日本勧業銀行は特に農業、漁業の新興を目的として融資を行っていた。現在は銀行の金庫室が修復、改装されて展示室となっている。頑丈そうな金庫室の扉が来場者を出迎える。(←)
金庫の扉には「The Kunisuye Co Nihonbashi Tokyo」とのプレートが貼られている。明治時代の国末良吉の国末金庫製造所製と思われる。(→)
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当時の台湾では、墨銀と呼ばれるメキシコの8レアル銀貨が流通していた。これは欧米諸国から中国に流入し、東洋の貿易市場の通過となっていたものである。1870年代以降は日本の一圓銀貨も流通し始めた。明治37年(1904年)から台湾銀行券が発行されたが、これは紙幣のみであったようである。中華民国時代からは新しい通貨(台湾元)が発行されたが、現在も「圓」の表記が紙幣に残っている。(←)
不動産関連の契約書のようである。(→)
昭和17年(1942年)2月発行の戦時報国債券である。「大東亜戦争一周年記念」と書かれ、飛行機や戦車、軍艦などの絵が描かれている。額面は金五圓である。3年後に敗戦を迎えたこの債券は償還されたのであろうか。(←)
日本勧業銀行の社債である。裏面には債券の細かい条件が定められている。農地整備などのための資金調達に使われたものであろう。(→)
日本勧業銀行の歴史については、金庫室の前の展示パネルが分かりやすい。(←)
日本勧業銀行は戦後土地銀行に業務を引き継いだ。土地銀行は作物のテスト栽培、モデル農場の設立、農業の技術と経営の指導など、農地開発を行った。(→)
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昭和17年(1942年)の大東亜戦争世界現勢図である。枢軸国は赤色で、連合国は緑色で示されている。日本が緒戦に快進撃を成功させ、広大な領域を支配していたことが分かる。(←)
昭和19年(1944年)頃からは戦局が悪化し、台湾周辺にも米機動部隊が出現し、台北も空襲を受けるようになった。台北市街地で爆撃を受けた場所が赤いランプで示されている。(→)
現在は国立台湾博物館となっている。通りの両側の建物は高いビルに変わっているが、通りとの位置関係や、記念館の建物が当時とほとんど変わっていないことが分かる。(→)
なお、この土銀展示館は国立台湾博物館の別館である。
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