大阪城:二の丸地区(本丸南側)

大阪府

大阪府の戦跡
大東亜戦争における大阪府の歴史
現地への行き方と現地交通情報(旅行情報)

大阪府の戦跡

大阪城:二の丸地区(本丸南側)

大阪城:二の丸地区(本丸南側) 大阪城:二の丸地区(本丸南側) 二の丸地区(本丸南側)は、大阪城公園のやや南に位置する。大阪城の二の丸にあたる場所である。
空掘と南外掘に囲まれ、本丸地区とは「桜門」で繋がっている。

嘗ては南外掘に向けて「多聞櫓(たもんやぐら)」「千貫櫓(せんがんやぐら)」「太鼓櫓跡(たいこやぐら)」「一番櫓(いちばんやぐら)」「六番櫓(ろくばんやぐら)」があり、大阪城の中枢である本丸の南側の守りの要であった。

二の丸地区(本丸南側)
豊國神社(大阪陸軍衛戍監獄跡地)
修道館(大阪陸軍衛戍監獄跡地)
近衛歩兵第二連隊の碑
大阪陸軍兵器支廠本部門跡
大手門・多聞櫓(大手口)

「豊國神社(大阪陸軍衛戍監獄跡地)」

豊國神社(大阪陸軍衛戍監獄跡地) 豊國神社(大阪陸軍衛戍監獄跡地) 二の丸地区(本丸南側)に「豊國神社」がある。(←)
この場所は、当初は「大阪陸軍衛戍監獄(大阪陸軍刑務所)」があった。昭和15年(1940年)から陸軍第四師団司令部は、 本丸地区の庁舎からこの場所に移った。

豊國神社」は、明治12年(1879年)11月、中之島字山崎の鼻(現在の中央公会堂)に創設された。戦後、中央公会堂建設や大阪市庁舎増築の為、昭和36年(1961年)1月、中之島から現在の場所に移築された。(→)

豊國神社(大阪陸軍衛戍監獄跡地) 豊國神社(大阪陸軍衛戍監獄跡地) 本殿前に「豊臣秀吉公の像」がある。(←)
「豊臣秀吉公の像」は戦前の「豊國神社」(中之島)にもあったが戦時中に資材として供出した為に現存しない。平成19年(2007年)、現在の「豊國神社」の本殿前に「豊臣秀吉公の像」が再建された。尚、鳥居や灯篭などは創設当時のものである。(詳細

昭和7年(1932年)の本丸地区・二の丸地区(本丸南側)を南から空撮した写真。(→)
陸軍関連施が多数あった事が分かる。現在の「豊國神社」「修道館」の場所に「大阪陸軍衛戍監獄(大阪陸軍刑務所)」の建物が見える。この時、陸軍第四師団司令部は 本丸地区の庁舎にあった。

「豊國神社(大阪陸軍衛戍監獄跡地)」の歩き方

二の丸地区(本丸南側)の東側が「豊國神社」である。

豊國神社(大阪陸軍衛戍監獄跡地) 豊國神社(大阪陸軍衛戍監獄跡地) 本丸地区からは、「桜門」を出て正面左側(東側)が「豊國神社」である。
こちら側が正面の入口(一の鳥居)であり、入ると「豊臣秀吉公の像」が見える。その左に二の鳥居があり、入ると本殿がある。

大阪城の外からは、東側の「玉造口」から二の丸(本丸南側)に入ると「豊國神社」に近い。
この場合、二の丸地区(本丸東側・梅林)や本丸地区を右手に見ながら広い遊歩道を進むと左手に「豊國神社」の裏口の鳥居が見えてくる。(写真右 →)

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「修道館(大阪陸軍衛戍監獄跡地)」

修道館(大阪陸軍衛戍監獄跡地) 修道館(大阪陸軍衛戍監獄跡地) 二の丸地区(本丸南側)に「修道館」がある。(←)
修道館」は大阪市立の武道場である。

ここはかつて「大阪衛戍監獄」の敷地であった。

「大阪衛戍監獄」は後に「大阪陸軍刑務所」と改称された。軍法会議で有罪判決を受けた陸軍軍人を収監する施設であった。

「修道館(大阪陸軍衛戍監獄跡地)」の歩き方

修道館(大阪陸軍衛戍監獄跡地) 修道館(大阪陸軍衛戍監獄跡地) 二の丸地区(本丸南側)の西側にある。

本丸地区からは、「桜門」を出て正面右側(西側)が「修道館」である。(写真右 →)

大阪城の外からは、西側の「大手口」から二の丸(本丸南側)に入ると「修道館」に近い。

この場合、西の丸庭園地区や本丸地区を左手に見ながら進み、「太鼓櫓跡」を越えると右手に「修道館」が見えてくる。

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「近衛歩兵第二連隊の碑」

近衛歩兵第二連隊の碑 近衛歩兵第二連隊の碑 豊國神社」の本殿の脇に「近衛歩兵第二連隊の碑」がある。(←)
碑は、昭和58年4月29日(旧天長節・昭和の日)、近衛歩兵第二連隊の戦友会の大阪支部(近衛二大阪会)が、会の創立20周年記念植樹の際に建てた。

碑の表には以下のように彫られている。(→)
  「大内山の山近く
     大君まもる 忠勇の
       猛き兵士を 選りたる
         近衛歩兵の 二聯隊
                 姫田虎之助書 」 

近衛歩兵第二連隊の碑 近衛歩兵第二連隊の碑 碑の裏には以下のように彫られている。(←)

「近衛二大阪会   創立二十周年記念
元近衛兵の誇りを維持し未来永劫に亘る人類の平和と幸福の為に豊公縁りのここに記念の植樹を行う
     昭和五十八年四月二十九日
        近衛二大阪会   協賛 近歩二会 」

碑の側には近衛二大阪会の名簿がある。所属中隊番号が書かれているのが分かる。(→)

「近衛歩兵第二連隊の碑」の歩き方

近衛歩兵第二連隊の碑 近衛歩兵第二連隊の碑 豊國神社」の本殿の脇である。

豊國神社」の「豊臣秀吉公の像」の横から二の鳥居をくぐり、本殿に向かって右側の植込みの中に「近衛歩兵第二連隊の碑」がある。

「近衛歩兵第二連隊の碑」の直ぐ後ろには、「秀石庭」がある。(写真右 →)

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「大阪陸軍兵器支廠本部門跡」

大阪陸軍兵器支廠本部門跡 大阪陸軍兵器支廠本部門跡 二の丸地区(本丸南側)に「大阪陸軍兵器支廠本部門跡」が遺されている。(←)

「陸軍兵器支廠」は、兵器・兵器材料の保管・修理等を担当する部署でった。
現在の西の丸庭園地区一帯(約15 万u・5 万坪)には、「大阪陸軍兵器支廠」の倉庫等が多数あったが、全て撤去され、現在は無い。

煉瓦の門柱・壁が遺されており、これらは「大阪陸軍兵器支廠本部」の門柱・壁であった。(→)

大阪陸軍兵器支廠本部門跡 大阪陸軍兵器支廠本部門跡 煉瓦壁が「大手口の多聞櫓」の石垣まで伸びているのが分かる。(←)

現在、内部は公園管理施設(大坂城公園内詰所)になっており、看板が出ている。(→)

内部には「大阪陸軍兵器支廠本部」の施設は遺されおらず、公園管理施設のプレハブ小屋等が建っている。
関係者以外立ち入り禁止になっているので、無断で立ち入ってはいけない。

「大阪陸軍兵器支廠本部門跡」の歩き方

二の丸地区(本丸南側)の西端である。

大阪陸軍兵器支廠本部門跡 大阪陸軍兵器支廠本部門跡 大手前地区から「大手門」「多門櫓」を通って二の丸地区(本丸南側)に入る。左手(北側)に西の丸庭園地区があり、右手(南側)に街路樹・植込みがあり、その向こうに「多門櫓」の石垣まで伸びている煉瓦壁が見える。(写真右 →)
この煉瓦壁が「大阪陸軍兵器支廠本部門跡」である。煉瓦壁の中央には煉瓦の門柱があるが、内部は公園管理施設(大坂城公園内詰所)になっている為、無断で立ち入ってはいけない。

ここから二の丸地区(本丸南側)を更に進み、「太鼓櫓跡」を越えると右手に「修道館」が見えてくる。その先には左手に「桜門」が見える。

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「大手門」「多聞櫓」(大手口)

大手門・多聞櫓 大手門・多聞櫓 二の丸地区(本丸南側)の西に「大手口」がある。これは大阪城の正門にあたる。「大手口」には「大手門」「多聞 櫓」「千貫櫓」が遺されている。(←)

「大手門」は幕末まで「追手門」とも呼ばれており、元和6年(1620年)に創建、天明3年(1783年)に落雷によって破損し、嘉永元年(1848年)に大掛りな補修をし、明治維新の大火(明治元年・1868年)も免れた。(→)
その後、「大手門」は大阪城内の陸軍関連施設への入口として使用され、歩哨によって警備されていた。

大手門・多聞櫓 大手門・多聞櫓 「大手門」から城内(二の丸)に入ると枡形(防御用に石垣で四角く囲われた区画)があり、「多聞櫓」がある。「多聞櫓」は、寛永5年(1628年)に創建、天明3年(1783年)に落雷で焼失し、嘉永元年(1848年)に再建され、現存する最大の櫓である。(←)

「大手口枡形」には大阪城内第4位の巨石である「大手見付石」(表面積:29畳敷・47.98u)がある。 「大手見付石」の左に「大手口」第2位(大阪城内第5位)の巨石(表面積:23畳敷・37.90u)が、「大手見付石」の右に「大手口」第3位(大阪城内第8位)の巨石(表面積:22畳敷・35.82u)がある。いずれも瀬戸内海の小豆島産と推定されている。(→)

「大手門」「多聞櫓」(大手口)の歩き方

大手門・多聞櫓 大手門・多聞櫓 二の丸地区(本丸南側)の西端である。

大手前地区の南から、二の丸地区(本丸東側)や西の庭園地区への入口にあたる。「多聞櫓」「千貫櫓」はかなり大きな櫓なので遠くからもよく見える。(写真右 →)

二の丸地区(本丸南側)からは、大手前地区への出口にあたる。「修道館」を左手に見ながら進み、「太鼓櫓跡」を越えると「多聞櫓」がある。

「多聞櫓」のすぐ側(東側)に「大阪陸軍兵器支廠本部門跡」がある。

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