめる市民の憩いの場となっている。

蒼柴神社(悠久山公園) 蒼柴神社(悠久山公園) 境内に長岡藩主牧野家の霊廟がある。元々、「済海寺」(東京都港区三田)にあったが、昭和58年(1983年)、墓碑17基をここに移して霊廟とした。(←)

また、北越戊辰戦争や西南戦争に従軍して戦死した長岡藩士を奉る「招魂社」がある。(→)

明治7年(1874年)6月に造営され、明治45年(1912年)9月に改築され、戊辰戦争で戦死した長岡藩の軍事総督河井継之助、大隊長山本帯刀、藩士300余名と、西南戦争に従軍して戦死した警察官18名が祀られている。

蒼柴神社(悠久山公園) 蒼柴神社(悠久山公園) 「招魂社」の一角に日本海軍の「二号機雷」と「魚雷(型式不明)」が遺されている。(←)(→)

この「機雷」と「魚雷」は、大正14年(1925年)10月、当時の「旧制長岡中学校(現県立長岡高校)」の校長から要請により、横須賀海軍軍需部から教育用の参考品として、用廃になった兵器が寄贈されたものである。その後、「旧制長岡中学校」の校門近くに展示してあった。当時は、「魚雷」は白く塗装され、「機雷」は鉄の地肌のままだったそうである。
しかし、終戦直後に軍事教練用の銃と共に地中に隠して埋められた。

蒼柴神社(悠久山公園) 蒼柴神社(悠久山公園) 昭和40年代に掘り起こされたが、軍国的なものを学校に置くのは相応しくないという一部の偏った意見がまかり通り、市内のパチンコ店に引き取られたが、そのパチンコ店が閉店する際に「蒼柴神社」に移されたそうである。一時期は「蒼柴神社」でも放置状態だったが、近年はその価値が見直され、現在は屋根も設置されて保存が図られている。

「魚雷(型式不明)」である。(←)
外板は一部が腐食している。その為、弾頭部には炸薬の代わりに材木が入っているのが分かる。
         尾部の二重反転のスクリュー。(→)

蒼柴神社(悠久山公園) 蒼柴神社(悠久山公園) 「二号機雷」である。(←)
「二号機雷」は、明治36年(1903年)6月に採用され、全備重量394.2kg、炸薬量31.9kg、直径740mmで、電気式信管を用いた触発式機雷であった。
日露戦争に於いて、明治37年(1904年)4月13日、旅順港外でロシア海軍太平洋艦隊旗艦の戦艦「ペトロパブロフスク」は「二号機雷」によって沈没、この時、戦艦「ペトロパブロフスク」に座乗していたロシア海軍太平洋艦隊司令長官マカロフ中将が戦死した。

繋維用のリングとチェーン。(→)
使用される場合はこれが下側になり、海底に設置された「円錐形自働繋維器(小田式自働繋維器)」 から伸びた索に連結され、所定の深度で海中に繋維(固定)された。

「蒼柴神社(悠久山公園)」の歩き方

長岡市郊外の南西にある。

蒼柴神社(悠久山公園) 蒼柴神社(悠久山公園) 「JR長岡駅」西側の「大手通交差点」から「国道351号線(三国街道)」を南に向かい、「追廻橋交差点」を左折して「国道404号線(悠久山通り)」を東に向かう。
「追廻橋交差点」から約2.5kmで道路が二股に分かれているので、右に進む。そこから750m程進むと左手に「悠久山公園」が見えてくる。

「蒼柴神社」の「表参道」の入口から左折すると右手に「駐車場」がある。奥の「第3駐車場」から「北参道」の入口があり、本殿へはこちらが近道である。

本殿に向かって左手(北側)の奥に「戊辰戦争戦没者墓碑」があり、その横に「機雷」「魚雷」が置いてある。
尚、「蒼柴神社」の「表参道」には「千本桜」として知られる桜並木があり、桜の季節には非常に美しい。

HP:蒼柴神社
住所:長岡市悠久町70
電話:(0258) 33-1769
(2011年現在)

「蒼柴神社の機雷と魚雷」 (N:37°25′57.28″ E:138°52′58.15″)

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「模擬原子爆弾投下地点」

模擬原子爆弾投下地点 模擬原子爆弾投下地点 長岡市郊外の南西に「模擬原子爆弾投下地点の碑」が建てられている。(←)

昭和20年(1945年)7月20日08時、米軍の爆撃機「B-29」1機が飛来し、長岡市左近町に大型爆弾1個を投下した。被害は死者2人・負傷者5人・住宅全壊2戸・住宅被害多数であった。
この爆弾はその形状と色から「パンプキン(かぼちゃ爆弾)」と呼ばれ、炸薬は通常の高性能火薬であったが、大きさや重量はプルトニウム型原子爆弾「Mark3」(ファットマン)とほぼ同一、全長3.5m・直径1.5m・重量4.5トン(炸薬量2.5トン)であった。(→)

模擬原子爆弾投下地点 模擬原子爆弾投下地点 即ち、「パンプキン」は米軍の模擬原子爆弾であり、日本への原子爆弾投下に向けた、各種試験及び乗員の訓練をする為に開発された。(←)
「パンプキン」は、マリアナ諸島テニアン島の「ノース・フィールド飛行場」に展開した米陸軍第509混成航空群によって運用され、日本の30都市(計49発)に投下された。通常爆弾とはいえ炸薬量2.5トンの破壊力は凄まじく、一般市民多数が犠牲になった。

長岡市に対する米軍の「パンプキン」投下は、当初は津上製作所を目標にしていたが、爆撃を行った「B-29」が目標を誤り、長岡市左近町のこの場所に落下した。「碑」は、平成17年(2005年)7月20日、左近町有志によって建てられた。(→)

「模擬原子爆弾投下地点」の歩き方

長岡市郊外の南西にある。

模擬原子爆弾投下地点 模擬原子爆弾投下地点 「JR長岡駅」の西から「大手通交差点」を通って「国道351号線」を西に向かう。「大手通交差点」から300m程行くと「表町交差点」があるのでこれを左折して「国道351号線」を道なりに進む。「表町交差点」から約1km行くと「長生橋東詰交差点」があるのでこれを左折して「県道499号線」に入り南に向かう。

途中「長岡市役所」が左手に見えてくる。
「長生橋東詰交差点」から約2km、「長岡市役所」から500m程行くと小さな交差点がある。この交差点の左手前(北東角)に「模擬原子爆弾投下地点の案内看板」が出ている。

この交差点を右折して細い道に入る。この道を真っ直ぐ西に進んで行くと前方に堤防が見えてくる。堤防を越えると「永代橋」があるのでこれを渡る。
「永代橋」を渡って直ぐ左、堤防の上の道の脇に「模擬原子爆弾投下地点の碑」がある。

「模擬原子爆弾投下地点の碑」 (N:37°25′56.34″ E:138°50′02.48″)

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「中央海浜公園(平和の礎)」

中央海浜公園(平和の礎) 中央海浜公園(平和の礎) 長岡市寺泊の「中央海浜公園」に「平和の礎」が建てられている。(←)

明治維新後、戊辰戦争から東亜戦争に至るまで、寺泊でも600名近い戦没者を出した。昭和55年(1980年)11月15日、寺泊町(当時)では、地元出身戦没者を慰霊する平和の礎」を建立した。

台座の部分には、仏壇が置かれ、その周囲には戦没者の位牌が多数納められている。

台座の上には、寄り添う男女の像がある。(→)

「中央海浜公園(平和の礎)」の歩き方

長岡市の寺泊にある。
寺泊は長岡市の北西、日本海に面した漁港である。

中央海浜公園(平和の礎) 中央海浜公園(平和の礎) 新潟市方面から寺泊へ行く場合は、「国道402号線」海沿いに南に向かう。新潟市の中心部からは約40km(1時間強)で寺泊に着く。

長岡市(市街地)方面から寺泊へ行く場合は、「国道351号線」「県道69号線」「国道403号線」を乗り継いで、最終的に「県道22号線」に乗る。長岡市(市街地)からは約30km(1時間弱)で寺泊に着く。

「中央海浜公園」は寺泊の中心部、「寺泊港」の直ぐ北にある。

中央海浜公園(平和の礎) 中央海浜公園(平和の礎) 新潟市方面から来た場合は、「国道402号線」を南に向かい、「野積橋」で「大河津分水路」を越えて更に南に向かう。「野積橋」から約2kmで右手に「駐車場」が見えてくる。
長岡市(市街地)方面から来た場合は、「寺泊港」を過ぎて約1km北に行くと、左手に「交番」と「駐車場」が見えてくる。

「駐車場」の向こう側(海側)が「中央海浜公園」であり、「中央海浜公園」のやや北側、「駐車場」の北隣に「平和の礎」がある。「駐車場」からもモニュメントが見えている。

因みに、「駐車場」と道路を挟んで反対側には「魚のアメ横」として知られ、海産物を販売するの店や食堂が多数並んでいる。(寺泊観光協会

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「西生寺」(天覧の掛軸)

西生寺 西生寺 「西生寺」である。(←)
「西生寺」は、天平5年(733年)に開かれた中越の古刹である。山号は「海雲山」。また、「西生寺」は日本最古の即身仏がある事でも知られている。

即身仏とは、過酷な修行の末に入定(自らミイラになる事)した僧侶である。裏山にある「弘智堂」には、貞治2 年(1363年)10月2日に入定した弘智法師という僧侶の即身仏が安置されている。(→)
希望すれば即身仏の拝観が出来るが、即身仏は徳の高い僧侶が厳しい修行を行った結果である。物見遊山や興味本位で見てはいけない。

西生寺 西生寺 裏には「社務所」と「宝物庫」がある。(←)
「宝物庫」には、明治天皇が日清戦争の戦勝を祈願した「天覧の掛軸」や、乃木将軍の書簡、大正天皇直筆の書等が展示されている。他にも、弘智法師にまつわる貴重な品々等が展示されている。

裏の駐車場の脇から展望台に通じる道がある。この展望台は、昭和57年(1982年)ににいがた景勝100選第8位に選ばれた。(→)

展望台は駐車場から直ぐの所にある。日本海と眼下の田園風景を望む事が出来る。(↓)

西生寺

展示内容詳細はこちら

・西生寺の宝物庫

「西生寺」の歩き方

「西生寺」は寺泊の中心部からやや北にある。
寺泊への行き方は「中央海浜公園」の歩き方を参照。

西生寺 西生寺 寺泊の中心部から「国道402号線」を北に向かい、「野積橋」で「大河津分水路」を越えて更に北に向かう。
「野積橋」から約2km行くと「県道440号線」に入る交差点があるので右折する。ここに「西生寺への案内看板」が出ている。右折して直ぐの「T字路」を左折し、集落の中を暫く進む。途中、「案内看板」があるが、やがて道が細く急勾配になるので注意する事。更に進むと「西生寺」の「本堂」が見えてくる。
「本堂」の裏に駐車場があり、その脇に「社務所」と「宝物庫」がある。「弘智堂」は「本堂」の横の裏山にある。境内に「案内看板」が出ている。

「宝物庫」は自由に見学する事が出来る。
即身仏の拝観を希望する場合は、「社務所」で拝観料500円を払う。拝観希望者が有る場合は20分毎に御開帳されるので、指定された時間までに「弘智堂」の前に集合する。
時間になるとお寺の関係者の案内で「弘智堂」に入り、読経の後に即身仏が御開帳されるので、有難く拝観する事。当然、即身仏は撮影禁止である。

入場料(即身仏拝観):大人・高校生500円 小・中学生300円
開場時間:09:00-16:00
休館日:年中無休
HP:http://www.saisyouji.jp/
住所:〒940-2501  新潟県長岡市寺泊野積8996
電話:(0258) 75-3441
(2011年現在)

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