国立科学博物館

東京都

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「国立科学博物館」

「国立科学博物館」の概略および歩き方
展示内容詳細

「国立科学博物館」の展示内容

「零式艦上戦闘機二一型(零戦21型)」

零式艦上戦闘機二一型(零戦21型) 零式艦上戦闘機二一型(零戦21型) 零式艦上戦闘機二一型(零戦21型)」である。日本軍の戦闘機で最も有名な機体であろう。(←)

この機体は昭和20年(1945年)吉沢徳重(徳三説有り)上飛曹が操縦中、敵に銃撃されて墜落した。 ラバウル北西110kmのニューブリテン島ランパート岬沖約250m、水深8mの所に裏返しで沈んでいたもので、その後、昭和47年(1972年)に引き上げられた。

昭和49年(1974年)に日本大学教授石松新太郎氏が1500万円で購入し、博物館に寄贈された。(→)

零式艦上戦闘機二一型(零戦21型) 零式艦上戦闘機二一型(零戦21型) 昭和19年(1944年)にラバウルの第二五三航空隊に所属していた機体である。破損した数機の部品を合わせて作られており、一機の偵察用複座型に現地改造された。コックピットの風防ガラスも二人分となり、原型の「二一型」よりも長い。(←)

エンジンカウル(発動機覆い)は未装着で展示されている。発動機(エンジン)は「栄一二型」(14気筒)であり、地上(1気圧)での出力は940馬力であった。「九七式七粍七機銃(7.7mm機銃)」は発動機後方にあり、弾丸はプロペラ同調装置で発動機の隙間を通過してプロペラに当たらないように発射された。(→)

零式艦上戦闘機二一型(零戦21型) 零式艦上戦闘機二一型(零戦21型) 発動機の下の二つの穴は吸気孔であり、手前(黒)がオイルクーラー用、奥(白)が発動機への吸気用である。二つの吸気孔の右側に見える穴は排気孔である。「零戦五二型」以降は気筒ごとに排気管が独立し、機体後方に排気を噴出させて出力を向上を図っているが、「零戦二一型」は排気管が左右2本にまとめられているのが特徴である。(←)

「栄一二型」は7気筒がそれぞれ前後に並べられた形となっている。後列の気筒は前列の気筒の間に配置されており、空冷を考慮した構造となっている。各気筒に伸びている2本の筒(プッシュロッド)がバルブの吸排気を制御した。(→)

零式艦上戦闘機二一型(零戦21型) 零式艦上戦闘機二一型(零戦21型) 増槽である。(←)

零戦」の大きな特徴の一つは爆撃機に随伴できる約2000kmの長い航続力であるが、増槽を付けることによって更に約1000km航続距離が伸びた。

前式の「九六式艦上戦闘機(96艦戦)」までは固定脚であったが、「零戦」からは引込脚が採用された。引き込み機構のため多少重量が増加するが、空気抵抗が大幅に減少して速度性能の向上に寄与した。(→)

零式艦上戦闘機二一型(零戦21型) 零式艦上戦闘機二一型(零戦21型) 脚の上の翼中の小さな穴は「九九式二十粍一号固定機銃二型(20mm機銃)」の銃口である。7.7mm機銃よりも格段に威力は高かったが、初速が遅く、命中させるのが難しく、また銃撃を受けたときに暴発する可能性もあり、搭乗員の間でも賛否は分かれた。(←)

機体後部の尾輪である。現代の飛行機は走行安定性の良い前輪式(主輪が後ろ)が主流である。この時代の飛行機は前部の発動機重かったため、尾輪式が主流だった。また、尾輪式は草地や砂地、土を固めただけの不整地滑走路に強かった。垂直尾翼には機体番号53-122と塗装されている。(→)

零式艦上戦闘機二一型(零戦21型) 零式艦上戦闘機二一型(零戦21型) 十二試艦上戦闘機(試作機)」や「零戦一一型」には装備されていなかったが、「零戦二一型」では、航空母艦での運用に必要な装備が追加された。その一つが着艦フックである。(←)

また、航空母艦のエレベーター内での取り扱いを容易にする為に両翼端を50cm折り畳む機構を追加された。翼のへこんだ部分に取り付けられているカギ型の部分を操作して畳んだり伸ばしたりした。(→)

零式艦上戦闘機二一型(零戦21型) 零式艦上戦闘機二一型(零戦21型) 機体の前にはタッチパネル式の案内画面が設置されており、各機構の説明を見ることができる。(←)

翼の説明の項目では、画面上で翼端が畳まれる様子を見ることができる。(→)

「日本初の動力飛行」

日本初の動力飛行 日本初の動力飛行 明治44年(1910年)12月、日野熊蔵大尉が「ハンス・グラーデ機」、徳川好敏大尉が「アンリ・ファルマン機」で、代々木錬兵場(現在の代々木駅付近)において日本初の飛行機による動力飛行を行った。この2本のプロペラはそのときに使用されたプロペラである。(←)

「アンリ・ファルマン機」を基に機体を改造した国産飛行機第一号「会式一型」の絵である。(→)

当時欧米から技術者を招いて始まった日本の航空技術であったが、わずか30年後に日本が欧米を驚愕させる「零戦」を作り上げるとは、日本人自身も予想していなかったであろう。

「ニッポン号」

ニッポン号 ニッポン号 昭和14年(1939年)に日本人初の太平洋、大西洋横断を成し遂げて世界一周に成功した「ニッポン号」の模型である。(←)

飛行中の「ニッポン号」の写真である。(→)

「ニッポン号」は「九六式陸上攻撃機(96陸攻)」を改造した輸送機型であり、飛行後は海軍に返納された。「ニッポン号」は終戦時に他の機体と共に焼却処分された。

「橘花とネ-20」

橘花とネ-20 橘花とネ-20 ジェントエンジン「ネ-20」の開発資料の複製である。ドイツのBMW003Aターボジェットエンジンを参考に、種子島時休海軍大佐が中心となりほぼ半年という驚異的な開発期間で完成させた。「ネ-20」の『ネ』とは「燃料ロケット」の略である。この複製一式は平成16年(2004年)に種子島家が航空自衛隊幹部学校に寄贈し、さらに当博物館に譲られたものである。(←)

「ネ-20」は飛行機に搭載されて実際の飛行に成功した日本最初のジェットエンジンである。昭和20年(1945年)8月に中島飛行機の「特殊攻撃機『橘花』」に搭載され、わずか一回、12分ではあったが、初飛行に成功した。(→)

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