水上機母艦「瑞穂」

水上機母艦「瑞穂(みずほ)」

「瑞穂」について  ・「瑞穂」の要目  ・「瑞穂」の艦歴  ・参考文献

「瑞穂」について

水上機母艦「瑞穂(みずほ)」は、大東亜戦争に於ける日本海軍の水上機母艦である。

水上機母艦「瑞穂」 昭和8年(1933年)に策定された第二次補充計画(A計画)に於いて、3隻の水上機母艦が計画された。この内2隻が「水上機母艦甲」と呼称され、後の千歳型水上機母艦(「千歳」「千代田」)となり、残り1隻は「水上機母艦乙」と呼称され、後の水上機母艦「瑞穂」となった。
これら3隻は、平時には水上機母艦や高速給油艦として運用するが、戦時には急速な改装によって甲標的母艦として運用できる様に設計されていた。これは、当時は「甲標的(特殊潜航艇)」の存在は最高度の機密であり、その母艦となる事を秘匿する為であった。
「水上機母艦甲」「水上機母艦乙」共に、艦形はほぼ同じで、兵装・装備にも大きな差は無かったが、最大の違いは、「水上機母艦甲」の機関がタービンエンジンとディーゼルエンジンの混載であったのに対し、「水上機母艦乙」の機関がディーゼルエンジンのみであった事である。これは、「水上機母艦乙」の建造目的として、艦船用ディーゼルエンジンの実験艦としての役割があったからである。当時のディーゼルエンジンは、燃費や経済性に優れ、機関に関する艤装を簡素化できる利点があった反面、速力はタービンエンジンに劣り、信頼性が低くて故障が多いという問題点があった。

「瑞穂」は、昭和12年(1937年)5月1日に兵庫県の川崎重工神戸造船所で起工され、昭和13年(1938年)5月16日に進水し、昭和14年(1939年)2月25日に竣工した。

水上機母艦「瑞穂」 機関にディーゼルエンジンを採用した「瑞穂」の外見上の特徴は煙突が無いことである。これは、タービンエンジン搭載艦と違って缶(ボイラー)を持たず、缶からの排煙の必要が無い為である。結果、機関に関する艤装を簡素化できた。タービンエンジンとディーゼルエンジンを搭載したほぼ同艦形の「千歳」「千代田」との識別は、この煙突の有無で判断する事が出来る。
併しながら、当時の艦船用ディーゼルエンジンは重量に対して出力が低く、竣工当初は設計上の速力(22ノット)未満の18ノットしか出す事ができず、更に、故障も頻発した。そして、その修理と改修の為に2年近くを要した。この時、昭和12年(1937年) 月 日に起工した戦艦「大和」の建造が進められており、当初は機関にタービンエンジンとディーゼルエンジンの混載を予定していたが、「瑞穂」に於けるディーゼルエンジン運用実績を鑑み、機関を全てタービンエンジンに変更する事が決定された。

「瑞穂」の機関に一応の目処がついた頃には昭和16年(1941年)になっており、同年12月8日に大東亜戦争が開戦した。「瑞穂」は、大東亜戦争に於いては、陸軍の南方作戦に協力し、フィリピン諸島や蘭印(オランダ領インドネシア)の攻略を支援した。
その後、、南方作戦が一段落した昭17年(1942年)3月〜4月、神奈川県の横須賀海軍工廠に於いて機関の改修を受けた。これによってほぼ所要の性能を発揮できるようになった矢先、瀬戸内海西部柱島泊地への回航中に、米海軍潜水艦「ドラム」の雷撃を受けてあえなく沈没してしまった。

時に昭和17年(1942年)5月2日04時16分、場所は本州南方の御前崎沖の北緯34度26分・東経138度14分、「瑞穂」と運命を共にしたのは101名(士官7名・下士官兵94名)であった。
尚、厳密な区分での軍艦には駆逐艦や輸送船は含まれない為、「瑞穂」は、大東亜戦争で沈没した最初の軍艦となった。

戦跡の歩き方TOP」へ戻る>> 「大東亜戦争兵器」へ戻る>> 「日本海軍」へ戻る

「瑞穂」の要目

<竣工時:昭和14年(1939年)>

基準排水量:10929トン
公試排水量:12150トン
全長: m 水線長:183.6m 全幅:18.8m 喫水:7.08m(公試)
主機:艦本式一一号八型ディーゼルエンジン4基
出力:15200馬力
燃料:1200トン(重油)・3348トン(補給用重油)
最大速力:22ノット(計画)
航続距離:16ノット・8000海里
搭載機数:常用機24機・補用8機 (九四式水上偵察機)
射出機:呉式二号五型射出機4基
兵装:12.7センチ連装高角砲3基6門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
    25ミリ連装高角機銃10基20挺 (九六式二十五粍高角機銃
乗員:689名

参考文献
「瑞穂」の艦歴

昭和12年(1937年)5月1日:川崎重工神戸造船所(兵庫県)で起工。
昭和13年(1938年)5月16日:川崎重工神戸造船所(兵庫県)で進水。
                  艤装員長として青木泰二郎大佐が着任。
昭和14年(1939年)2月25日:川崎重工神戸造船所(兵庫県)で竣工。
                  佐世保鎮守府籍に編入。
                  初代艦長として青木泰二郎大佐が着任。
                  第四艦隊付属となる。
昭和14年(1939年)3月2日:佐世保軍港(長崎県)を出港。北支にて警備任務に従事。
昭和14年(1939年)3月12日:第四艦隊旗艦となる。
昭和14年(1939年)11月15日:2代目艦長として蒲瀬和足大佐が着任。
                   第三遣支艦隊第十二戦隊に編入。
昭和15年(1940年)2月5日:予備艦となる。呉海軍工廠(広島県)で主機を換装。
昭和15年(1940年)5月21日:横須賀海軍工廠(神奈川県)に入渠。
昭和15年(1940年)5月25日:横須賀海軍工廠(神奈川県)を出渠。
昭和15年(1940年)6月1日:連合艦隊付属となる。
昭和15年(1940年)8月25日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和15年(1940年)9月7日:トラック泊地に入港。
昭和15年(1940年)9月15日:トラック泊地を出航。
昭和15年(1940年)9月22日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和15年(1940年)10月15日:3代目艦長として澄川道男大佐が着任。
昭和15年(1940年)11月15日:第一艦隊第七航空戦隊に編入。
昭和15年(1940年)11月26日:横須賀海軍工廠(神奈川県)に入渠。
昭和15年(1940年)12月2日:横須賀海軍工廠(神奈川県)を出渠。
昭和15年(1940年)12月10日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   南支・海南島(中国)・仏印にて作戦行動。
昭和16年(1941年)2月21日:佐世保軍港(長崎県)に入港。
昭和16年(1941年)2月25日:佐世保軍港(長崎県)を出港。
昭和16年(1941年)3月3日:馬公(台湾)に入港。
昭和16年(1941年)3月7日:馬公(台湾)を出港。
昭和16年(1941年)3月27日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和16年(1941年)4月10日:第一艦隊属第十一航空戦隊に編入。
昭和16年(1941年)4月27日:横須賀海軍工廠(神奈川県)に入渠。
昭和16年(1941年)5月1日:横須賀海軍工廠(神奈川県)を出渠。
昭和16年(1941年)9月5日:4代目艦長として大熊譲大佐が着任。
昭和16年(1941年)9月20日:横須賀海軍工廠(神奈川県)に入渠。
昭和16年(1941年)10月14日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   瀬戸内海西部柱島泊地に向かう。
昭和16年(1941年)11月24日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和16年(1941年)11月25日:長崎県寺島水道に回航。
昭和16年(1941年)11月27日:長崎県寺島水道を出航。
昭和16年(1941年)12月2日:パラオ泊地に入港。
昭和16年(1941年)12月8日:パラオ泊地を出港。フィリピン諸島方面に向かう。
                  フィリピン諸島南部レガスピー攻略作戦に参加。
昭和16年(1941年)12月17日:フィリピン諸島ルソン島ラモン湾上陸を支援。
昭和16年(1941年)12月29日:パラオ泊地に入港。
昭和16年(1941年)12月31日:パラオ泊地を出港。
昭和17年(1942年)1月9日:セレベス島(インドネシア)メナド攻略作戦に参加。
昭和17年(1942年)1月11日:バンカ島(インドネシア)に入港。
昭和17年(1942年)1月21日:バンカ島(インドネシア)を出航。
昭和17年(1942年)1月24日:セレベス島(インドネシア)ケンダリー攻略作戦に参加。
昭和17年(1942年)1月29日:アンボン島(インドネシア)アンボン攻略作戦に参加。
昭和17年(1942年)2月6日:セレベス島(インドネシア)スターリング湾を出航。
昭和17年(1942年)2月7日:ジャワ島(インドネシア)マカッサル攻略作戦に参加。
昭和17年(1942年)2月12日:セレベス島(インドネシア)スターリング湾に入港。
昭和17年(1942年)2月17日:セレベス島(インドネシア)スターリング湾を出航。
昭和17年(1942年)2月25日:ジャワ島(インドネシア)スラバヤ攻略作戦に参加。
昭和17年(1942年)3月1日:スラバヤ沖海戦に参加。
                  カリマタ海峡(インドネシア)で米駆逐艦「ポープ」を爆撃。
昭和17年(1942年)3月6日:セレベス島(インドネシア)スターリング湾に入港。
昭和17年(1942年)3月9日:セレベス島(インドネシア)スターリング湾を出航。
昭和17年(1942年)3月14日:ジャワ島(インドネシア)マカッサルに入港。
昭和17年(1942年)3月16日:ジャワ島(インドネシア)マカッサルを出港。
昭和17年(1942年)3月19日:フィリピン諸島南部ダバオに入港。
昭和17年(1942年)3月22日:フィリピン諸島南部ダバオを出港。
昭和17年(1942年)3月28日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和17年(1942年)3月29日:横須賀海軍工廠(神奈川県)に入渠。
昭和17年(1942年)4月2日:横須賀海軍工廠(神奈川県)を出渠。
昭和17年(1942年)5月1日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                 瀬戸内海西部柱島泊地に向かう。
                 米潜水艦の雷撃によ魚雷1本被雷。
昭和17年(1942年)5月2日:本州南方の御前崎沖で沈没。
昭和17年(1942年)5月20日:艦籍を除籍される。

戦跡の歩き方TOP」へ戻る>> 「大東亜戦争兵器」へ戻る>> 「日本海軍」へ戻る

Copyright(C)悠久の沙羅双樹
inserted by FC2 system