新発田市は、戦国時代の豪族新発田氏が居城(新発田城)を構え、後に新発田藩(藩主溝口氏)の城下町として栄えた。戊辰戦争に於いては信越・東北諸藩の中にあって、新政府軍(西軍)側に就いた為に、戦災を免れた。
明治4年(18781年)の廃藩置県後は日本陸軍の軍都として栄え、歩兵第十六連隊を始めとし、歩兵第三十連隊(五泉市村松に移駐)歩兵第五八連隊・歩兵第百十六連隊・歩兵第百五二連隊・歩兵第百五八連隊・歩兵二一五連隊が編成された。これらの部隊は、地元下越の越佐健児の誇りを旨に各地で戦い、そして多くは護国の礎となって散っていった。
現在も、陸上自衛隊第12旅団隷下の第30普通科連隊を主力とする部隊が駐屯、日夜、日本の安全と地域住民の生活を護っている。
・陸上自衛隊新発田駐屯地 (歩兵第十六連隊兵営跡地) 展示内容詳細はこちら ・新発田西公園(第一號新発田公園)
新発田市の中心部に「陸上自衛隊新発田駐屯地」が置かれ、陸上自衛隊第12旅団第30普通科連隊を主力とする部隊が駐屯している。(←)(→) ここは、戦国時代に下越の豪族新発田氏の築いた新発田城があった。明治維新後に新発田城は取壊され、明治4年(1871年)、陸軍東京鎮台歩兵第八番大隊が駐屯した。明治17年(1884年)、陸軍歩兵第十六連隊が創設され、以後、新発田市の連隊としてこの場所に駐屯した。その後、同連隊を基幹として、明治29年(1896年)には歩兵第三十連隊(五泉市村松に移駐)が、昭和12年(1937年)には歩兵第百十六連隊が編成された。
ほかにも、ここに駐屯した部隊としては歩兵第五八連隊、歩兵第百五二連隊、歩兵第百五八連隊、歩兵二一五連隊があった。 大東亜戦争に於いては、これらの連隊は西はビルマや雲南、北は満州や千島列島、そして南はジャワ島(インドネシア)やソロモン諸島ガダルカナル島に出征、越佐健児の誇りと郷土の期待を胸に各地の戦場で戦った。そして、万を越える将兵が生きて再び帰る事は無かった。(←)
戦後、昭和28年(1953年)に保安隊が移駐して「新発田駐屯地」が開設され、昭和37年(1962年)に陸上自衛隊第30普通科連隊が創設された。(→)
第30普通科連隊は、平成13年(2001年)3月末、空中機動性を向上させた第12旅団隷下の部隊として再編成されて現在に至る。
「新発田駐屯地」の隣には、復元された新発田城の「三層櫓」が見える。(←) また、「新発田駐屯地」にある「資料館」には、陸軍関連の品々が多数展示されている。(→) 「資料館」は明治7年(1874年)に落成したフランス式の兵舎(通称:白壁兵舎)であったが、老朽化による損傷が激しく、平成22年(2010年)12月に解体移築工事が開始され、平成25年(2013年)には修復された「新資料館」として完成する予定である。現在はプレハブの「仮設資料館」が公開されている。
・歩兵第十六連隊に関する展示 ・自衛隊の活動に関する展示 ・駐屯地内の遺構
新潟県北部(下越)の新発田市にある。
新潟市方面から新発田市へ行く場合は、「国道7号線(新潟バイパス)」を北東に向かう。新潟市中心部から約20kmで新発田市内(「聖籠新発田IC」付近)に到着する。
長岡市方面から新発田市へ行く場合は、「北陸自動車道」の「長岡IC」から乗り、「日本海東北自動車道」の「聖籠新発田IC」で降りる。「聖籠新発田IC」で降りると「国道7号線(新潟バイパス)」が新発田市内まで通じている。 「長岡IC」から「聖籠新発田IC」までは約80km(1時間弱)である。(高速道路料金検索)
新発田市内に入ったら、「聖籠新発田IC」から「国道7号線」を道なりに進む。「聖籠新発田IC」から約4km行くと「城北町交差点」があるので、ここを右折して「県道21号線」に入る。 「城北町交差点」から「県道21号線」を約1.2km行くと「T字路」に突き当たるので、ここを右折する。少し行くと左手に「郵便局」があり、道が右に折れているので道なりに進む。 暫く進むと右手に「陸上自衛隊新発田駐屯地」が見えてくる。その先で「T字路」に突き当たるので、ここを右折する。「T字路」の直ぐ左前には「西新発田高校」がある。やがて右手前方に「駐屯地」の「正門」が見えてくる。
「正門」で来隊の旨を伝えると、担当の隊員が案内してくれるので指示に従う事。決して無断で立ち入ってはいけない。 尚、「駐屯地」の「正門」の向かいには「新発田西公園(第一號新発田公園)」がある。
入場料:無料(要予約)
開館時間:08:30-16:00(平日のみ)
詳細は新発田駐屯地渉外広報班に問い合わせの事。連絡先は下記を参照。
HP:http://www.mod.go.jp/gsdf/eae/12b/menu/STAsyoukai/shibata/shibata.htm
住所:〒957-8530 新潟県新発田市大手町6丁目4番16号
電話:(0254) 22-3151(代表)
(2011年現在)
ページ先頭に戻る
「新発田西公園」である。(←) 「新発田西公園」は、戦前は「第一號新発田公園」と呼ばれ、新発田市の連隊の戦没者を祀る「慰霊碑」が多数建てられた。終戦後、進駐軍はこれら破壊しようとしたが、市民の反対にあって破壊を断念した。また、戦後も幾つかの「慰霊碑」が建てられ、毎年5月3日・4日(出征・門出の日)に戦没者の霊を慰める招魂祭が行われる。
「越佐招魂碑」(→) 日清戦争での戦没者を祀っており、剣の形をしている。現在(2011年)修理中である。
「西伯利出征戦病没者残骨灰埋葬之地の碑」(←) 大正7年(1918年)8月から大正11年(1922年)10月わたって、シベリア出兵が行なわれた。大正7年(1918年)9月、歩兵第十六師団にも動員が下令され、同年10月、第十三師団隷下としてシベリアに出動した。主にシベリア沿岸州ハンカ湖南東岸方面の戦闘や、エフゲニエフカとニコリスク(現在のウオロシロフ)間における鉄道警備に従事した後、大正10年(1921年)5月、新発田市に帰還した。
昭和12年(1937年)7月に勃発した支那事変に於ける戦没者を祀る「合同忠霊塔」(→)
ビルマ方面で戦没した将兵を祀る「忠霊平和塔」、昭和45年(1970年)8月16日建立。ビルマの仏塔パゴダを模している。(←) 歩兵第十六連隊は、昭和18年(1943年)年12月からビルマ方面に出動、昭和20年(1945年)7月に仏印(ベトナム)に転進するまでの間、連隊長井之上大佐以下2000名近い将兵が散華した。
「軍旗奉焼之碑」(→) 歩兵第十六連隊の軍旗は、昭和20年(1945年)8月23日に奉焼されたが、一部が「新潟県護国神社」に現存する。
「忠霊塔」に掲げられている額の題字は、今村均陸軍大将によるものである。(→) 今村大将は、第二十三軍司令官として大東亜戦争開戦劈頭の蘭印(オランダ領インドネシア)攻略を指揮し、占領後の軍政に於いては、現地のインドネシア人から大きな支持を得た。尚、歩兵第十六連隊も蘭印攻略に参加している。 その後、第八方面軍司令官としてニューブリテン島ラバウルの防衛を指揮した。戦後は、戦死した将兵の慰霊と大東亜戦争の記録を執筆する為に余生を捧げた。
「忠霊塔」に向かって右側にも幾つかの慰霊碑が建てられている。(←)
「日露戦役忠霊塔」(→) 明治37年(1904年)2月から明治38年(1905年)9月の日露戦争に於いて、新発田市からは歩兵第十六連隊が出征、第二師団隷下として中国東北部(満州)に於ける遼陽会戦・沙河会戦・黒溝台会戦・奉天会戦等の主要な戦闘に参加した。また、この時編成された後備歩兵第十六連隊は第三軍に編入され、旅順での戦闘に参加した。
「ガダルカナル島戦 記念碑」(←) 昭和17年(1942年)8月からソロモン諸島ガダルカナル島の攻防戦が開始され、同年10月、第二師団がガダルカナル島に上陸し、隷下の歩兵第十六連隊もこれに参加した。しかしその後の戦闘と飢えや病によって多くの将兵が戦死した。 正面の石は、ガダルカナル島の石である。
「記念碑」の裏にはガダルカナル島ルンガ岬から持ち帰った貝殻が置かれている。(→) 昭和46年(1971年)10月14日、政府派遣遺骨集集団員であった長谷川栄作氏が寄贈した。
「新発田連隊 遺勲の譜」、平成3年(1991年)8月15日、新発田市西公園戦没慰霊塔・碑保存会によって建てられた。(→) 新発田歩兵第十六連隊は、明治17年(1884年)8月 日に軍旗拝受して以来、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、満州事変、支那事変、ノモンハン事件、大東亜戦争と、日本の殆どの戦役に参加してきた歴戦の連隊であった。昭和20年(1945年)8月23日、終戦にともなって軍旗を奉焼、約60年間にわたる新発田連隊の歴史に終止符が打たれた。その間の戦没者は約15000名であった。
新発田市の「陸上自衛隊新発田駐屯地」の「正門」の向かいにある。周辺までは「陸上自衛隊新発田駐屯地」の歩き方を参照。
「新発田西公園」の南側に「駐車場」がある。
「陸上自衛隊新発田駐屯地」の「正門」の向かいの入口から入って正面の奥に「越佐招魂碑」がある。その右側に慰霊碑多数がある。
ページ先頭に戻る