九七式軽装甲車(97式軽装甲車・テケ)

「九七式軽装甲車(97式軽装甲車・テケ)」

「九七式軽装甲車(97式軽装甲車・テケ)」とは

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「九七式軽装甲車(97式軽装甲車・テケ)」とは

「九七式軽装甲車(97式軽装甲車・テケ)」は大東亜戦争全期間を通じて使用さた日本陸軍の軽装甲車(装甲牽引車・豆戦車)である。

「軽装甲車」とは

通常、「装甲車」とは装甲板によって防弾を施された装輪式(タイヤ・車輪を装備)車両を指す。
日本陸軍では、小型の装軌式(履帯・キャタピラ・クローラーを装備)装甲車両を「軽装甲車」と呼称した。当時(1920年代後半〜1930年代前半)、この様な車両は世界各国で開発され、日本国内では一般的に「豆戦車」「豆タンク」と愛称された。

「カーデン・ロイド機関銃運搬車Mk.VI」 各国で小型装甲車両が開発された理由には、当時(1920年代後半〜1930年代前半)の世界情勢があった。第一次世界大戦(大正3年7月28日〜大正7年11月11日)後、不況に見舞われた列強は一様に軍縮を行っていた。その為、新たに開発・装備する兵器に関して経済性が重視されていた。そこで、この経済性を徹底的に追求した車両として、イギリスのマーテル社やカーデン社などに於いて、乗員2名・全備重量2t程度の小型装甲車両が相次いで開発された。
時勢柄、これら小型装甲車両は各国陸軍に忽ち広がった。また、イギリスの「カーデン・ロイド機関銃運搬車Mk.VI」は特に優秀で、これを模倣した車両が各国で製作された。

これら小型装甲車両は安価であり、大量の数を揃えるのには適していた。その為、一時期は各国で開発・生産され、大量に装備された。併しながら、これら小型装甲車両は戦闘車両としての性能は十分とは言えなかった。武装は機関銃1挺または機関砲1門を装備する程度で、装甲も薄く(小銃弾に耐えうる程度)、オープントップ(無天蓋)の車両もあった。結果、一時は一世を風靡した小型装甲車両の開発も次第に行われなくなった。
しかし、小型装甲車両は小型・軽量であるが故の運用のし易さから、その後も戦場の裏方として活躍した。多くは被牽引車を牽引して危険物(弾薬・爆薬等)運搬を主とする「装甲牽引車」として運用され、また、機動性・隠密性の高さから偵察・連絡などの任務も使用された。

「九四式軽装甲車」に換わる軽装甲車

「九四式軽装甲車」 日本陸軍でも、昭和6年(1931年)3月〜10月、輸入した「カーデン・ロイド機関銃運搬車Mk.VI」を歩兵学校・騎兵学校に交付し、その実用性について各種試験を実施した。。
その試験結果に基づき、昭和7年(1932年)、陸軍技術本部第四研究所(装甲車両の研究を担当)の原乙未生少佐が担当し、「装軌式牽引車」の開発が開始された。昭和9年(1934年・皇紀2834年)、この車両は「九四式軽装甲車(TK車)」とし制式採用された。

九四式軽装甲車」は、車体に全溶接構造を採用し、非常に小型・軽量に設計されていた。
また、新たに考案された横置コイル・スプリングによるリンク式サスペンション(連成懸架)が採用され、この懸架方式は、その後の日本軍装軌式(キャタピラ)車両の代表的懸架方式となった。

九四式軽装甲車」の最大の特徴は、機関銃1挺を装備した旋回砲塔を搭載していた事であり、これは同時期の各国の「装軌式牽引車」と異なる点であった。これは、 「九四式軽装甲車」は、その開発時から、牽引車両としてだけでは無く、戦闘車両としての運用も想定していたからであった。

九四式軽装甲車」は、制式採用後(昭和9年・1934年)直ちに量産が開始され、昭和10年(1935年)には戦車中隊の軽装甲車小隊へ配備が始まった。又、独立軽装甲車中隊が編成された。更に、歩兵連隊にも軽装甲車訓練所が新設され、「九四式軽装甲車」が配備された。

昭和12年(1937年)、支那事変が起こると、「九四式軽装甲車」を装備した独立軽装甲車中隊は歩兵と共に戦闘に参加した。実戦に於ける「九四式軽装甲車」は、小型・軽量であるが故、非常に使い勝手がよかった。歩兵に追随して進撃し、歩兵戦闘時には火力支援を行った。その為、歩兵に最も身近な装軌式装甲戦闘車両であった。
九四式軽装甲車」は「豆戦車」「豆タンク」と愛称され、親しまれた。

小型・軽量である「豆戦車」「豆タンク」は、運用面に於いて特別な資材を殆ど必要とせず、戦車が通過できない地形に於いても歩兵に追随する事が出来た。この事は、慢性的な資材不足・機械力不足であった日本陸軍とっては、非常に有難い事であった。
また、戦車(「八九式中戦車」「九五式中戦車」)と比較すると、安価で製造が容易な為、多数を生産して配備する事が出来た。これら「豆戦車」「豆タンク」を装備した独立軽装甲車中隊や軽装甲車訓練所は、後に、戦車連隊や捜索連隊(師団騎兵)へと発展し、装軌式装甲戦闘車両の運用の母体となった。即ち、「豆戦車」「豆タンク」は日本陸軍に於いて機甲兵器に普及・発展に大きく貢献したのであった。

この様に、小型・軽量の「装軌式牽引車」に武装を施し、「豆戦車」「豆タンク」として運用する事は、日本陸軍にとって大成功であった。
結果、日本陸軍に於ける「豆戦車」「豆タンク」の必要性・重要性は高まり、更なる性能を望む声が上がった。

「九四式軽装甲車」 併しながら、「豆戦車」「豆タンク」(「九四式軽装甲車」)は非常に使い勝手が良かったが、実戦に参加した結果、幾つかの問題点も明らかになった。主な問題点は下記の通りであった。

・戦闘車両としては火力・防御力が不足していた。
            → 武装が機関銃1挺のみ。小銃弾が貫通する事があった。
・牽引車両としてはエンジン出力が不足していた。
            → 悪路走破性が悪く、荷重時の発進も困難だった。
・戦闘室・操縦席とエンジン室との仕切り等が無かった。
            → エンジンの熱気・騒音が乗員への負担になった。
・覗視孔(車外観察用の横に細長い穴・スリット)に防弾ガラスが無かった。
            → 敵弾が乗員の眼・顔面に危害を及ぼした。
・履帯(キャタピラ)幅・接地長が短かった。
            → 機関銃発射時に車体が安定しなかった。
            → 悪路走行時にピッチング(縦揺れ)を起して走破性が悪かった。
・履帯(キャタピラ)が外側ガイド方式であった。
            → 急旋回時に外れやすかった。
・乗員2人では戦闘時に支障があった。
            → 1人が負傷した場合、もう1人が戦闘・操縦をしなければならなかった。

これら戦訓を取り入れた改良が実施され、改修した車両(「改修九四式軽装甲車(後期改修型)」)が生産されたが、改修点の殆どは、誘導輪(後部転輪)の大型化による履帯(キャタピラ)の延長に関してであった。これにより、走破性・安定性の低さは改善された。

火力・防御力の不足や、エンジン出力の不足に関しては、「九四式三十七粍戦車砲」(口径37mm)を搭載した車両や、ディーゼルエンジンを搭載した車両も製作されたが、少数の生産や試作車に留まった。 そこで、これらの問題点を根本的に解決する為、 「九四式軽装甲車」に換わる新しい軽装甲車の開発が行われる事になった。

「九七式軽装甲車」の開発

「九七式軽装甲車」 新しい軽装甲車の開発は、「改修九四式軽装甲車(後期改修型)」を基に、空冷ディーゼルエンジンを搭載し、口径37mmの戦車砲(「九四式三十七粍戦車砲」)の装備を考慮して行われた。
試作車両の製作は池貝自動車(現:小松製作所川崎工場)が担当した。池貝自動車(現:小松製作所川崎工場)は、当時の日本に於けるディーゼルエンジン開発の草分けであった。

昭和12年(1937年)9月、第1案による試作車両が完成した。
これは、「改修九四式軽装甲車(後期改修型)」を発展させ、車体前方に変速装置(ギアボックス)を、その後方右側にエンジンを配置していた。操縦席は車体前方左側(エンジンの左)にあり、車体後方が戦闘室になっていた。

出力の大きな空冷ディーゼルエンジンを搭載した事によって、機動性が向上した。
併しながら、依然としてエンジンの騒音・振動・熱気による影響が大きく、前方の操縦手と後方の射手(兼車長)との意思疎通にも円滑欠いた。更に、前方に配置したエンジンは気筒(シリンダー)の高さに制限を受け、有効ストローク長をあまり大きくする事が出来きず、エンジン出力に制限を受けた。

そこで、昭和12年(1937年)11月、これらの問題点を改善した第2案による試作車両が完成した。
ここでの大きな変更点は、「九四式軽装甲車」や第1案の試作車両の様にエンジンを車体前方の配置する事を改め、エンジンを車体後方に横置き配置とした事であった。車内は、車体前方左側が操縦席に、車体中央が戦闘室になっていた。戦闘室上部に砲塔が搭載され、変速装置(ギアボックス)は車体前方に配置された。

結果、エンジン室を広く取る事が可能になり、より大きなエンジンを搭載する事が出来た。またエンジン室と戦闘室・操縦席との仕切りも設けられ、エンジンの騒音・振動・熱気の乗員への影響が少なくなった。また、操縦席と戦闘室が近くなった事によって操縦手と射手(兼車長)との意思疎通が容易になった。戦闘室もより広くなり、戦闘時の動作が容易になった。
但し、エンジンを車体後方に配置した事で、「九四式軽装甲車」の様な車体後方からの出入りは出来なくなった。

この第2案による試作車両は戦車学校で各種試験を実施し、昭和12年(1937年・皇紀2897年)、この年の皇紀の下2桁を採って「九七式軽装甲車(テケ)」として制式採用された

「九七式軽装甲車」の特徴

「九七式軽装甲車」 本車は、「九四式軽装甲車」を拡大・発展させた車両であった。
その為、「九四式軽装甲車」の問題点に対する改修が多数盛り込まれていた。

九四式軽装甲車」からの大きな変更点は以下の通りであった。

・空冷ディーゼルエンジンを採用し、出力が向上した。(35馬力→65馬力)
・一部の車両は、「九四式三十七粍戦車砲」(口径37mm)を搭載した。
・車体各部にピストルポートを装備した。
・車体形状に被弾経始を考慮して曲面が多用されていた。
・覗視孔(車外観察用の横に細長い穴・スリット)に防弾ガラスを装備した。
・エンジンを車両後方に配置し、操縦席・戦闘室が広くなった。
・戦闘室・操縦席とエンジン室との仕切りを設けた。
・履帯(キャタピラ)を内側ガイド式に変更した。
・一部の車両は、無線機(「九四式四号丙無線機」等)を装備した。

「九七式軽装甲車」 本車のエンジンは、直列4気筒空冷ディーゼルエンジンが採用され、最高出力は65馬力(2300rpm)であった。
本車は、「九四式軽装甲車」よりも重量が増加(全備重量:3.45t→4.5t〜4.8t)しているが、エンジンの出力が増加(35馬力→65馬力)した事で、1t当りの出力は増加(12馬力/t→15馬力/t)した。結果、本車は、「九四式軽装甲車」よりも機動力が向上した。

燃料タンクは、主タンク59リットル・補助タンク32リットルで、合計燃料容量91リットルであった。

ディーゼルエンジンは、通常のガソリンに比べて粗悪な軽質油(軽油)を使用する事ができた。その為、ガソリンエンジンに比べて経済的であった。更に、軽質油(軽油)は燃え難い為、被弾時に火災が発生する危険性が減少した。併しながら、出力に対して、エンジンの排気量・寸法・重量が大きく、ガソリンエンジンほど小型・軽量に纏める事ができなかった。

本車が搭載した池貝OHV空冷4気筒ディーゼルエンジンは、過流式と呼ばれる燃焼方式を採用していた。これは、小型ディーゼルエンジンに適した燃焼方式で、池貝自動車(現:小松製作所川崎工場)が得意とする燃焼方式であった。

「九七式軽装甲車」 過流式の燃焼方式では、シリンダー上部に設けられた燃焼室の形状に特徴がある。

通常の燃焼方式では、燃焼室は円錐形・屋根型をしており、ピストンによって空気が圧縮され高温になったところに燃料を噴射して燃焼させて出力を得る。

これに対して、渦流式の燃焼方式では、燃焼室は気筒内から通路によって導かれた小さな部屋になっており、ピストンの上昇と共に空気がこの部屋に導かれる。その際に空気に渦が発生する様に通路・燃焼室の形状が工夫されている。渦が発生した高温の空気に燃料を噴射・燃焼させて出力を得る。

渦流式の燃焼方式では、渦が発生した空気に燃料を噴射する為、燃料と空気がよく混ざり、燃焼効率が良く、高出力を得る事が出来る。また、燃焼室も小さくする事が出来るので、結果として、小型で高出力のディーゼルエンジンを製作する事が可能である。
反面、渦流式は低温時の始動が弱く、ノッキング(異常燃焼)を起しやすいという特徴がある。

本車の武装は、新たに「九四式三十七粍戦車砲」(口径37mm)が採用された。結果、本車は「豆戦車」「豆タンク」としての火力が向上した。
武装に関しては2種類の車両があり、戦車砲1門(口径37mm・「九四式三十七粍戦車砲」)を装備した車両と、 「九四式軽装甲車」と同様の機関銃1挺(口径7.7mm・「九七式車載重機関銃」)を装備した車両があった。生産数の約1/3が戦車砲1門(口径37mm・「九四式三十七粍戦車砲」)を装備した車両であり、主に小隊長車として配備された。

「九七式軽装甲車」 本車が装備した戦車砲は「九四式三十七粍戦車砲」(昭和9年・1934年制式採用)であった。
これは、口径35mm、砲弾は「九四式徹甲弾」「九四式榴弾」等を使用した。弾薬携行数は102発であり、砲塔内右後方・戦闘室内左右の砲弾架(砲弾ラック)に収納した。

本車が装備した機関銃は「九七式車載重機関銃」(昭和12年・1937年制式採用)であった。
これは、口径7.7mm、箱型弾倉(20発入り)で給弾した。弾薬は「九二式実包」を使用し、弾薬携行数は2800発であった。
車外に露出している機関銃の銃身に保護用覆い(装甲ジャケット)が装備された。また、照準眼鏡には、射手の眼を機関銃発射時の反動から保護する為、接眼部に厚いゴム製クッションが装備された。砲塔前方の銃架(ボールマウント)から取外し、二脚架を装着して車外で射撃を行う事も可能であった。

戦車砲・機関銃は車体上部に搭載された砲塔に装備された。
砲塔内には射手(兼車長)1名が位置し、戦車砲・機関銃の操作を行った。本車は小型・軽量であった為、砲塔も小さく、内部は狭隘であった。特に「九四式三十七粍戦車砲」は、本車より大型であった「九五式軽戦車」にも装備された戦車砲であり、より狭い砲塔内で操作を行う為に、各種の配慮が成されていた。

砲塔は車体上部に搭載され、車体正面から見てやや左に位置していた。戦車砲は砲塔内右側に装備され、砲身が車体の中心線上に来る様になっていた。その結果、砲塔内の戦車砲左側に空間が確保され、ここに射手(兼車長)が位置した。
機関銃(「九七式車載重機関銃」)を装備した砲塔も同様の配置であった。

砲塔の旋回・固定はハンドルよって行い、旋回用ハンドル・駐転機は砲塔内左側に装備されていた。砲塔内右後方(戦車砲右斜後ろ)には砲弾架(砲弾ラック)が装備されていた。
戦車砲の操作は、砲架左側に装備された肩当てを押す事で行った。また、戦車砲左側には照準眼鏡・引き金が装備されていた。

「九七式軽装甲車」 砲塔上部にはハッチが設けられ、射手(兼車長)の出入りに使用された。このハッチは上部に膨らみを持った形状をしており、射手(兼車長)の頭部・機関銃の弾倉部との干渉を避ける様になっていた。上部のハッチに必要最小限の膨らみを持たせる事で、車体の全高を低くする事が出来た。
砲塔側面の左右・後部には手旗用・観察用の小さなハッチ(展望窓)が設けられた。

砲塔上部のハッチと砲塔左側面・後部の小さなハッチ(展望窓)にはピストルポートが設けられ、本車に接近する敵歩兵に備えた。

本車の装甲は、車体が前面12mm・側面10mm・後面8mm・上面6mm・下面4mmであり、砲塔が前面12mm・側面10mm・後面10mm・上面6mmであった。

装甲板の厚みは「九四式軽装甲車」から大きな変更は無いものの、本車の車体形状は被弾経始を考慮して曲面が多用されていた。

即ち、車体前方は、前端(車体最前方)の曲面から緩やかな傾斜が始まり、傾斜面上には突起物を排除していた。車体前方左側の操縦席は、操縦手の上半身を覆うように曲面状の装甲板が張り出していた。車体側面の装甲板も傾斜を持っていた。
結果、「九四式軽装甲車」と比較して小銃弾・機関銃弾に対する耐弾性が向上した。

本車の操縦席は、車体前面左側に位置していた。
日本軍装軌式(キャタピラ)車両の多くは操縦席が車体前面右側に位置していたが、本車の場合はその逆であった。これは、砲塔内左側(戦車砲・機関銃の左側)に位置する射手(兼車長)と車体前面左側に位置する操縦手の意思疎通を容易にする為であった。

「九七式軽装甲車」 操縦席には前面・左面に小さなハッチ(展望窓)が設けられた。戦闘中は敵弾が飛び込む為、この小さなハッチ(展望窓)は閉じられれた。その際は、これらハッチと操縦席右面に設けられていた覗視孔(車外観察用の横に細長い穴・スリット)から車外を観察した。

九四式軽装甲車」では、これら覗視孔(車外観察用の横に細長い穴・スリット)に防弾ガラスが装備されておらず、隙間から進入した銃弾の破片等によって乗員が眼を負傷する事があった。本車では覗視孔(車外観察用の横に細長い穴・スリット)に防弾ガラスが装備され、乗員を保護した。

車内は、「九四式軽装甲車」では車体前方に配置されていたエンジンを、車体後方に配置し、戦闘室・操縦席とエンジン室との間に仕切りを設けた。

結果、エンジン室が広くなり、より大きなエンジンを搭載する事が出来た。操縦席と戦闘室が近くなった事によって操縦手と射手(兼車長)との意思疎通が容易になった。戦闘室もより広くなり、戦闘時の動作が容易になった。戦闘室の左右には砲弾架(砲弾ラック)が装備された。
更に、エンジンの騒音・振動・熱気の乗員への影響が少なくなった。

「九七式軽装甲車」 本車の懸架装置(サスペンション)は、基本的には「改修九四式軽装甲車(後期改修型)」と同様の形式を採用した。右写真によって、本車の懸架装置(サスペンション)の様子が分かる。(→)

下側中央の転輪4個は、転輪2個×2組となっており、転輪2個(1組)はハの字型のアームでシーソー式に連結(ボギー式転輪)されていた。ボギー式転輪1組(転輪2個)に取り付けた曲柄(サスアーム)が、これら転輪4個(2組)のすぐ上部の筒状の覆いに伸びていた。この筒状の覆いの中には横置コイル・スプリングが設置され、曲柄(サスアーム)は、この横置コイル・スプリングの両端に連結されていた。
ボギー式転輪1組(転輪2個)のシーソーの動き(上下の動き)が横置コイル・スプリングに伝えられて衝撃を吸収する仕組みとなっていた。

誘導輪(後部転輪)も、「改修九四式軽装甲車(後期改修型)」と同様に大型の転輪を地面に接地させていたが、その他の転輪はスポーク式(穴の開いた転輪)から一体式(穴無し・皿状の転輪)に改められた。

「九七式軽装甲車」九四式軽装甲車」では、履帯(キャタピラ)が外側ガイド式(履帯外側にガイド用の爪がある)為、急旋回時に外れ易かった。そこで、本車の履帯(キャタピラ)は、内側ガイド式(履帯内側にガイド用の爪がある)に改められた。

本車の乗員は2名であった。
1名は操縦席に位置する操縦手、もう1名は砲塔内に位置する射手(兼車長)であった。
乗員が2名の場合、1名が負傷等で戦闘不能になるともう1名が戦闘・操縦をせねばならなかった。また、他の車両と連携をとって戦闘を行う際、射手(兼車長)は、自車の武装の操作・車外の監視・他車への連絡・指揮等を1人で行わねばならなかった。
これは、「九四式軽装甲車」に於いても問題点とされており、実戦に参加した乗員からも乗員を2名から3名に増やす事が要望されていた。

併しながら、乗員を3名にした場合は車体を更に大型化する事になり、口径37mmの「九四式三十七粍戦車砲」を装備する事を考えると、既に昭和10年(1935年)に制式採用されていた「九五式軽戦車」(「九四式三十七粍戦車砲」装備・全備重量7.4t ・乗員3名)と同様な車格の車両になってしまう事が考えられた。

本車は、あくまで小型・軽量で歩兵が運用可能な「豆戦車」「豆タンク」としての開発を目指していた。車格が戦車並になることは本来の開発趣旨から逸れてしまうため、乗員に関しては2名のままにする事が妥当であると判断され、乗員数は変更されなかった。

本車には、一部の車両に無線機(「九四式四号丙無線機」等)が装備されていた。
無線機を装備していない車両での外部との疎通は、従来通り、ハッチから身を乗り出して行うか、砲塔側面に設けられた小さなハッチから手旗を出す事で行われた。

「九七式軽装甲車」の配備・運用

中国大陸での戦闘に参加する「九七式軽装甲車」 本車の生産は、制式採用後の昭和14年(1939年)から開始され、昭和14年(1939年)に217両(一説に274両)、昭和15年(1940年)に284両が生産された。
しかし、昭和15年(1940年)頃になると「豆戦車」「豆タンク」の有用性が薄れてきた事と、主力戦車( 「九七式中戦車」「九七式中戦車改」)の生産が優先された事もあり、昭和16年(1941年)に入ると本車の発注は急減した。昭和16年(1941年)に30両、昭和17年(1942年)に35両で、本車の生産は終了した。総生産数は約570両であった。

本車は、「九四式軽装甲車」の後継車両として、主に捜索連隊に配備された。1個捜索連隊に於ける本車の定数は16両(2個装甲車中隊)であった。

捜索連隊は、歩兵師団で捜索(偵察)・連絡を主任務とした機械化部隊であった。元々は騎兵(師団騎兵)であったが、昭和12年(1937年)頃から騎兵の機械化が実施されており、従来の馬から装甲車・自動車に装備換えが行われていた。それに伴い、歩兵師団の騎兵(師団騎兵)は捜索連隊に改編されていった。

本車は、捜索連隊に配備される一方、戦車連隊(主に連隊本部・中隊本部)にも配備され、捜索(偵察)・連絡の任務にあたった。

実戦に於ける「九七式軽装甲車」

本車の初陣は、昭和14年(1939年)に発生した「ノモンハン事件」であった。

ソ連軍歩兵と「BT-7」 「ノモンハン事件」には、歩兵第二三師団・第一戦車団・が投入され、第一戦車団(指揮官:安岡正臣中将)は戦車第三連隊・戦車第四連隊から編成されていた。
戦車第三連隊には、本車4両・「九七式中戦車」4両が配備され、共に初陣として参加していた。これ以外には戦車が「八九式中戦車」34両・「九五式軽戦車(北満型)」35両、装甲車が「九二式重装甲車」6両・「九四式軽装甲車」15両であった。

ソ連軍・外蒙軍もノモンハン周辺に多数の戦車・装甲車を集結させた。
戦車は「BT-5」「BT-7」「T-26」186両、装甲車は「BA-10」266両であり、日本軍の5倍近い数であった。また、「BT-5」の装甲は車体前面13mm・砲塔全周15mm・防盾15mmであり、「BT-7」「T-26」の装甲は車体前面22mm・砲塔15mmであった。

日本軍は、一部の歩兵・砲兵の活躍によって多数のソ連軍の戦車・装甲車両を撃破したものの、日本軍も多数の戦車・装甲車(本車も含む)を撃破・捕獲され、歩兵もソ連軍の戦車・装甲車や砲兵に圧倒された。
日本軍は大きな損害を出し、「ノモンハン事件」は大敗に終わった。

「ノモンハン事件」は日本軍が始めて経験した本格的な機甲戦闘(戦車戦闘)であった。
日本軍は、多数の戦車(77両)・装甲車(25両)を初めて集中投入したが、それはソ連軍(約460両)の1/5であった。これは、当時の日本とソ連の戦車生産能力の差が歴然としてる事を物語っていた。更に、日本軍は最新鋭の本車や 「九七式中戦車」も戦闘に参加させたが、歩兵支援を主目的として開発された日本軍の戦車・装甲車は、全般的に対戦車戦闘に於ける火力・防御力の不足が目立ち、ソ連軍に苦戦を強いられる結果となった。

「ノモンハン事件」は、敗因を現場の部隊指揮官に責任転嫁する等、十分に戦訓が生かされなかった面もあった。
併しながら、対戦車戦闘に於ける非力さを痛感した日本陸軍では、「九七式中戦車」をより対戦車戦闘に適した型(「九七式中戦車改」)へ改造する研究を行う等、遅ればせながらも対策を講じた。そして、本車に関しても、「豆戦車」「豆タンク」は、将来的に見た場合、最早、装甲車両としての戦力は殆ど期待できない事が明らかとなった。その為、昭和14年(1939年)・昭和15年(1940年)は大量に生産された本車も、昭和16年(1941年)以降は発注が激減、主力戦車であった「九七式中戦車」「九七式中戦車改」の生産が優先された。

歩兵と共に進撃する「九七式軽装甲車」 昭和16年(1941年)12月8日、大東亜戦争開戦と同時に「南方作戦」が開始された。

「南方作戦」には本車も多数が参加した。本車は、装甲車両としての非力さは否めなかったものの、旧来の「豆戦車」「豆タンク」としての利点(機動力・運用のし易さ)を生かして活躍した。

「南方作戦」は、開戦当日(昭和16年12月8日)、歩兵第五師団(師団長:松井太久郎中将)のマレー半島上陸で開始された。陸軍第二五軍による「マレー半島攻略」の幕開けであった。歩兵第五師団はその尖兵としてマレー半島のコタバル・シンゴラ・パタニに上陸した。
この時、歩兵第五師団の捜索第五連隊(連隊長:佐伯静雄中佐)は、歩兵第五師団主力と共にシンゴラ(タイ領)に上陸、直ちに英領マレー・タイ国境へ向けて南下を開始した。

捜索第五連隊は2個装甲車中隊(本車16両)・2個機動歩兵中隊(トラック・自転車)・野砲1門(「九〇式機動野砲」)で編成されていた。

捜索第五連隊は、上陸当日(昭和16年12月8日)、2個歩兵中隊(徒歩・自転車50台)が約70kmを突破した。12月9日、後続の本車・トラックが追いつき、本車を先頭に英領マレー・タイ国境を目指して進撃、12月9日夜までに国境に達した。2個歩兵中隊(徒歩)によって国境に対する威力偵察を行い、12月10日朝、英印軍の国境陣地を占領した。この時、本車3両が失われた。

密林を進撃する「九七式軽装甲車」 英領マレー・タイ国境のすぐ南のジットラには、英軍がマレー半島北部からの日本軍の侵攻に備えて構築した強力な陣地(ジットラ・ライン)があった。このジットラ・ラインには英印軍部隊(インド第11師団、指揮官:D・マレーライオン少将)約6400名が布陣し、日本軍の侵攻に対して約3ヵ月の持久を計画して待ち受けていた。更にその南西20kmには英空軍のアロースター飛行場があった。

マレー半島に上陸した日本軍にとって、ジットラ・ラインの迅速な突破とアロースター飛行場の制圧こそ「マレー半島攻略」の成否を握る鍵であった。

英領マレー・タイ国境の英印軍陣地占領の成功を受け、佐伯連隊長は、第二五軍参謀(辻政信中佐)に対して、より強力な挺身隊を編成し、これによるによるジットラ・ラインへの迅速な進撃・突破の必要性を進言した。その結果、1個戦車中隊(戦車第一連隊第三中隊、「九七式中戦車」10両・「九五式軽戦車」2両)を捜索第五連隊の指揮下にいれ、佐伯挺身隊(1個戦車中隊・2個装甲車中隊・2個歩兵中隊、581名)を編成、ジットラ・ラインの突破を目指すことになった。

昭和16年(1941年)12月10日夜、佐伯挺身隊は戦車(「九七式中戦車」)を先頭に進撃を開始、アースン付近の英印軍陣地に突入した。ここはジットラ・ライン北方の英印軍前衛陣地であり、守備していた英印軍部隊の「ブレンガン・キャリアー」約20両が反撃してきたものの、日本軍戦車(「九七式中戦車」)の攻撃に英印軍部隊は大混乱に陥った。

昭和16年(1941年)12月11日朝、混乱したアースン付近の英印軍部隊はジットラ・ライン主陣地への退却を開始し、勢いに乗じた佐伯挺身隊は更に前進した。そして、斥候による偵察の結果、ジットラ・ライン主陣地を突破可能と判断した。

昭和16年(1941年)12月11日夜、佐伯挺身隊の2個歩兵中隊は、戦車・野砲の支援射撃の下、ジットラ・ライン主陣地への夜襲を開始、陣地西側(英印軍部隊左翼)への浸透を図った。しかし、英印軍部隊の抵抗は激しく、12月12日朝までに陣地の一角を占領したのみであった。

シンガポール市街を走行する「九七式軽装甲車」 そこで、装甲車中隊の本車から車載機関銃(「九七式車載重機関銃」)を降ろして臨時機関銃中隊を編成、これによる支援射撃の下、攻撃が続行された。更に、後続の歩兵第五師団主力もジットラ・ライン主陣地東側(英印軍部隊右翼)への攻撃を行った。この頃、ジットラ・ライン主陣地の英印軍部隊では、北方から退却してきた英印軍部隊の影響で徐々に混乱が広がりつつあった。

ジットラ・ライン主陣地の英印軍部隊は日本軍の攻撃に次第に浮き足立ち、昭和16年(1941年)12月12日夕方、遂に撤退を開始、英軍が3ヶ月の持久を計画した陣地は僅か1日で放棄されてしまった。更に、英印軍部隊は撤退の混乱の中で多くの兵員が捕虜や行方不明になり、火砲・車両など兵器多数を喪失、戦力が大幅に低下した。

佐伯挺身隊は581名中200名近い損害を出したが、10倍以上の兵力(英印軍約6400名)の守備する堅陣ジットラ・ラインを1日で突破し、「マレー半島攻略」の成功に大きな貢献を果たしたのであった。この戦果の陰には、捜索第五連隊の本車16両の活躍があった事は言うまでもない。

「フィリピン諸島攻略」に於いても本車は活躍した。
昭和16年(1941年)12月24日、歩兵第十六師団主力(歩兵第二〇連隊・歩兵第三三連隊・捜索第十六連隊・その他)はフィリピン諸島ルソン島南東部のラモン湾に上陸した。既に、12月22日、歩兵第四八師団主力がフィリピン諸島ルソン島西部のリンガエン湾に上陸していた。

ナウル島で撃破された「九七式軽装甲車」 捜索第十六連隊(連隊長:松田哲人中佐)はラモン湾アチモナンに上陸、2個装甲車中隊(第三中隊・第四中隊、本車10両)はアチモナン・ルセナ間の道路を進撃し、米比軍部隊と遭遇、これを撃退した。更に進撃し、途中の橋に仕掛けられた爆弾を除去、米比軍部隊との交戦を続けた。先頭を進撃した第三中隊長菊間中尉が米比軍部隊の狙撃によって戦死するなのど損害を出しつつも、捜索第十六連隊はタヤバス山系まで進出し、これによって後続の歩兵第十六師団主力の進撃が容易になった。

この様に、大東亜戦争開戦当初、本車は「豆戦車」「豆タンク」としての機動力・運用のし易さ存分に生かして、活躍した。特に「南方作戦」に於いては、戦車等(「九七式中戦車」 「九五式軽戦車」)と共に、常に進撃の先頭を進み、日本陸軍としては数少ない電撃戦実施と成功に大きく貢献した。

併しながら、開戦当初の本車の活躍は、戦局の有利さに起因する所が大きかった。
やがて戦局が悪化するに従い、日本軍は各地で守勢に立たされるようになった。開戦当初の様に、日本軍が大規模な攻勢作戦を行う事はなくなっていた。

その結果、本車は、その最大の武器である機動力を発揮する機会を失っていった。機動力を封じられた本車は、単なる非力な戦闘車両に過ぎなかった。更にこの頃、米軍歩兵は携帯用対戦車火器(バズーカ砲等)で武装し、本車のみならず多くの日本軍装甲車両にとって脅威であった。本車の様な「豆戦車」「豆タンク」を戦闘に使用する事は最早自殺行為に過ぎなくなっていた。 しかし、それでも尚、本車は、苛烈な最前線に於いて日本軍の歩兵と共に戦い続けた。

ビルマで英軍に捕獲された「九七式軽装甲車」 昭和19年(1944年)10月20日、フィリピン諸島レイテ島に来寇した米軍を迎え撃つべく「捷一号作戦」が発動された。日本軍の戦力を集結させた「捷一号作戦」であったが、レイテ島に於ける戦局は悪化の一途を辿り、遂にレイテ島の放棄を決定、ルソン島に於いて決戦を行う事になった。

昭和20年(1945年)1月6日、米軍(米海軍第7艦隊)はルソン島西部リンガエン湾に姿を現し、艦砲射撃を開始した。1月9日、リンガエン湾北部(サン・ファビアン)には米陸軍第1軍団(第37師団・第40師団)が、リンガエン湾南部(リンガエン)には米陸第14軍団(第6師団・第43師団)が上陸を開始した。

これに対して、リンガエン湾で米軍を迎え撃つのは陸軍第十四方面軍(軍司令官:山下奉文中将)指揮下の尚武集団(歩兵第十九師団・歩兵第二三師団・独立混成第五八旅団)であり、やや内陸には戦車第二師団がこれを支援していた。

この時、本車(2個装甲車中隊)を装備した捜索第十六連隊(連隊長:日比知大佐)が、陸軍第十四軍方面軍直轄として尚武集団に配属されていた。
捜索第十六連隊(歩兵第十六師団)は、開戦当初の「フィリピン諸島攻略」に於いて活躍した後、現地の警備に当たるため、歩兵第十六師団主力と共に、フィリピン諸島に駐留していた。

ビルマで英軍に捕獲された「九七式軽装甲車」 歩兵第十六師団主力はフィリピン諸島レイテ島に派遣され、この時までに壊滅的な打撃を受けていたが、捜索第十六連隊はルソン島に残され、内陸のバギオ周辺の守備に当っていた。

日本軍の「フィリピン諸島攻略」から約2年半、捜索第十六連隊はルソン島に於いて再び米軍との相見える事になったが、既にその攻守は逆転していた。

米軍上陸当初(昭和20年1月9日)、捜索第十六連隊はバギオ北方に於いてゲリラ討伐に当っていた。しかし、米軍の侵攻によって歩兵第二三師団の戦闘正面が危険な状態となってきた為、2月3日、捜索第十六連隊は歩兵第二三師団に配属され、これを支援する事になった。
3月10日、米軍はバギオ南方まで進出した。これに対して捜索第十六連隊は急遽南下し、バギオ南東テボ付近の米軍(第126連隊)を攻撃、付近の日本軍部隊の撤退を支援した。更に、3月18日、バギオ西方イリサンの守備を支援する事になり、捜索第十六連隊は1個中隊を先行させ、この方面への転進を開始した。3月22日、捜索第十六連隊主力もイリサンに到着し、北上してくる米軍を攻撃した。

豪州軍に捕獲された「九七式軽装甲車」

併しながら、この時点に於いて戦局は最悪の状態であった。
圧倒的な兵力・火力をもって北上してくる米軍に対して、前線の日本軍将兵は果敢に立ち向ったが、兵力・火力の差は如何ともし難く、日本軍部隊は大きな損害を受け、随所で後退を余儀なくされた。

捜索第十六連隊は、独立混成第五八旅団(歩兵第二三師団の指揮下)と共に北上する米軍に対して防衛戦闘を実施していた。しかし、独立混成第五八旅団の撤退に伴い、遂に捜索第十六連隊もバギオ北方へと撤退する事になった。後退した捜索第十六連隊は歩兵2個大隊(実質的には戦闘力を喪失した部隊)を配属され、バギオ北方21kmのアクト付近に布陣した。

5月20日頃、独立混成第五八旅団の戦闘正面に米軍(第33師団)が進出してきた。捜索第十六連隊も戦車を伴う有力な米軍部隊の攻撃を受け、これに対して反撃を実施して撃退したものの、7月5日、遂に独立混成第五八旅団の戦闘正面が突破された。捜索第十六連隊はアギ山の複廓陣地に後退を開始するが、この時までに多くの兵力を失い、指揮系統も混乱していた。結局、後退することが出来たのは連隊長以下十数名に過ぎなかった。

捜索第十六連隊は、総員709名(戦闘中の補充員も含む)中601名が戦没、生きて再び祖国の土を踏む事が来たのは100名程度であった。本車もほぼ全てが失われた。

本車は、「九四式軽装甲車」を更に発展させた車両であり、「豆戦車」「豆タンク」として非常に完成度の高い洗練された車両であっった。
しかし、「豆戦車」「豆タンク」として優秀ではあっても、連合軍のより強力な戦闘車両の前には、本車は非力な戦闘車両に過ぎなかった。そして、本車は本来なら戦場の裏方として活躍すべきであったが、日本陸軍は、その機甲兵器の不足を補う為に本車を最前線に投入せざるを得なかった。それは、巨人の小人との戦いにも似て、本車とその乗員は灯篭の斧をもって強大な敵に立ち向かった。そしてその多くは再び還らなかった。
併しながら、本車は、かつて各国に於いて一世を風靡した「豆戦車」「豆タンク」を日本陸軍が独自に進化させた、究極の「豆戦車」「豆タンク」であり、また、本車の乗員達、本車の背中に信頼を寄せてその後ろを共に進撃した将兵が、祖国を護ろうとして散っていったと言う事実は、決して忘れられてはならない。

「九七式軽装甲車」の性能

全長3.700m 全幅1.900m 全高:1.790m 最低地上高:0.35m 接地長:2.30m 履帯幅:20.0cm 全備重量:4.75t(自重:4.25t) 接地圧:0.516kg/cm2
登坂能力:最大30度〜34度 超堤能力:62cm 超濠能力:1.6m 渡渉水深:0.8m 回転半径:信地
主武装:「九四式三十七粍戦車砲」(口径:37mm)1門 砲弾:102発 又は 「九七式車載重機関重」(口径:7.7mm)1挺 弾薬:2800発
装甲:車体 前面12mm 側面10mm 後面8mm 上面6mm 下面4mm  砲塔 前面12mm 側面10mm 後面10mm 上面6mm
エンジン:4気筒空冷ディーゼルエンジン 最大出力:65馬力/2300rpm 燃料容量:91リットル 燃費:2.75km/リットル
最大速度:40km/時(路上) 最大航続距離:250km(路上)
乗員:2名(射手兼車長・操縦手)
製造数:約570両 (昭和14年:217両又は274両 昭和15年:284両 昭和16年:30両 昭和17年:35両)

 

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各地に遺される「九七式軽装甲車」

シドニー・キャンベラ・メルボルン

RAAC陸軍戦車博物館(メルボルン)」 (37mm砲載車両 1両)

メルボルンの「九七式軽装甲車」 メルボルンの「九七式軽装甲車」 メルボルンの「九七式軽装甲車」

メルボルンの「九七式軽装甲車」 メルボルンの「九七式軽装甲車」 メルボルンの「九七式軽装甲車」

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