大阪城:二の丸地区(本丸北側)・山里丸地区

大阪府

大阪府の戦跡
大東亜戦争における大阪府の歴史
現地への行き方と現地交通情報(旅行情報)

大阪府の戦跡

大阪城:二の丸地区(本丸北側)・山里丸地区(本丸北側・刻印石広場周辺)

大阪城:二の丸地区(本丸北側) 大阪城:二の丸地区(本丸北側) 二の丸地区(本丸北側)は、大阪城公園の北西に位置し、大阪城の二の丸にあたる場所である。
京街道から近く、大阪城の主要な入口である「京橋口」がある。その為、江戸時代は大坂定番(幕府の役職)の屋敷が置かれ、大坂城内の警備を司っていた。明治維新後、大坂定番(京橋口定番)の大名屋敷跡地には「陸軍兵学寮(陸軍士官学校)」の施設が建設された。

二の丸地区(本丸北側)
京橋口
中国製の狛犬
陸軍士官学校施設跡地(京橋口定番屋敷跡)
青屋門

大阪城:山里丸地区(本丸北側・刻印石広場周辺) 大阪城:山里丸地区(本丸北側・刻印石広場周辺) 山里丸地区(本丸北側・刻印石広場周辺)は、大阪城公園の北に位置する。
二の丸とは本丸唯一の橋である「極楽橋」で結ばれてい為、江戸時代は大阪城本丸の北側の守りとして重要な場所であった。大阪夏の陣(慶長20年・1615年)では、徳川方に追い詰められた豊臣秀頼と淀君が自害した場所でもある。

現在、山里丸地区には、「刻印石広場」があり、江戸時代の大阪城再建の際に、工事を担当した各藩の刻印が彫られた石が多数置かれている。

山里丸地区(本丸北側・刻印石広場周辺)
山里丸石垣の機銃掃射痕
真心碑

「京橋口」

京橋口 京橋口 二の丸地区(本丸北側)にの西側に「京橋口」がある。「京橋口」には江戸時代に造られた「京橋口門」「京橋口多門櫓」があり、明治維新の大火(明治元年・1868年)も免れた。その後は大阪城内の陸軍関連施設への入口として使用され、「京橋口門」は歩哨によって警備されていた。(←)
「京橋口門」「京橋口多門櫓」は、昭和20年(1945年)8月14日、米軍の空襲によって焼失し、現存しない。

「京橋口」周辺の石垣は、比較的大きな石で造られている為、石垣というよりコンクリート製の壁の様な印象を受ける。(→)

京橋口 京橋口 「京橋口」から城内(二の丸)に入ると枡形(防御用に石垣で四角く囲われた区画)がある。(←)
かつてこの上に「京橋口多門櫓」があった。

ここには大阪城内第2位の巨石である「肥後石」(表面積:33畳敷・54.17u)がある。(←)
「肥後石」の左に「京橋口」第2位(大阪城内第7位)の巨石(表面積:22畳敷・36.00u)がある。

「京橋口」の歩き方

「京橋口」は、二の丸地区(本丸北側)の西端にある。

京橋口 京橋口 「寝屋川橋東詰」交差点を南に行き、途中の左手にある「筋金門跡」を過ぎて更に進むと「西外堀」に突き当たる。ここを左に入った所が「京橋口」である。

または、「追手門学院小学校」の南側を「西外掘」に沿って東に進むと、前方に「京橋口」が見えてくる。

「京橋口」付近から北西を見る。(写真右 →)
茶色いビルは日本経済新聞社である。その手前には「追手門学院小学校」(「偕行社付属小学校跡」)がある。
かつてはその付近に「軍人会館」があった。

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「中国製の狛犬」

中国製の狛犬 中国製の狛犬 京橋口」から二の丸地区(本丸北側)に入った場所に「中国製の狛犬(こま犬)」が遺されている。(←)
「こま犬」は、中国の明の時代のものであった。(→)

支那事変中の昭和15年(1940年)、中国大陸に出征していた日本軍部隊が、占領地での戦利品としてこの「こま犬」を入手した。「こま犬」は日本本土に運ばれ、陸軍第四師団司令部のあった大阪城内に置かれた。当時は、 山里丸地区の「山里口出桝形」東側の「山里口門(現存せず)」跡の石垣上部に置かれており、戦後も長らくその場所にあった。

中国製の狛犬 中国製の狛犬 昭和58年(1983年)、中国で「こま犬」の返還運動が起きたが、昭和59年(1984年)、中国政府はこれを改め、日中友好の記念として「こま犬」を大阪市に寄贈する事を決定した。この時「こま犬」は現在の場所に移された。
「こま犬」はそれぞれ、高さ約3.2m・重さ約2.9tある。(←)

「こま犬」の側には中国政府から寄贈された時の「記念碑」がある。(→)
碑には「中日友好 萬古長青」と彫られており、当時の中国政府駐日本国特命全権大使であった宋之光の筆によるものである。

「中国製の狛犬」の歩き方

「中国製の狛犬」は、二の丸地区(本丸北側)の西にある。

中国製の狛犬 中国製の狛犬 京橋口」から二の丸地区(本丸北側)に入り、桝形(防御用に石垣で四角く囲われた区画)を越えて進むと、前方に「中国製の狛犬」が見えてくる。(写真右 →)

二の丸地区(本丸北側)の東端の「青屋門」からは、 本丸地区の天守閣を左手に見ながら「内堀」沿いに進んでいくと西の丸庭園地区の手前に「中国製の狛犬」が見えてくる。

「中国製の狛犬」の後ろには「内堀」があり、その向こうの本丸地区には天守閣が見えている。

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「陸軍士官学校施設跡地(京橋口定番屋敷跡)」

陸軍士官学校施設跡地(京橋口定番屋敷跡) 陸軍士官学校施設跡地(京橋口定番屋敷跡) 二の丸地区(本丸北側)に「陸軍士官学校施設跡地」が遺されている。(←)

江戸時代には、この場所に幕府の要職である大坂定番の大名屋敷(公邸)があったが、慶応4年(明治元年・1868年)大阪城開城の際に焼失した。
明治維新後の明治2年(1869年)、この場所に「陸軍兵学寮」が置かれた。「陸軍兵学寮」は「陸軍士官学校」の前身となる陸軍の将校養成施設であった。

現在、この場所は緑地・遊歩道が整備され、当時の痕跡を残すものは全く無い。(→)

「陸軍士官学校施設跡地(京橋口定番屋敷跡)」の歩き方

「陸軍士官学校施設跡地(京橋口定番屋敷跡)」は、二の丸地区(本丸北側)の西にある。

陸軍士官学校施設跡地(京橋口定番屋敷跡) 陸軍士官学校施設跡地(京橋口定番屋敷跡) 京橋口」から二の丸地区(本丸北側)に入り、桝形(防御用に石垣で四角く囲われた区画)を越えて進むと、前方に「中国製の狛犬」が見えてくる。

この付近は「内堀」沿いに広い遊歩道が整備されている。(写真右 →)
その外側のやや細い遊歩道のある緑地一帯が「陸軍士官校施設跡地(京橋口定番屋敷跡)」である。

細い遊歩道の途中に「京橋口定番屋敷跡」の説明看板がある。

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「青屋門」

青屋門 青屋門 二の丸地区(本丸北側)の東端に「青屋口」がある。「青屋口」には「青屋門」が遺されている。(←)
創建は江戸時代で、元和6年(1620年)頃と考えられている。当時は丈夫の櫓部分が石垣沿いに細長く伸びていた。

明治維新の大火(明治元年・1868年)によって焼失したが、その後に陸軍によって再建され、現在の姿になった。併しながら、昭和20年(1945年)、米軍の空襲によって焼失した。昭和44年(1969年)、大阪市が焼残った部材を用いて再建した。(→)

「青屋門」の歩き方

「青屋門」は、二の丸地区(本丸北側)の東端にある。

青屋門 青屋門 大阪城ホール」(太陽の広場地区)の西側にあり、大阪城外からは、三の丸地区(北外曲輪・大阪城公園北側)の遊歩道を挟んで二の丸地区(本丸北側)へと至る入口にあたる。
遊歩道からは「青屋口」に続く道がある。「青屋口」の枡形(防御用に石垣で四角く囲われた区画)は出枡形になっており、外側に枡形の石垣があり、奥に「青屋門」がある。(写真右 →)

大阪城内からは、二の丸地区(本丸北側)の「極楽橋」から内堀を左に見て進むと右手に「青屋門」が見えてくる。また、二の丸地区(本丸東側・梅林)の北端にもあたる。

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「山里丸石垣の機銃掃射痕」

山里丸石垣の機銃掃射痕 山里丸石垣の機銃掃射痕 山里丸地区(本丸北側・刻印石広場周辺)の石垣に米軍の空襲による「被弾痕」が遺されている。(←)

「被弾痕」のある石垣は、「山里口出桝形」の北東の石垣である。(→)

「山里口出桝形」は山里丸地区と本丸地区を繋ぐ「山里口」に造られた桝形(防御用に石垣で四角く囲われた区画)である。
山里丸地区(山里曲輪)に出るように造られている為、特に出桝形と呼ばれている。

山里丸石垣の機銃掃射痕 山里丸石垣の機銃掃射痕 側の看板には「山里丸石垣の機銃掃射痕」とあるが、石が大きくえぐられている部分や、放射線状の「被弾痕」もある為、爆弾の破片・爆風による「被弾痕」も遺されていると思われる。(←)

現在の「山里口出桝形」。(→)
後ろ(南側)には天守閣が見える。ここには本丸地区へと通じる「姫門」があり、写真左側(東側)には山里地区へ通じる「山里口門」があったが、明治維新の大火(明治元年・1868年)によって焼失し、現存しない。

山里丸石垣の機銃掃射痕 山里丸石垣の機銃掃射痕 「山里口門」のあった石垣上部には、支那事変中の昭和15年(1940年)、日本軍部隊が中国大陸で戦利品として入手した 「こま犬」が置かれていた。
昭和20年(1945年)8月の「山里口出桝形」。(←)
東側(写真左上)に 「こま犬」が見える。

「山里口門」のあった「山里口出桝形」の東側。現在、左右の門柱の上には 「こま犬」が置かれていた跡が遺されている。(→)

こま犬」は、昭和59年(1984年)、二の丸地区(本丸北側)西側の「京橋口」から入った所に移された。

山里丸石垣の機銃掃射痕 山里丸石垣の機銃掃射痕 当時の写真では、「山里口出桝形」から「隠し曲輪」に抜ける箇所の石垣(写真右端)が米軍の空襲で破壊されたのが分かる。(←)

この石垣は現在は修復されている。(→)
手前が「隠し曲輪」、向こうが「山里口出桝形」である。

山里丸地区では他にも、南側の石垣の一部が爆弾で吹飛ばされ、北側の内堀に面した石垣も数ヶ所が歪んだ。これらの石垣も現在は修復されている。

「山里丸石垣の機銃掃射痕」の歩き方

山里丸地区の南西である。
本丸地区へと繋がる「山里口出桝形」の石垣底部に「被弾痕」が遺されている。

山里丸石垣の機銃掃射痕 山里丸石垣の機銃掃射痕 説明看板があるが、山里丸地区の西端にあり、「山里口出桝形」の石垣の陰に隠れているのでやや見つけにくい。「真心碑」のある刻印石広場の西端から西の方向に説明看板が見える。

本丸地区へはこの石垣を登る石段があり、その上にスロープが整備されている。スロープを登ると天守閣が見えてくる。

山里丸地区は本丸地区の北側に隣接している。また、二の丸地区(本丸北側)とは橋(「極楽橋」)で繋がっている。(写真右 →)
「極楽橋」を渡って内堀を越え、山里丸地区を通って本丸地区に至る事が出来る。

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「真心碑」

真心碑 真心碑 山里丸地区(本丸北側・刻印石広場周辺)に「真心碑」が建てられている。(←)

「真心碑」は、昭和42年(1967年)年11月、中部第三五航空情報部に勤務していた女子防空通信手有志によって建てられた。(→)

大東亜戦争末期、山里丸地区には中部第三五航空情報部に勤務する女子防空通信手(翼隊)の宿舎があったが、昭和20年(1945年)年6月1日、米軍の空襲で焼夷弾により焼失した。

真心碑 現在の山里丸地区には「刻印石広場」があり、各藩の刻印が彫られた石が多数置かれている。(← 「刻印石広場」)

大東亜戦争後半の昭和18年(1943年)、陸軍は航空情報隊に軍属として女子防空通信手の採用を決めた。
航空情報隊は、各地の防空監視哨から集まる敵航空機に関する情報を集約・分析し、防空戦闘(警戒警報・空襲警報の発令や迎撃機発進等)に於ける各種判断材料を提供する本土防空上重要な部署であった。

女子防空通信手は、高等女学校卒業程度の学力を有する女性という条件で大阪府全域から募集した。これに対して、本土を米軍の空襲から護るべく大勢の女性が応募し、約10倍の競争率であったという。
採用された女子防空通信手は、全国の航空基地・要塞・監視哨の位置、電気・電話の基礎知識、航空機の機種判別、航空情報機器の操作、軍の略号速記等の教育を受けた後、航空情報隊に配属された。
昭和20年(1945年)の時点で総員300名、これを100名ずつ3組に編成した。常時2組が勤務(防空庁舎勤務1日・宿舎での内務1日)、1組が非番であった。

真心碑 防空庁舎に於ける彼女達の任務は、関係府県庁への連絡、電話交換業務、民防空監視隊本部・電波警戒小隊からの情報表示、船舶・離島からの略号による無線航空情報の翻訳等であった。

更に、敵航空機が接近すると各地の防空監視哨からは、発見哨名・発見時刻・発見方向・敵見方の区別・機種・機数・高度・飛行方向が有線・無線で送られてきた。それらを軍略号でメモして作戦室に届けたり、情報提示機・地図版の電鍵操作によって作戦室に備えられた表示板の色ランプを点灯させた。これらの接敵情報を基に作戦室で参謀達が分析判断し、空襲警報・警戒警報・各種命令を出した。

その結果、ラジオ放送が「中部軍管区情報 敵数百機 紀伊水道を北上中」などと放送し、街中の警戒警報・空襲警報のサイレンが鳴った。更に、警防団が警報を各戸へ伝えて消火準備にかかり、防空戦闘隊が迎撃に発進し、高射砲部隊が砲位置に就いた。
                                                         (「刻印石広場」 →)

彼女達の勤務していた防空庁舎は、本丸地区の「桜門」左側の堀端にあった。
コンクリート製・地上3階・地下1階・半地下式の迷彩を施した堅牢な建物で、爆撃にも耐え得る様に開口部は最小限になっていた。

「真心碑」の歩き方

真心碑 真心碑 山里丸地区の西である。

「刻印石広場」の西端にあり、両側にベンチが設置されている。(写真右 →)
ここから西(碑と反対側・写真左後方)に「被弾痕」のある石垣が見える。

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