サイパン島の玉砕

サイパン島の玉砕(昭和19年6月15日〜7月9日)

サイパン島の日本軍守備兵力と米軍の侵攻兵力

陸軍  25469名
    第三一軍:参謀長(井桁敬治少将)
    第八方面軍:参謀副長(公平匡武少将)
    第四三師団:師団長(斎藤義次中将)
             :参謀長(鈴木卓爾大佐)
       歩兵第百十八連隊:連隊長(伊藤毅大佐)      昭和19年6月5日、兵員2240名・戦車・兵器・資材海没
       歩兵第百三五連隊:連隊長(鈴木英助大佐)
       歩兵第百三六連隊:連隊長(小川雪松大佐)
           第一大隊:大隊長(福島勝秀大尉)   ガラパン市街正面
           第二大隊:大隊長(安藤正博大尉)   オレアイ海岸正面
           第三大隊:大隊長(野々村春雄大尉)  タポチョ山南東
       第四三師団通信隊:隊長(鷲津吉光大尉)
       第四三師団輜重隊:隊長(山本光男大尉)
       第四三師団兵器勤務隊:隊長(村瀬兼松大尉)
       第四三師団経理勤務部:部隊長(大川英夫中佐)
       第四三師団野戦病院:病院隊長(深山一孝中佐)
    独立混成第四七旅団:旅団長(岡芳郎大佐 昭和19年5月27日 - 昭和19年6月15日  加嶋三郎少将 昭和19年6月26日 - 昭和19年7月18日)
                  :参謀長(鈴木卓爾大佐)  参謀(吉田正治中佐 平櫛孝少佐 岡野喜佐少佐)
       独立歩兵第三一五大隊:大隊長(山門精二大尉)      第二五師団歩兵第四十連隊第三大隊:大隊長(河村勇二郎大尉)
       独立歩兵第三一六大隊:大隊長(江藤進大尉)       第二五師団歩兵第十四連隊第三大隊
       独立歩兵第三一七大隊:大隊長(佐々木巳代太大尉)   第二四師団歩兵第八九連隊第三大隊
       独立歩兵第三一八大隊:大隊長(宮下亀冶大尉)      第二四歩兵団司令部:団長(有馬純彦大佐)
                                            独立守備歩兵第十四大隊:大隊長(後藤十郎中佐)
                                            独立守備歩兵第二八大隊:大隊長(森竜之輔大佐)
       砲兵隊:隊長(山根庄三大尉)  第十師団野砲兵第十連隊第三大隊
       工兵隊:隊長(米谷尚信中尉)  工兵第二五連隊第三中隊
    第二九師団歩兵第十八連隊第一大隊:大隊長(久保正男大尉)
                      第三迫撃砲中隊・衛生隊
    第二九師団歩兵第五十連隊第一大隊:大隊長
    第五二師団歩兵第百五十連隊牛山隊:隊長(牛山一良大尉)  第百五十連隊補充員(トラック島) 牛山集成隊として第三一軍司令部守備      
    独立山砲兵第三連隊:連隊長(中島庸中佐)  山砲24門
    戦車第九連隊:連隊長(五島正大佐)  中型戦車36両・軽戦車12両                    
       第三中隊:中隊長(西舘法夫中尉)   中型戦車10両・軽戦車2両
       第四中隊:中隊長(吉村成夫大尉)   中型戦車10両・軽戦車2両
       第五中隊:中隊長 
    独立工兵第七連隊:連隊長(小金沢福次郎大佐)            
    高射砲第二五連隊:連隊長(新穂実徳中佐)        アスリート飛行場周辺                   
    野戦機関砲四四中隊:中隊長(長谷川孝熙中尉)
    独立高射砲第四三中隊:中隊長(君島喜一中尉)
    独立自動車二六四中隊:中隊長(岩間惟臣大尉)
    独立自動車二七八中隊:中隊長(有馬昇三大尉)
    第十四野戦航空修理隊:隊長(浜口恒明中尉)      パラオ・ヤップに移動準備中
    船舶工兵第十六連隊:連隊長(恒川政市少佐)      パラオ・ヤップに移動準備中
    第二三野戦飛行場設定隊:隊長(石座登少佐)      パラオ・ヤップに移動準備中
    船舶通信第二大隊:大隊長(道野四郎少佐)        パラオ・ヤップに移動準備中
    第五九碇泊場司令部:司令官(松村昶大佐)        パラオ・ヤップに移動準備中
    第六十碇泊場司令部:司令官(斉藤肇大佐)        パラオ・ヤップに移動準備中

海軍

日本軍のサイパン島守備状況と米軍のサイパン島攻略作戦

昭和19年6月14日(米軍上陸直前の状況)

サイパン島日本軍守備配置
   サイパン島北部:第四三師団歩兵第百三五連隊
   サイパン島西部:第四三師団歩兵第百三六連隊
   サイパン島西部・南部:独立歩兵第四七旅団
   ガラパン市街周辺:海軍部隊(横須賀第一特別陸戦隊・第五根拠地隊・その他)

サイパン島での戦闘推移(昭和19年6月15日〜7月9日)
米軍のサイパン島上陸(昭和19年6月15日)

昭和19年6月15日午前5時45分、米海軍艦艇によるサイパン島への艦砲射撃が開始された。やがて艦載機による空襲もこれに加わった。6時過ぎ、沖合いの輸送船・揚陸船では米海兵第2師団・第4師団の海兵隊員が上陸用舟艇・水陸両用車両に乗船を開始した。8時、これら上陸用舟艇・水陸両用車両は一斉に、サイパン島西部の オレアイ海岸チャランカノア海岸を目指して発進した。いよいよ米軍によるサイパン島上陸が開始されたのである。

昭和19年6月15日(米軍上陸1日目・日本軍第1回水際逆襲) これに対し、サイパン島の日本軍は前日までの艦砲射撃や空襲によって少なからず被害を受けていたが、 チャランカノア海岸正面には独立歩兵第三一六大隊(江藤大隊)が、後方のヒナシス丘陵南部には野砲兵第十連隊第三大隊(山根大隊)・野戦高射砲第二五連隊が布陣していた。オレアイ海岸正面には歩兵第百三六連隊第二大隊(安藤大隊)が、後方のヒナシス丘陵北部には独立歩兵第三一五大隊(河村大隊)・独立歩兵第三一八大隊・戦車第九連隊第四中隊が布陣していた。また、タポチョ山南部のカナツタブラ渓谷には野戦重砲兵第九連隊第二大隊(黒木大隊)の十五糎榴弾砲が配置されていた。特にこれらの砲は巧みに偽装さていた為、連日の米軍の砲爆撃による損害を全く受けていなかった。また、サイパン島南西端のアギンガン岬には独立歩兵三一六大隊の一部・独立山砲兵第三連隊の一部が布陣していた。

やがて、米海兵隊の上陸用舟艇・水陸両用車両が オレアイ海岸チャランカノア海岸に近づいた。するとそれまで沈黙を保っていた日本軍陣地から一斉に砲撃が開始された。その弾着は正確で、上陸用舟艇・水陸両用車両は次々に被弾、米海兵隊の上陸第一波は大混乱に陥った。日本軍は予め、海岸線からの距離に応じた色の小旗を海岸近くの海上に立てていたのである。これらの小旗を上陸用舟艇・水陸両用車両が通過するたび、日本軍の砲兵陣地では照準を修正して正確な射撃を行った。米海兵隊は降り注ぐ日本軍の弾雨の中を進まざるを得ず、大きな損害を受けた。併しながら、圧倒的な兵力で海岸に殺到する米海兵隊は、8時45分頃、遂に海岸に到着、以後、続々と上陸を開始する。

日本軍は米軍を水際で撃退する戦術を採っていた。そのため、米海兵隊の上陸第一波に対する反撃は凄まじく、海岸に到着した米海兵隊は殆ど身動きが取れなかった。しかし、日本軍の陣地は海岸近くに構築されており、米海兵隊の上陸第一波に対して砲門を開いたことによって、陣地の場所が露見してしまったのである。これに対して、米軍は沖合いの米海軍艦艇から激しい艦砲射撃と艦載機による空襲をおこなった。結果、海岸近くに布陣していた日本軍の陣地は破壊され、そこに布陣していた日本軍部隊は大きな損害を蒙った。

サイパン島に上陸する米軍海兵隊員 米海兵隊上陸第一波は艦砲射撃と空襲の支援の下、海岸付近から前進を開始する。 オレアイ海岸には米海兵隊第2師団が上陸した。オレアイ海岸は北側からRed Beach 1〜3・Green Beach 1〜3と命名されており、海兵第6連隊がRed Beach 1〜3に、海兵第8連隊がGreen Beach 1〜3に上陸した。チャランカノア海岸には米海兵隊第4師団が上陸した。 チャランカノア海岸は北側からBlue Beach 1〜2・Yellow Beach 1〜3と命名されており、海兵第24連隊がBlue Beach 1〜2に、海兵第26連隊がYellow Beach 1〜3に上陸した。

オレアイ海岸に上陸した米海兵隊第2師団(海兵第6連隊・海兵第8連隊)を迎え撃ったのは、海岸付近に布陣した歩兵第百三六連隊第二大隊(安藤大隊)であった。
海兵2個連隊をもって押し寄せる正面の敵に対して、安藤大隊は奮戦するも、兵力・火力の差は如何ともしがたく、米海兵隊はじりじりと前進してきた。

これに対し、安藤大隊の後方を固めていた独立歩兵第三一五大隊(河村大隊)・独立歩兵第三一八大隊・戦車第九連隊第四中隊が水際逆襲を実施、特に戦車第四中隊はオレアイ海岸に上陸した米海兵隊海兵第6連隊の正面に肉薄し、更にその戦車砲は沖合いの揚陸船をも捉えた。

炎上する戦車第九連隊第四中隊所属の九七式中戦車(後方はタポチョ山に続く峰) 併しながら、沖合いの米海軍艦艇からの猛烈な艦砲射撃が開始され、海岸付近に前進した日本軍部隊の逆襲は頓挫する。日本軍部隊は夕方も戦車を伴う逆襲を実施するも、米軍の圧倒的火力によって逆襲は阻止され、大きな損害を出した。

この日の2度にわたる水際逆襲の結果、戦車第九連隊第四中隊はほぼ全滅、歩兵第百三六連隊第二大隊(安藤大隊)・独立歩兵第三一五大隊(河村大隊)・独立歩兵第三一八大隊も兵力の半数以上を失った。

チャランカノア海岸に上陸した米海兵隊第4師団(海兵第24連隊・海兵第25連隊)を迎え撃ったのは、海岸付近に布陣した独立歩兵第三一六大隊(江藤大隊)であった。更に、後方のヒナシス丘陵南部には野砲兵第十連隊第三大隊(山根大隊)・野戦高射砲第二五連隊が布陣し、これら砲兵陣地からは上陸する米海兵隊に対して激しい砲撃を行った。米海兵隊上陸第一波は大きな損害を出し、一時は米軍の上陸は頓挫するかに思えた。併しながら、沖合いの米海軍艦艇からの艦砲射撃が行われ、日本軍の砲兵陣地は徹底的に破壊され、多くの兵員と砲が失われた。米海兵隊は艦砲射撃の支援のもと、次々と上陸し、海岸に橋頭堡を築いた。

また、この日、タポチョ山南部のカナツタブラ渓谷に布陣していた、野戦重砲兵第九連隊第二大隊(黒木大隊)の十五糎榴弾砲は、米海兵隊上陸第一波に対して激しい砲撃を行い、大きな損害を与えた。しかし、それまで巧みに秘匿されていた黒木大隊の砲兵陣地はその位置を暴露してしまった。

米海兵隊は上陸初日に大きな損害を出した。これは当初の予定を上回る損害であり、日本軍守備隊の反撃がいかに激しかったを物語る。併しながら、海岸付近で米海兵隊を迎え撃った日本軍部隊の多くは、沖合いの米海軍艦艇からの艦砲射撃や上陸してきた米海兵隊の攻撃に晒された。日本軍部隊は必死の反撃を行ったものの、兵力・火力の差は如何ともしがたく、上陸初日の於いて海岸付近の陣地の多くは破壊され、日本軍部隊の多くは過半の兵力を失っていた。米軍は オレアイ海岸チャランカノア海岸に 橋頭堡を築き、内陸へ進行する構えを見せていた。

上陸初日の夜、海岸付近の日本軍部隊の一部が、米海兵隊の橋頭堡に対して夜襲を行った。しかし、海岸に橋頭堡を築いた米海兵隊は兵力の散発的な夜襲によって撃退できるような相手ではなかった。

この日、第四三師団司令部では、16日夜半をもって、海岸付近の米海兵隊橋頭堡に対して大規模な夜襲を実施し、一気に米軍を海に追い落とすことを決定した。この水際逆襲には戦車第九連隊・歩兵第百三六連隊・歩兵第十八連隊第一大隊・歩兵第百十八連隊など、日本軍守備隊の兵力の半数以上を投入した大規模なものであった。

日本軍の水際逆襲(昭和19年6月16日〜17日)

昭和19年6月16日(米軍上陸2日目・日本軍第2回水際逆襲) 6月16日、米軍は前日確保した橋頭堡から前進を開始、更に沖合いに待機していた、米陸軍歩兵第27師団の1個連隊(歩兵第165連隊)が上陸、更に、既に上陸していた米海兵隊も海兵第2連隊・海兵第23連隊がそれぞれ、 オレアイ海岸チャランカノア海岸に上陸した。結果、サイパン島に上陸した米軍は海兵隊6個連隊・陸軍1個連隊になった。

これに対して、オレアイ海岸では前日に引き続き歩兵第百三六連隊第二大隊(安藤大隊)が米海兵隊第2師団を迎え撃ったが、最早戦力の差は圧倒的であり、海岸付近の陣地は次々と打ち破られていった。安藤大隊の後方を固めていた独立歩兵第三一五大隊(河村大隊)・独立歩兵第三一八大隊も前日の水際逆襲で大きな損害をだしており、海兵3個連隊をもって前進する米軍の前に、後退を余儀なくされた。 チャランカノア海岸においても同様の状況であり、米海兵隊第4師団の前進を阻止しようとした独立歩兵第三一六大隊(江藤大隊)・野砲兵第十連隊第三大隊(山根大隊)・野戦高射砲第二五連隊の陣地は沖合いの米海軍艦艇からの艦砲射撃によって破壊され、兵員・兵器とも大きな損害を出した。

この日、米軍はオレアイ海岸チャランカノア海岸からの橋頭堡を広げた。南部のアギンガン岬は米軍に占領され、ヒナシス丘陵麓まで米軍は迫っていた。更に、米軍は上陸初日に十分な揚陸活動が出来なかったが、この日は集中的に重火器類の揚陸を行い、特に歩兵用対戦車火器(バズーカ砲)を大量に揚陸したのである。これは、この日の夜に行われる予定であった、日本軍の大規模な水際逆襲に重大な影響をもたらした。

日本軍は当初、米軍上陸初日である15日深夜(16日)に大規模な水際逆襲を実施する予定であった。しかし、米軍の砲爆撃によって島内の電話線が寸断され、日本軍部隊、特に歩兵部隊の連絡・移動が困難になった。結果、水際逆襲に参加する予定であった、歩兵部隊の集結が大幅に遅れ、実施は16日深夜(17日)に延期となった。この延期は、水際逆襲に重大な影響を及ぼした。前述のように、16日中に十分な重火器を揚陸していた米軍は、日本軍の水際逆襲に備えて橋頭堡に強力な防御陣地を構築していたのである。更に、米軍の歩兵には対戦車火器(バズーカ砲)が行き渡っていた。

擱座した九七式中戦車と戦死した兵士 17日午後3時、南郷神社付近に集結していた戦車第九連隊(第三中隊・第五中隊)の戦車約30両は、一斉に進撃を開始、二列縦隊になってオレアイ海岸の米軍橋頭堡に向かって突進した。各戦車は車上に歩兵を乗せていた。また、集結していた歩兵部隊も各個に突撃を開始、たちまちエンジンの轟音、突撃ラッパ、歩兵の喚声が夜の闇にこだました。
米軍陣地では、この夜襲を察知するや多数の照明弾を打ち上げ、戦場を真昼のように照らし出した。その明かりの中に日本軍の戦車が浮かび上がると、米軍の砲火が集中した。たちまち数両の戦車に火の手が上がるや、爆発を起こして擱座する。それでも後続の戦車は怯むことなく突進を続けた。さらに、米軍の銃火・砲火が日本軍戦車や歩兵に向かって雨あられと降り注いだ。

日本軍戦車が米軍橋頭堡に肉薄する頃には車上の歩兵は殆ど戦死していたという。また、指揮系統は殆ど失われ、戦車はどんどん突進し、後続の歩兵と離れ離れになった。やがて日本軍戦車の前に米軍のM4シャーマン中戦車が出現すると、日本軍戦車の戦車砲はこれを確実に捉えた。しかし、砲と装甲の差は歴然としており、日本軍戦車の放った砲弾はM4シャーマン中戦車の前に空しく跳ね返るだけであった。やがて、M4シャーマン中戦車の戦車砲に捕らえられた日本軍戦車が次々と火を噴いていく。また、歩兵と離れ離れになった日本軍戦車は、米軍歩兵によるバズーカ砲の好餌となっていった。各部隊ごとにばらばらに突撃した日本軍の歩兵部隊も随所で米軍の照明弾に照らされ、火線に補足された。

擱座した九七式中戦車・九五式軽戦車、側には戦死した兵士が斃れている 夜が白々と明ける頃、オレアイ海岸チャランカノア海岸のいたるところにはくすぶり続ける日本軍戦車の残骸があり、斃れた日本軍兵士の遺体が地面を埋め尽くしていた。日本軍の大規模な水際逆襲は無残な失敗に終わったのである。この夜襲において、戦車第九連隊はほぼ全滅、歩兵部隊も過半の兵員を失った。米軍上陸2日目で既に日本軍は兵力の4割近くを失い、残存部隊の多くも組織的戦闘力を喪失していた。米軍は日本軍の水際逆襲を撃退し、いよいよサイパン島内への進撃を本格化させていった。

昭和19年6月17日(米軍上陸3日目) 6月17日、既に前夜の夜襲で大きな損害を出していた日本軍は、西部の海岸地帯や南部において米軍の進撃を食い止めることは困難であった。
チャランカノア海岸の米軍上陸正面を支えていた独立歩兵第三一六大隊(江藤大隊)・野砲兵第十連隊第三大隊(山根大隊)・野戦高射砲第二五連隊は、殆どの兵力を失い、辛うじて生き残ったわずかな兵士がヒナシス丘陵から アスリート飛行場やタポチョ山に向けて後していった。

結果、南部のアスリート飛行場の守備は重大な危機に直面した。 アスリート飛行場周辺には独立歩兵第三一七大隊(佐々木大隊)・高射砲中隊・海軍の飛行場要員が守備していたが、圧倒的兵力の米軍を阻止する事は最早不可能であった。

また、オレアイ海岸においても、3日間に渡って米軍上陸正面を支えていた歩兵第百十八連隊第一大隊(安藤大隊)はほぼ全滅、独立歩兵第三一五大隊(江藤大隊)もばらばらになり、一部の兵士がススペ湖周辺に潜伏している状況であった。

また、米軍はタポチョ山南部のカナツタブラ渓谷に迫っていた。ここには野戦重砲兵第九連隊第二大隊(黒木大隊)が砲兵陣地を構築していたが、米軍上陸初日に砲撃を行った為、秘匿していた砲兵陣地は米軍に露呈し、激しい艦砲射撃によって殆どの砲は破壊されていた。

米軍のアスリート飛行場占領(昭和19年6月18日〜20日)

昭和19年6月18日(米軍上陸4日目) 6月18日、南部の米軍はヒナシス丘陵を越え、一気に アスリート飛行場に進撃した。アスリート飛行場周辺には独立歩兵第三一七大隊(佐々木大隊)。独立山砲兵第三連隊・高射砲中隊・海軍部隊の一部がいたが、多勢に無勢で抗しきれず、 アスリート飛行場はたちまち米軍に占領された。
さらにアスリート飛行場北側を進撃した米海兵隊第4師団は一気に島の東岸に到達、 アスリート飛行場を含む南部を分断し、アスリート飛行場周辺の日本軍部隊は南部の ナフタン半島に孤立してしまった。

この日、米軍はアスリート飛行場の占領と戦線の整理に始終し、タポチョ山方面への攻勢は積極的ではなかったが、海岸地帯で兵力の大部分を失った日本軍部隊は、残存兵力を掌握し、タポチョ山南部の山岳地帯に後退していた。

米軍の上陸を許した状況となっては、タポチョ山周辺に防衛線を敷き、これ以上の米軍の進撃を阻止する事となった。併しながら、この時点で無傷の部隊は北部を守備していた歩兵第百三五連隊のみであり、それ以外の部隊は、米軍上陸時の水際逆襲で兵力の多くや指揮官を失い、組織的な作戦行動のままならない状態であった。また、当初、米軍の上陸に対して海岸付近でこれを撃破する計画であったため、タポチョ山周辺に満足な防衛陣地は構築されておらず、手堀のタコツボや浅い塹壕に身を隠して米軍を待ち構えるほか無かった。また、重火器・対戦車火器の多くも失われ、戦車も2度にわたる水際逆襲で殆ど全滅していた。

昭和19年6月19日(米軍上陸5日目) 6月19日、米軍はサイパン島南部を縦断し、タポチョ山方面に攻撃を指向しつつあった。これに対して日本軍はタポチョ山周辺に防衛線を設定し、歩兵第百三五連隊をタポチョ西側と南側に配置、歩兵第百十八連隊・歩兵第十八連隊第一大隊のをタポチョ東側からラウラウ湾岸に配置した。

併しながら、布陣していた多くの部隊は海岸付近で撃破された部隊の残存兵力であり、満足な陣地や兵器は無かった。この時点で、サイパン島の日本軍守備隊は総兵力は半減、将校の7割が戦死、組織的な作戦能力を有していたのは歩兵第百三五連隊と歩兵第百五十連隊(牛山隊)のみであり、また、重火器も野砲12門・高射砲6門・機関砲5門・軽戦車10両ほどを残すのみであった。

サイパン島の日本軍守備隊は米軍に対して有効な防衛戦闘を実施する能力を失いつつあった。併しながら、この時期、日本軍部隊の奮戦は特筆すべきものであった。即ち、組織的な作戦能力は既に失われつつあったが、残存の日本軍兵士は随所で米軍に対して果敢な戦闘を挑んだのである。それは、殆ど捨て身の戦いであり、自らの命と引き換えに少しでも米軍の進撃を食い止めようとする、壮絶な戦闘であった。

6月20日、米軍はすでに占領していた アスリート飛行場を使用し始めた。また、19日〜20日の「マリアナ沖海戦」の結果、日本海軍機動部隊が敗退したことによってマリアナ諸島周辺の制空権・海権は完全に米軍の手に落ちた。結果、サイパン島は米軍の包囲下に孤立し、日本軍がサイパン島に援軍を送る事は絶望的になった。

タポチョ山を巡る戦闘(昭和19年6月21日〜24日)

昭和19年6月21日(米軍上陸7日目)
サイパン島の日本軍守備隊は補給も援軍も無いまま戦い続けることになったが、第一線で米軍と対峙していた日本軍兵士やサイパン島の一般邦人は、かならず救援が来る事を信じていたのである。

マリアナ沖海戦」に勝利した米軍は、サイパン島での攻撃を一気に加速させた。この日、サイパン島に上陸した米海海兵隊・米陸軍はタポチョ山への攻撃を本格化させる。米軍は左翼に海兵第2師団、中央に陸軍歩兵第27師団、右翼に海兵隊第4師団を配し、砲撃や空爆を加えた後、戦車を先頭にして前進を開始した。

米軍はこれまでの島嶼戦の経験から、戦線に隙間を作らず、砲爆撃によって日本軍陣地をしらみつぶしにした後に、歩兵と戦車が前進し、残った日本軍陣地や洞窟も火炎放射器なので徹底的に掃討していく戦法をとっていた。
これに対して日本軍部隊は捨て身の戦闘を挑んだ、迫り来る米軍戦車を阻止する為に、爆薬を背負った日本軍兵士が米軍戦車に向かって駆け出し、その車体の下に飛び込むのであった。自らの命と引き換えに米軍戦車を爆破し、次々と行動不能にした。岩陰やタコツボに潜んだ日本軍将兵は至近距離から米軍歩兵に手榴弾を投げつけ、銃剣や軍刀を振るって接近戦を挑んだ。

この日本軍の捨て身の反撃の前に、米軍の攻撃は難航した。22日までの米軍の死傷者は6000名を越え、もっとも大きな損害を受けていたのは海兵隊第4師団で、死傷者3800名以上であった。特にタポチョ山南麓での日本軍の抵抗は激しく、米軍は多くの死傷者を出し、米軍兵士たちはタポチョ山南麓の渓谷や峰を「死の谷」や「パープル・ハート・リッジ(戦傷章の峰)」と呼んだ。
22日時点でのサイパン島の日本軍守備隊の残存兵力は歩兵第四三師団約9000名・独立混成第四七旅団他約6000名であった。

タポチョ山周辺の日本軍と接近戦を展開する米軍、海兵隊員が手榴弾を投擲している 昭和19年6月23日(米軍上陸9日目) この「死の谷」周辺を守っていたのは歩兵第百十八連隊・独立歩兵第三一五大隊(河村大隊)の残存兵力であった。

「死の谷」周辺を攻撃した陸軍歩兵第27師団は3日間程殆ど前進できず、右翼の海兵隊第4師団は陸軍歩兵第27師団に歩調をあわせる為に前進を停止せるを得なかった。
米軍第5水陸両用軍団司令官H・スミス中将は陸軍歩兵第27師団R・スミス少将に攻撃を強化して前進するよう厳命したが、23日も終日「死の谷」周辺の激戦は続き、陸軍歩兵第27師団は殆ど前進できなかった。

この事は、米軍の指揮系統にも大きな影響を及ぼし、24日、米軍第5水陸両用軍団司令官H・スミス中将は遂に、陸軍歩兵第27師団長R・スミス少将を解任するという事件にまで発展した。これはH・スミス中将が陸軍歩兵第27師団の進撃の遅さを陸軍歩兵第27師団長であるR・スミス少将の戦闘意欲の欠如と指摘したものであったが、収まらないのは解任されたR・スミス少将であった。陸軍歩兵第27師団の前進が困難なのは「死の谷」周辺で抵抗を続ける日本軍部隊が頑強だからであり、決して戦闘意欲が欠如しているからでは無いという主張であった。
米軍内部でのこの事件は「スミス対スミス事件」と呼ばれ、サイパン島での日本軍守備隊の抵抗がいかに激しいものであったかを物語る事例の1つとなった。

サイパン島の日本軍の防備体制は決して十分ではなく、海岸付近での水際逆襲が失敗した後は満足な兵器も無く、後方の主陣地も用意されてはいなかった。殆どの部隊は既に大きな損害を受けているか、海没した部隊を寄せ集めた雑多な部隊であり、お世辞にも精兵といえるものではなかった。併しながら、米軍に制空権・制海権を奪われ、圧倒的な火力と兵力で押し寄せる米軍部隊を前にして一歩も引かず、米軍師団長解任にまで発展し、米兵をして「死の谷」と呼ばせる程の頑強な抵抗を示した日本軍将兵の敢闘は、まさにわが身を捨てでもサイパン島を守り抜こうとした意思の表れであり、そこで斃れた多くの日本軍将兵の勇気と祖国愛には心から敬意を表さずにはおられない。また、この戦闘の記録を後世に残していくことが我々にできる彼らへの鎮魂となるだろう。

また、24日、左翼の米海兵隊第2師団はガラパン市街南部まで進出し、守備していた歩兵百三五連隊第二大隊・歩兵第百五十連隊牛山隊・歩兵第五十連隊第一大隊の残存兵力は果敢に戦い、時には夜襲による切込みで辛うじて防いでいたが、やがて後退を余儀なくされた。タポチョ山周辺の戦闘は次第に米軍が山頂に迫りつつあった。

米軍のタポチョ山占領とサイパン島南部制圧(昭和19年6月25日〜27日)

昭和19年6月25日(米軍上陸11日目) 25日、タポチョ山周辺の日本軍は度重なる米軍の攻撃によって次第にその兵力を失っていった。タポチョ山正面を守る歩兵第百三五連隊は180名にまで減少し、米軍の2個大隊の攻撃に晒されていた。捨て身の抵抗を以ってしても米軍の進撃を阻むことは困難であり、タポチョ山の日本軍部隊も次第に力尽きようとしていた。
また、この頃になると日本軍部隊は後退時に味方将兵の遺体を収容する余裕も無くなってきており、戦場には日本軍将兵の遺棄遺体が目立つようになってきたという。

26日、米軍との1週間近くに渡る激戦の末、タポチョ山の日本軍部隊は遂に力尽き、米軍はタポチョ山山頂を占領した。この時点で、日本軍部隊の殆どはその兵力の8〜9割を失い、指揮官の多くも戦死していた。サイパン島の日本軍守備隊を指揮する陸軍第三一軍司令部はこの時、タポチョ山南側台地の洞窟にあったが、海軍中部太平洋艦隊司令部・陸軍第四三師団司令部が同居する状況であり、洞窟内は混雑し、指揮・命令も混乱していた。各部隊の残存兵力は各個に後退し、さまざまな命令が飛び交い、サイパン島の日本軍守備隊の組織的な戦闘は殆ど困難になってきていた。

27日、サイパン島の日本軍守備隊司令部では第四三師団長斎籐中将・中部太平洋艦隊司令長官南雲中将・第三一軍参謀長井桁少将が協議し、タポチョ山の防衛線から、北部に新防衛線(タナパグ〜211高地〜タロホホ)を設定することを決定した。

また、26日深夜〜27日朝にかけて、サイパン島南部 ナフタン半島に孤立していた独立歩兵第三一七大隊(佐々木大隊)・高射砲中隊・海軍の飛行場要員の一部約600名は「七生」「報国」を合言葉に米軍占領下の アスリート飛行場に夜襲を行った。この夜襲は非常に巧みに行われ、 アスリート飛行場に駐機していた米軍機4機(P-47)を破壊し、日本軍部隊は独立歩兵第四七旅団司令部のあった場所を目指した。併しながら、既に司令部は移動しており、駆けつけた米海兵隊によって包囲され、朝までに殆どの日本軍将兵が戦死、全滅した。この佐々木大隊の夜襲は事実上サイパン島に於ける日本軍部隊の最後の組織的な攻撃になった。

避難する一般邦人・自決する負傷兵(昭和19年6月28日〜30日)

昭和19年6月28日(米軍上陸14日目) 昭和19年6月30日(米軍上陸16日目) 28日、サイパン島の日本軍司令部は、北部に新防衛線を設定し、各部隊の移動を7月2日と決定したが、実際は随所で日本軍の戦線の崩壊が始まり、指揮官・命令系統を失った残存部隊の後退が既に始まっていた。

更に、南部から避難してきた一般邦人がこれに加わり、日本軍部隊の混乱はますます大きくなっていった。
サイパン島の日本軍守備隊は末期的な状況を呈し始めていた。武器・弾薬を失った兵士の列と避難する一般邦人の列とが入り混じりながら北へ北へと向かっていた。既に水源地は米軍に押さえられ、食料・医薬品も極度に欠乏していた。後退に際して、自力で歩くことの出来ない重症の負傷兵は置き去りにせざるを得ず、野戦病院では残地する負傷兵に手榴弾を手渡してやることしか出来なかった。

米軍は日本軍の戦線の崩壊に乗じて進撃した。28日までの米軍の損害は戦死者1474名・戦傷者7400名であった。

日本軍防衛線の後退(昭和19年7月1日〜2日)

昭和19年7月2日(米軍上陸18日目) 7月1日、タポチョ山正面を守る歩兵第百三五連隊の戦死者は3000名近くに上った。歩兵第百三六連隊はチャチャ付近からドンニィ付近の戦闘で兵力の大部分を失っていた。海軍部隊(唐島部隊)・歩兵第十八連隊・歩兵第百五十連隊牛山隊はタナパグ付近で必死の抵抗を続けていた。

サイパン島の日本軍守備隊の残存兵力は歩兵第百十八連隊約100名・歩兵第百三五連隊約350名・歩兵第百三六連隊約200名・独立混成第四七旅団約70名・独立工兵第七連隊約50名と海軍部隊約300名、その他約100名と全体で1200名に激減しており、独立山砲兵第三連隊は全ての火砲を失い、稼動できる戦車は損傷した九五式軽戦車3両のみという状況であった

また、独立混成第四七旅団長岡大佐・歩兵第百三五連隊長鈴木大佐・戦車第九連隊長五島大佐・独立工兵第七連隊長小金沢大佐もは既に戦死、第二四旅団長有馬大佐・独立山砲兵第三連隊長中島中佐等は重傷を負っていた。また、この日、日本軍司令部はサイパン島北部の地獄谷の洞窟に移動した。

7月2日、地獄谷移動した日本軍司令部は司令部は大本営に対し「守備部隊は、新防衛線において、全軍一致、最後の決戦を準備する」と報告した。併しながら、新防衛戦とは名ばかりで、陣地も殆ど用意されておらず、辿りついた日本軍部隊の残存の将兵が手掘りのタコツボ陣地を構築するのが精一杯であった。

また、この日、米軍はガラパン市街に突入し、市街を守備していた海軍第五根拠地隊は市市街各所で米軍に対して抵抗を続けたが、市街の一画に圧迫されて孤立していた。ガラパン市街は上陸前からの米軍の砲爆撃と侵攻してきた米軍の攻撃によって廃墟と化し、かつて「南洋の東京」とまで呼ばれて栄華を誇った頃の面影は最早全く無かった。

追い詰められる日本軍(昭和19年7月3日〜4日)

昭和19年7月3日(米軍上陸19日目) 7月3日、残存の日本軍部隊がサイパン島北部の新防衛戦に到着しつつあったが、歩兵第百三六連隊はサイパン北東部のタロホホに孤立した。歩兵第百三六連隊は分散して後退したが、歩兵第百三六連隊連隊本部(連隊長小川雪松大佐以下27名)は米陸軍歩兵第165連隊本部と遭遇し、小川雪松大佐以下全員が戦死した。

これは日米の連隊本部同士が接近戦を演じた非常に珍しい事例であった。また、この時、小川雪松大佐の遺体から新防衛戦への移動命令を記した書類が発見され、米軍は日本軍守備隊の新防衛線を知る事となり、電信山・221高地への進撃を開始した。

昭和19年7月4日(米軍上陸20日目) 7月4日地獄谷の日本軍司令部に米軍の砲撃が集中し、第三一軍高級参謀伊藤大佐が戦死、第四三師団長斉藤中将も負傷した。またの221高地にも米軍戦車が進出し、戦線は交錯、乱戦の様を帯びてきた。

日本軍司令部は大本営に戦局を以下のように報告した。
「熾烈なる砲撃及び爆撃に対し、毅然としてその守地を護らしめることは、精錬なる軍隊にしてはじめて期待できる。現地わが部隊の現状は、遺憾ながら離散・掌握を脱する者が極めて多い、相当兵力の軍隊にても、訓練が精到でない場合は、全く行方不明となった部隊さえあり、軍隊の練度及び幹部の掌握力等は、実に予想外なり。」
「最後の抵抗線に関し努力するも、ついに利あらず。午後に至り、敵戦車は二二一高地西側地区から陣内に侵入、戦線錯綜し、乱戦と化す。」
「守備隊の戦力は、猛烈なる砲爆撃に遂日消耗し、今や敵戦車を支える一門の火器もなく、全員肉弾突撃を準備す。」 「守備隊は、飽くまで守地を固守し、あるいは挺進して敵中に突入し、最後まで敢闘す。通信の確保も、時間の問題となれり。」

玉砕命令(昭和19年7月5日)

昭和19年7月5日(米軍上陸21日目) 7月5日日本軍司令部は協議の結果、遂に7日午前3時30分をもって最後の総攻撃を行うことを決定した。海軍南雲司令長官・陸軍斉藤師団長の連名での命令書が以下のように作成され、口頭・紙片にて各部隊の残存将兵に伝えられた。
    命令書
  1、米鬼の侵攻はいぜん熾烈なるも、諸隊本日までの敢闘努力は、よく真面目を発揮せり。
  2、サイパン守備隊は、先に訓示せる所に随い、明後七日、米鬼を索めて攻勢に前進し、一人よく一〇人を斃し、以って全員玉砕せんとす。
  3、諸隊は明後七日三三〇以降随時当面の敵を索めて攻撃に当たり、チャランカノアに向かい進撃し、米鬼を粉砕すべし。
    又、諸隊は明六日夜以降随時、特に選抜せる挺進部隊を敵陣内深く潜入せしめ、敵の司令部・幕営地・火砲・戦車・飛行機等を索めて徹底的にこれを粉砕すべし。
  4、予は切に諸隊の奮戦敢闘を期待し、聖寿の万歳と皇国の繁栄を祈念しつつ、諸士と共に玉砕す。
               中部太平洋方面艦隊司令長官
               北マリアナ集団司令官
また、午後3時30分、第三一軍参謀長井桁少将は大本営参謀次長宛に決別の電報を打った。「臣等微力にして陛下の股肱を失いしかも任務を完了し得ざりしこと深く 陛下に御詫び申上ぐると共に、陛下の股肱は善戦各々死所を得たるを欣び、非戦闘員は支庁長をして、サイパン島北部に退避せしめ、最後の一兵まで陣地を死守玉砕せんとす。然れども海没部隊諸勤務部隊等戦力なきもの極めて多数なりしは、戦闘を妨害せること大にして、指導上最も苦慮しあるところ、しかも決戦において、当兵団の所を得ざりしにあらずやを慮かる。暗号書類その他の機密書類は、遺憾なく処置せり。将来の作戦に、制空権なきところ勝利なし。航空機の増産活躍を望みて止まず。軍の精否は 一に指導官の如何による。大隊長以上の選定に留意を望み、皇軍の隆昌を祈りて、聖寿の万歳を唱う。」 また、この日、歩兵第百十八連隊・歩兵第百三五連隊・歩兵第百三六連隊の軍旗が地獄谷にて奉焼された。

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