ダーウィン・アデレード

ダーウィン・アデレード

ダーウィン・アデレードの戦跡
大東亜戦争におけるダーウィン・アデレードの歴史
現地への行き方と現地交通情報(旅行情報)
ダーウィン

・オーストラリア航空歴史センター(Australian Aviation Heritage Centre)
・イーストポイント戦争博物館(East Point Military Museum)
・戦争記念碑(War Memorial)
・燃料貯蔵庫(WW II Oil Storage Tunnels)

アデレード

・戦没者慰霊碑(War Memorial)
・南オーストラリア航空博物館(South Australian Aviation Museum)
・クラッシックジェット戦闘機博物館(Classic Jet Fighter Museum)

ダーウィン・アデレードの戦跡 ダーウィンはノーザンテリトリー準州の準州都であり、オーストラリア大陸北岸のチモール海に面する位置にある。人口は12万5千人(2009年)であり、アジアとの距離の近さからアジア系の移民が多い。また、人口の4分の1はアボリジニなどの原住民である。熱帯性気候に属し、一年は5〜11月の乾季と12月〜4月の雨季に分けられる。特に1〜3月の降水量は月間300mm(東京で最も雨の多い9月で208.5mm)を越えるため、観光には適さない。

第一次世界大戦後、英連邦の東洋の根拠地シンガポールの補完として1920年代からダーウィンには燃料貯蔵庫が建設され始めた。そしてそれを防衛するため、ダーウィン市街の北西のイーストポイント岬には1930年代から大規模な要塞が築かれていった。また、現在のダーウィン空港はオーストラリア空軍の基地であった。

アデレードは南オーストラリア州の州都であり、オーストラリア南岸の南極海に通じるセントビンセント湾に面している。人口は約107万人であり、国内で5番目である。地中海性気候であり、日本とは逆の四季を持つ。南オーストラリアが正式にイギリスの植民地となったのは1836年のことであるが、本格的にアデレードに入植が始まったのは1936年のことである。南オーストラリア初代測量局長官ウイリアム・ライト大佐によって設計され、当初から道は碁盤の目に整備され、公園整備などが行われていた。ライト大佐の都市計画は先見の明があったようで、現在のアデレード市街地は当時の配置を元にしている。すなわち、碁盤の目の道の市中心部とそれを囲む広い公園の外側に新市街が広がっている。

ダーウィン・アデレードの戦跡 昭和16年(1941年)12月8日の大東亜戦争勃発後、南方作戦において日本軍は快進撃を続け、昭和17年(1942年)1月にはオランダ領インドネシアの島々を次々と占領し、蘭印軍の本拠地であるジャワ島に迫っていた。このような状況の中、日本軍は連合国軍がオーストラリア北部の基地を拠点としてオランダ領インドネシアに反攻してくることを防ぐため、オーストラリア北部の各基地に空襲を行った。昭和17年(1942年)2月19日のダーウィンへの空襲が最初にして最大規模であった。

午前8時45分、空母「赤城」、「加賀」、「飛龍」、「蒼龍」はオーストラリア北西のチモール海から計188機の艦載機を発進させた。指揮官は真珠湾攻撃を成功に導いた淵田美津英雄中佐であった。一方、ダーウィンにいた連合軍戦闘機はたまたま移動途中でダーウィンに立ち寄った「P-40(ウォーフォーク)」が10機のみであった。「ウォーフォーク」はクーパンに向けて移動していたが、悪天候のため引き返したところに日本軍機と遭遇し、その全てが「零式艦上戦闘機(零戦)」に撃墜されるか地上で破壊された。ポート・ダーウィンに到達した「九七式艦上攻撃機」は艦船を攻撃し9隻の船舶を撃沈し、「九九式艦上爆撃機」は飛行場を破壊した。第一波は午前10時40分頃に母艦へ引き揚げていった。

続いて正午前に蘭印スウェラシ島のケンダリーの陸上基地から発進した27機の「九六式陸上攻撃機」と27機の「一式陸上攻撃機」が20〜25分に渡って飛行場を空襲し、20機の軍用機を破壊した。

ダーウィン・アデレードの戦跡 この空襲で使用された弾薬量は真珠湾攻撃を超えるとされている。オーストラリア軍はこの攻撃に対して全く無警戒であった。人的被害としては連合国水兵を中心に251名が死亡し、日本軍機の損失はわずか4機であった。

ダーウィン市街北西の岬には要塞があり、現在も9.2インチ(23cm)砲の砲台のほか、多数の構造物が遺されている。博物館ではダーウィン空襲の詳細なパネル展示や遺物を見ることができる。ダーウィン空襲では地上の燃料タンクに大きな損害が出たが、これを受けて空襲を避けるために戦時中に地下に造られた燃料貯蔵庫が一般公開されている。

また、ダーウィン空襲に参加してダーウィン北のメルビル島に不時着した「零式艦上戦闘機二一型(零戦21型)」が機体の大部分を回収されたままの状態で保存されている。これはオーストラリア本土で初の捕虜となった豊島一一飛曹の乗っていた機体である。豊島一飛曹はその後キャンベラ郊外の「カウラ捕虜収容所」に送られ、昭和19年(1944年)8月の脱走事件で死亡した。

アデレードには航空博物館があり、「P-38(ライトニング)」や「スピットファイア」など連合軍航空機を中心に展示している。ここでも日本軍機の装備品などを見ることができる。

オーストラリアまで

2011年現在、日本からはケアンズ、ブリスベン、ゴールドコースト、シドニー、パースから直行便がある。特に日本から近いケアンズや乗り継ぎ便の便利なシドニー行きが便利であろう。
オーストラリアへ入国する際はETAS(電子入国許可)登録しておかなくてはならない。 詳細は下記ページを参照。
HP: http://www.eta.immi.gov.au/ETAAus0Jp.html

なお、入国の際は検疫がかなり厳しい。これはオーストラリア大陸独自の生態系を守るためである。加工食品すらも申告しないといけないものが多いので、食品は何も持っていかないのが無難だろう。

ダーウィン・アデレードの交通情報

オーストラリアの都市間は世界地図で見たイメージよりもかなりの距離がある。シドニー⇔メルボルン間でも約800kmある。そのため、短期滞在者の主要な交通手段は国内線飛行機となるだろう。国内線はカンタス航空の子会社であるジェットスター航空が安い。時期にもよるが、シドニー⇔メルボルン間は片道100豪ドルから、シドニー⇔ダーウィン間は片道230豪ドル程度のようである。詳細はジェットスター航空のHPを参照。
HP: http://www.jetstar.com/jp/ja/index.aspx

なお、都市間の長距離バスの路線は充実していて料金も安いが、都市間の距離が長いため場所によっては何泊も車中泊となるため、短期旅行者には不向きである。同様に鉄道も時間がかかる。

市街地の博物館に行く際は市内交通である電車やタクシーなどで移動可能であるが、郊外の博物館に行くにはレンタカーが必須である。レンタカーデスクは大抵の空港の到着ロビーにあり、国際運転免許証とクレジットカードがあれば日本人でも借りることができる。

料金は大体一日60〜70豪ドルである。また、車両損害補償制度(CDW/LDW)という保険が通常基本料金に含まれているが、免責額が3000豪ドルと高めである。一日30豪ドルほどで追加保険に加入でき、免責額を300豪ドル程度に減額することができる。万が一事故を起こしても3000豪ドル払える、という人は加入する必要はないし、海外での運転が心配な人は追加保険に入るのが良いだろう。

戦跡の歩き方TOP」へ戻る>> 「大東亜戦争遺跡」へ戻る>> 「オーストラリア」へ戻る>> 「ダーウィン・アデレード

Copyright(C)悠久の沙羅双樹
inserted by FC2 system