テニアン空港(旧ウエスト・フィールド飛行場)(詳細)
・安式四十口径六吋砲
・九六式二十五粍高角機銃
・航空機用タイヤ
・航米軍記念碑
・テニアンビーチ周辺(詳細) ・小川砲台跡(ペペノゴル砲台跡) ・建物跡
テニアン島の空の玄関口「テニアン空港」はテニアン島中部にある。ここは、かつて日本軍の「カヒット飛行場」であった。 昭和19年8月、米軍がテニアン島を占領。日本軍の「カヒット飛行場」は、米軍によって拡張され、昭和20年(1945年)3月に「ウエスト・フィールド飛行場」と命名された。
「ウエスト・フィールド飛行場」には米空軍第58爆撃航空団・米海軍第116偵察爆撃飛行隊が進出、8500ft(2590m)の滑走路が2本・小型機用の滑走路1本があった。 小型機用の滑走は現在も「テニアン空港」の滑走として使用されている。
「テニアン空港」のターミナル前には日本軍の兵器や米軍の記念碑が遺されている。(←)
また、「テニアン空港」の歴史や、テニアン島の戦跡を紹介する看板が設置されている。(→)
テニアン島への交通手段は船と飛行機である。
飛行機でテニアン島に行く場合はまず「テニアン空港」に降りることになる。
船でテニアン島に行く場合はサン・ホセ市街(San Jose)の「テニアン港」に着く。 サン・ホセ市街(San Jose)からテニアン島東部を南北に貫く「ブロードウェイ」を北上すると右手(西側)に「テニアン空港」がある。
「テニアン空港」の南側にターミナルがある。
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「テニアン空港」のターミナル前に「安式四十口径六吋砲」が遺されている。(←) この砲は、海軍第五六警備隊が装備していた砲であり、「テニアンビーチ」の「小川砲台」またはカロリナス台地の「二本椰子砲台」に設置されていた6門の内の1門である。
昭和19年(1944年)7月24日、米海軍戦艦「コロラド」・駆逐艦「ノーマン・スコット」を砲撃、損害を与えた。
砲身中央には大きな弾痕がある。米艦艇からの艦砲射撃によるものであろうか。(→)
「テニアン空港」のターミナル前に 「九六式二十五粍高角機銃」が遺されている。(←) この高角機銃は連装である。
日本海軍の第八二防空隊又は第八三防空隊が装備していたうちの1基だと思われる。 この高角機銃は、昭和53年(1978年)2月18日、米海軍有志によって修復された。
環状照準器や射手用の座席は後に修復されたものである。(→)
「テニアン空港」のターミナル前に「航空機用タイヤ」2個が遺されている。(←)
米国製の「航空機用タイヤ」であるが、どの航空機の「タイヤ」かは不明である。
「タイヤ」のサイドウォールには「BF Goodrich」の刻印がある。(→)
米空軍第58爆撃航空団の「記念碑」。(←) 昭和20年(1945年)4月、第40・第444・第462・第468爆撃航空群を擁する第58爆撃航空団は「ウエスト・フィールド飛行場」に進出。以後、「B-29」による日本本土への無差別絨毯爆撃を開始する。
米海軍第116偵察爆撃飛行隊の「記念碑」。(→) 昭和19年(1944年)8月27日、「B24」を装備した第116偵察爆撃飛行隊はテニアン島からの作戦を開始する。以後、「ウエスト・フィールド飛行場」を基地として、硫黄島・パラオ諸島・フィリピン諸島・ 沖縄諸島へ出撃した。
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昭和19年(1944年)3月、テニアン島に海軍第五六警備が上陸し、直ちに沿岸砲台構築が開始された。
「テニアン港」を望む「テニアンビーチ」の丘には小川和吉海軍大尉の指揮する「小川砲台(ペペノゴル砲台)」が構築された。「小川砲台」には「安式四十口径六吋砲」3門が配備され、小川砲台長以下70名が配置についた。
「安式四十口径六吋砲」は旧式の艦載砲であったが陸上の沿岸砲として転用されていた。 昭和19年(1944年)3月、「安式四十口径六吋砲」6門が「テニアン港」に揚陸され、砲台まで輸送が開始された。 約7tの砲身重量は海軍第五六警備の装備していたトラックには重すぎた為、輸送はコロを用いて人力によって行われた。移動には数日間を要したという。
「小川砲台」はカロリナス台地の北側に構築された「二本椰子砲台」(砲台長:柴田卯助海軍中尉・「安式四十口径六吋砲」3門)と共に、外洋から「テニアン港」に接近する敵艦船を迎撃する態勢を整えていた。
昭和19年(1944年)7月24日、米海軍の戦艦「コロラド」・駆逐艦「ノーマン・スコット」が「テニアン港」に接近、「小川砲台」「二本椰子砲台」の「安式四十口径六吋砲」6門は十分ひきつけた後に砲撃を開始した。 まず、駆逐艦「ノーマン・スコット」に初弾から6発全弾が命中、続いて戦艦「コロラド」には実に22発を命中させ、両敵艦に大きな損害を与えた。 被害を受けた米海軍戦艦「コロラド」(←)と米海軍駆逐艦「ノーマン・スコット」(→)。
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「テニアンビーチ」の丘の中腹に「小川砲台跡」が遺されている。周囲は木に覆われている。当時も草木で偽装され、上空や海上からは容易に発見できなかったいう。丘の麓に「記念碑」が建てられているが銘版が失われている。(←)
丘の中腹の壕が砲座になっており、「安式四十口径六吋砲」1門が遺されている。(→) 当時は、砲座の周囲をコンクリート製掩蓋で覆っていたが、米軍の艦砲射撃で壊され、現在は洞窟と「砲」のみが遺されている。
「砲」は、砲架の一部や砲身の尾栓などが失われているが、砲身に大きな損傷は無く、比較的原型を保っている。(←)
当時あったコンクリート製掩蓋は、テニアン島内の軽便鉄道のレールを鉄骨として利用していた。「砲」の側には飴のように曲ったレールが遺されている。米軍の艦砲射撃の凄まじさがよく分かる。(→)
砲の側には、部品や装備品の残骸が遺されている。半分土に埋まったままの砲弾架が見える。砲弾の口径がよく分かる。(←)
砲座(壕)は天然の洞窟を利用しているが、更に奥を掘り進めた跡が遺されている。壕の奥には横に伸びた空間があり、更にその奥も小さな小部屋がある。(→) 壕の壁は硬い珊瑚礁の岩盤である為、これを人力で掘り進めるのは困難な工事であっただろう。
壕の中には、遺族の手によるものであろう、慰霊の卒塔婆が建てられている。(←)
現在は木が生い茂り、砲座から海を俯瞰することは出来ないが、砲座は「テニアン港」を望む丘にあり、今も「砲」は海を睨んでいる。(→)
かつてこの「砲」の側では、砲台長(小川和吉海軍大尉)以下70人の将兵がテニアン島に押し寄せる米艦艇を迎え撃った。「砲」の側に立つと今でも彼らの息遣いが聞こえてくる気がする。(→)
「テニアン空港」の南東、「テニアンビーチ」の中央にある。
「テニアン空港」のターミナルを出て「ブロードウェイ」に出たら右折して真っ直ぐ南へ進む。 ブロードウェイを約1.5km南下すると「十字路」があるので、この「十字路」を右折して真っ直ぐ西へ進む。途中、左手には広い牧場が見える。
1.7km程西に進むと、道が右に折れた後、大きく左にカーブしながら下っていく。下りきると大きな舗装道路と交差する「十字路」がある。この十字路を右折し大きな舗装道路に入る。
この舗装道路は、サン・ホセ市街(San Jose)から北西に伸びる「8番街(8th Ave.)」である。
サン・ホセ市街(San Jose)からは、 「韓国人慰霊碑」の入口から北に800m程進んだ所にこの「十字路」がある。 「十字路」から「8番街(8th Ave.)」(大きな舗装道路)を北に進む。 約1.15km進むと舗装道路の左側(海側)に左に下りて行く未舗装路(草の道)がある。(→)
未舗装路(草の道)は道なりに右に曲がっている。200m程進むと道が広くなった場所がある。ここには「建物跡」がある。
「建物跡」を越え、未舗装路(草の道)を650m程進むと広場がある。この広場の右手(陸側)の丘の中腹に「小川砲台跡(ペペノゴル砲台跡)」の砲座(壕)がある。
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「小川砲台跡」の付近にコンクリート製の「建物跡」が2ヶ所遺されている。屋根は失われており、壁の一部は樹木の重みで崩壊している。(←)
壁の厚みは10p程であり、完全に地上に露出している。トーチカ等の防御施設とは考えにくい。(→)
砲台関連の「建物跡」か、或い南洋興発等の民間の「建物跡」なのかは不明である。
「テニアン空港」の南東、「テニアンビーチ」の東側にある。
「小川砲台跡」に通じる未舗装路(草の道)に向かう。舗装道路から未舗装路(草の道)に入って道なりに右に進む。
200m程進むと道が広くなった場所がある。その場所の右手(陸側)の木立の中に「建物跡」がある。
「建物跡」から更に未舗装路(草の道)を650m程進むと「小川砲台跡」がある。
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