バリ島北部

バリ島

バリ島の戦跡
大東亜戦争におけるバリ島の歴史
現地への行き方と現地交通情報(旅行情報)

バリ島の戦跡

バリ島北部

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ブラタン湖のゴアジャパン
 (Goa Jepang 日本軍防空壕)
マルガ英雄墓地
松井兵曹長・荒木兵曹記念塔
松井兵曹長・荒木兵曹記念像

「ブラタン湖のゴアジャパン(Goa Jepang 日本軍防空壕)」

ブラタン湖のゴアジャパン(Goa Jepang 日本軍防空壕) ブラタン湖のゴアジャパン(Goa Jepang 日本軍防空壕) バリ島北部のブラタン湖(Danau Bratan)東側のほとりには日本軍が掘った「防空壕(ゴア・ジャパン)」が遺されている。(←)

ゴアとはインドネシア語で防空壕を意味する。

湖のふちに沿うように遊歩道があり、そのすぐ向こう側は崖となっている。入口付近は草が生い茂っており、一見して入口は分からない。(→)

しかしながら、草むらを掻き分けていくと入口が三つ開いているのを見つけることができる。

ブラタン湖のゴアジャパン(Goa Jepang 日本軍防空壕) ブラタン湖のゴアジャパン(Goa Jepang 日本軍防空壕) 「防空壕」の入口は少し狭いが、内部は大人が立って歩けるほどの高さがある。内部には入口から差し込む光の他に明かりはなく、奥に進むと真っ暗である。

右側の入口である。「@」(←)
壕内の撮影場所と方向が分かるように、以降数字を壕内図と対応させる。

三つの入口は内部でつながっており、カタカナの「ヨ」の形のような構造をしている。(→)

ブラタン湖のゴアジャパン(Goa Jepang 日本軍防空壕) ブラタン湖のゴアジャパン(Goa Jepang 日本軍防空壕) 右側の入口から少し奥に入ったところである。
左手には小部屋がある。「A」(←)

小部屋の奥行きは2mほどで行き止まりとなっている。「B」(→)

ブラタン湖のゴアジャパン(Goa Jepang 日本軍防空壕) ブラタン湖のゴアジャパン(Goa Jepang 日本軍防空壕) さらに奥に進むと、突き当たりで左に曲がっているのが分かる。「C」(←)

中央の入口から奥に入ると、右側の入口から入ったときと同様の小部屋が左側に設置されている。
さらに奥に進んでいくと十字路に出るが、進行方向の通路は砂で埋もれて通れなくなっている。「D」(→)

元々はさらに奥に壕が続いていたようであるが、崩落などの危険防止のために埋められたのであろうか。

ブラタン湖のゴアジャパン(Goa Jepang 日本軍防空壕) ブラタン湖のゴアジャパン(Goa Jepang 日本軍防空壕) 左側の入口から入ると、こちらは右手側に小部屋が設置されている。
突き当たりは右に曲がっている。「E」(←)

突き当たりから三つの入口を接続する通路を撮ったところである。「F」(→)

「ブラタン湖のゴアジャパン(Goa Jepang 日本軍防空壕)」の歩き方

ブラタン湖のゴアジャパン(Goa Jepang 日本軍防空壕) ブラタン湖のゴアジャパン(Goa Jepang 日本軍防空壕) バリ島北部のブラタン湖(Danau Bratan)の東岸にある。デンパサールからは車で一時間ほどである。

湖の西岸の二車線道路沿いに船着場があり、東岸に直接車で行くことはできない。

ブラタン湖のゴアジャパン(Goa Jepang 日本軍防空壕) ブラタン湖のゴアジャパン(Goa Jepang 日本軍防空壕) 船着場では今回300,000ルピーでボートをチャーターすることができた。
この近辺では「防空壕」は有名なようであり、船頭に「Goa Jepang」と伝えるとすぐに分かった。

なお、「防空壕」の前には遊歩道があり、湖の周囲に沿って続いている。

未確認であるが、西岸から歩きでもいけるかも知れない。

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「マルガ英雄墓地」

マルガ英雄墓地 マルガ英雄墓地 マルガはイ・グスティ・グラライ率いる92名の兵士がオランダ軍と戦って全員戦死した地である。

この地の「マルガ英雄墓地」には、グラライ部隊の92名の他、インドネシア独立戦争で戦死した1372名が祀られている。その中にはインドネシア独立のために戦って戦死した12名の日本人兵士が、インドネシア人兵士と全く同じ扱いで祀られている。(←)

入口の右側には墓地に祀られている全兵士の名前・出身地が刻まれた大きな石板がある。(→)

マルガ英雄墓地 マルガ英雄墓地 例えば、300番には「JEPANG/PUTRA I MD JEPANG」と刻まれている。これは日本海軍特警隊所属の高木米治兵曹長(1919年7月3日生まれ、宮崎県東臼杵郡出身)である。PUTRAとはバリ名である。(←)

また、石板の下側は墓の配置表となっている。中央の301番はグラライである。(→)
基本的に墓は番号順に並んでいるが、グラライ直下の部隊に所属していた兵士は別途抜き出されてグラライの近くに祀られているそうである。
彼らは、今も尚、グラライと共にインドネシアを見守り続けている。

マルガ英雄墓地 マルガ英雄墓地 入口から入ると広場があり、広場の右側と左側に遊歩道がついている。
左側の遊歩道から進むと、墓地の入口に階段があり、その正面がグラライの墓である。(←)

グラライの墓は他の兵士の墓よりも一回り大きい。(→)

12名の日本人兵士のうち、所属が判明している者もいれば、バリ名しか分かっていない者もいる。

マルガ英雄墓地 マルガ英雄墓地 グラライの5列後ろ側に5名の日本人兵士の墓が並んでいる。

手前から、海軍軍属大館、神戸陸軍曹長、荒木武友上曹、松井久年兵曹長、高木米治兵曹長の墓である。(←)

高木米治兵曹長の墓碑である。(→)
日本名、バリ名、出身地の他、戦死日時が刻まれている。昭和21年(1946年)11月20日はグラライ部隊が全滅した日であり、高木兵曹長は享年29歳の若さでバリの為に命をかけて散った。

マルガ英雄墓地 マルガ英雄墓地 墓地の手前の広場には、グラライの塔がある。(←)
グラライ部隊はオランダ軍の降伏勧告を拒否し壮絶に戦って玉砕した。この時、グラライがオランダ軍に送った返答文書の最後には「Merdeka atau mati!(自由か死か)」と書かれていた。この戦闘をププタン(玉砕)・マルガラナ事件という。

塔の中央にはグラライの写真が飾られている。(→)
グラライは敬意をこめて「将軍」と呼ばれているようであるが、インドネシア共和国人民治安軍での実際の階級は中佐であり、戦死時は29歳の若き英雄であった。

「マルガ英雄墓地」の歩き方

マルガ英雄墓地 マルガ英雄墓地 バリ島中部のマルガ(Marga)という町にある。

まず、デンパサールから北西約10kmのタバナン(Tabanan)へ。タバナンからはJalan Ngurah Rai通りを北へ10kmほどでマルガにたどり着く。

マルガの町の中心地を東西に走るメインストリートを左折(西へ)して700mほどで墓地へつながる道が右手に出てくる。この道を300mほどいったところが大きな広場となっており、右手側が石板、中央の階段が墓地への入り口である。

入場料はないが、入り口の右側の小屋でお布施(5,000ルピー程度)をするのが望ましい。

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「松井兵曹長・荒木兵曹記念塔」

松井兵曹長・荒木兵曹記念塔 松井兵曹長・荒木兵曹記念塔 プナルンガン村にはこの村に関係の深かった2人の日本兵の「記念塔」が立っている。
小学校の敷地の中に立っており、先生らしき人も付近にいたが、中に入って写真を撮っていても特に止められることはなかった。
入口はインドネシア語で書かれた独立戦争に関する文章らしきものが刻まれた「記念碑」が立てられている。(←)

以前は少し離れた地域に2人のセメント像が立っていたが、現在はこの「記念塔」の中に収められているようであ「記念塔」の扉には鍵がかけられており、中を見ることはできない。(→)

松井兵曹長・荒木兵曹記念塔 松井兵曹長・荒木兵曹記念塔 「記念塔」の横に2人の名前を刻んだ石板が設置されている。(←)
現地人が日本語名を聞き取って記録したのであろうか、「松井」は「MUTSWISO」となっている。その左の「SUKRA」とは松井兵曹長のバリ名であり、バリ人からはこの名前で親しみを持って呼ばれていたそうである。同様に「荒木」は「HARRAKI」となっており、バリ名は「SUKRI」である。

「記念塔」の側面には、戦争中の村人と兵士の生活の一場面のレリーフが飾られている。(→)

この「記念塔」は村民がお金を出し合い、2人の兵士に感謝の意をこめて作られたそうである。

「松井兵曹長・荒木兵曹記念塔」の歩き方

松井兵曹長・荒木兵曹記念塔 「松井兵曹長・荒木兵曹記念塔」は、デンパサールの北15kmほどのプナルンガン(Penarungan)という村の小学校の敷地内にある。

デンパサールからJalan Raya Siban Kaja通りを北上する。

Sibangkaja村を過ぎたあたりでJalan Raya Siban Kaja通りはT字路を左折する形で西へ続く。
T字路から1kmくらいで再びT字路が出てくるので、ここを左折してJalan Puspa Restu通りに入る。

Jalan Puspa Restu通りの両側はしばらく草原となっているが、しばらく走ると市街地となる。

松井兵曹長・荒木兵曹記念塔 Jalan Puspa Restu通りを2kmほど行くと、Jalan Oleg通りとの十字路が出てくるので、ここを右折(北へ)する。
なお、この十字路の北西角には個人商店がある。

十字路から150mほどのところのT字路を左折して300mほど行くと、左手に小さな小学校があり、この敷地内に「松井兵曹長・荒木兵曹記念塔」がある。

「記念塔」は大きく、道路からも見えている。

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「松井兵曹長・荒木兵曹記念像」

松井兵曹長・荒木兵曹記念像 松井兵曹長・荒木兵曹記念像 プナルンガン(Penarungan)村の近くのブルンブンガン村のお寺の敷地にも松井兵曹長・荒木兵曹が祀られた記念像がある。(←)

入口には柵が設けられているが、鍵はかかっていないので自由に入ることができる。

中央には大きな塔があり、その前の両側に二人の像がある。(→)

役所に勤務する人からは月に10,000ルピア、その他の人からは1,000ルピアの寄付を集め、6年の歳月をかけて平成17年(2005年)11月20日に除幕した。

松井兵曹長・荒木兵曹記念像 松井兵曹長・荒木兵曹記念像 二人は左側に軍刀をさしており、右手で敬礼するポーズを取っている。(←)

二人の像は温和な顔つきをしている。現地住民がこの二人の兵士に対して持っていた印象を表したものではないだろうか。
帽子には略防垂布(帽たれ)がついている。(→)

松井兵曹長・荒木兵曹記念像 松井兵曹長・荒木兵曹記念像 塔の中は小さな礼拝堂のようになっているが、鍵がかかっていて中に入ることはできない。

塔の周囲には5枚の石板がはめ込まれており、それぞれにインドネシア語で言葉が刻まれている。(←)

その中の一枚である。
「死んだら先に死んだ人に会える」という意味である。日本で言うところの「靖国で会おう」といったところであろうか。(→)

「松井兵曹長・荒木兵曹記念像」の歩き方

松井兵曹長・荒木兵曹記念像 松井兵曹長・荒木兵曹記念像 「松井兵曹長・荒木兵曹記念像」はデンパサールから北13kmほどのブルンブンガン(Blumbungan)という村にある。

デンパサールからJalan Raya Siban Kaja通りを北上する。Sibangkaja村の手前のJalan Darmasaba通りとのT字路を左折(西へ)する。

1kmほど住宅街を走ると、Jalan Dewi Padi通りとの十字路があるので、ここを右折する。

松井兵曹長・荒木兵曹記念像 すぐに住宅地を抜け、両側に田園風景が広がる道を道なりに走る。1kmほどで道が左、すぐ右に曲がるクランクがあるが、ここも道なりに進む。

クランクから1kmほど行くと、左手に小さいダムのある川が出てくる。このあたりで道は右に曲がっていき、500mほどでT字路に突き当たる。

松井兵曹長・荒木兵曹記念像 松井兵曹長・荒木兵曹記念像 T字路を左折して300mほどいったところの左手に、高い看板を設置している個人商店がある。(左写真)

なお、ここの反対側には「Green School」と書かれた標識がある。(右写真)

この個人商店の横の砂利道を200mほど行った右手に「松井兵曹長・荒木兵曹記念像」がある。

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