大阪城:太陽の広場地区・三の丸地区

大阪府

大阪府の戦跡
大東亜戦争における大阪府の歴史
現地への行き方と現地交通情報(旅行情報)

大阪府の戦跡

大阪城:太陽の広場地区(大阪城ホール周辺)・三の丸地区(北外曲輪・大阪城公園北側)

大阪城:太陽の広場地区(大阪城ホール周辺) 大阪城:太陽の広場地区(大阪城ホール周辺) 太陽の広場地区は、大阪城公園の北東に位置し、大阪城の三の丸にあたる。江戸時代は米倉が立ち並んでいた。

明治3年(1870年)2月3日、「大阪造兵司」が設立され、4月13日、 「青屋門」 (二の丸地(本丸北側)の東端)の中仕切元番所を仮庁舎として事務を開始した。大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)」の歴史はこの場所から始まったのである。

太陽の広場地区(大阪城ホール周辺)
大阪砲兵工廠本館跡地(大阪城ホール)
大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)跡
大阪砲兵工廠荷揚門跡(水門)

大阪城:三の丸地区(北外曲輪・大阪城公園北側) 大阪城:三の丸地区(北外曲輪・大阪城公園北側) 三の丸地区は、大阪城公園の北に位置し、大阪城の三の丸(北外曲輪)にあたる。現在は「桃園」や遊歩道が整備されて市民の憩いの場となっている。

北外曲輪の西端は「大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)」の正面玄関である「正門」があった。

三の丸地区(北外曲輪・大阪城公園北側)
大阪砲兵工廠化学分析場(化学試験場)跡
大阪砲兵工廠正門跡(守衛所・煉瓦壁・石門)
明治天皇聖躅碑

「大阪砲兵工廠本館跡地(大阪城ホール)」

大阪砲兵工廠本館跡地(大阪城ホール) 大阪砲兵工廠本館跡地(大阪城ホール) 現在「大阪城ホール」がある場所は、かつて「大阪砲兵工廠本館」があった。(←)

建物は米軍の空襲で大きな被害を受けず、終戦後もそのまま放置されていた。建物のあった大阪城の三の丸北東付近は戦後に公園として開発され、建物も取壊される事になっていた。(→)
しかし、建物は明治6年(1873年)6月に竣工した明治時代の近代建築であり、建築学的にも価値のある建物であった。また、戦争を伝える戦争遺跡(戦跡)としても価値のある建物であった。

大阪砲兵工廠本館跡地(大阪城ホール) 大阪砲兵工廠本館跡地(大阪城ホール) 昭和56年(1981年)5月2日、当時の大阪市(大阪市公園局長)は、保存運動を無視して突然取り壊しを強行、一帯は完全に更地にされ、「大阪城ホール」の建設が開始された。

「大阪砲兵工廠本館」(右後方)付近での分列行進。
(昭和18年・1943年)(←)
     在りし日の「大阪砲兵工廠本館」。
                (昭和19年・1944年)(→)

現在は、建物の痕跡は全く遺されていない。「時計台工場」とも愛称された貴重な戦跡は永久に失われたのである。

「大阪砲兵工廠本館跡地(大阪城ホール)」の歩き方

大阪城ホール」の南西付近が「大阪砲兵工廠本館跡地」である。また、「大阪城ホール」とその周辺一帯も「大阪砲兵工廠」の建物・施設があった。

大阪砲兵工廠本館跡地(大阪城ホール) 大阪砲兵工廠本館跡地(大阪城ホール) 大阪城ホール」へはJR環状線「大阪城公園駅」が最寄である。
駅を降りて広い遊歩道を250m程北西に進むと噴水がある。噴水の先に「大阪城ホール」がある。
(写真右 →)

大阪城公園(大阪城内)からは 「青屋門」が最寄である。「青屋門」は、二の丸地区(本丸北側)の東端、二の丸地区(本丸東側)の北端、三の丸地区(北外曲輪・大阪城公園北側)の北西端に位置している。「青屋門」の向かい(北東方向)に「大阪城ホール」が見えていてる。

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「大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)跡」

大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)跡 大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)跡 大阪城ホール」の直ぐ南、太陽の広場地区の茂みの一角に「砲兵工廠碑」が遺されている。(←)
「砲兵工廠碑」は、工廠の殉職者の慰霊とこの場所に工廠があった事を記念する為、、昭和34年(1949年)8月14日、工廠の関係者によって、昭和20年(1945年)8月14日の米軍の空襲で多数の犠牲者をだした第三施工場跡地に建てられた。
昭和58年(1983年)、現在の場所に移設された。

「砲兵工廠碑」は遊歩道のすぐ側にひっそり建てられおり、向かいには大阪城の東外堀と二の丸の石垣が見える。(→)

大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)跡 裏面の碑文には以下の様に書いてある。(原文儘)

大阪陸軍砲兵工廠は明治三年(一八七〇)二月大阪城三の丸跡に創設され大阪造兵司と称して兵器製造の作業をはじめた その後大阪砲兵工廠などと数度改称されたが終戦によって陸軍が終止符を打った昭和二十年(一九四五)までに七十二年の長い間主として各種大砲戦車弾薬類を製造し終戦時の従業員は約六万人地積は約四〇万坪であった
特に当工廠は陸軍唯一の大口径火砲の製造工廠でありいくたびかの戦役に際してその重責を果たした功績は大きかった またその技術は国内外から高く評価され諸外国から受注して製作された兵器は多数に達した
昭和三十四年八月十四日殉職者のみたまを慰める式典を行ったのを機会に当時をしのぶためその遺跡の一角にこのいしぶみを建てるのである
                                         昭和三十四年八月十四日
                                                大阪廠友之会会長
                                                      根本荘行 識
                                                      道田峰石 書

「大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)跡」の歩き方

大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)跡 大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)跡 太陽の広場地区である。

大阪城ホール」の直ぐ南にある広場と、三の丸地区(北外曲輪・大阪城公園北側)・市民の森地区を通る遊歩道とが合流する部分の角に「砲兵工廠碑」がある。
(写真右 →)

「砲兵工廠碑」は石段の上に建てられており、付近には街路樹と茂みがある。直ぐ後ろは「野球場」「太陽の広場」になっている。

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「大阪砲兵工廠荷揚門跡(水門)」

大阪砲兵工廠荷揚門跡(水門) 大阪砲兵工廠荷揚門跡(水門) 大阪城ホール」の直ぐ北西に「大阪砲兵工廠荷揚門跡」が遺されている。(←)

「大阪砲兵工廠荷揚門跡」は第二寝屋川(旧名:平野川)に面しており、向かいには「大阪ビジネスパーク(OBP)」がある。(→)

この荷揚門(水門)は、明治4(1871年)年5月、落成された。当時、重量物の輸送は平野川の水運を利用しており、工廠内に材料をに搬入したり、工廠から製品を搬出する為に造られた。

大阪砲兵工廠荷揚門跡(水門) 大阪砲兵工廠荷揚門跡(水門) 花崗岩造りのルネサンス風アーチ型の立派な「水門」である。(←)
この「水門」内に運搬船を入れて、重量物の搬入・搬出を行った。「水門」内の上部には、その際に使用した滑車が遺されている。
また、「水門」周囲にある石垣の護岸等も当時の工廠の設備であったと思われる。

「水門」の側には護岸に降りるスロープが整備されており、「水門」を真横から見ることが出来る。

「水門」の内部は戦後に埋められた様であり、現在は「水門」としては機能していない。(→)

「大阪砲兵工廠荷揚門跡(水門)」の歩き方

大阪城ホール」の直ぐ北西、第二寝屋川に面している。

大阪砲兵工廠荷揚門跡(水門) 大阪砲兵工廠荷揚門跡(水門) 大阪城ホール」と「少年野球場」の間の道を北東に歩いていくと、第二寝屋川に面した所に草で覆われた柵が見えてくる。(写真右 →)

または、JR環状線「大阪城公園駅」から広い遊歩道を「大阪城ホール」の方向に進み、 「大阪城ホール」を左に見ながら第二寝屋川沿いに進むと「大阪城ホール」を越えた所に草で覆われた柵が見えてくる。

柵の中に「大阪砲兵工廠荷揚門跡」が遺されている。柵の中に無断で立ち入ってはいけない。

大阪砲兵工廠荷揚門跡(水門) 大阪砲兵工廠荷揚門跡(水門) 第二寝屋川の護岸に遊歩道が整備されており、柵に向かって直ぐ右には護岸の遊歩道に下りるスロープが整備されている。スロープを降りる途中に「大阪砲兵工廠荷揚門跡」を横から見ることが出来る。(写真左 →)

また、この場所から少し北西に「新鴫野橋」があり、対岸の「大阪ビジネスパーク(OBP)」に渡る事が出来る。こちらの護岸も遊歩道が整備されており、対岸(大阪城側)にある「大阪砲兵工廠荷揚門跡」を見ることが出来る。(写真右 →)

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「大阪砲兵工廠化学分析場(化学試験場)跡」

大阪砲兵工廠化学分析場(化学試験場)跡 大阪砲兵工廠化学分析場(化学試験場)跡 三の丸地区の「筋金門跡」(「大阪砲兵工廠正門跡」)付近に「大阪砲兵工廠化学分析場(化学試験場)跡」が遺されている。(←)

この建物は、工廠の「化学分析場(化学実験場)」であった。建築家の置塩章(砲兵工廠建築部)が設計、大阪橋下組の施工によって大正8年(1919年)に竣工した。戦後、昭和39年(1964年)〜平成10年(1988年)、自衛隊大阪地方連絡部が建物を使用していたが、現在は使用されていない。

建物はネオ・ルネサンス様式で、煉瓦造、地上2階・地下1階である。(→)

「大阪砲兵工廠化学分析場(化学試験場)跡」の歩き方

三の丸地区(北外曲輪・大阪城公園北側)の西側である。

大阪砲兵工廠化学分析場(化学試験場)跡 大阪砲兵工廠化学分析場(化学試験場)跡 追手門学院小学校」の直ぐ東の「筋金門跡」(「大阪砲兵工廠正門跡」)から三の丸地区に入る。直ぐに左手に煉瓦造りの大きな建物が見えてくる。

または、太陽の広場地区・市民の森地区から遊歩道を北上し、三の丸地区の「桃園」を右手に見ながら歩いていくと、右手に煉瓦造りの大きな建物が見えてくる。(写真右 →)

この建物が「大阪砲兵工廠化学分析場(化学試験場)跡」である。

現在、建物の内部は立ち入り禁止になっているので、無断で立ち入ってはいけない。

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「大阪砲兵工廠正門跡(守衛所・煉瓦壁・石門)」

大阪砲兵工廠正門跡(守衛所・煉瓦壁・石門) 大阪砲兵工廠正門跡(守衛所・煉瓦壁・石門) 三の丸地区の「筋金門跡」に「大阪砲兵工廠正門跡(守衛所・煉瓦壁・石門)」が遺されている。(←)

明治中期の「正門」である。(→)
「大阪砲兵工廠」「砲兵第二方面本署」の看板が見える。門は「筋金門」であり、後方には「伏見櫓」が見える。これらは戦時中に焼失し、現存しない。

「守衛所」は現存しているが、当時の屋根は失われており、煉瓦の一部も崩れているなど、痛みが激しい。現在の「守衛所」は柵で囲われ立ち入り禁止になっている。

「大阪砲兵工廠正門跡(守衛所・煉瓦壁・石門)」の歩き方

三の丸地区(北外曲輪・大阪城公園北側)の西側である。
北外曲輪の西端、「追手門学院小学校」の直ぐ東に「筋金門跡」があり、ここが「大阪砲兵工廠正門跡」である。

大阪砲兵工廠正門跡(守衛所・煉瓦壁・石門) 大阪砲兵工廠正門跡(守衛所・煉瓦壁・石門) 「筋金門跡」へは、「寝屋川橋東詰交差点」を150m程南に行くと右手に「筋金門跡」がある。
または、「追手門学院小学校」の南側を「西外掘」に沿って東に進み、「京橋口」の手前を左折して北に行くと左手に「筋金門跡」がある。

大阪城公園(大阪城内)からは、太陽の広場地区・市民の森地区から遊歩道を北上し、三の丸地区の「桃園」を越え、「大阪砲兵工廠化学分析場(化学試験場)跡」(大きな煉瓦造りの建物)を右手に見ながら歩いていく。そのまま進む左手に「守衛所」があり、その先に「筋金門跡」がある。(写真右 →)

「筋金門跡」の石垣の上に「煉瓦壁」が遺されており、「守衛所」も側に見える。「守衛所」の直ぐ後ろは「北外堀」である。
「正門」に向かって左側には「明治天皇聖躅碑」も遺されている。

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「明治天皇聖躅碑」

明治天皇聖躅碑 明治天皇聖躅碑 明治天皇聖躅碑 大阪城三の丸の北外堀付近(筋金門跡)に「明治天皇聖躅碑」が遺されている。(←)

この碑は、大正14年(1925年)5月10日、「大阪砲兵工廠」の「正門」前に建立された。

碑の側面には「砲兵工廠」「大正十四年五月十日建之」と彫られている。また、裏面には「大阪市青年聯合團」と彫られている。(→)

「明治天皇聖躅碑」の歩き方

三の丸地区(北外曲輪・大阪城公園北側)の西側である。

明治天皇聖躅碑 明治天皇聖躅碑 北外曲輪の西端、「追手門学院小学校」の直ぐ東に「筋金門跡」(「大阪砲兵工廠正門跡」)があり、ここに「明治天皇聖躅碑」が遺されている。

「筋金門跡」(「大阪砲兵工廠正門跡」)に向かって左側である。 (写真右 →)

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