新潟県北部(下越):五泉市

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新潟県北部(下越):五泉市

五泉市 五泉市 五泉市は、昭和29年(1954年)に市制施行した新潟県北部(下越)の自治体である。ぼたんの栽培が盛んな事で全国的に知られている。

五泉市村松は、天保元年(1644年)に成立した村松藩の城下町で、明治4年(1871年)の廃藩置県まで12代227年間続いた。
そして、明治30年(1897年)8月、村松町(当時)に歩兵第三十連隊の兵営が置かれて以来、新潟県有数の軍都として発展した。歩兵第三十連隊は後に上越市高田に移駐したが、代わって歩兵第百五十八連隊が駐屯した。その後も「陸軍少年通信兵学校」が開設された。また、「村松兵営」の側には「村松陸軍病院」が置かれた。

郊外の愛宕山には、日露戦争の勝利を記念して「村松記念公園」が造られ、現在でも桜の名所として親しまれている。
尚、村松町は平成18年(2006年)1月1日に五泉市と新設合併して五泉市となった。

五泉市公式HP

村松兵営跡地(歩兵第三十連隊兵営跡地・陸軍少年通信兵学校跡地)
村松陸軍病院跡
村松練兵場跡地
村松公園
村松公園の慰霊碑・記念碑
村松公園の灯篭・鳥居

「村松兵営跡地」(歩兵第三十連隊兵営跡地・陸軍少年通信兵学校跡地)

村松兵営跡地 村松兵営跡地 「村松兵営跡の碑」である。(←)
明治29年(1896年)、新発田市の歩兵第十六連隊を基幹として歩兵第三十連隊が編成された。これに対し、村松町(当時)の町会では愛宕原の約40000坪の敷地の献上を議決し、同年8月に歩兵第三十連隊が村松に置かれることが決定した。明治30年(1897年)8月、「村松兵営」に歩兵第三十連隊が移駐、ここに軍都村松の歴史が始まった。
現在、「村松兵営跡地」は「五泉市村松体育館」や「愛宕小学校」となっている。「碑」は、昭和54年(1979年)4月24日、当時の関係者によって「五泉市村松体育館」の側に建てられた。(→)

村松兵営跡地 村松兵営跡地 「村松兵営」とその周辺の配置。(←)
「兵営」は面積約40000坪、「兵営」の南側一帯は「練兵場」(48200坪)で、その更に南に「作業場」(27550坪)や「射撃場」(22780坪)があった。「兵営」の側には「村松陸軍病院」が置かれていた。

明治40年(1907年)3月2日発行の「歩兵第三十連隊略図」。当時の様子が分かる。(→)
中央が「兵営」、その右が「練兵場」、道を挟んで下が「村松衛戍病院(村松陸軍病院)」である。「略図」の右端には「村松公園」の「忠魂碑」が描かれている。

村松兵営跡地 村松兵営跡地 「村松兵営営門跡」が遺されている。(←)
当時の「門柱」が2基遺されており、向かって左の「門柱」の脇に「歩哨舎」が復元されている。現在の「日の出町交差点」である。

明治時代末期から大正時代にかけての「村松兵営営門」の様子。「歩哨舎」と歩兵第三十連隊の看板が見える。(→)

歩兵第三十連隊は大正14年(1925年)3月に上越市高田に移駐したが、その後、新発田市の歩兵第十六連隊第三大隊が「村松兵営」に分屯した。

村松兵営跡地 村松兵営跡地 昭和16年(1941年)7月には新編の歩兵第百十六連隊が駐屯、昭和18年(1943年)9月には「陸軍少年通信兵学校」が置かれた。

「営門」脇の「歩哨舎」は、平成16年(2004年)に復元された。(←)

「村松兵営」が置かれると、町では往来の便を図る為に「営門」から町の中心部まで新たな道を建設した。この道は「営所通り」と呼ばれ、将兵を相手に多くの商店が立ち並んで栄えた。
写真は昭和初期の「営所通り」の様子。(→)

村松兵営跡地 村松兵営跡地 「営所通り」は、現在では「学校町通り」と名前は変ったものの、当時の名称を示す案内看板がある。(←)

軍都村松のメインストリートとして賑わった「営所通り」も、現在はシャッターの閉まった商店も多く、寂れてしまっているようである。(→)

併しながら、この道は確かに「村松兵営」の「営門」へと続いていた。この場所では、出征する将兵の堂々たる行進を多くの人が沿道で見送り、凱旋する将兵の帰還もまた多くの人が日の丸の旗と共に出迎えたのである。

「村松兵営跡地」の歩き方

五泉市村松にある。

村松兵営跡地 村松兵営跡地 長岡市新潟市方面から五泉市へ行く場合は、「北陸自動車道」に乗って「新潟中央JCT」で「磐越自動車道」に乗り換え、「安田IC」で降りる。「安田IC」で降りて「県道41号線」を西に向かうと五泉市内(「JR五泉駅」付近)に到着する。

「安田IC」から「県道41号線」を約5.5km行った「本町三交差点」を左折して「県道7号線」を南に向かう。「本町三交差点」から約5.5kmの「下町交差点」を左折して「県道290号線(栄所通り)」に入る。「下町交差点」から東に約1.2km行くと「村松兵営営門跡」(日の出町交差点)がある。

村松兵営跡地 村松兵営跡地 新発田市方面から五泉市へ行く場合は、「国道290号線」を南西に向かう。新発田市中心部から約25kmで五泉市内の「原町交差点」(「安田IC」付近)に到着する。

「原町交差点」を左折して「国道49号線」を南東に向かう。「原町交差点」から約4kmで「馬下橋東詰交差点」があるのでこれを右折して「国道290号線」に入る。暫く道なりに進むと「馬下橋東詰交差点」から約10kmで「村松兵営営門跡」(日の出町交差点)がある。

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「村松陸軍病院跡」

村松陸軍病院跡 村松陸軍病院跡 村松兵営跡地」の直ぐ近くに「村松陸軍病院跡」が遺されている。(←)

「村松陸軍病院は」、明治29年(1896年)に「村松衛戍病院」として開設された。大正14年(1925年)に「新発田衛戍病院村松分院」となり、昭和13年(1938年)には「新発田陸軍病院臨時村松分院」と改称、そして昭和16年(1941年)に「村松陸軍病院」となった。

「村松陸軍病院」の入口の「門柱」2基が遺されている。(→)
写真は入口に向かって右側の「門柱」。

村松陸軍病院跡 村松陸軍病院跡 反対側にはもう1基、入口に向かって左側の「門柱」が遺されている。蔦に覆われて見えにくい。(←)

「村松陸軍病院」は、昭和20年(1945年)、 陸軍の解体により厚生省へ移管、国立村松病院となる。その後、昭和28年(1953年)に「国立療養所村松病院」となりった。

「国立療養所村松病院」は、平成7年(1995年)に「南部郷厚生病院」となって現在に至る。(→)

「村松陸軍病院跡」の歩き方

村松陸軍病院跡 村松陸軍病院跡 村松兵営跡地」の南西にある。

村松兵営跡地」の「営門跡(日の出町交差点)」から「国道290号線(営所通り)」を南西に150m程行くと、左手に「南部郷厚生病院の看板」があり、「南部郷厚生病院」に続く道がある。
この道を入ると、両側が住宅地になっている。道に入って100m程進むと、細い道と交差する「十字路」の所に「門柱」2基がある。

「門柱」から先が、嘗ての「村松陸軍病」の敷地である。更に先に進むと「南部郷厚生病院」があるが、むやみに立ち入ってはいけない。

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「村松練兵場跡地」

村松練兵場跡地 村松練兵場跡地 村松兵営」の南側から「村松公園」にかけての一帯には、嘗て「練兵場(演習場)」や「射撃場」があった。
(写真番号は地図の撮影場所の番号と一致)

「練兵場跡地」を望む。(←)(写真@)

現在、一帯は「新潟大学農学部付属フィールド科学教育センター村松ステーション」や「野球場」となっている。(→)(写真@)

「練兵場」は面積48200坪、その南側には「射撃場」(22780坪)や「作業場」(27550坪)があった。

村松練兵場跡地 村松練兵場跡地 村松兵営」と「練兵場」の位置関係。(←)
村松兵営」から「村松公園」にかけての一帯が「練兵場」や「射撃場」であった。「射撃場」の更に南の山の中に「陸軍墓地」があったが、現在は老人ホームになっているようである。

村松公園」の愛宕山の展望台から「村松兵営跡地」「練兵場跡地」を見る。(→)
右側の開けた場所が「練兵場跡地」、左側のやや大きな水色の屋根の建物が「五泉市村松体育館」である。「五泉市村松体育館」の周辺が「村松兵営跡地」である。(写真A)

「村松練兵場跡地」の歩き方

村松練兵場跡地 村松練兵場跡地 村松兵営跡地」の南にある。

村松兵営跡地」の「営門跡(日の出町交差点)」から「五泉市村松体育館」の前の道を南に500m程行くと、左手に広い芝生の敷地が見えてくる。
この芝生が「練兵場跡地」である。更に南が「作業場跡地」、その更に南の「愛宕中学校」付近が「射撃場跡地」である。

現在、「練兵場跡地」や「作業場跡地」は「新潟大学農学部付属フィールド科学教育センター村松ステーション」になっている。

新潟大学農学部付属フィールド科学教育センター村松ステーション」の「看板」の近くに「ふるさと会館」や「忠犬タマ公の像」がある。

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「村松公園」

村松公園 村松公園 「村松公園」である。写真は「開設記念碑」。(←)

「村松公園」は、明治39年(1906年)10月、日露戦争の戦勝を記念して「村松記念公園」として造られた。

戦後も「村松公園」として市民に親しまれ、春は桜、秋は紅葉、他にもツツジ、牡丹、アジサイ等、四季折々の花が見られる。(→)
昭和57年(1982年)には、にいがた景勝100選第3位に選ばれた。また、3000本を越す桜は特に有名で、平成2年(1990年)、全国さくら名所100選の1つにも選ばれた。新潟県ではここを含めて3箇所である。

村松公園 村松公園 「公園」の入口近く、「ふるさと会館」の側に「忠犬タマ公の像」が建てられている。(←)
忠犬タマ公は、昭和初期の五泉市川内の猟犬タマで、主人が2回も雪崩に巻き込まれたのを、2回とも掘り起こして救助した。当時、この事は全国的に報道され、タマは忠犬としてアメリカでも表彰された。
「像」は、昭和57年(1982年)11月に新潟駅前に建立されたが、後にここに移設された。

また、平成15年(2003年)4月に「忠犬タマ公の石碑」が建てられた。題字は、当時の内閣総理大臣であった小泉純一郎の手によるものである。(→)

村松公園 村松公園 また、「村松公園」には歩兵第三十連隊や陸軍少年通信兵に関連する「慰霊碑」や「記念碑」が建てられている。(詳細)(←)

愛宕山の中腹には「愛宕神社」があり、「展望台(あづまや)」が設けられている。(→)

ここからは、眼下に「村松兵営」や「練兵場」のあった愛宕原を望む事が出来る。(↓)
左側のやや大きな建物が「五泉市村松体育館」で、その周辺が「村松兵営跡地」、やや右側の開けた場所が「練兵場跡地」である。

村松公園


「村松公園」の歩き方

村松公園 村松公園 村松兵営跡地」の南にある。

村松兵営跡地」の「営門跡(日の出町交差点)」から「五泉市村松体育館」の前の道を南に500m程行くと、左手に広い芝生の敷地が見えてくる。この芝生は「練兵場跡地」である。

更に進むと突き当たりの先が「村松公園」で、その後ろの山が「愛宕山」である。
突き当たりを右折した右手に「ふるさと会館」と「駐車場」がある。道(県道17号線)を挟んだその向かいに「公園入口の鳥居」がある。

入場料:無料 開館時間:終日 駐車場:300台

五泉市商工観光課 村松事務所
住所:〒959-1705  新潟県五泉市村松乙130番地1号
電話:(0250) 58-7181

村松公園事務所
電話:(0250) 58-2147

(2011年現在)

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「村松公園の慰霊碑・記念碑」

村松公園の慰霊碑・記念碑 村松公園の慰霊碑・記念碑 「忠霊塔」(←)

「忠霊塔」の脇には「石柱」がある。護国の英霊此処に眠ると彫られている。(→)

村松公園の慰霊碑・記念碑 村松公園の慰霊碑・記念碑 「歩兵第三十連隊忠魂碑」である。(←)
明治39年(1907年)3月に建立された。題字は陸軍中将西島助義によるもの。

歩兵第三十連隊は、明治37年(1904年)2月から明治38年(1905年)9月の日露戦争に於いて、第一軍第二師団隷下の連隊として従軍、明治38年(1905年)5月以降、主として満州(中国東北部)に於ける戦闘に参加し、同年12月、「村松兵営」に帰還した。

「忠魂碑」は日露戦争に於ける連隊の戦没者を慰霊する為に建てられた。(→)

村松公園の慰霊碑・記念碑 村松公園の慰霊碑・記念碑 「戦没陸軍少年通信兵慰霊碑」(←)(→)
陸軍少年通信兵制度は昭和8年(1933年)に始まり、戦場で重要な役割を果した通信兵の教育をおこなった。大東亜戦争開戦と共に通信兵の大量養成が急務となり、昭和18年(1943年)9月、「村松兵営」に「陸軍少年通信兵学校」が開設され、終戦までに約7000名の少年通信兵が軍務に就いた。しかし、うち約800名は再び還らず、護国の為に若い命を散らした。

「慰霊碑」は、昭和45年(1970年)10月11日、全国陸軍少年通信兵連合会によって建立され、その後も維持整備されている。(→)

村松公園の慰霊碑・記念碑 村松公園の慰霊碑・記念碑 「村松陸軍少年通信兵慰霊の樹」である。(←)
平成18年(2006年)10月20日、当時の関係者によって「忠霊塔」の近くに植えられた。

「大正天皇御野立所の碑」である。(→)

「村松公園の慰霊碑・記念碑」の歩き方

村松公園の慰霊碑・記念碑 村松公園の慰霊碑・記念碑 村松公園」の公園内にある。

ふるさと会館」の向かいの「公園入口の鳥居」から公園に入り、少し進むと右手の奥に「忠霊塔」がある。「忠霊塔」に向かって手前左側に「村松陸軍少年通信兵慰霊の樹」がある。
そこから更に進むと「村松公園事務所」があり、それに向かって左側(南東側)の丘の上に「戦没陸軍少年通信兵慰霊碑」がある。そこから更に南東側の丘が一段高くなった所に「歩兵第三十連隊忠魂碑」がある。
尚、「村松公園事務所」の側に公園の「案内看板」が出ているのでこれを見るといいだろう。

「大正天皇御野立所の碑」は、「ふるさと会館」の近のロータリーの中にある。道を挟んで反対側には「忠犬タマ公の像」がある。

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「村松公園の灯篭・鳥居」

村松公園の灯篭・鳥居 村松公園の灯篭・鳥居 「公園北側の石灯籠」(←)
村松公園の北側、「開設記念碑」の側に「石灯籠」2基が遺されている。何れも、日露戦争の戦勝記念に建てられたものである。

「石灯籠」の基部には明治乙巳(明治38年)と彫られているが、その横の戦捷記念の戦捷の文字が消されてしまっている。(→)

こうなった経緯は不明であるが、大東亜戦争後、それまでの歴史を否定しようとする反動的な思想を持つ者が少なからず現れた。

村松公園の灯篭・鳥居 村松公園の灯篭・鳥居 その様な思想を持つ者は、表向きは平和や非戦を唱えて軍隊や軍人を批判しているが、実質は排他的で偏向的な考え方に支配されていた。
ここでも一時的にその様な者の意見がまかり通り、日露戦争の戦勝という事実を葬り去ろうとして文字を消したのではないだろうか。しかし、歴史の真実は普遍であり、これらの「石灯籠」は日露戦争の勝利という輝かしい歴史を今日に伝えているのである。

「石灯籠」の上部(火袋)には錨のと山形(軍を意味する)が彫られている。(←)
別な面には、日章旗と旭日旗も彫られている。(→)

村松公園の灯篭・鳥居 村松公園の灯篭・鳥居 「機雷を使った石灯籠」(←)
傘の部分に機雷の外殻が使用されている。鉄の地肌の上にリベットやチェーンのリングが見える。日露戦争の勝利を記念して用廃機雷を用いて製作されたのだろうか。

日露戦争に於いて、旅順のロシア軍港を巡る海戦で、日本海軍は2隻、ロシア海軍は1隻の戦艦を機雷によって失っている。

「村松将校家族會の石灯籠」(→)
土台部分に奉納村松将校家族会とある。

村松公園の灯篭・鳥居 村松公園の灯篭・鳥居 「公園入口の鳥居」(←)

歩兵第三十連隊将校団と彫られている。日露戦争の戦勝記念に寄贈したと思われる。

「公園入口の石灯籠」(→)

明治乙巳戦捷記念と彫られている。
「公園北側の灯篭」と異なり、こちらは戦捷記念の戦捷の文字が遺されている。

「村松公園の灯篭・鳥居」の歩き方

村松公園の灯篭・鳥居 村松公園の灯篭・鳥居 村松公園」の入口や公園内にある。

「公園北側の石灯籠(灯篭@)」は、「忠霊塔」の近く、「ふるさと会館」の前の道(県道17号線)を西に200m程行った場所の左右にある。
直ぐ側には「開設記念碑」がある。

「機雷を使った石灯籠(灯篭A)」は「村松公園事務所」の前にある。

「村松将校家族會の石灯籠(灯篭B)」は「村松公園事務所」の後ろの池の側にある。

「公園入口の鳥居」と「公園入口の石灯籠(灯篭C)」は、「ふるさと会館」の向かいの公園入口にある。

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