水戸山周辺

ペリリュー島

ペリリュー島の戦跡
大東亜戦争におけるペリリュー島の歴史
現地への行き方と現地交通情報(旅行情報)

ペリリュー島の戦跡

北部(旧北地区): 水戸山周辺

水戸山周辺 水戸山周辺

ノースドック
カドブス島とカドブス橋跡
トーチカ(小)
千人壕
トーチカ(大)
九〇式野砲
水戸山・電探台

「ノースドック」

ノースドック ノースドック 「ノースドック」はペリリュー島の玄関口である。(←)

島民のボートもここにたくさん係留されており、州政府の貨客船(ステートボート)もここに発着する。(→)

ペリリュー島の南西にはもう1つドック(「サウスドック」)があるが、これは主にアンガウル島への発着に使われているようである。

日本統治時代は「ガラコル波止場」と呼ばれた。

ノースドック ノースドック 対岸に見えているのはカドブス島である。(←)

昭和19年(1944年)3月31日、米軍艦載機から撮影された「ガラコル波止場」である。(→)

写真左が北である。桟橋や簡単な港湾施設が見える。後に米軍の空襲によって破壊された。

昭和19年(1944年)9月23日〜24日、歩兵第十五連隊第二大隊(大隊長:飯田義栄少佐)主力によるペリリュー島逆上陸も、「ガラコル波止場」を目的地として行われた。

「ノースドック」の歩き方

ノースドック

ペリリュー島の北端である。ペリリュー島を訪れるときに最初に上陸する地点となるであろう。

市街地まで約1.5kmである。

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「カドブス島とカドブス橋跡」

カドブス島とカドブス橋跡 カドブス島とカドブス橋跡 ペリリュー島北側の対岸にはカドブス島がある。
東西1.2km、南北1.5kmの小島である。カドブス島の直ぐ隣(北側)にはコンガウル島がある。
ペリリュー島(左側)を北から見る。(←)
右(東側)がコンガウル島である。コンガウル島の奥にカドブス島がある。平坦な島であることが分かる。

カドブス島には日本軍小型機(戦闘機)用の滑走路が建設中であった。(→)
カドブス島の小型機用滑走路とペリリュー島の大型機用滑走路とを併せると、南洋群島では最大規模の日本軍飛行場であった。

カドブス島とカドブス橋跡 カドブス島とカドブス橋跡 カドブス島は歩兵第二連隊第一大隊第三中隊(中隊長:鈴木清大尉)が守備していたが、昭和19年(1944年)9月26日夜、「水戸山」周辺の北地区隊主力に合流、カドブス島には一部の日本軍部隊(海軍航空隊・海軍第二一四設営隊の一部)が残っていた。

米軍の撮影したカドブス島の日本軍小型機用飛行場。手前(写真下)がペリリュー島側であり、「ガラコル波止場」からの「カドブス橋」が見える。また、滑走路西側(写真左上)の丘陵地帯には日本軍の壕が多数あり、野砲も配置されていた。(→)

カドブス島とカドブス橋跡 カドブス島とカドブス橋跡 カドブス島は現在無人島となっている。また、航空写真を見る限り、一面ジャングルに覆われており、道路等もないようである。
ノースドック」付近が最もカドブス島と近く、その距離は最も近いところで600m程である。(←)

日本統治時代、カドブス島とペリリュー島は「カドブス橋」でつながっていた。しかし、米軍の爆撃により「カドブス橋」は破壊された。

現在はコンクリートの橋脚部分のみがペリリュー島側に遺されている。(→)

カドブス島とカドブス橋跡 カドブス島とカドブス橋跡 両島の間は比較的水深が浅く、ペリリュー島とカドブス島の間は水深が、干潮時は70cm程度、満潮時でも120cm程度で、歩いて渡ることも不可能ではない。(←)(→)

昭和19年(1944年)9月28日09時、米第1海兵師団第5海兵連隊第3大隊の将兵を載せた「LVT」と米第1戦車大隊の「M4中戦車」16両が、ペリリュー島北部から対岸の「カドブス島」目差して浅瀬を横断し始めた。日本軍部隊は随所に構築した壕に拠って抵抗したが、翌29日10時までにカドブス島は米軍部隊に占領された。日本軍部隊は推定470名が戦死し、米軍部隊は戦死15名・戦傷33名であった。

「カドブス島とカドブス橋跡」の歩き方

カドブス島とカドブス橋跡 カドブス島はペリリュー島に向かう船から見ることができるだろう。「ノースドック」の対岸である。

「カドブス橋跡」は「ノースドック」のすぐ南側である。「ノースドック」からも見えている。

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「トーチカ(小)」

トーチカ(小) トーチカ(小) ノースドック」の近くに「トーチカ」が遺されている。(←)

付近に別の「トーチカ」があるため、ここでは区別のために「トーチカ(小)」と呼称している。

「トーチカ(小)」はほぼ正方形である。北西側、つまり「ノースドック」の方向の二面に銃眼が開けられている。(→)
背後は「水戸山」の北端である。

トーチカ(小) トーチカ(小) 後面に回りこむと小さな入口がある。(←)

大きな弾痕等は特に見当たらず、戦闘に使用されたかどうかは不明である。

内部を見ると、銃眼の手前にコンクリート製台があるのが分かる。
機関銃を据え付ける台だったのであろうか。(→)

「トーチカ(小)」の歩き方

トーチカ(小) ノースドック」から南へ100mほどのT字路の南側にある。

直ぐ後ろが「水戸山」である。

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「千人壕」

千人壕 千人壕 ノースドック」から市街地方面へ向かう道のすぐ東側に「水戸山」の斜面が迫っている。斜面は急であり、ここの斜面に壕の入口が遺されている。(←)

壕の入口付近には草が生い茂っているが、入口が大きいのでよく見ていれば分かるだろう。道路沿いに複数の入口が遺されているが、最も北側の入口が分かりやすい。(→)

この壕は、海軍の第三隧道隊・第二一四設営隊によって防空壕として建設された。

千人壕 千人壕 水戸山」の下に網の目の状に岩盤をくり貫いて掘られており、高さ約1.5m、幅約2mである。(←)(→)

防空壕として建設されたが、後に北地区隊の主陣地として拡張され、独立歩兵第三四六大隊(大隊長:引野通広少佐)の大隊本部が置かれた。
更に、多数の火点と連結され、「水戸山」全体が強力な防御陣地となっていた。
昭和19年(1944年)9月27日07時、米第1海兵師団第5大隊第1大隊は「水戸山」周辺に到達、同地域の日本軍部隊に対して攻撃を開始した。

千人壕 千人壕 水戸山」周辺には北地区隊約1000名の日本軍部隊が守備していたが、米軍部隊の攻撃によって洞窟の入口や火点の多くは次第に破壊されていった。
壕内には多数の小部屋が作られており、そこには多くの重傷者がひしめいていた。しかし、医薬品は極度に不足し、重傷者の殆どは満足な治療を受ける事も出来ず自決していった。(←)

壕は1000名近くを収容できる規模であり、入口の多くは米軍に爆破され、内部には火炎放射器や爆薬によって攻撃が加えられたが、昭和20年(1945年)2月の時点でも少数の日本軍将兵が生存していた。(→)

「千人壕」の歩き方

千人壕

ノースドック」から南へ300mほど行ったところ、道路沿い左側である。

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「トーチカ(大)」

トーチカ(大) トーチカ(大) ノースドック」から南へ行ったところの道路沿いに「トーチカ」が遺されている。付近に別の「トーチカ」があるため、ここでは「トーチカ(大)」と呼称する。(←)

「トーチカ(大)」内部は土砂が堆積している。(→)

日本統治時代、ここには南洋興発株式会社の「リン鉱石精錬所」があった。
「トーチカ(大)」は「リン鉱石精錬所」の土台を利用して作られた急造の「トーチカ」であった。 当時は周囲に巨大な戦車壕が掘られており、「水戸山」周辺の日本軍陣地の一部を成していた。

トーチカ(大) トーチカ(大) 戦国時代の城壁の狭間のような形状であり、大東亜戦争期間の一般的なトーチカとしてはあまり見かけない形状である。(←)(→)
昭和19年(1944年)9月27日朝、米第1海兵師団第5海兵連隊第2大隊が「トーチカ(大)」に対して攻撃を開始した。米第1海兵戦車大隊のドーザー戦車(「M4中戦車」に排土板を装備)1両が戦車壕を埋める為に出動し、「トーチカ(大)」からの銃火を縫って戦車壕を埋めた。08時30分、埋められた戦車壕を乗り越えて火炎放射器を装備した「LVT」が前進し、「トーチカ(大)」に対して火炎放射攻撃を行った。
攻撃後、「トーチカ(大)」の内部には日本軍将兵約60名の遺体が確認されたという。

「トーチカ(大)」の歩き方

トーチカ(大)

ノースドック」から南へ400mほどのところの左手である。
道の側にあるが、草がかなり濃く生い茂っているので、よく見ていないと気づかないであろう。

赤い屋根の民家からは北に100mほどのところである。

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「九〇式野砲」

九〇式野砲 九〇式野砲 ペリリュー島北部の山は当時「水戸山」と呼ばれており、ここに「九〇式野砲」が遺されている。(←)
明治38年(1904年)に採用された「三八式野砲」の後継として、「九〇式野砲」は昭和7年(1932年)に制式採用された。フランスのシュナイダー社の野砲を元に開発された。

口径は75mm、野砲としての他、連合軍戦車に対抗できる数少ない対戦車砲としても使用され、「一式砲戦車」の主砲としても採用された。
砲身の先端に発射ガスを上下左右に噴出させて反動を抑えるマズルブレーキを採用していたが、本砲では失われている。(→)

九〇式野砲 九〇式野砲 砲身は駐退機から外れ、90°左に回転している。本来は砲尾の切れ込みが上を向いているのが正しい位置である。(←)

本砲は石を積み上げて造った簡易的な砲座の内側に設置されている。(→)

「九〇式野砲」は重量が1400kgと大きいのが当初参謀本部で問題とされた。しかし、実用側の部隊は14000mという射程の長さが有効であると主張し、以降配備が進められた。なお、「三八式野砲」は重量 947kg、射程8350mであった。

九〇式野砲 九〇式野砲 ペリリュー島北部には独立歩兵第三四六大隊が北地区隊として布陣していた。この大隊に配属された歩兵第二連隊砲兵大隊第一中隊の砲だったのではないかと思われる。
一方、米軍の記録では「昭和19年(1944年)9月26日、米第1海兵師団第5連隊第1大隊のRobert A. Montgomery軍曹が展開中の本砲に50m弱の距離からバズーカ砲を発射して撃破した」となっている。

本砲のすぐ後ろには洞窟陣地がある。奥行きは10m程で、途中で二手に分かれている。(←)
洞窟入口には砲弾が散らばっている。口径からみて「九〇式野砲」の砲弾であろう。(→)

九〇式野砲 九〇式野砲 洞窟陣地の奥左手の方にはドラム缶が積まれている。洞窟の奥はコウモリの棲みかとなっているようであり、たくさんのコウモリが飛び交っていた。(←)

洞窟陣地と砲までの間には珊瑚の岩を積んだ石垣のようなものがある。(→)

恐らく、さきほどの砲座から射撃し、撃ち終ったら洞窟陣地(退避壕)の中に砲を引き込んで米軍の攻撃を避けられるように運用していたのであろう。

「九〇式野砲」の歩き方

九〇式野砲 九〇式野砲 ペリリュー島北部の山は当時「水戸山」と呼ばれていたが、この山を南側から15分ほど登ったところである。

市街地北側の州政府オフィスの交差点を南東へ伸びる道を進む。

交差点から100mほどのところの左手に廃屋となっているような建物がある。ここの裏から斜面を登っていく。なお、この建物の付近には放置車両がある。

九〇式野砲 九〇式野砲 建物裏側からしばらくは急斜面が続く。なお、道のようなものは全くない。急斜面にトゲのある植物が生い茂っており、長袖と軍手があった方がよいだろう。
しばらく登ると左手側に右写真のような木がまばらに生えた緩斜面が広がっている。ここを進んでいくと岩山があり、この中に「壕」がある。「野砲」はその手前にある。

なお、急斜面を登って行ったところの右手側に大きな岩山がある。この周囲にはドラム缶が複数落ちている。
このあたりは尾根となっており、さらに行くと下りになる。ここまでくると行き過ぎである。

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「水戸山・電探台」

水戸山・電探台 水戸山・電探台 ペリリュー島北部の山は当時「水戸山」と呼ばれていた。(←)
ここには、北地区隊主力である独立歩兵三四六大隊(大隊長:引野通広少佐)が布陣していた。

「水戸山」を中心として「カシ陣地」「ケヤキ陣地」「ナラ陣地」が構築されていた。
また「水戸山」には大規模な壕(「千人壕」)があり、大隊本部が置かれた。(→)

同じくペリリュー島に配備されていた歩兵第二連隊の編成地が水戸であったことにちなんで「水戸山」と名付けられたのであろう。

水戸山・電探台 水戸山・電探台 「水戸山」の南東には「電探台」と呼ばれる山がある。特徴的な三角形をした高台が周囲から一際高くそびえている。 ここには日本軍の電探(レーダー)が設置されていたようである。現在も山のどこかにレーダーの基礎が遺されているそうである。(←)

ペリリュー島に上陸した米軍が撮影した「電探台」。米軍も「Radar Hill」と呼称していた。(→)

昭和19年(1944年)9月29日、米第1海兵師団第5海兵連隊第1大隊が「電探台」に対する攻撃を開始した。米軍はこの日のうちに頂上まで到達したものの、日本軍部隊は「電探台」内部の壕に潜んで抵抗を続け、戦闘は10月2日17時まで続いた。

「水戸山・電探台」の歩き方

水戸山・電探台

島北部に広がる山である。ペリリュー島に向かう船から特徴的な形の山が望める。

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