『あ』号作戦(マリアナ沖海戦)

『あ』号作戦(マリアナ沖海戦)(昭和19年3月1日〜6月20日)

『あ』号作戦の背景

昭和19年3月、東ではギルバート諸島・マーシャル諸島が米軍の手に落ち、南でもソロモン諸島を制圧した米軍はニューギニア北岸沿いに西進していた。既にラバウルが孤立し、内南洋最大の日本海軍根拠地トラック諸島は空襲によって機能を喪失していた。日本軍の戦線はマリアナ諸島・カロリン諸島・ニューギニア西部の線でに後退していた。
特に、昭和18年11月以降、新たに竣工した正規空母を含む米海軍機動部隊が猛威を奮っており、圧倒的な数の艦載機をもって日本軍の前線拠点を次々と奪っていった。連合艦隊が米軍艦隊との決戦に勝利し、特に米海軍の主力である正規空母多数を伴う米海軍機動部隊を壊滅させないかぎり、米軍の進行を食い止めることは不可能であった。併しながら、問題は米軍艦隊の次の目標がどこであるかであった。

マリアナ諸島(中部太平洋方面)が米軍の手に落ちれば、日本本土が米軍の爆撃圏内に入り、以後の国内生産に重大な影響を及ぼすことは明白であった。また、ニューギニア北岸を西進する米軍がパラオ諸島やフィリピン諸島に至れば、南方資源地帯と日本本土との輸送路が寸断され、これもまた今後の戦争遂行に重大な影響を及ぼすことは明白であった。

併しながら、多数の正規空母と艦載機を擁する米海軍機動部隊が最も脅威であり、これを壊滅させない限り、絶対国防圏の維持はおぼつかなかった。しかし、この米海軍機動部隊の次なる目標が中部太平洋方面なのか、パラオ諸島方面なのかについて大本営では判断しかねていた。

日本海軍の決戦兵力(昭和19年3月1日)

昭和19年3月1日、連合艦隊は来るべく米軍艦隊との決戦に備えて、第一機動艦隊を編成、小沢治三郎中将が司令長官に就任した。第一機動艦隊は、戦艦・巡洋艦を主体とする第二艦隊と、航空母艦を主体とする第三艦隊から成っていた。第二艦隊と第三艦隊を統一して指揮・運用する事で水上兵力の戦力を最大限発揮しようという措置であった。
栗田健男中将率いる第二艦隊は修理の完了した戦艦「武蔵」を含む戦艦5隻・重巡洋艦10隻を擁し、小沢治三郎中将直率の第三艦隊は新たに竣工した航空母艦「大鳳」を含む大小9隻の航空母艦と定数495機の艦載機を擁しており、連合艦隊の残存水上艦艇の殆どが第一機動艦隊に編入されていた。
また、昭和18年7月に大本営直轄の基地航空部隊として編成された角田覚治中将指揮下の第一航空艦隊は、昭和19年2月、小笠原諸島・マリアナ諸島・パラオ諸島・フィリピン諸島の9つの飛行場への展開を開始した。5月5日、第十四航空艦隊(中部太平洋方面艦隊)の大部分を第一航空艦隊に編入し、実に定数1620機の航空機を擁する基地航空部隊として、第一機動艦隊の艦載機と共同して米軍艦隊を待ち構える事になった。
更に、4月4日、マリアナ諸島の防衛強化の為に中部太平洋方面艦隊を編成し、南雲忠一中将が司令長官に就任、司令部をサイパン島に置いた。中部太平洋方面艦隊は実質的には陸上部隊であり、隷下の第十四航空艦隊も大部分が第一航空艦隊に編入されていた。

マリアナ諸島方面の連合艦隊決戦兵力(第一機動艦隊・第一航空艦隊・中部太平洋方面艦隊)の編成は以下のとおりである。

連合艦隊:司令長官(豊田副武大将) 参謀長(草鹿龍之介中将) 主席参謀(高田利種大佐)
      軽巡 「大淀」(阿部俊雄大佐)
    
   第一機動艦隊:司令長官(小沢治三郎中将) 参謀長(古村啓蔵少将) 主席参謀(大前敏一大佐)
      第二艦隊:司令長官(栗田健男中将) 参謀長(小柳富次少将) 主席参謀(志岐常雄大佐)
         第四戦隊:司令官(栗田健男中将直率)
              重巡 「愛宕」(荒木伝大佐)  「高雄」(林彙邇大佐) 「摩耶」(大江覧治大佐) 「鳥海」(有賀幸作大佐)
         第一戦隊:司令官(宇垣纏中将) 主席参謀(野田六郎中佐)
              戦艦 「大和」(森下信衛大佐) 「武蔵」(朝倉豊次大佐) 「長門」(兄部勇次大佐)
         第三戦隊:司令官(鈴木義尾少将)主席参謀(杉藤馬大佐)
              戦艦 「金剛」(島崎利雄大佐) 「榛名」(重永主計大佐)
         第五戦隊:司令官(橋本信太郎少将) 主席参謀(中尾熊太郎中佐)
              重巡 「妙高」(石原聿大佐) 「羽黒」(杉浦嘉十大佐)
         第七戦隊:司令官(白石万隆少将) 主席参謀(西川享中佐)
              重巡 「熊野」(人見錚一郎大佐) 「鈴谷」(高橋勇次大佐) 「利根」(薫治夫大佐) 「筑摩」(則満宰次大佐)
         第二水雷戦隊:司令官(早川幹夫少将) 主席参謀(松原滝三郎中佐)
              軽巡 「能代」(梶原季義大佐)
            第二四駆逐隊:司令()
                   駆逐艦 「海風」() 「山風」() 「江風」() 「涼風」
            第二七駆逐隊:司令(大島一太郎大佐)
                   駆逐艦 「白露」(松田九朗中佐) 「時雨」(西野繁中佐) 「五月雨」(西村徳太少佐) 「春雨」(富田敏彦少佐) 
            第三一駆逐隊:司令(福岡徳次郎大佐)
                   駆逐艦 「長波」(飛田清少佐) 「朝霜」(杉原与四郎少佐) 「岸波」(三船俊郎中佐) 「沖波」(牧野垣中佐)
            第三二駆逐隊:司令(折田常雄大佐)
                   駆逐艦 「藤波」(松崎辰治中佐) 「玉波」(千本木三四中佐) 「浜波」(本倉正義中佐) 「早波」(清水逸郎中佐)(昭和19年6月9日沈没)
              駆逐艦 「島風」(上井宏中佐)
      第三艦隊:司令官(小沢治三郎中将直率)
         第一航空戦隊:司令官(小沢治三郎中将直率)
              正規空母 「大鳳」(菊池朝三大佐) 「瑞鶴」(松原博大佐) 「翔鶴」(貝塚武男大佐)
              第六〇一海軍航空隊(入江俊家中佐)
         第二航空戦隊:司令官(城島高次少将)主席参謀(寺崎隆治大佐)
              正規空母 「準鷹」(渋谷清見大佐) 「飛鷹」(横井俊之大佐) 軽空母 「龍鳳」(松浦義大佐)
              第六五二海軍航空隊(鈴木正一中佐)
         第三航空戦隊:司令官(大林末雄少将) 主席参謀(井口兼夫中佐)
              軽空母 「千歳」(岸良幸大佐) 「千代田」(城英一郎大佐) 「瑞鳳」(杉浦矩郎大佐)
              第六五三海軍航空隊(木村軍治中佐)
         第四航空戦隊:司令官(松田千秋少将) 主席参謀(吉井道教中佐)
              航空戦艦 「伊勢」(中瀬泝大佐) 「日向」(野村留吉大佐)
              第六三四海軍航空隊(天谷孝久中佐)
         第十戦隊:司令官(大村進少将) 主席参謀(南六右衛門中佐)
              軽巡 「阿賀野」()
              軽巡 「矢矧」(吉村真武大佐)
            第四駆逐隊:司令(高橋亀四郎大佐)
                   駆逐艦 「満潮」(田中知生少佐) 「野分」(守屋節司中佐) 「山雲」(小野四郎少佐)
            第十駆逐隊:司令(赤沢次寿雄大佐)
                   駆逐艦 「朝雲」(柴山一雄中佐) 「風雲」(橋本金松少佐)(昭和19年6月8日沈没)
            第十七駆逐隊:司令(谷井保大佐)
                   駆逐艦 「磯風」(前田実穂中佐) 「浦風」(横井保輝小佐) 「雪風」(寺内正道中佐) 「谷風」(池田周作少佐)(昭和19年6月9日沈没)
            第六一駆逐隊:司令(天野重隆大佐)
                   駆逐艦 「初月」(田口正一大佐) 「若月」(鈴木保厚大佐) 「秋月」(緒方友兄中佐) 「涼月」(呉にて修理中)
         軽巡 「最上」(藤間良大佐)

   第一航空艦隊:司令長官(角田覚治中将) 参謀長(三輪義勇大佐) 主席参謀(清水洋中佐) 1620機
         第六一航空戦隊:司令官(上野敬三少将) 主席参謀(伊藤泰介中佐) 648機
            第一二一航空隊:司令(岩尾正次中佐)   陸上偵察機48機
            第二六一航空隊:司令(上田猛虎中佐)   艦上戦闘機72機
            第二六三航空隊:司令(玉井浅一中佐)   艦上戦闘機72機
            第二六五航空隊:司令(蒲田輝次郎中佐) 艦上戦闘機72機
            第三二一航空隊:司令(久保徳太郎中佐) 夜間戦闘機72機
            第三四三航空隊:司令(竹中正雄中佐)   局地戦闘機72機
            第五二一航空隊:司令(亀井凱夫大佐)   陸上爆撃機96機
            第五二三航空隊:司令(和田鉄二郎中佐) 艦上爆撃機96機
            第七六一航空隊:司令(松本真実中佐)   陸上攻撃機72機
         第二二航空戦隊:司令官(澄川道男少将) 主席参謀(花本清登少佐) 552機 
            第一五一航空隊:司令(中村子之助中佐) 陸上偵察機24機
            第二〇二航空隊:司令(根来茂樹中佐)   艦上戦闘機96機 
            第二五一航空隊:司令(柴田武雄中佐)   夜間戦闘機48機
            第二五三航空隊:司令(小笠原章一中佐) 艦上戦闘機96機
            第三〇一航空隊:司令(八木勝利中佐)   艦上戦闘機48機 局地戦闘機48機
            第五〇三航空隊:司令(増田正吾大佐)   艦上爆撃機48機
            第五五一航空隊:司令(高橋勝中佐)     艦上攻撃機48機
            第七五五航空隊:司令(楠本幾登中佐)   陸上攻撃機96機
         第二三航空戦隊:司令官(伊藤良秋少将) 主席参謀(河本広中中佐) 168機
            第一五三航空隊:司令(猪口力平中佐)   陸上偵察機24機 艦上戦闘機48機
            第七三二航空隊:司令(三代辰吉中佐)   陸上攻撃機48機
            第七五三航空隊:司令(梅谷薫大佐)    陸上攻撃機48機
         第二六航空戦隊:司令官(有馬正文少将) 主席参謀(吉岡忠一少佐) 240機
            第二〇一航空隊:司令(中野忠二郎中佐) 艦上戦闘機96機
            第五〇一航空隊:司令(坂田義人大佐)   艦上戦闘機48機 艦上爆撃機48機
            第七五一航空隊:司令(大谷龍蔵中佐)   陸上攻撃機48機
         第一〇二一航空隊:司令(栗野原仁志大佐)   輸送機12機

   中部太平洋方面艦隊:司令長官(南雲忠一中将) 参謀長(矢野英雄少将) 主席参謀(葦名三郎大佐)
      第四艦隊:司令官(原忠一中将) 参謀長(有馬少将) 主席参謀(今里茂光大佐)
         第四根拠地隊:司令官(有馬少将兼任) 主席参謀(樋口信夫中佐)
            第九〇二航空隊:司令(林田如虎大佐)  水上偵察機40機
         第六根拠地隊:司令官() 主席参謀()
      第十四航空艦隊:司令官(南雲忠一中将兼任) 参謀長(矢野英雄少将兼任) 主席参謀(葦名三郎大佐兼任)
            飛行艇母艦 「秋津洲」(藤牧美徳大佐)
      第五根拠地隊:司令官(辻村武久少将) 参謀長(金岡知二郎大佐)
            第五四警備隊:司令(杉本豊大佐)
            第五五警備隊:司令(高島三治大佐)
            第五六警備隊:司令(大塚吾一大佐)
      第三十根拠地隊:司令官(伊藤賢三中将) 参謀長(川井繁蔵大佐)
      第三水雷戦隊:司令官(中川浩少将) 参謀長(中川実中佐)
            特設巡洋艦 「名取」(久保田智大佐)
            第三十駆逐隊:司令(沢村成二大佐)
                    駆逐艦 「秋風」(山崎仁太郎少佐) 「卯月」(松本薫少佐) 「夕月」(松本正平少佐) 「水無月」(6月6日沈没)
            第二二駆逐隊:司令官不在
                    駆逐艦 「夕凪」(岩淵悟郎少佐)
            軽巡 「五十鈴」(松田源吾大佐)

連合艦隊では以上の様に兵力を整備し、決戦準備を進めていたが、多くの問題が存在していた。
まずは数の問題である。第一航空艦隊に編入された航空母艦は9隻であったが、内5隻は搭載機の少ない軽空母であった。この時までに新たに竣工したのは正規空母「大鳳」のみであり、第四航空戦隊に編入された航空戦艦「伊勢」「日向」は艦体後部に飛行甲板を設置して航空機搭載能力を持たせた艦であったが、いまだ実戦配備出来る状況ではなく、搭載予定の航空機の目処もついていなかった。結果、第一航空艦隊の擁する艦載機は定数495機であり、これまでの連合艦隊としては比較的多い数ではあったが、対する米海軍機動部隊は正規空母6隻以上・護衛空母10隻以上・艦載機900機と見積もられていた。日本海軍の総力を結集した決戦兵力である第一機動艦隊も米海軍機動部隊の半分の兵力でしかなくかった。
また、その母艦航空隊の搭乗員の多くは、相次ぐ消耗戦によって不足した搭乗員を補う為に大量採用され、日本本土の燃料不足で満足な訓練も受けられず、前線に出るにはまだまだ技量未熟な搭乗員が多数を占めていた。更に、この時期、米軍は次々と新鋭機を開発し前線に投入していたのに対して、日本軍では新機種の開発が遅れ、空中戦の主役である戦闘機に関して、日本海軍では開戦当初の零戦がその主力であった。艦上攻撃機・艦上爆撃機は、最新の「天山」「彗星」が供給されていたが、物資不足による部品信頼性の低下によって故障や事故が絶えなかった。
大東亜戦争開戦後2年半が経過していた。日米の戦力は、その量と質に於いて最早埋めようの無い差が生じていたのである。

しかし、連合艦隊としてはこの手持ちの決戦兵力で米海軍機動部隊に挑まねばならなかった。そこで、マリアナ諸島やパラオ諸島の島々に基地航空部隊を展開し、これらの島々を不沈空母として活用、第一機動艦隊の母艦航空隊と共同して、来襲する米軍艦隊を撃滅しようとしていた。この基地航空部隊が第一航空艦隊であった。定数684機を擁し、大本営直轄とされて訓練に励んでいたが、戦局の悪化とともに訓練途上で展開を開始せねばならず、基地航空部隊もまた練度の低いの搭乗員が多数を占めていた。また、マリアナ諸島やパラオ諸島はそれまで後方地帯であった為、防御施設や航空築城が殆ど進んでおらず、第一航空艦隊が展開した飛行場の多くは掩体壕や高射砲陣地なども殆ど無く、燃料や爆弾も野ざらしに集積されている有様であった。この様な飛行場では激しい航空戦に耐えうる強靭性は期待すべくも無かった。

更に、連合艦隊に不利であったのは燃料の問題であった。当時、米海軍の潜水艦の跳梁によって、日本の輸送船・油槽船(タンカー)の多くが撃沈され、船舶数が不足していたのである。その為、日本軍艦隊に随伴できる油槽船数が不足し、日本軍艦隊の行動範囲が制限されていたのである。つまり、日本軍艦隊の待機地点(フィリピン諸島中部)に近いパラオ諸島近海なら燃料の目処がつくが、マリアナ諸島近海では燃料に不足が生じる状態だった。結果、米軍艦隊との決戦ではなるべくパラオ諸島近海での決戦が希望されていた。
しかし、太平洋での戦闘の主導権はすでに米軍にあり、決戦時期も決戦海面も日本軍には選ぶことすら出来なかった。この様な状態では連合艦隊は何らかの機会を見つけて米軍艦隊をパラオ諸島近海に誘引する事を期待していた。

日本海軍最後の艦隊決戦(『あ』号作戦準備)(昭和19年5月3日〜6月18日)

昭和19年5月3日、大本営から連合艦隊に対して「連合艦隊の準拠すべき当面の作戦方針」(大海指第三七三号)が指示された。この中では特に以下の事が強調されていた。

・昭和19年5月下旬以降、中部太平洋方面・豪北方面・フィリピン諸島方面に於いて、連合艦隊の総力を挙げて米軍艦隊主力を撃滅し、米軍の反攻意図を阻止する。
・米軍艦隊との決戦は、機動部隊(第一機動艦隊)と基地航空部隊(第一航空艦隊)の全力を持って行う。
・機動部隊はフィリピン諸島中部に待機、基地航空隊隊は中部太平洋・豪北方面に展開する。決戦準備が整うまでは決戦を避け、決戦兵力を温存する。
・米軍艦隊との決戦海面は、なるべく機動部隊の待機地点近海(フィリピン諸島周辺・パラオ諸島周辺)に選定する。
・本作戦を「『あ』号作戦」と呼称する。

大本営から指示をうけた連合艦隊では、5月3日、この「連合艦隊の準拠すべき当面の作戦方針」(大海指第三七三号)に沿って隷下兵力に指示を出した。
当時、連合艦隊の機動部隊である第一機動艦隊(小沢艦隊)は一部(第二航空戦隊・第三航空戦隊)が瀬戸内海西部に、主力(第二艦隊・第三艦隊主力)はシンガポール南方のリンガ泊地にあり、それぞれ訓練中であった。3日、連合艦隊司令長官豊田副武大将は、小沢艦隊に対して、ボルネオ島北岸のタウイタウイ泊地への進出を命じた。これは、米軍艦隊の出現時期・場所が不明である為、早めに待機地点に集結を完了しておこうとしたのであった。また、当時は油槽船の不足によって日本本土の燃料備蓄は次第に減少し、艦隊や航空隊の訓練にも支障をきたし始めていた。タウイタウイ泊地の近くには産油地であるボルネオ島タカランがあり、燃料に不自由せずに訓練が行えるはずであった。この時期、連合艦隊はそれほどまでに「油(燃料)の欠乏」に苦しめられていたのである。
5日、基地航空部隊である第一航空艦隊(角田部隊)に中部太平洋方面艦隊隷下の第十四航空艦隊の大部分を編入した。角田部隊の一部は既に小笠原諸島・マリアナ諸島・パラオ諸島・フィリピン諸島の飛行場に展開していたが、日本本土で訓練を続けていた角田部隊の一部も、18日、マリアナ諸島の飛行場に展開を完了するよう指示を受け、26日にはほぼ展開を完了した。しかし、燃料不足に悩む日本本土での訓練は十分ではなく、角田部隊もまた訓練不十分なまま決戦に参加しようとしていた。

5月11日、第二航空艦隊(正規空母「準鷹」「飛鷹」・軽空母「龍鳳」)・第三航空艦隊(軽空母「千代田」「千歳」「瑞鳳」)・戦艦「武蔵」・駆逐艦7隻が佐伯湾錨地を出撃、一路、タウイタウイ泊地を目指した。これら6隻の空母に搭載されていた航空隊は、新しく機材と搭乗員を集めて編成したものであったが、燃料不足の影響もあり、3月末に訓練を開始したばかりであった。機材には新型の艦上爆撃機「彗星」も供給されていたが、搭乗員の連度は尚低く、訓練が一応の完成をみるにはあと2ヶ月の訓練期間が必要な状態であった。
また、すでに小沢艦隊主力(第二艦隊・第三艦隊主力)はリンガ泊地で十分な訓練を行っており、特に水上艦艇の夜戦能力は急速に向上していた。また、第一航空艦隊(正規空母「大鳳」「瑞鶴」「翔鶴」の)航空隊の訓練も一定の目処はつけられていた。この時期、燃料に不自由せずに訓練を行える場所は産油地に近い南方方面しかなかったのである。
11日午前3時、栗田健男中将率いる第二艦隊主力が第二水雷戦隊・第四戦隊・第七戦隊・第三戦隊・第一戦隊の順にリンガ泊地を出撃、翌12日、小沢治三郎大将直率の下、第三艦隊主力も第十戦隊・第五戦隊・第一航空戦隊の順にリンガ泊地を出撃、待機地点であるタウイタウイ泊地に向かった。
このように、小沢艦隊が出撃を急いだのも、米軍艦隊がいつどこに来襲するかに関して確実な情報が得られなかったからであった。一応の状況判断はするにしても、「『あ』号作戦」は全くの受身の作戦であった。

5月15日〜16日、小沢艦隊がタウイタウイ泊地に集結を完了した。航空母艦9隻・戦艦6隻・重巡洋艦11隻・軽巡洋艦2隻・駆逐艦33隻・補給艦艇12隻、総計73隻に及ぶ日本海軍連合艦隊水上兵力のほぼ全力でり、まさに「『あ』号作戦」は連合艦隊の総力を賭けた最後の決戦であった。
この時、小沢艦隊が集結したタウイタウイ泊地はボルネオ島北岸に位置し、泊地は東・西・南をタウイタウイ湾と珊瑚礁・北にタウイタウイ島で囲まれ、泊地の広さは瀬戸内海柱島錨地と同じくらいであった。南170海里(310km)にはボルネオ島タラカンがあり、ここにいる限りは燃料には事欠かなかった。また、来るべき米軍艦隊の決戦海面として予定されていたパラオ諸島近海にも近い事も、ここが小沢艦隊の待機地点に選ばれた理由であった。
併しながら、タウイタウイ泊地内は場所に余裕が無く、訓練は外洋に出て行わねばならなかった。小沢艦隊は到着後、母艦航空隊の訓練を開始したが、この時期、ボルネオ島周辺にも米海軍潜水艦が出没しており、訓練中の航空母艦が狙われることもあった。また、護衛の駆逐艦や艦隊に燃料を供給していた油槽船が米海軍潜水艦の攻撃で撃沈される事が度々あり、タウイタウイ泊地も安全な場所とは言えなくなっていた。結果、タ小沢艦隊はウイタウイ泊地待機中に母艦航空隊の訓練を十分行うことが出来なかった。これは訓練途上の搭乗員にとっては致命的であった。即ち、小沢艦隊の母艦航空隊の搭乗員の多くは未だ訓練途上であり、1ヵ月近く満足な訓練が出来ないということは、ただでさえ訓練不足の搭乗員の技量を更に低下させる結果になったのである。
この様な問題点があるにも関わらずタウイタウイ泊地を待機地点に選ばざるを得なかった理由は結局「油(燃料)の欠乏」であった。最早、大量の燃料を消費する大艦隊が日本本土に待機して訓練を行うなどという事は、この時期不可能だったのである。この様な状態に陥った原因は、船舶(輸送船・油槽船)の不足であり、それは米海軍潜水艦の跳梁を阻止できずにいた、貧弱な海上護衛の実態にあった。この時期、日本本土と南方資源地帯との輸送路は途絶えがちになっており、連合艦隊に限らず、あらゆる方面で燃料・物資の不足が深刻化していた。

5月に入ると、米軍の活動はにわかに活発になっていた。4月30日〜5月1日、米海軍機動部隊が3回目のトラック諸島空襲を実施、4日にはニューギニア北岸のビアク島への空襲が強化され、同方面の日本軍航空隊は殆ど無力化した。5日〜8日、マーシャル諸島方面の米軍通信が活発になり、17日にはインド洋方面に於いて、米英海軍艦隊の空襲がジャワ島スラバヤにまで及んできた。これらは米軍主攻方面に於ける何らかの作戦行動の前触れであった。果たして、17日、米軍はニューギニア北岸のワクデ・サルミに上陸、20日〜21日、米軍機動部隊が南鳥島を空襲した。
20日、これら一連の米軍の行動と通信諜報の結果、米軍艦隊来襲の公算が高まったと判断した連合艦隊司令長官豊田副武大将は「『あ』号作戦開始」を発令した。これを受けた小沢治三郎第一航空艦隊司令長官は次のような訓示を行った。

・今次の艦隊決戦に当たっては、わが損害を顧みず戦闘を続行する。
・大局上必要と認めたときは、一部の部隊を犠牲とし、これを死地に投じても作戦を強行する。
・旗艦の事故、その他通信連絡思わしからざるときは、各級指揮官はよろしく独断専行すべきである。

この訓示にも見られるように、今回の作戦には、ここで米軍の侵攻を阻止して戦局悪化に歯止めをかけ無ければならないとする、小沢長官以下艦隊将兵の決意がみなぎっていた。小沢艦隊は、22日、第一補給部隊をダバオへ、24日、第三補給部隊の一部をパラオ諸島に派遣待機させ、作戦準備を進めていたが、この間にもタウイタウイ泊地の外洋では米海軍潜水艦の攻撃によって油槽船や護衛の駆逐艦が失われていた。
22日、東京湾に停泊していた連合艦隊旗艦の重巡「大淀」は東京湾を出港、瀬戸内海に向かい、23日、瀬戸内海西部柱島錨地に到着した。これは、東京湾では南方の各部隊との無線通信や電話が困難だった為の措置であった。

5月24日、米軍機動部隊がウェーク島を空襲、これら米軍の一連の作戦行動を鑑み、小沢艦隊では米海軍機動部隊が何らかの作戦行動を起こすと予想していたが、この時点ではマリアナ諸島方面とともにニューギニア方面にも注意が向けられていた。既に米軍はニューギニア北岸沿いに地歩を固め、ビアク島・パラオ諸島からフィリピン諸島を伺う姿勢を見せていた。果たして、26日早朝、米軍艦隊がビアク島沖合いに出現、同日、米軍約1個師団が上陸した。

ビアク島はニューギニア北西端の要衝であり、マリアナ諸島から西カロリン諸島へと続く一連の列島線の南端であり、ここを米軍に占領されると絶対国防圏の一端が崩れる。また、ビアク島は飛行場建設に最適な地形であった。ここに米軍が飛行場を推進させた場合、フィリピン諸島・ボルネオ島・シンガポールなどが米軍の爆撃圏内に入り、南方資源地帯と日本本土との輸送路に重大な影響があることは明白であった。

この米軍のビアク島上陸の報を受けた連合艦隊では、ビアク島防衛の必要性と共に、この米軍艦隊に対して迎撃を行うことによって米海軍機動部隊を誘い出し、パラオ諸島近海に於いて決戦に持ち込めるのではないかという見方が強まった。もともと連合艦隊としては燃料の制約からマリアナ諸島近海での決戦よりもパラオ諸島近海での決戦のほうが都合が良かったのである。そこで、連合艦隊では小沢艦隊の一部と角田部隊の一部をパラオ諸島方面に転用し、ビアク島への増援を行うと共に、これによって米海軍機動部隊を誘い出そうと意図した。
29日夜半、豊田副武連合艦隊司令長官は以下のような命令を発した。
・小沢艦隊の一部をもって陸軍兵力をビアク島に輸送する。
・米軍機動部隊を誘い出し、パラオ諸島近海で決戦に持ち込む。
・この作戦を「『渾』作戦」と呼称する。
・角田部隊の一部はニューギニア北岸の米軍を制圧(27日には角田部隊の一部がパラオ諸島方面への移動を開始していた。)

『あ』号作戦(マリアナ沖海戦)での戦闘推移(昭和19年6月19日〜20日)

昭和19年6月15日(米軍上陸1日目・日本軍第1回水際逆襲)

マリアナ諸島の喪失(昭和19年6月11日〜8月13日)」へ戻る

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