国立米空軍博物館(National Museum of the United States Air Force)

アメリカ中西部(シカゴ・デイトン・インディアナポリス・ルイスビル)

アメリカ中西部(シカゴ・デイトン・インディアナポリス・ルイスビル)の戦跡
大東亜戦争におけるアメリカ中西部(シカゴ・デイトン・インディアナポリス・ルイスビル)の歴史
現地への行き方と現地交通情報(旅行情報)

「国立米空軍博物館(国立アメリカ空軍博物館)」 −「World War U」(第二次世界大戦の航空機)−

「国立米空軍博物館」の概略および歩き方
展示内容詳細

「国立米空軍博物館」 −「World War U」(第二次世界大戦の航空機)− の展示内容

「大東亜戦争開戦前後の軍用機(昭和16年〜昭和17年)」

大東亜戦争開戦前後の軍用機 大東亜戦争開戦前後の軍用機 昭和16年(1941年)12月8日、日本海軍航空隊がハワイ諸島オアフ島真珠湾の米海軍太平洋艦隊基地を空襲、世に言う真珠湾攻撃である。同日、日本と連合国との間に大東亜戦争が開戦した。
西太平洋を主戦場とする大東亜戦争では、必然的に航空機が両軍にとって重要な兵器となった。

大東亜戦争開戦の発端となった真珠湾攻撃に関する展示である。(→)
米国は、真珠湾攻撃は日本による一方的な騙まし討ちであったと主張、これを大義名分として第二次世界大戦に参戦した。

大東亜戦争開戦前後の軍用機 大東亜戦争開戦前後の軍用機 「カーチス P-36A ホーク」(←)、昭和10年(1935年)に登場した。最高速度は時速501km。

「セバスキー P-35」(→)、昭和10年(1935年)に登場した。最高速度は時速499km。

いずれも大東亜戦争開戦当初の米陸軍の戦闘機であった。金属製の機体に引込み脚を装備していたが、この時は旧式化しており、既に「P-39」や「P-40」に更新されつつあった。日本海軍による真珠湾攻撃では、オアフ島に「P-36A」39機が配備されていたが、殆どが地上で撃破された。

大東亜戦争開戦前後の軍用機 大東亜戦争開戦前後の軍用機 「ダグラス B-18 ボロ」である。(←)

「B-18」は、大東亜戦争開戦当初の米陸軍の重爆撃機であった。この時は既に旧式化しており、より重武装・重装甲な四発(発動機4基を装備)重爆撃機の「B-17」に更新されつつあった。

日本海軍による真珠湾攻撃では、オアフ島に配備されていた「B-18」33機の殆どが地上で撃破された。

胴体下部の爆弾倉を見る事が出来る。(→)
合計2000kgの爆弾を搭載する事が出来た。

大東亜戦争開戦前後の軍用機 大東亜戦争開戦前後の軍用機 零式艦上戦闘機(零戦)二一型」である。(←)

所謂、「ゼロ戦(Zero Fighter)」である。昭和14年(1939年)に登場し、大東亜戦争開戦当初、その卓越した運動性能と重武装によって、当時の連合軍機を圧倒した。最高速度は時速533.4km。
機体の形状は空力的に洗練されており、当時の日本の航空機設計技術の高さを世界に示した。

零戦」は航空母艦(空母)で運用する艦上戦闘機であった為、機体後部には着艦フック(鉤)を装備していた。 (→)

大東亜戦争開戦前後の軍用機 大東亜戦争開戦前後の軍用機 徹底的に軽量化され、引込み脚を装備し、新開発のアルミニウム合金を採用する等、当時としては近代的な航空機であった。最高速度も時速500kmを初めて超えた日本軍機であった。(←)

空母での運用を考慮し、主翼両端には折畳み機構が装備された。(→)

零戦二一型」は戦争初期に於ける日本軍の快進撃を支えたが、後継機の開発が遅れ、戦争中期以降は新鋭の連合軍機に苦戦しながらも、日本海軍の主力戦闘機として大東亜戦争全般を戦い抜いた。

大東亜戦争開戦前後の軍用機 大東亜戦争開戦前後の軍用機 「九八式射爆照準機」である。(←)
前方のガラス板に照準環(レティクル)を映し出す光学照準機であった。「零戦」等に装備された。

東部ニューギニア戦線に於ける、米陸軍航空隊の戦歴を紹介する展示である。(→)
大東亜戦争では、中部太平洋方面は主として米海軍が担当していたが、南太平洋方面や東部ニューギニアは米陸軍の担当であった。特に、東部ニューギニアでは、米陸軍航空隊にオーストラリア軍航空隊が加わり、日本陸海軍航空隊と激しい戦いを演じた。

大東亜戦争開戦前後の軍用機 大東亜戦争開戦前後の軍用機 大東亜戦争開戦当初、日本軍のフィリピン諸島ルソン島侵攻に関する展示である。(←)(→)

日本軍による捕虜虐待の象徴的出来事として必ず紹介される、所謂「バターン死の行進(Bataan Death March)」である。
この出来事は、偶発的な事故であり、組織的に捕虜虐待を行ったものではなかったが、結果として連合軍捕虜に多数の死者が出てしまった。
この事は連合軍によって格好の宣伝材料とされた。また、終戦後、当時の日本軍司令官であった本間雅晴中将が報復の戦犯裁判で処刑された。

大東亜戦争開戦前後の軍用機 大東亜戦争開戦前後の軍用機 「ダグラス A-24 バンシー」である。(←)(→)
米陸軍では昭和16年(1941年)、米海軍の艦上爆撃機「SBD ドーントレス」を、「A-24」として採用した。

「A-24」は、急降下爆撃が可能であった。
これは、高度3000m位から降下角45〜60°で爆撃目標に向かって急降下し、高度500m前後で爆弾を投下する爆撃方法である。従来の水平爆撃よりも飛躍的に命中精度が向上した。
急降下爆撃は、機体に大きな負荷が掛かる為、それに耐え得る頑丈な構造が必要である。この頃には既にそれが可能になっていた。

大東亜戦争開戦前後の軍用機 大東亜戦争開戦前後の軍用機 「ノースアメリカン B-25B ミッチェル」である。(←)
昭和14年(1939年)に登場した米陸軍の爆撃機である。主力双発(発動機2基を装備)爆撃機として大東亜戦争全般を通して使用された。
その戦歴で最も有名なのは、昭和17年(1942年)4月18日に行われた、ドゥーリットル中佐による東京初空襲であろう。空襲自体の損害は軽微であったが、日本に与えた精神的ショックは大きく、後のミッドウェー海戦の間接的な引金になったともいわれている。

展示では、米海軍の空母の甲板上での、東京初空襲準備の様子が再現されている。(→)

大東亜戦争開戦前後の軍用機 大東亜戦争開戦前後の軍用機 因みに、尾部の機関銃はその当時を再現しており、軽量化の為に取付けたデッキブラシの柄である。
同様の展示は、ハワイ諸島オアフ島の「太平洋航空博物館」でも見ることが出来る。

「B-25」の装備するエンジン、「ライト R-2600 サイクロン14」(離翔1700馬力)である。(←)
星型の空冷エンジンを前後2列に配置した複列14気筒で、機械過給装置(スーパーチャージャー)を装備していた。50000基以上が生産された。

内部の構造を見ることが出来る。(→)

「大東亜戦争初期の米軍機(昭和15年〜昭和18年)」

大東亜戦争初期の米軍機 大東亜戦争初期の米軍機 第一次世界大戦の終わりごろから、空中戦に新しい戦法が見られるようになった。一撃離脱戦法である。初期の空中戦では、互いに相手の後ろに回りこむ格闘戦(巴戦)が主流であった。
これに対し、上空から高速で接近し、すれ違いざまに射撃を加えて離脱する一撃離脱戦法が登場した。

「カーチス P-40E ウォーホーク」である。(←)(→)
昭和13年(1938年)に登場した米陸軍の戦闘機で、地味な機体ではあったが、頑丈な機体と液冷V型12気筒の「アリソン V-1710」(離翔1150馬力)によって時速560kmを超える高速を誇った。

大東亜戦争初期の米軍機 大東亜戦争初期の米軍機 大東亜戦争初期は、運動性能の良い日本軍機に格闘戦を挑んだ為に苦戦したが、やがて一撃離脱戦法を用いるようになると、機体の頑丈さと高速を利して日本軍機を圧倒するようになった。

一撃離脱戦法は、相手にこちらを攻撃させる機会を与えず、不利になった場合も素早く離脱する事が出来た。また、パイロットの操縦技術の差が出にくいというメリットがあった。
米軍戦闘機は、複数機による一撃離脱戦法を採用する事によって、それまで優勢であった日本軍機を次第に追い詰めていくのである。

大東亜戦争初期の米軍機 大東亜戦争初期の米軍機 「ベル P-39Q エアコブラ」である。(←)(→)

大東亜戦争開戦当初の米陸軍の戦闘機であり、最大の特徴は発動機(エンジン)の搭載位置とプロペラ軸から発射する機関砲であった。
当時、一般的な単発(発動機1基を搭載)戦闘機は機首に発動機を搭載し、機首上部や翼内に武装(機関銃・機関砲)を装備した。その為、大型の武装を搭載することは困難であった。

これに対し、「P-39」は操縦席後方に発動機を搭載し、機首には大型の30mm機関砲を装備していた。

大東亜戦争初期の米軍機 大東亜戦争初期の米軍機 「P-39」の発動機(エンジン)と機関砲である。(←)

左端が発動機、右端がプロペラ、プロペラのすぐ後ろにあるのが30mm機関砲である。発動機と機関砲の間が操縦席(コックピット)である。

発動機から機首のプロペラまでは、回転を伝える軸が伸びていた。プロペラの軸は機関砲の銃身と一致しており、機首先端からプロペラの回転に妨げられる事無く機関砲を発射する事が出来た。

機関砲の上にあるのは弾薬を収納する弾倉。(→)

大東亜戦争初期の米軍機 大東亜戦争初期の米軍機 航空機の装備品で最も重い発動機を機体中央に搭載する事で、機体の重心を中央付近にする事が出来た。これにより運動性能の向上が期待された。

併しながら、実際は機関砲や発動機関連の重量が増加し、期待したほどの運動性能は得られなかった。「P-39」は、その形状と組み易さによって、日本軍搭乗員から「カツオブシ」とあだ名された。

同様のコンセプトで製作された「ベル P-63E キングコブラ」である。(←)(→)

大東亜戦争初期の米軍機 大東亜戦争初期の米軍機 第二次世界大戦では、兵器としての飛行機の重要性が益々高まり、戦場の制空権を巡る航空戦の結果が戦争の勝敗に影響するようになった。
結果、搭乗員(パイロット・ナビゲーター・ガンナー等)の大量養成が急務となった。
「ステアーマン PT-13D」、昭和9年(1934年)に登場した初等練習機、扱いやすい機体として大量に使用された。米軍版「赤とんぼ」。(←)
「カーチス AT-9 ジープ」、昭和16年(1941年)に登場した米陸軍の高等双発練習機。(→)
双発(発動機2基を装備)以上の機体の操縦訓練する練習機で、操縦が難しくなるよう設計されていた。

大東亜戦争初期の米軍機 大東亜戦争初期の米軍機 「ビーチ AT-11 カンサン」、昭和16年(1941年)に登場した米陸軍の爆撃手訓練機。(←)
前方の窓から地上の目標に照準し、砂の詰まった模擬爆弾を投下して訓練を行った。

「ビーチ AT-10 ウィチタ」、昭和16年(1941年)に登場した米陸軍の高等双発練習機。(→)
戦時の金属不足を考慮し、木材を使用した機体であった。燃料タンクも木製である。

第二次世界大戦に於ける航空戦は消耗戦でもあった。消耗していく機体と搭乗員のを速やかに補充できるかが、航空戦の勝敗を分けた。

「ヨーロッパの覇権を争った航空機(昭和15年〜昭和18年)」

ヨーロッパの覇権を争った航空機 ヨーロッパの覇権を争った航空機 昭和14年(1939年)9月1日、ヨーロッパでの第二次世界大戦が開戦。ヨーロッパ上空では、ドイツ空軍(Luftwaffe:ルフトバッフェ)とイギリス空軍(Royal Air Force)という、二大空軍が激突した。
特に、昭和15年(1940年)7月から開始されたドイツ空軍によるイギリス本土空襲に対し、イギリス空軍は総力を挙げてこれを迎え撃った。世に言う「Battle of Britain」である。

「スーパーマリン スピットファイア Mk.Vc」(←)(→)
イギリス空軍の主力戦闘機「スピットファイア」の型式の1つで、昭和16年(1941年)に登場した。

ヨーロッパの覇権を争った航空機 ヨーロッパの覇権を争った航空機 機首下面に張出しているのは空気取入れ口である。(←)

ドイツ空軍の空襲に対し、イギリス空軍はレーダーと戦闘機を駆使した本土防空体制を敷いた。「スピットファイア」はその主戦力としてイギリス本土をドイツ空軍の空襲から護り抜いた。
尚、展示されている「スピットファイア」は、イギリス本土空襲以降に登場した型式である。

「スーパーマリン スピットファイア PR.XI」、昭和18年(1943年)に登場した高高度偵察機型である。(→)

ヨーロッパの覇権を争った航空機 ヨーロッパの覇権を争った航空機 武装は全て撤去され、航空機用写真機を装備した。「スピットファイア」の偵察機型は、迷彩効果を狙って機体を空の色(青)に塗装されていた。(←)
イギリス本土空襲以降に登場した型式であるが、米陸軍航空隊でも使用された。

「スピットファイア」は、イギリス空軍の主力戦闘機として、欧州戦線・北アフリカ戦線・太平洋戦等に於いて活躍し、第二次世界大戦全般を戦い抜いた。

また、夜間も空中戦が行われるようになり、双発複座戦闘機を改造した夜間戦闘機が登場した。

ヨーロッパの覇権を争った航空機 ヨーロッパの覇権を争った航空機 双発複座戦闘機とは、爆撃機護衛用の長距離戦闘機として各国で開発されたが、結局は単発単座戦闘機に太刀打ちできず、お蔵入りになりかけていた機種であった。これにレーダーを積み、航法士(ナビゲーター)が同乗する事で、視界の効かない夜間にも戦闘が可能になったのである。
つまり、双発複座戦闘機に対して、俄かに夜間に日の目があたる事になったのである。

「デハビランド DH98 モスキート」、昭和15年(1940年)に登場したイギリス空軍の爆撃機である。夜間戦闘機としても活躍した。殆ど木製。(←)(→)

ヨーロッパの覇権を争った航空機 ヨーロッパの覇権を争った航空機 「ブリストル ボーファイター」、昭和14年(1939年)に登場した、イギリス空軍の双発複座戦闘機である。(←)(→)
夜間戦闘機として活躍し、他にも攻撃機、対潜哨戒機としても使用された。ヨーロッパのみならず、太平洋戦線にも投入され、日本軍と戦った。

昭和15年(1940年)10月、ドイツ空軍はイギリス本土空襲を事実上放棄、イギリス空軍は本土防空に成功した。以降、進出してきた米陸軍第8航空軍と共に本格的なドイツ本土空襲を開始、ドイツ軍に対する反撃を強化していく。

ヨーロッパの覇権を争った航空機 ヨーロッパの覇権を争った航空機 「マッキ MC.200 サエッタ」である。(←)(→)
昭和14年(1939年)に登場した第二次世界大戦のイタリア軍の主力戦闘機であった。サエッタ(Saetta)は稲妻を意味する。
第二次世界大戦に於けるイタリア軍は全体的に不活発で、イタリア軍機も今ひとつ影が薄いが、展示機は世界に2機のみ現存する内の1機である。

操縦席の風防(キャノピー)は一部が開放されていたり、エンジンカウリング(発動機覆い)に突起がある等、設計に古さが残る機体であった。最高時速は時速512km。(→)

ヨーロッパの覇権を争った航空機 ヨーロッパの覇権を争った航空機 「フィーゼラー Fi-156C-1 シュトルヒ」、ドイツ軍が連絡機・観測機として使用した。(←)(→)
最高速度は時速170km程度であったが、離着陸距離が僅か数十m程であり、僅かな広場さえあれば離着陸出来るという便利な機体であった。
第二次世界大戦全般を通して各戦線で活躍し、北アフリカ戦線ではロンメル将軍にも愛用された。
その戦歴で最も有名なのは、昭和18年(1943年)9月12日、政変によって軟禁されたイタリアの首相ムッソリーニ救出作戦に於いてであろう。
流石に、体重100kg近い巨漢のムッソリーニを乗せての離陸は距離を要したという。

ヨーロッパの覇権を争った航空機 ヨーロッパの覇権を争った航空機 連合国は、ドイツ軍占領下のフランス国内で、ドイツ軍に対して抵抗活動を行うレジスタンスに対して武器弾薬等の支援を行った。(←)

レジスタンスに供給された拳銃「リベレーター(解放者)」である。(→)
短期間に大量に製造する為、徹底的に簡素化され、鉄パイプとプレスした鉄板で出来ていた。弾丸は1発づつ手で装填し、廃莢も手で行った。粗製濫造銃とも呼べる代物で、事故も多く、急造拳銃とはいえあまり酷い造りに、殆ど使用される事は無かったという。

「反撃に転じる連合軍(昭和17年〜昭和19年)」

反撃に転じる連合軍 反撃に転じる連合軍 昭和17年(1942年)以降、連合軍はヨーロッパを支配下に置くドイツ軍に対して反撃を開始する。
イギリス本土に展開した米陸軍第8航空軍は、英空軍(RAF)と共にドイツ本土への空襲を開始した。米陸軍航空隊は主として昼間爆撃を、英空軍は主として夜間爆撃を担当した。 

「コンソリデーテッド B-24D リベレーター」である。(←)(→)
昭和17年(1942年)に登場した米陸軍の四発重爆撃機である。 合計5800kgの爆弾を搭載、「B-17」と共にドイツ本土空襲に於ける主力戦略爆撃機であった。

反撃に転じる連合軍 反撃に転じる連合軍 防御用火器として「12.7mm機関銃」11挺を装備し、機体の要所には防弾が施されていた。(←)(→)
「B-24」は、これら強力な防御火器と高い防御力によって撃墜困難な爆撃機であった。しかし、当初はドイツ本土まで随伴できる護衛戦闘機が無く、爆撃機のみで出撃していた。その為、迎撃してくるドイツ軍戦闘機によって大きな損害をだした。
連合軍によるドイツ本土空襲は、昭和20年(1945年)5月まで続き、連合軍爆撃機約10000機以上が、ドイツ軍戦闘機や対空射撃によって失われ、搭乗員16万名が戦死。これに対し、ドイツ本土では一般市民60万人以上が連合軍の空襲の犠牲となった。

反撃に転じる連合軍 反撃に転じる連合軍 「ノースアメリカン A-36A アパッチ」、米陸軍の対地攻撃機(急降下爆撃機)である。(←)
米陸軍は、昭和15年(1940年)に初飛行した「P-51」を改造し、昭和17年(1942年)、「A-36」として採用した。その後、「P-47」が大量に配備され、対地攻撃も行うようになった為、生産機数は500機程であった。インドやビルマにも配備され、日本軍と戦った。

主翼下面には穴の開いたダイブブレーキを装備していたが、これはあまり使用されなかった。「12.7mm機関銃」6挺を装備し、爆弾450kgを搭載する事が可能であった。(→)

反撃に転じる連合軍 反撃に転じる連合軍 「ノースアメリカン P-38L ライトニング」である。(←)

昭和16年(1941年)に登場した米陸軍の双胴双発戦闘機である。後に「双胴の悪魔」と呼ばれた。
大東亜戦争開戦当初、日本軍戦闘機に対して格闘戦を挑んだ為に簡単に撃墜されてしまい、日本軍搭乗員からは「ペロハチ」とあだ名された。しかし、頑丈な機体と大出力のエンジン、強力な武装を生かした一撃離脱戦法を採用しだすと状況は一変した。

機首に「12.7mm機関銃」4挺と「20mm機関砲」1挺を搭載するという重武装であった。(→)

反撃に転じる連合軍 反撃に転じる連合軍 「P-38」は、時速650km以上の高速で接近し、日本軍戦闘機を強力な火網に捕らえた。日本軍戦闘機が得意の格闘戦を挑もうとすると、頑丈な機体を生かした急降下で離脱、或いは、日本軍戦闘機の追いつけない高高度に退避、体勢を立て直した後に再び攻撃を仕掛けてきた。大東亜戦争中盤以降、日本軍機の多くが「P-38」に撃墜されていった。

排気式加給器(ターボチャージャー)を装備した液冷V型12気筒「アリソン V-1710」(離翔1600馬力)2基を搭載。最高上昇限度は高度13400mであった。(←)
米軍機の「7.62mm機関銃」と「12.7mm機関銃」(→)

反撃に転じる連合軍 反撃に転じる連合軍 「リパブリック P-47D サンダーボルト」である。(←)
昭和18年(1943年)に登場した米陸軍の戦闘機で、排気式加給器(ターボチャージャー)を装備した星型18気筒の「P&W R-2800」(離翔2500馬力)を搭載、最高速度は時速700km近くを誇る重戦闘機であった。展示機は水滴型風防装備。

また、「12.7mm機関銃」8挺という重武装で、更に爆弾900kgを搭載する事も可能であった。
その為、対地攻撃に使用される事も多く、特に欧州戦線に於いてはドイツ軍から「ヤーボ(Jabo)」と呼ばれて恐れられた。(→)

反撃に転じる連合軍 反撃に転じる連合軍 「マーチン B-26G マローダ」である。(←)
昭和17年(1942年)に登場した米陸軍の小型双発爆撃機で、速度・武装・防御力に優れていた。
性能を重視して開発された為に操縦が難しく、当初は事故が相次いだ。これは後に改善され、低空での爆撃任務に活躍した。

爆弾1500kgを搭載する事が出来た。また、一部の機体は魚雷1発を搭載出来るように改造された。これ等の機体は太平洋戦線にも配備され、日本の艦船や船舶にとって大きな脅威となった。(→)

反撃に転じる連合軍 反撃に転じる連合軍 「ボーイング B-17G フライングフォートレス」である。昭和10年(1935年)に登場、設計は古いが、高い防御力、長大な航続距離、大きな搭載量によって、第二次世界大戦全般を通して使用された米陸軍の四発重爆撃機である。(←)

約7000kgの爆弾を搭載出来、「B-24」やイギリス空軍の「アブロ ランカスター」と共に、ドイツ本土の都市を焼き払った。
太平洋戦線にも出現し、その重武装と重装甲によって日本軍機は苦戦した。「B-17」は南方に於ける日本軍敗退の遠因ともなった。(→)

反撃に転じる連合軍 反撃に転じる連合軍 米陸軍航空隊では、重爆撃機ごとに愛称を付け、機体にもそれを示すノーズアートを描く事が多かった。この機体は「Shoo Shoo Shoo Baby号」で、当時のノーズアートが再現されている。(←)

エンジンは空冷星型9気筒「ライト R-1820」(離翔1200馬力)を4基搭載した。(→)

「B-17」によるドイツ本土空襲は、映画「メンフィスベル」(1990年:アメリカ)にも描かれている。尚、「B-17F メンフィスベル号」の実機は、現在この博物館でレストア(修復)中である。(詳細

「第三帝国の落日(昭和18年〜昭和20年)」

第三帝国の落日 第三帝国の落日 昭和18年(1943年)以降、ドイツ軍は日増しに敗色が濃くなっていた。東部戦線ではソ連軍が反撃に転じ、北アフリカ戦線、イタリア戦線でも米英軍の反抗が開始されていた。また、ドイツ本土も米陸軍航空隊と英空軍による激しい空襲にさらされていた。(←)
これら連合軍爆撃機は、高度3000m〜8000mを飛行した。これに対し、ドイツ軍は高高度に砲弾を撃ち上げる対空火器、即ち高射砲を大量に配備して対抗した。撃ち上げられた砲弾は、予め調整された高度で炸裂、破片と爆風で敵機を撃墜した。

ドイツ軍の88mm高射砲「FLAK36」である。(→)

第三帝国の落日 第三帝国の落日 昭和11年(1936年)に登場した優秀な高射砲で、ドイツ本土空襲で撃墜された連合軍機約10000機の半分以上(約5500機)は、高射砲による撃墜であったと言われている。また、その高初速を生かして対戦車戦闘にも使用された。ドイツ軍将兵に「Acht-Acht」と愛称され、信頼された。(←)(→)

昭和19年(1944年)6月6日、連合軍は北フランスのノルマンディー海岸に上陸、遂に連合軍によるヨーロッパ反攻が開始された。映画「史上最大の作戦」(1962年:アメリカ)や映画「プライベートライアン」(1998年:アメリカ)にも描かれている。

第三帝国の落日 第三帝国の落日 連合軍が北フランスに上陸すると、米陸軍航空隊や英空軍が進出、その圧倒的な航空兵力によって制空権を確保した。結果、これら連合軍機の跳梁によってドイツ軍の行動は著しく制約されるようになった。特に、「P-47」等による対地攻撃はドイツ軍に少なからず損害を与えた。ドイツ軍将兵は、これら連合軍の対地攻撃機を「ヤーボ(Jabo)」と呼んで恐れた。
そこで、低空で進入し、高速で接近してくる連合軍対地攻撃機に対し、至近距離から対空射撃を行う高射機関砲が重要になってきた。(←)

ドイツ軍の20mm高射機関砲「Flakvierling38」(→)

第三帝国の落日 第三帝国の落日 ドイツ軍の主力近接対空火器として第二次世界大戦全般を通して使用された。発射速度は毎分720発、対地射撃にも使用された。(←)
映画「プライベートライアン」(1998年:アメリカ)では単装型「FLAK38」が使用されるシーンがある。

併しながら、連合軍の対地攻撃機による爆撃は熾烈を極め、制空権を失ったドイツ軍地上部隊は次第に追い詰められていった。
昭和19年(1944年)8月、ファレーズに於ける包囲戦では、対地攻撃機によってドイツ軍車両3000両が破壊され、ドイツ軍将兵15000名が戦死した。(→)

第三帝国の落日 第三帝国の落日 「メッサーシュミット Bf109G-10」である。(←)
「Bf109」は、昭和10年(1935年)に登場したドイツ空軍の戦闘機で、強力な武装と防弾を持ち、強靭な機体によって一撃離脱戦法に最適化されていた。

「Bf109G-10」は、液冷倒立V型12気筒の「ダイムラーベンツ DB605」(離翔1775馬力)を搭載した。(→)
「DB605」の原型となった「DB601」は、日本でもライセンス生産され、「三式戦闘機『飛燕』」や艦上攻撃機「彗星」に搭載されたが、当時の日本の工業力では、その性能を十分に発揮すること事が出来ないほど精密なエンジンであった。

第三帝国の落日 第三帝国の落日 「Bf109」は、数々の改良を受けつつ、主力戦闘機として第二次世界大戦全般を戦い抜いた。(←)

第二次世界大戦で最高の撃墜数(公認352機)を誇るドイツ空軍の撃墜王(エース)、エーリッヒ・ハルトマンである。(→)
彼は「Bf109」の特性を生かした空中戦で、前人未到の撃墜数352機を記録した。これは、人類の歴史上最高の撃墜数であり、恐らく今後も永久に更新されることは無いだろう。
熾烈な戦いを生き抜いたハルトマンは、平成5年(1993年)、静かに世を去った。享年71才。

第三帝国の落日 第三帝国の落日 「フォッケウルフ Fw190D-9」である。(←)
「Fw190」は昭和16年(1941年)に登場、空冷星型14気筒の「BMW 801」(離翔1800馬力)を搭載し、「Bf190」と共にドイツ空軍の主力戦闘機として活躍した。特に低中高度での性能に優れ、対地攻撃にも使用された。「Fw190D-9」は、エンジンを液冷倒立V型12気筒の「ユンカース ユモ213A」(離翔1780馬力)に換装し、昭和19年(1944年)に登場、ドイツ本土防空等に活躍した。
機首に円形のラジエターを装備している為、空冷エンジン装備機に見えるが、機首側面にある並列の排気管が液冷エンジン装備機であることを示す。(→)

第三帝国の落日 第三帝国の落日 「ユンカース Ju88D」である。(←)
昭和14年(1939年)に登場したドイツ空軍の双発爆撃機である。開発当時の最高時速510kmは当時としては戦闘機より高速であった。主力爆撃機としてイギリス本土空襲にも参加、戦闘機が高速化するに従って旧式化するも、第二次世界大戦全般を通して使用された。その後、ドイツ本土空襲を受けるようになると、レーダー等を搭載した夜間戦闘機として使用され、連合軍爆撃機相手に奮戦した。

展示機は、ドイツの同盟国であったルーマニア軍で使用されていた機体である。(→)

第三帝国の落日 第三帝国の落日 連合軍によるドイツ本土空襲に於いては、ドイツ軍戦闘機に撃墜された米陸軍航空隊の爆撃機搭乗員約35000名以上がドイツ軍の捕虜になった。これ等の連合軍捕虜は、ドイツ国内の捕虜収容所に移送された。尚、これら捕虜収容所は、ホロコーストの舞台となった強制収容所・絶滅収容所とは全く異なる。
ドイツ軍による捕虜移送列車を再現した展示。(←)
     捕虜収容所内での生活に関する展示。(→)

映画「大脱走」(1963年:アメリカ)や映画「ジャスティス」(2002年:アメリカ)では、ドイツ軍の捕虜収容所が舞台になっている。尚、戦時捕虜を示すPOWはPrisoner of Warの略である。

「ジェット戦闘機の登場(昭和19年〜昭和20年)」

ジェット戦闘機の登場 ジェット戦闘機の登場 敗色迫るドイツは、起死回生を目指した新兵器を次々と送り出した。これらの多くは時代を超越した奇想天外な兵器群であった。結局、戦局が覆る事は無かったが、その技術の多くは戦後の航空機開発や宇宙開発へと繋がっていった。

「JB-2 ルーン」、ドイツ軍の「Fi103」(一般には「V1」として知られる)を米軍がコピーして製作した無人飛行爆弾である。「V1」とほぼ同一である。(←)
搭載されたパルスジェットエンジンは、非常に単純な構造で、手前の弁が内圧と外圧によって開閉を繰り返して吸気と圧縮を行う。。(→)

ジェット戦闘機の登場 ジェット戦闘機の登場 パルスジェットエンジンの燃焼は間欠的であり、「バンバン ブィーン」という特徴的な排気音を響かせて飛行した。その為、「V1」を目撃したロンドン市民はBuzz Bomb(ブンブン爆弾)と呼んだ。(←)

地上のカタパルトから発射し、慣性航法装置(ジャイロ)による制御で飛行、一定時間後に燃料を止めて落下した。「V1」は、昭和19年(1944年)6月以降、ロンドン等に向け、20000発以上が発射された。 技術的には目新しい部分は無かったが、その運用に於いては現代の巡航ミサイルの始祖と言えるだろう。(→)

ジェット戦闘機の登場 ジェット戦闘機の登場 「A-4」、一般には「V2]として知られるドイツ軍のロケット爆弾である。(←)
液体燃料と液体酸素を混合させて燃焼し、高度88000m(つまり大気圏外)まで上昇、その後、自由落下を開始し、マッハ3で目標地域に着弾した。
射程距離は約300km。人類史上初めて大気圏外(宇宙空間)に到達した人工物である。

ロケットエンジンの推力は約25トン、約60秒間の燃焼後に時速約5500km(マッハ5)に達した。ロケットエンジンの実物は「Missile & Space」に展示されている。(→)

ジェット戦闘機の登場 ジェット戦闘機の登場 「V2」は、史上初の実用ロケット兵器であった。
併しながら、誘導装置が不十分で、目標地点の半径15km以内に着弾という程度であった。しかし、巡航速度が時速600km程度の「V1」と違い、マッハ3で突入してくる「V2」は迎撃不能であった。その為、ドイツ軍の「V2」発射施設は高い優先度で連合軍の爆撃目標であった。弾頭には炸薬量約1000kgの通常弾頭を搭載した。現在の大陸間弾道弾の始祖である。

戦後、「V2」でのロケット技術はアメリカ・ソ連によって(技術者ごと)持ち去られ、冷戦期の宇宙開発競争の原動力となった。

ジェット戦闘機の登場 ジェット戦闘機の登場 「フリッツ X」、昭和18年(1943年)、ドイツによって実用化された史上初の無線誘導対艦ミサイルである。(←)
母機となる爆撃機に搭載し、上空から投下、燃料噴射によってミサイルは飛行する。ミサイルは無線誘導で、母機の兵装員がミサイルを目視しながら遠隔操縦し、目標に命中させる。(→)
併しながら、ミサイル飛行中、母機は低速で飛行せねばならず、母機の被害が多かった。
尚、イタリアの降伏で、連合軍に投降しようとしていたイタリア海軍の戦艦「ローマ」は、昭和18年(1943年)9月9日、「フリッツ X」によって撃沈された。

ジェット戦闘機の登場 ジェット戦闘機の登場 「メッサーシュミット Me163B コメット」である。(←)
昭和18年(1943年)に登場、史上初めて実戦使用された数少ないロケット航空機である。
特殊な液体燃料を燃焼させ、その推進力によって高度10000mまで3分で急上昇、その後、急降下に移り、時速960kmで敵爆撃機に接近してすれ違いざまに攻撃、その後は滑空して帰還するという、通り魔のような迎撃機である。

搭載されたロケットエンジン「ウォルター HWK-509A-1」である。過酸化水素水とヒドラジンを混合した燃料を噴射した。(→)

ジェット戦闘機の登場 ジェット戦闘機の登場 超高速での一撃離脱戦法によって、敵からの反撃を受けないという素晴らしいアイデアだったが、飛行可能時間が8分と極端に短い為に敵爆撃機と会敵するタイミングが難しかった。(←)
また、使用する燃料が非常に不安定かつ超有毒で、その取り扱いは困難あり、爆発事故が多発、撃墜した敵爆撃機よりも事故で失われた「Me163」の方が多かったという。その結果、敵よりも味方から恐れられる航空機となってしまった。(→)
昭和20年(1945年)、日本に於いても、ドイツからもたらされた情報によって同様の航空機である「秋水」を開発したが、実戦配備には至らなかった。

ジェット戦闘機の登場 ジェット戦闘機の登場 昭和19年(1944年)6月、これまでのレシプロ機に代わる革新的な航空機が実戦配備された。ジェット機の登場である。
「メッサーシュミット Me262A シュワルベ」、世界で初めて実用化されたターボジェット戦闘機である。(←)
連合軍爆撃機にとって恐怖の的となった。

当時、各国のレシプロ機の最高速度は時速750km前後になっていたが、これはレシプロ機の限界値に近づきつつあった。これに対して「Me262」の最高速度は時速870km、まさに技術のブレイクスルーが起きたのである。(→)

ジェット戦闘機の登場 ジェット戦闘機の登場 「Me262」に搭載されたターボジェットエンジン「ユンカース ユモ004」(推力:940kg)(←)(→)
当時は、高温、高圧、高回転に長時間耐えられるジェットエンジンの製作は難しく、使用可能時間は20時間程であったという。
「Me262」は第44ジェット戦闘機集団(JV44)で集中運用され、連合軍爆撃機に対しての切り札であった。最高時速870km は連合軍戦闘機を振切る事が可能で、機首に装備された30mm機関砲4門という強力な武装で、連合軍爆撃機を次々と葬っていった。ドイツ本土空襲に向かう連合軍爆撃機の搭乗員は、接近してくる「Me262」を見ると震え上がったという。

ジェット戦闘機の登場 ジェット戦闘機の登場 ジェット機の開発は各国で行われており、ドイツ軍の「Me262」は昭和17年(1942年)7月18日に初飛行、米陸軍の「ベル P-59」は同年10月2日に初飛行、英空軍の「グロスター ミーティア」は昭和18年(1943年)3月5日に初飛行している。
日本でも、昭和20年(1945年)8月7日、ジェット機「橘花」が初飛行している。「橘花」は一部「Me262」を参考にしていたが、ジェットエンジン「ネ-20」を初め多くは日本独自の開発であった。

戦後、昭和25年(1950年)に勃発した朝鮮戦争では、ジェット戦闘機同士(「F-86」と「MiG15」)が激突した。いずれも「Korean War」に展示されている。

「連合軍の新型戦闘機(昭和18年〜昭和20年)」

連合軍の新型戦闘機 連合軍の新型戦闘機 「ダグラス C-47D スカイトレイン」である。(←)(→)
昭和16年(1941年)に登場した米陸軍の輸送機で、第二次世界大戦全般を通して使用された。また、戦前は輸出やライセンス生産によって各国でも使用され、日本海軍でも「零式輸送機」として使用した。
「C-47」の後ろに展示されているのは、輸送用グライダー「ワーコ CG-4A」である。

「C-47」は米軍の主力輸送機として、北アフリカ戦線、欧州戦線、太平洋戦線と至るとこで活躍した。
また、物資の輸送のみならず、空挺部隊の輸送にも使用され、多くの空挺隊員を降下させた。

連合軍の新型戦闘機 連合軍の新型戦闘機 特に、昭和19年(1944年)6月5日夜、北フランスのノルマンディー海岸後方への空挺作戦に「C-47」多数が参加、連合軍空挺隊員3個師団を降下させ、翌日のノルマンディー海岸への上陸作戦を支援した。その様子は、ドラマ「バンド・オブ・ブラザーズ」(2001年:アメリカ)にも描かれ、ドイツ軍の激しい対空砲火によって多くの「C-47」が撃墜された。(←)

その3ヵ月後の9月17日、オランダで行われた大規模な空挺作戦(マーケット・ガーデン作戦)でも、連合軍空挺隊員35000名を降下させた。映画「遠すぎた橋」(1977年:アメリカ)の舞台である。(→)

連合軍の新型戦闘機 連合軍の新型戦闘機 「カーチス C-46D コマンド」、昭和16年(1941年)に登場した米陸軍の輸送機である。「C-47」よりも大型で高出力の輸送機として、第二次世界大戦全般を通して使用された。(←)

特に、その高出力を生かし、インドからヒマラヤ山脈を越えて中国の昆明に到る物資輸送を行い、援蒋ルートの一翼を担った。戦後は一部の機体が航空自衛隊で使用された。(→)

これ等輸送機は、連合軍の兵站補給の一端を担い、戦局の推移に大きく影響した。

連合軍の新型戦闘機 連合軍の新型戦闘機 第二次世界大戦では、戦場のあらゆる局面に於いて制空権の有無が勝敗を分けた。
敵の航空兵力を排除した地域では、味方の攻撃機、爆撃機、偵察機といった機種が比較的自由に行動できる。これらの機種は敵戦闘機に対して脆弱であるが、制空権を確保すればその心配も無い。そして、これらの機種は、地上や海上の敵戦力には脅威となり、味方の以後の戦闘が有利になった。

米陸軍の小型輸送機「ヌーアダイン UC-64A ノーズマン」(←)と、米陸軍の観測機「エアロニカ L-3B グラスホッパー」(→)である。

連合軍の新型戦闘機 連合軍の新型戦闘機 「リパブリック P-47D サンダーボルト」である。(←)
もう1機「P-47」(水滴型風防装備)が展示されているが、この展示機はファストバック型風防装備である。

操縦席の風防(キャノピー)の後方がそのまま胴体へと繋がっている。この形状は、胴体後部への気流の流れが乱れないので機体の動きが安定する。また、操縦席後方をパイロットの後頭部まで防弾鋼板で覆うことができるので防御上の利点もあった。
反面、全面がガラスの水滴型風防と比較して後方視界が悪く、戦闘機にとって最も重要な後方の敵機への警戒が難しいという欠点もあった。

連合軍の新型戦闘機 連合軍の新型戦闘機 太平洋戦線に配備された「P-47」は、強力な武装、高出力のエンジン、頑丈な機体を備えており、当時の日本軍機と全く対照的であった。「P-47」は、その特性を生かした一撃離脱戦法によって日本軍機の脅威となっていった。(←)

展示機は、昭和19年(1944年)3月5日、ニューギニアのウェワク上空に於いて、日本陸軍の「一式戦闘機『隼』」に撃墜されて戦死した米陸軍撃墜王(エース)ニール・E・カービィ大佐(公認22機)の乗機を再現している。横には、実機から回収したカービィ大佐機の垂直尾翼が展示されている。(→)

連合軍の新型戦闘機 連合軍の新型戦闘機 「ノースアメリカン P-51D ムスタング」、昭和18年(1943年)に登場した米陸軍の戦闘機である。第二次世界大戦に於ける最優秀戦闘機と言われている。(←)
昭和18年(1943年)以降、米陸軍航空隊は、日本本土やドイツ本土に対する空襲を強化していた。しかし、当時は重爆撃機に随伴できるだけの航続距離を持った戦闘機が無く、特にドイツ本土空襲では、迎撃してくる強力なドイツ軍戦闘機によって多数の米軍爆撃機が失われていた。既に配備されていた「P-40」や「P-47」は航続距離が足りず、「P-38」では単発戦闘機相手の空中戦はやや重荷であった。

連合軍の新型戦闘機 連合軍の新型戦闘機 「P-51」は、時速700kmの最高速度と軽快な運動性を備えつつ、約2600kmという航続距離を持っており、実に最適のタイミングで登場した戦闘機であった。

武装を「12.7mm機関銃」6挺と水滴型風防を装備した「P-51D」は決定版といえる型式であった。(←)

エンジンは、信頼性の高い液冷V型12気筒「ロールスロイス マーリン」を、米国でライセンス生産した「パッカード V-1650」(二段二速加給器装備・離翔1695馬力)を装備した。(→)

連合軍の新型戦闘機 連合軍の新型戦闘機 日本本土やドイツ本土に対して、爆撃機のみで空襲を行っていた米陸軍航空隊は、「P-51」の登場によって力強い護衛機(Bomber Escort)を得た。「P-51」が来襲するようになると、日本軍やドイツ軍の迎撃機はこの新手の高性能戦闘機に苦戦、次第に圧倒されるようになっていった。(←)
第二次世界大戦末期、日本やドイツの上空は、星のマークをつけた航空機が我が物顔で乱舞し、地上の一般市民や、更には子供にまで機銃掃射を行うようになった。(→)

「P-51」は、15675機が生産され、第二次世界大戦後半、全戦線で米陸軍航空隊の空の戦いを支えた。

「一般市民に対する無差別爆撃と原子爆弾投下(昭和19年〜昭和20年)」

一般市民に対する無差別爆撃と原子爆弾投下 一般市民に対する無差別爆撃と原子爆弾投下 昭和18年(1943年)以降、太平洋戦線においても米軍の反抗は激しさを増し、日本軍は各地で敗退、敗色は日増しに濃くなっていった。
太平洋での日本アメリカとの戦争では必然的に航空機がその主役となり、互いに航空機の開発と生産にしのぎを削ったが、大東亜戦争中盤以降、アメリカは技術力でも生産力でも日本を圧倒していく。

「コンソリデーテッド PBY カタリナ」、昭和11年(1936年)に登場した米海軍の双発飛行艇で、高い信頼性と使い勝手の良さから、雷撃、哨戒、救難と多方面に渡って使用された。(←)(→)

一般市民に対する無差別爆撃と原子爆弾投下 一般市民に対する無差別爆撃と原子爆弾投下 「PBY カタリナ」は、米陸軍でも「OA-10」として採用された。展示機は昭和57年(1981年)までブラジル空軍で使用された「PBY」で、現在は「OA-10」の塗装が成されている。(←)

「ダグラス A-20G ハボック」、昭和15年(1940年)に登場した米陸軍の双発攻撃機。(→)

南太平洋やフィリピン諸島を中心に活動し、多数の日本軍艦艇や商船を撃沈した。制空権を奪われた日本の船舶は米軍機の跳梁に成すすべが無いまま、次々と沈められていった。

一般市民に対する無差別爆撃と原子爆弾投下 一般市民に対する無差別爆撃と原子爆弾投下 第二次世界大戦では、レーダーを搭載して夜間に行動可能な夜間戦闘機が発達した。空の戦場には昼夜の区別無すら無くなっていった。
「ノースアメリカン P-61C ブラックウィドウ」、昭和19年(1944年)に登場した米陸軍の夜間戦闘機で、「12.7mm機関銃」4挺、「20mm機関砲」4挺という重武装であった。(←)(→)

昭和19年(1944年)8月、米軍は南洋群島のマリアナ諸島を占領、以後、そこを拠点として日本本土空襲を開始する。遂に、日本の一般市民の生活が米軍の攻撃に直接さらされる事になったのである。

一般市民に対する無差別爆撃と原子爆弾投下 一般市民に対する無差別爆撃と原子爆弾投下

「ボーイング B-29 スーパーフォートレス」、昭和19年(1944年)に登場した米陸軍の戦略爆撃機である。大東亜戦争末期の半年間に、50万人近い日本人(殆どは一般市民)を殺戮した航空機である。(←)

航続距離6000km、搭載量8000kg、実用上昇限度9700m、与圧された機体に防御火器として「12.7mm機関銃」12挺と「20mm機関砲」1挺を装備、第二次世界大戦に於ける、最大かつ最強の戦略爆撃機と言っていいだろう。(→)
生産機数は3970機、殆どは太平洋戦線に配備され、日本本土空襲に参加した。

一般市民に対する無差別爆撃と原子爆弾投下 一般市民に対する無差別爆撃と原子爆弾投下 米軍による日本本土空襲は、当初は軍需工場や軍事施設に対して行われた。しかし、十分な効果が得られなかった為、方針を転換、目標を一般市街地に切り替えた。それは、非戦闘員である一般市民の殺戮を組織的かつ大規模に行う事を意味していた。

一般市街地を目標とした初めての空襲は、昭和20年(1945年)3月10日未明であった。世に言う「東京大空襲」である。これは、当初から一般市民を攻撃目標としており、木造家屋に効果のある焼夷弾が大量に使用され、一晩の空襲で約10万人が死亡した。(→)

一般市民に対する無差別爆撃と原子爆弾投下 一般市民に対する無差別爆撃と原子爆弾投下 尚、展示機は「B-29 ボックスカー号」である。(←)
昭和20年(1945年)8月9日朝、「ボックスカー号」はマリアナ諸島テニアン島の「ノース・フィールド飛行場」を飛び立った。その爆弾倉には世界初の実戦用プルトニウム原子爆弾「ファットマン」が搭載されていた。
同日午前11時1分、「ボックスカー号」は長崎市上空9000mから「ファットマン」を投下、1分後の11時2分、高度500mで「ファットマン」は炸裂し、TNT火薬22キロトン分のエネルギーを放出、そして、長崎市は約7万人の一般市民と共に地上から消えた。航空機が登場して42年後の出来事であった。(→)

広島市と長崎市に投下された原子爆弾も含め、米軍による日本本土空襲による一般市民の死者は約50万人と言われている。アメリカは、都市の一般市民に対して核兵器を使用した世界で唯一の国である。



一般市民に対する無差別爆撃と原子爆弾投下 ウラニウム型原子爆弾「リトルボーイ」とプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」の模型。(←)

日本の一般市民約50万人を殺戮する事によって第二次世界大戦の終結を早め、それ以上の人命を救ったというのがアメリカの主張である。この事はアメリカの国益と言う観点から見れば、彼らにとっては妥当な解釈であろうし、アメリカが自国民に対してそのような教育をしたり、国内の施設でそのような展示をする事は、それはそれで当然の事である。
しかし、我々は、これはあくまでアメリカの国益を優先した主張であり、必ずしも公平な見方をしている訳ではない事をよく認識しておく必要がある。

「去り行く日の丸の翼」

去り行く日の丸の翼 去り行く日の丸の翼 大東亜戦争末期、敗色濃い日本軍は、遂に必死必殺の体当たり戦法、即ち搭乗員ごと敵艦艇に体当たりする特攻戦術を実施する。

日本海軍の特攻機「桜花練習機」である。(←)
「桜花」は日本海軍が開発した1人乗りのロケット特別攻撃機であった。母機となる「一式陸上攻撃機(一式陸攻)」の胴体下に懸架し、敵艦の手間 km以内で切り離す。その後、ロケット推進によって得られる高速を利して敵戦闘機の迎撃を振り切り、敵艦船に突入するという計画であった。
       展示機は訓練用の「桜花」である。(→)

去り行く日の丸の翼 去り行く日の丸の翼 「桜花」は、昭和19年(1944年)10月に開発され、ロケットエンジン3基を装備し、最高時速1000kmを得る事が出来た。弾頭には1200kgの炸薬を搭載していたが、ロケット1本噴射可能時間は約10秒しかなく、航続距離は約40kmであった。(←)(→)

昭和19年(1944年)「桜花」を装備した海軍第七二一航空隊(神雷部隊)が編成された。
神雷部隊の指揮官となった野中五郎中佐(海兵  期)は、親分肌で情に厚く、隊員から信頼されていた。隊員達も、自ら野中一家を名乗るほど結束力が強く、野中親分の下、訓練に励んだ。

去り行く日の丸の翼 去り行く日の丸の翼 そして、遂に神雷部隊の出撃する日がやって来た。昭和20年(1945年)3月21日、「桜花」を懸架した「一式陸攻」18機が出撃、この時稼働可能な護衛戦闘機は僅か55機であった。生きて再び還る事のない「桜花」搭乗員は15名、だが、母機や護衛機の搭乗員も皆悲壮な覚悟を決めていた。
神雷部隊は、一路沖縄本島近海の米海軍機動部隊を目指した。この時、米海軍機動部隊は、接近してくる日本軍編隊をレーダーで探知、直ちに戦闘機28機を発艦させて迎撃体制を敷いていた。結果、神雷部隊は敵艦の遥か以前で米軍戦闘機に捕捉されてしまった。護衛戦闘機は、米軍戦闘機を近づけまいと必死に応戦するも、有利な体制から襲ってきた敵戦闘機に対して有効な護衛が出来なかった。

去り行く日の丸の翼 去り行く日の丸の翼 「一式陸攻」は次々と被弾し火を噴いていく、「桜花」は母機もろとも撃墜されていった。一部の「桜花」は母機を離れた。しかし、航続距離40kmの「桜花」は敵艦隊まで届かない。空しく海に落ちるしかなかった。隊員達の無念は、いかばかりであったろう。神雷部隊の「一式陸攻」18機は「桜花」と共に全機未帰還、隊員134名は全員戦死、護衛戦闘機もまた10機が還らなかった。野中一家の壮絶な最期であった。

終戦までに「桜花」で散華した勇士は55名、戦死した母機の搭乗員は368名、戦果は米海軍護衛駆逐艦1隻撃沈、その犠牲に見合わない戦果であった。しかし彼ら特攻隊員の、祖国や大切な人々に対する想いを我々は無駄にしてはならない。我々は、彼らの護ろうとした祖国日本を偉大ならしめ、そして、彼らへの感謝の念を忘れてはならない。、

去り行く日の丸の翼 去り行く日の丸の翼 日本陸軍の航空機用固定機関砲。(←)(→)

手前から「ホ一五五一型乙」(30mm機関砲)、「ホ一〇三(一式十二・七粍固定機関砲)」(12.7mm機関砲)、「ホ二〇三」(37mm機関砲)である。
「ホ一〇三」は米軍の「ブローニング M2 重機関銃」のコピーであったが、大東亜戦争中の大量に使用された。「ホ二〇三」は重爆撃機対策であった。

戦闘機にとっては、武装の優劣が性能を大きく左右した。これら航空機用固定機銃は、今日あまり注目されることは無いながら、重要な装備品であった。

去り行く日の丸の翼 去り行く日の丸の翼 局地戦闘機「紫電二一型(紫電改)」である。(←)
水上戦闘機「強風」から発展した、日本海軍の局地戦闘機(迎撃戦闘機)である。昭和19年(1944年) 月、「紫電一一型」を改良し「紫電二一型」として正式採用された。「紫電改」の通り名で知られる。

発動機(エンジン)は中島飛行機製「誉二一型」(離翔1990馬力)を搭載。最高速度は時速594km。(→)
大東亜戦争末期、「誉」は日本海軍の期待を担って登場し、奇跡のエンジンとまで呼ばれたが、その精密さ故の稼働率の低さに泣いた。

去り行く日の丸の翼 去り行く日の丸の翼 20mm機銃(九九式二号二〇粍機銃四型)4挺を搭載し、局地戦闘機に相応しい重武装であった。また、中翼の「紫電一一型」は主脚が長く、事故や故障の原因となったが、「紫電改」では低翼に改められ、主脚も短くなった。(←)
「紫電改」は、必ずしも洗練された機体ではなく、同時期の連合軍機と比較しても、性能的にずば抜けていた訳ではなかった。しかし、大東亜戦争末期、ある部隊の登場が「紫電改」の名を後世に遺す事になった。海軍第三四三航空隊(剣部隊)である。
昭和19年(1944年)12月25日、制空権奪還を目的に第三四三航空隊(2代目)は編成された。

去り行く日の丸の翼 去り行く日の丸の翼 司令は海軍参謀の源田実大佐、愛媛県松山基地に展開し、3個戦闘飛行隊と1個偵察飛行隊で編成された。飛行隊長やその僚機には、当時、生き残っていた優秀な搭乗員を配属し、それ以外の搭乗員にも十分な訓練時間を設けて練度向上を図った。特に、日本軍戦闘機の弱点であった編隊空戦に重点を置き、4機を1個隊とするロッテ戦法を徹底して訓練した。また、整備員も優秀な人員が集められた。

そして装備機は「紫電改」、第三四三航空隊は「紫電改」を集中配備した唯一の部隊として、また、制空権奪還を担う最強の戦闘機隊として期待された。

去り行く日の丸の翼 去り行く日の丸の翼 第三四三航空隊の初陣は、昭和20年(1945年)3月19日、松山上空の迎撃戦であった。広島県呉軍港を空襲した米海軍艦載機を迎撃、14機を撃墜破、被害は14機であった。彼我の損害は互角であったが、これは、大東亜戦争末期、質も量も圧倒されつつあった空の戦いに於いて、久々の大戦果であった。
以後、松山基地からの迎撃戦や、沖縄本島周辺海域への制空戦闘等に参加、沖縄本島や日本本土に押し寄せる圧倒的な数の米軍戦闘機に対して果敢な迎撃戦を挑んだ。
それは、落日の大日本帝国に於いて、消え行く日本海軍戦闘機隊の最後の意地でもあった。

去り行く日の丸の翼 去り行く日の丸の翼 しかし、圧倒的な数で押し寄せる米軍戦闘機の前に、第三四三航空隊も無事ではいられなかった。終戦までに、隊員97名、「紫電改」74機が失われた。これに対し、撃墜した米軍機は約170機(米軍記録は約40機)、彼ら第三四三航空隊の奮戦が如何に凄まじかったがかが伺われる。

昭和20年(1945年)8月15日、大東亜戦争終戦、日本は無条件降伏し、この日を境にして日本に於ける航空機開発は事実上終わりを告げた。
そして、航空機は戦争に於いて必要不可欠な兵器となった。現在は、アメリカがその技術力をほぼ独占、名実共に世界最強の軍事力を誇っている。

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