大阪城公園の中央に位置する。 大阪城の中枢である天守閣が建つ場所である。現在の大阪城は江戸時代に徳川幕府によって再建されており、豊臣秀吉が築城した大坂城とは縄張りや天守閣の位置が異なる。江戸時代に再建された天守閣は、寛文5年(1665年)、落雷によって焼失した。
昭和6年(1931年)、当時の大阪市長(關一:明治6年9月26日〜昭和10年10月26日)の提唱によって集まった大阪市民から募金によって、大阪城天守閣が復元された。 この時の募金額約150万円(現在の貨幣価値では約600〜700億円)は、、大阪市民からの申し込みが殺到し僅か半年ほどで集まった。復元された大阪城天守閣は昭和以降に各地で復元された復興天守第一号であり、大阪市を代表する観光名所となった。
大東亜戦争末期には、大阪城は度々米軍の空襲に晒され、多くの文化財が焼失したが、大阪城天守閣は戦災を免れ、現在も大阪市のシンボルしてその威容を示している。
本丸地区 ・天守閣石垣の被弾痕 ・陸軍第四師団司令部庁舎(中部軍管区司令部庁舎・大阪市立博物館) ・杼樟之記の碑 ・明治天皇駐蹕之所碑 ・教育勅語の碑 ・桜門・銀明水井戸の井筒 ・空堀の地下壕入口 ・空掘の水道管
本丸地区の天守閣石垣に米軍の空襲による被弾痕が2ヶ所遺されている。
1ヶ所は天守閣石垣の北東角である。(←)
昭和20年(1945年)8月14日、米軍は大阪市を空襲し、「大阪陸軍造兵廠」(現在の大阪城公園周辺)に多数の1トン爆弾を投下した。この時、1トン爆弾の命中によって、天守閣石垣の北東が歪んだ。 石垣の一部が歪んでいるのが分かる。(→) 隙間はコンクリートで補強してある。また石が黒くなっているのは、被弾による焼け焦げの痕跡である。
その後、隅の石は3段程修理されて新しくなっているが、黒い焼け焦げの痕跡や、隅から放射状に伸びる被弾痕が遺されている。石垣も一部歪んで隙間があいている。(→)
米軍の空襲は、文化財である大阪城天守閣の石垣に大きな被害を与えた。幸いにも天守閣は大きな被害を受けず、昭和6年(1931年)に再建されたままの姿で遺されている。
「被弾痕」は天守閣石垣の北東角と南西角である。
天守閣は大阪城公園本丸地区の北部にある。直ぐ北側には 山里丸地区があり、山里丸地区からは「「被弾痕のある石垣」(山里口出枡形)のスロープを上がっていくと、直ぐに天守閣が見える。(写真右 →) 大阪城天守閣は大阪城公園で最も高い建築物なので、あらゆる場所から見える。
北東角の「被弾痕」は、天守閣の直ぐ東にある貯水池に面している為、近くまで行かないと見ない。側には天守閣の配電装置がある。 南西角の「被弾痕」は小天守台西側(御殿二階廊下跡)の身障者・高齢者・団体観光客用エレベーターの直ぐ側である。
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本丸地区に「陸軍第四師団司令部庁舎(中部軍管区司令部庁舎・大阪市立博物館)」が遺されている。(←)
昭和6年(1931年)、市民の募金(150万円)で天守閣が再建された際に、その内80万円が陸軍に寄付された。それを資金に建設され、「陸軍第四師団司令部庁舎」となった。(→)
昭和15年(1940年)、陸軍第四師団司令部が現在の 「豊國神社」の場所に移り、「中部軍管区司令部庁舎」となった。
設計は陸軍第四師団経理部が行った。欧州の古城を模した重厚なロマネスク様式で、壁面上部の装飾、正面・四隅の隅塔が特徴であった。(←) その様子は、鉄道唱歌の東海道第1集57番に於いて「三府の一に位して 商業繁華の大阪市 豊太閤の築きたる 城に師団は置かれたり」と歌われている。
戦後一時期は進駐軍に接収されていたが、その後「大阪府警察本部庁舎」となった。昭和35年(1960年)、「大阪市立博物館」となったが、平成13年(2001年)11月3日、大阪城南西側の「大阪歴史博物館」に移転した為、現在は使用されていない。(→)
本丸地区では大阪城天守閣に次いで大きな建物である。 「陸軍第四師団司令部庁舎」の前は広場になっており「杼樟之記の碑」「明治天皇駐蹕之所碑」が遺されている。 また、この広場には、昭和45年(1970年)の大阪万博の際に埋められた「タイムカプセル」がある。(詳細)
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本丸地区に「杼樟之記の碑」が遺されている。杼の字は旧字体で、木偏に豫である。(←)
「杼樟之記の碑」は、明治31年(1898年)3月15日、当時の大坂衛戍司令官(陸軍第四師団長)であった小川又次陸軍中将が、本丸地区のこの場所に杼樟樹(クスノキ)を植樹した記念に建てられた。(→)
「杼樟之記の碑」の直ぐ後ろには、この時に植樹された杼樟樹(クスノキ)が生い茂っている。
「杼樟之記の碑」の側にはもう1つ小さな石碑が遺されている。(←) 「杼樟」と彫られているが、下半分が埋もれている。
「杼樟之記の碑」の表には以下の様な碑文が彫られている。 「天正十一年豊公大坂城ヲ築クノ日杼樟樹ヲ此ニ手栽シテ繁茂シ二百八十余載ヲ経テ明治戊辰ノ兵火ニ罹リ今唯々枯株ヲ餘セリ 予其跡ノ終ニ湮滅ニ帰センコトヲ惜ミ更ニ同樹ヲ植ヘ以テ公ノ遺愛ヲ存ス 後人幸ニ之ヲ保護セヨ 明治三十一年三月十五日 大坂衛戍司令官 陸軍中将 正四位 勲二等 功三級 男爵 小川又次 」
碑文にある「明治戊辰ノ兵火」とは、慶応4年(明治元年・1868年)大阪城開城の際の大火の事である。この時に焼失した杼樟樹は、碑文では「豊公」(豊臣秀吉)の「手栽」とあるが、当時は、豊臣秀吉の築いた大坂城が、後に徳川幕府によって全く新しく再建された事は知られていなかった。その為、焼失した杼樟樹は実際は徳川幕府の大坂城再建時のものであった。
「金蔵」の西の植込みに「杼樟之記の碑」が遺されている。「杼樟之記の碑」の後ろには杼樟樹(クスノキ)が立っている。(写真右 →) その後ろには大阪城天守閣が見える。
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本丸地区に「明治天皇駐蹕之所碑」が遺されている。(←) 周囲は植え込みに囲まれて見えにくくなっている。
この碑は、大正14年(1925年)5月10日、本丸内地区に建立された。
碑の側面には「大阪城址」「大正十四年五月十日建之」と彫られている。また、裏面には「大阪市青年聯合團」と彫られている。(→)
「杼樟之記の碑」の南、「陸軍第四師団司令部庁舎」の西に碑が遺されている。碑の周囲は植込みになっておりやや見えにくい。(写真右 →) 付近には土産物店や売店があり、観光客で賑わっている。
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教育勅語は明治23年(1890年)10月30日に制定された。明治天皇が国民(臣民)に対して語りかける形で書かれており、国民が実践すべき12の徳目(道徳)が示されている。 国民が実践すべき12の徳目とは、孝行・友愛・夫婦ノ和・朋友ノ信・謙遜・博愛・修学習業・知能啓発・徳器成就・公益世務・遵法・義勇である。 これらは、古今東西、人間の生活にとって至極当然な徳目であるといえる。教育勅語は、次世代を担う子供たちに人として大事な事を説いていた。
「教育勅語の碑」は教育勅語制定40周年を記念して、昭和5年(1930年)10月30日に起工し、昭和6年(1931年)2月11日に竣工した。当時の大阪市教育会等の協賛を得て建てられた。(←)(→)
戦後、教育勅語はその内容が曲解され、昭和23年(1948年)6月19日に廃止されてしまった。 併しながら、人が成すべき道徳は不変である。公衆道徳が乱れつつある現代に於いてこそ、教育勅語を読み返す事が必要ではないだろうか。
教育勅語全文 朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニコヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此 レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ 修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シコ器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無 窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン 斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其コヲ一ニセンコトヲ庶幾フ 明治二十三年十月三十日 御名御璽
教育勅語口語訳 私の思い起こすことには、我が皇室の祖先たちが国を御始めになったのは遙か遠き昔のことで、そこに御築きになった徳は深く厚きものでした。我が臣民は忠と孝の道をもって万民が心を一つにし、世々にわたってその美をなしていきましたが、これこそ我が国体の誉れであり、教育の根本もまたその中にあります。 あなた方臣民よ、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は調和よく協力しあい、友人は互いに信じ合い、慎み深く行動し、皆に博愛の手を広げ、学問を学び手に職を付け、知能を啓発し徳と才能を磨き上げ、世のため人のため進んで尽くし、いつも憲法を重んじ法律に従い、もし非常事態となったなら、公のため勇敢に仕え、このようにして天下に比類なき皇国の繁栄に尽くしていくべきです。これらは、ただあなた方が我が忠実で良き臣民であるというだけのことではなく、あなた方の祖先の遺(のこ)した良き伝統を反映していくものでもあります。 このような道は実に、我が皇室の祖先の御遺(のこ)しになった教訓であり、子孫臣民の共に守らねばならないもので、昔も今も変わらず、国内だけでなく外国においても間違いなき道です。私はあなた方臣民と共にこれらを心に銘記し守っていきますし、皆一致してその徳の道を歩んでいくことを希(こいねが)っています。 明治二十三年十月三十日 (天皇陛下の署名と印)
「日本庭園」の直ぐ北側、「杼樟之記の碑」の西の植え込みの中に建てられている。側には売店があり、売店の裏にあたる。 (写真右 →)
植え込みや売店に隠れている為、外からは見えにくく、また、案内の看板等も設置されていない為、気づきにくい。
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「桜門」は大坂城本丸の正門として、寛永3年(1626年)、江戸幕府による大坂城再建時に創建されたが、明治維新の大火(明治元年・1868年)によって焼失した。その後に陸軍によって再建され、米軍の空襲も免れて現在に至っている。
左右の壁も「桜門」にあわせて再建されたが、戦後に台風によって倒壊した。昭和44年(1969年)、大阪市によって修復された。(→)
「桜門」の壁には、「鉄砲狭間(鉄砲を撃つための銃眼)」が再現されている。(←) 壁に直接開けられた円形(すり鉢状)の狭間と、壁と石垣の間に設けられた扇形の狭間がある。これらは大阪城内各所に見られる。
「桜門」の裏に「銀明水井戸の井筒」がある。(→) 元々、「銀明水井戸」は本丸地区の南西にあった。昭和6年(1931年)、「陸軍第四師団司令部庁舎」が新築された際に、井筒と周囲の敷石が現在の場所に移され、水道水が引かれた。
「桜門」から城内(本丸地区)に入ると枡形(防御用に石垣で四角く囲われた区画)がある。 ここには大阪城内第1位の巨石である「蛸石」(表面積:36畳敷・59.43u、推定重量:108t)がある。「蛸石」は岡山県(備前)産の花崗岩である。(←) 「蛸石」の左に大阪城内第3位の巨石である「振袖石(袖石)」(表面積:33畳敷・53.85u)がある。
江戸時代、桝形には「多聞櫓」があったが、慶応4年(明治元年・1868年)、大阪城開城の際の大火で焼失した。(→)
二の丸地区(本丸南側)からは、「豊國神社」の西側の鳥居の正面に「桜門」が見える。
また、「大手口」から二の丸地区(本丸南側)に入り、東に歩いていくと左手の空堀の向こうに「桜門」が見える。(写真右 →)
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本丸地区南東側の空掘に、大東亜戦争中に中部軍管区司令部が構築した「地下壕入口」が遺されている。 左は「桜門」付近から南東側に「入口」を見た写真である。写真中央、空掘南側の石垣底部に「入口」が見える。(←)
「入口」は空掘南側の石垣底部に2ヶ所遺されている。右は「陸軍第四師団司令部庁舎」南側の石垣の上から見た写真である。(→) 写真左側(東側)には先ほど「入口」が見えており、写真右側(西側)にはもう1ヶ所の「入口」があるが、こちらは草と土に覆われて外部からは見えにくい。
本丸地区南東側の空掘に遺されている。 空掘南側の石垣底部である。
「陸軍第四師団司令部庁舎」南側の石垣の上、「桜門」を出た所から南東側の空堀の底に「地下壕入り口」を見ることが出来る。 1ヶ所(東側)の「入口」は一部が見えているが(写真右 →)、もう1ヶ所(西側)の「入口」は草と土に覆われて殆ど見えない。
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「水道管」は本丸地区南西側と西の丸庭園地区東側を?ぐように東西に空掘を横切っている。
本丸地区南西側の石垣の上から「水道管」を見る。(→)
「大阪砲兵工廠」は兵器製造のみではなく、民需用の鋳鉄管や橋梁も受注・製造していた。
この「水道管」は日本で初めて製造された鋳鉄管であり、その製造は、明治26年(1893年)2月1日、「大阪砲兵工廠」で開始された。
本丸地区西側の石垣の上から「水道管」を見る。(←)
本丸地区北西外側の「隠し曲輪」南側の石垣の上から「水道管」を見る。(→)
本丸地区南西側・西側の石垣の上、本丸地区北西外側の「隠し曲輪」南側の石垣の上、 二の丸地区(本丸南側)西側の石垣の上、西の丸庭園東側の石垣の上から見ることが出来る。
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