キャンベラ

シドニー・キャンベラ・メルボルン

シドニー・キャンベラ・メルボルンの戦跡
大東亜戦争におけるシドニー・キャンベラ・メルボルンの歴史
現地への行き方と現地交通情報(旅行情報)

シドニー・キャンベラ・メルボルンの戦跡

キャンベラ

キャンベラ キャンベラ

オーストラリア戦争記念館
(Australian War Memorial)
   展示内容詳細はこちら
カウラ捕虜収容所跡
日本人戦没者墓地
オーストラリア人戦没者墓地、カウラ墓地
日本庭園、桜通り

「オーストラリア戦争記念館(Australian War Memorial)」

オーストラリア戦争記念館(Australian War Memorial) オーストラリア戦争記念館(Australian War Memorial) キャンベラの人口湖の北側のほとりから続く大通りの突き当たりに「オーストラリア戦争記念館」がある。正面入口を入ったところは追悼ホールとなっている。(←)

ここはオーストラリアが関わった戦争に関する武器や資料が多く集められている。(→)

オーストラリア戦争記念館(Australian War Memorial) オーストラリア戦争記念館(Australian War Memorial) シドニー港攻撃を行った特殊潜航艇である。特殊潜航艇が侵入した経路や乗組員に関する資料など、詳しく紹介されている。(←)

日本軍兵器としては他に「零式艦上戦闘機(零戦)」「八八式七糎半野戦高射砲(88式7.5cm野戦高射砲) 」「九九式軽機関銃」などがある。(→)

別館には「一式戦闘機(隼)」「九四式軽装甲車」などが収蔵されているようであるが、こちらは特別展示の日しか公開していないようである。

展示内容詳細はこちら

・特殊潜航艇(イ22号・イ27号搭載艇)
・零式艦上戦闘機二一型(零戦21型)
・八八式七糎半野戦高射砲(88式7.5cm野戦高射砲)
・ブルーノZB26軽機関
・九九式軽機関銃
・日本軍その他展示品
・V1飛行爆弾、FLAK 36
・連合軍兵器


「オーストラリア戦争記念館(Australian War Memorial)」の歩き方

オーストラリア戦争記念館(Australian War Memorial) オーストラリア戦争記念館(Australian War Memorial)

City Hill方面からはParkes Wayを西へ。Anzac Pde.という大通りで左折したところの正面の建物が記念館である。

入場料:無料だが寄付金箱がある
休館日:クリスマスデー
開館時間:10:00-17:00
HP: http://www.awm.gov.au/
(2011年現在)

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「カウラ捕虜収容所跡」

カウラ捕虜収容所跡 カウラ捕虜収容所跡 キャンベラの北約200km、シドニーの西約250kmのカウラという人口約8万人の町の郊外には捕虜収容所があった。ここに昭和19年(1944年)8月時点で1104名の日本人捕虜がおり、8月5日に大規模な脱走事件が起きた。現在は建物跡のみが残る。(←)

収容所跡への入口に、同じ場所から撮影した当時の写真がある。(→)

カウラ捕虜収容所跡 カウラ捕虜収容所跡 収容所の見取り図である。敷地は正12角形で、直径に相当する部分は約600mである。北東のBブロックに日本兵が、南西のDブロックに日本人将校と台湾人、朝鮮人が収容されていた。見取り図には矢印で脱出経路が記されている。(←)

なお、AブロックとCブロックにはイタリア人捕虜が収容されていた。イタリア人は主に北アフリカ戦線で捕虜になった者達である。イタリア人は脱走に参加していないが、収容中に亡くなった人のための慰霊碑が建てられている。(→)

カウラ捕虜収容所跡 カウラ捕虜収容所跡 収容所はオーストラリア第22守備隊により監視されており、守備隊には「ヴィッカース機関銃」と「ブレンガン」が配備されていた。この監視塔は当時のものではなく、戦後にモニュメントとして建てられたものである。(←)

収容所跡に入っていくと、ところどころ当時の写真を交えた説明板がある。(→)

収容所での作業は周辺での農作業程度で、野球などのレクリエーションの自由もあったようである。また、魚をあまり食べないオーストラリア人とは別に魚が支給されるなど、待遇は悪くなかったようである。

カウラ捕虜収容所跡 カウラ捕虜収容所跡 しかし、当時の日本人は捕虜になることを大変な恥と考えていたため、成功を前提としない脱走が計画された。脱走後の具体的な計画があった訳ではなく、ひと暴れして華々しく散る、ということ自体が目的だったようである。脱走は多くの死傷者を出して最終的には全員捕縛された。

建物の基礎部分である。(←)

トイレのようである。ここで日本人将兵が小便をしていたのか、と思いをはせる。(→)

「カウラ捕虜収容所跡」の歩き方

カウラ捕虜収容所跡 カウラ捕虜収容所跡

キャンベラの北から伸びる25号線を北に行く。31号線に出たらメルボルン方面(西へ)へ行く。しばらく31号線を走ると81号線が出てくるので、ここを右折し、再び北上する。なお、81号線に入るところには「Cowra(カウラ)方面」の看板があるが、小さいので見落としやすい。

カウラ市街まで行ったところで24号線を右折する。橋を渡ってしばらく行くと、「Japanese Garden(日本庭園)」の方向を示す看板がある交差点があるので、ここを左折する。日本庭園の横を抜けてSakura Ave.をしばらく北へ行ったところの右手側が収容所跡である。高い監視塔が近くにあるので目印になるだろう。

シドニーからだと西へ300km弱の道のりとなる。

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「日本人戦没者墓地」

日本人戦没者墓地 日本人戦没者墓地 収容所跡から少し北に「日本人戦没者墓地」がある。ここには脱走事件で死亡した人のほか、収容所で亡くなった日本人が葬られている。(←)

「日本人戦没者之墓」の碑である。昭和三十九年九月と刻まれている。(→)

この敷地は1963年にオーストラリアから日本へ正式に割譲された日本の領土である。もちろん実質的にはオーストラリア政府が管理しており日本政府の主権が及ぶ土地ではないが、日本領の最南端は沖の鳥島ではなくカウラなのである。

日本人戦没者墓地 日本人戦没者墓地 墓地の左手奥側が脱走事件で死亡した人の墓となっている。日付は事件のあった「1944年8月5日」である。当時は捕虜になるというのは大変な恥と考えられていたため、偽名を使う人が多かった。多くの人が偽名のまま名を刻まれている。(←)

ダーウィン空襲時にエンジン故障で不時着して捕虜となった豊島一一飛曹の墓である。「南へ行って忠誠を尽くす男」という意味で「南忠男」との偽名を使ったそうである。なお、不時着した豊島機はダーウィンの「オーストラリア航空歴史センター」に遺されている。(→)

日本人戦没者墓地 日本人戦没者墓地 脱走時に携行できたものはフォークやナイフのほかバット程度であり、機関銃を装備したオーストラリア警備兵に対抗できる状態ではなかった。脱走した日本人捕虜のうち231名が死亡し、108名が負傷した。豊島一飛曹は脱走事件の8人のリーダーの一人であり、事件後ナイフを使って自決した。

ダーウィン空襲で戦死した12人の海軍搭乗員の慰霊碑である。墓地の一番右手奥にある。(←)

氏名が不明な者は「UNKNOWN JAPANESE AIRMAN」となっている。(→)

「日本人戦没者墓地」の歩き方

日本人戦没者墓地 日本人戦没者墓地

カウラ市街中心から北に日本庭園方面へ。日本庭園からSakura Ave.を北へ行くと、右手に捕虜収容所跡がある。ここを過ぎたところの突き当りを左折する。しばらくするとBinni Creek Rd.という比較的大きい道があるのでここを右折する。しばらくすると「Cemetery(墓地)」を示す看板があるので、それに従って左折する。日本人戦没者墓地は道の右手側にある。

日本人戦没者墓地はカウラ墓地に隣接する。

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「オーストラリア人戦没者墓地、カウラ墓地」

オーストラリア人戦没者墓地、カウラ墓地 オーストラリア人戦没者墓地、カウラ墓地 「日本人戦没者墓地」の右隣に「オーストラリア人戦没者墓地」がある。カウラの東側には大規模なオーストラリア軍の歩兵隊基地があり、約8万人のオーストラリア兵がこの基地に滞在した経験があった。(←)

訓練中に事故や病気で亡くなった兵士が祀られている。(→)

オーストラリア人戦没者墓地、カウラ墓地 オーストラリア人戦没者墓地、カウラ墓地 この中に脱走事件の際にはオーストラリア側にも死者が出た。ハリー・ドンカスター、ラルフ・ジョーンズ、ベン・ハーディ、チャールズ・シェパードの4名である。(←)

ドンカスター中尉は脱走事件のあった日の午後に脱走した日本人捕虜を捉えようとして命を落とした。享年38歳であった。(→)

オーストラリア人戦没者墓地、カウラ墓地 オーストラリア人戦没者墓地、カウラ墓地 日本人戦没者墓地を挟んで反対側はカウラ墓地となっている。こちらは一般用の墓地のようである。収容所で亡くなったイタリア人捕虜も当初カウラに埋葬されていたが、遺骨は1961年にビクトリア州のマーチソンに移された。(←)

この墓地の一角にインドネシア人愛国主義者の墓がある。彼らはインドネシアを植民地としていたオランダに昭和2年(1927年)以来投獄されていた。日本軍の蘭印侵攻に従って日本軍へ協力されるのを恐れたオランダ政府がオーストラリア政府に収容を依頼していた。(→)

「オーストラリア人戦没者墓地、カウラ墓地」の歩き方

オーストラリア人戦没者墓地、カウラ墓地 オーストラリア人戦没者墓地、カウラ墓地

カウラ市街中心から北に日本庭園方面へ。日本庭園からSakura Ave.を北へ行くと、右手に捕虜収容所跡がある。ここを過ぎたところの突き当りを左折する。しばらくするとBinni Creek Rd.という比較的大きい道があるのでここを右折する。しばらくすると「Cemetery(墓地)」を示す看板があるので、それに従って左折する。二つの墓地は道の右手側にある。

日本人戦没者墓地を挟んで、オーストラリア人墓地は右側、カウラ墓地は左側にある。

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「日本庭園、桜通り」

日本庭園、桜通り 日本庭園、桜通り 1978年に京都の修学院離宮の様式にのっとって造られた日本庭園である。ここには日本の文化を紹介する日本文化センターが併設されている。(←)

設計は中島飛行機で知られる中島一族の造園家中島健である。(→)

日本庭園、桜通り 日本庭園、桜通り 園内には美しい和風の庭園が広がる。外周にユーカリの木があり、少しオーストラリア風味を取り入れている。(←)

庭園はカウラの町の北の小高い丘にある。ここからはカウラの町がよく見渡せる。(→)

日本庭園、桜通り 日本庭園、桜通り 脱走事件の8日後、脱走した日本兵の最後の2人が捕まった。この2人は食料が尽き、ウィアー家の農園に迷い込んだところを拘束された。ウィアー夫人がこの2人にお茶を振舞ったときの写真である。このときの1人が40年後に再びこの地を訪れ、ウィアー家と再会を果たした。(←)

警備兵であったウォルマッケンジー氏と脱走に参加した森木勝氏である。この二人は1994年のカウラ脱走事件五十周年記念行事の際に対面し、以後森木氏は定期的にカウラを訪れ日豪友好を深めているそうである。(→)

日本庭園、桜通り 日本庭園、桜通り 日本庭園、収容所跡、戦没者墓地へと続く道は「Sakura Ave.(桜通り)」と名付けられ、桜並木が植樹されている。毎年九月には桜祭りが開催され、シドニーやキャンベラに住む在留邦人を始め、多くの日本人が訪れる。(←)

1000豪ドル寄付すると、日本人とオーストラリア人が木の根元のプレートに一緒に名を刻まれる。(→)

「日本庭園、桜通り」の歩き方

日本庭園、桜通り 日本庭園、桜通り

カウラ市街を東西に通る24号線に「Japanese Garden(日本庭園)」の方向を示す看板がある交差点がある。ここを北へ行いくと日本庭園への入口がある。

「Sakura Ave.(桜通り)」は日本庭園から北側から始まり、捕虜収容所跡の脇を通って日本人墓地まで続く。

日本庭園
入場料:10豪ドル
休館日:なし
開館時間:08:30-17:00
HP: http://www.cowratourism.com.au/
 (カウラ・ビジターインフォメーションセンター)
(2011年現在)

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