三十式銃剣(30式銃剣)

「三十式銃剣(30式銃剣)」

「三十式銃剣(30式銃剣)」とは

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「三十式銃剣(30式銃剣)」とは

「三十式銃剣(30式銃剣)」は明治後半(日露戦争)から第一次世界戦、支那事変、大東亜戦争全期間を通じて使用さた日本陸軍の銃剣である。

銃剣とは

銃剣とは、小銃などの小火器に装着して使用する刀剣を指す。
主として、歩兵や騎兵の近接戦闘(白兵戦)に於いて槍・長刀の様に相手を刺突する目的で使用する。他に、儀礼用・警備用・威嚇用に使用する場合もある。

銃剣の起こりは、17世紀にフランス農村バイヨンヌでの農民同士の抗争から偶然生まれた。興奮した農民の1人が小銃(マスケット銃)の銃口にナイフを差し、槍の様に振り回したという。以降、銃剣は発祥の地に因んでバヨネット(bayonet) と呼ばれるようになった。
当時の小銃は先込め式の単発銃であり、1発撃つと次弾の装填に時間がかかった。その為、銃兵(小銃を扱う兵士)は、長い槍を持った騎兵の突撃に対して脆弱であり、槍兵(槍を扱う兵士)の護衛を必要とした。しかし、小銃に銃剣を装着すれば、これを槍として接近戦等に使用することも出来、銃手は槍を専門に扱う槍兵の護衛を必要としなくなった。これにより、槍兵は廃止され、ほぼ全ての歩兵が銃兵となった。結果、銃剣は各国の陸軍に急速に普及した。

銃剣の形状には、小銃への取り付け部がソケット形状になった槍型(銃槍)と、一般的なナイフ・短剣の形状をした剣型とがあった。初期には槍型も多数見られたが、後に剣型が主流となった。剣型の銃剣の多くは、小銃から取り外せばナイフ・短剣としても使用でき、兵士が腰に吊るすなどして携帯した。
銃剣の登場によって、着剣(銃剣を装着)した小銃を持った歩兵(銃兵)による突撃も行われるようになり、槍を装備した騎兵の突撃と共に、陸上戦闘の新しい戦術が生まれた。20世紀初頭(1900年代初頭)までの戦争では、歩兵や騎兵による突撃は戦場の趨勢を左右する重要な戦闘行動であった。

併しながら、やがて銃剣も衰退していった。
大正3年(1914年)7月28日〜大正7年(1918年)11月11日に渡って行われた第一次世界大戦では機関銃が大量に使用された。従来通りの密集隊形で突撃する歩兵や騎兵は、数挺の機関銃に行く手を阻まれ、次々となぎ倒され、甚大な損害を出すようになった。機関銃の登場によって、騎兵は戦場の主役から引きずり下ろされ、戦場に於いて大規模な突撃行動が行われる事は無くなっていった。騎兵の存在価値が無くなると、元々、歩兵が騎兵に対抗する兵器であった銃剣もその存在価値が薄れていった。

20世紀前半(1930年代)以降には、突撃行動が戦場の趨勢を左右するという状況は無くなり、銃剣も陸上戦闘の主要兵器では無くなった。併しながら、歩兵のはあらゆる地形に進出して戦闘行動を行う為、歩兵同士の予期しない接近戦が発生する場合も多々あった。その為、騎兵が事実上廃止され、大規模な突撃行動が見られなくなった後も、銃剣が各国陸軍から完全に廃止される事は無く、各種自動小火器が登場・発達した後も、歩兵による銃剣を使用した白兵戦(接近格闘戦)の訓練は続けられている。

「三十年式銃剣」の開発

「三十年式銃剣」 明治中期〜後期にかけて、日本陸軍では小銃の発達と共に幾つかの銃剣を開発・装備していた。
以下にこれら銃剣の性能を示すと、明治13年(1880年)〜明治22年(1889年)の10年弱の間に、様々な長さ・重さの銃剣が開発されていた事が分かる。それぞれの生産数は、その用途の小銃の生産数の約半分と推定されている。

「十三年式銃剣」:全長710mm・剣長570mm・重量790g (明治13年・1880年)
「十八年式銃剣」:全長580mm・剣長460mm・重量560g (明治18年・1885年)
「二十二年式銃剣」:前期 全長350mm・剣長280mm
             後期 全長370mm・剣長280mm  (明治22年・1889年)                            

明治30年(1897年)、日本陸軍では、それまで装備していた「村田銃」に替わって「三十年式歩兵銃」を採用した。

この時、それまでの「村田式両刃銃剣」のに替わる「三十年式歩兵銃」用の銃剣として、「三十年式歩兵銃剣」が採用された。
設計に於いては、当時の日本人の平均身長の兵士が、騎兵の腹部を十分に刺突出来る長さとして、全長512mm・剣長400mmとされた。
明治40年(1907年)、本銃剣は「三十年式銃剣」と改称された。

「三十年式銃剣」の特徴

本銃剣の特徴は、刀身が日本の刀剣形状と同じく片刃になっていた事であった。

「三十年式銃剣」 諸外国の銃剣の殆どは、両刃やスパイク形状であった。片刃の銃剣は、第一次大戦期に於いて、英国の一部の銃剣(1907年型銃剣)・インドの銃剣に見られる程度であった。
英国の一部の銃剣(1907年型銃剣)に関しては、本銃剣と鍔(つば)や刀身の形状等の全体的な形状が酷似している為、英国に輸出された本銃剣をコピーしたと考えられる。併しながら、本銃剣以前の「村田銃」用の銃剣(「村田式両刃銃剣」)は両刃であり、これは逆に諸外国の銃剣に影響を受けたと考えられ、各国に於いて、銃剣の形状は互いに影響を受けていたと考えられる。

「三十年式銃剣」 刀身には彫溝(血走り・血抜き)が彫られており、当初は白磨きの仕上げが施されていた。 材質は、ゾーリンゲン鋼又は陸軍刀剣鋼を用いていた。刃は刀身の先端から190mmまでであった。
昭和14年(1939年)頃から、夜戦時の反射防止の為に刀身に黒染めを施すようになった。以後製造された本銃剣は全て黒染めの刀身であった。尚、刀身に黒染めが施されると、本銃剣は兵士から「ゴボウ剣」と呼ばれるようになった。
本来の刀身は非常に良い仕上げであったが、大東亜戦争末期に製造された本銃剣は、製造工程簡素化の為、彫溝(血走り・血抜き)の無い刀身も製造された。

鍔(つば)は、上部(龍頭)に丸い穴(銃身通し穴)が空いており、小銃に装着する際はこの穴(銃身通し穴)に銃身を通した。
下部(龍尾)はかぎ状(フック状)になっていた。本銃剣以前の「十三年式銃剣」(村田式両刃銃剣・明治13年・1880年)の鍔(つば)の下部(龍尾)もかぎ状(フック状)になっていた。これは、同時期(1866年〜1900年初頭)のフランスの銃剣の影響を受けたと考えられ、かぎ状(フック状)の鍔(つば)は、白兵戦に於いて相手のサーベルを受け止める事が出来る形状であった。このかぎ状(フック状)の形状は、初期に製造された鍔(つば)は角が丸く、後に製造された鍔(つば)は角張っていた。
昭和14年(1939年)頃から製造された本銃剣は、製造工程簡素化の為、鍔(つば)の下部のかぎ状(フック状)の形状を廃止して直線的な形状に変更された。

柄(つか)には、端(柄頭)に小銃に装着する為の銃剣止め溝・止金があり、製造番号が刻印されていた。形状は、初期に製造された柄(つか)は丸みを帯びている(Bird's Head 型)が、後に製造された柄(つか)は角張っていた。更に後になると、製造工程簡素化の為、丸みが無い単純に角張った形状になった。
柄(つか)は、両側から柄木(つかぎ)と呼ばれる木で挟まれ、2ヶ所のネジ(柄木小ネジ)で固定された。ネジ(柄木小ネジ)は必要に応じて外す事が出来、柄木(つかぎ)の交換が可能であった。昭和14年(1939年)頃から製造された本銃剣は、製造工程簡素化の為、柄木(つかぎ)の固定がリベット(カシメ)に変更され、取り外し出来なくなった。

鞘(さや)は鉄製で、内部には本銃剣を保持する為の板ばねが装備され、表面は黒く塗装されていた。
こじり(鞘の先端)は当初は丸かったが、後に円筒形になった。
鯉口(こじりの反対側)の側に鞘止めがネジで固定されており、剣差しの鞘止め帯(小さなベルト)を鞘止めに通し、鞘止め帯(小さなベルト)の尾錠(止め金具)で固定した。 鯉口(こじりの反対側)・鞘留めの形状は、当初は丸みを帯びた状だったが、製造工程簡素化の為、後に製造された鞘(さや)では角張った形状であった。
また、大東亜戦争末期になると資材不足から木製・竹製・皮製・ゴム製の鞘(さや)も製造された。

剣差しは厚めの牛革を2枚合せて造られており、鞘止め帯(小さなベルト)が装備されていた。
鞘(さや)を鞘止め帯(小さなベルト)で剣差しに固定し、剣差しを皮帯(ベルト)に通して腰に巻き、左腰に本銃剣を吊るした。
大東亜戦争後半になると、ゴム引きキャンバス製の剣差しも製造された。

「三十年式銃剣」の運用

本銃剣は「三十年式歩兵銃」を初め、「三八式歩兵銃」「九九式小銃」などに装着された。

「九九式軽機関銃」 日本陸軍では小銃だけではなく軽機関銃にも着剣装置を装備し、本銃剣を装着した。

これは、満州事変(昭和6年)以降、戦闘の形式が小隊規模から分隊規模へと細分化したことで、各分隊に1挺の軽機関銃が配備され、軽機関銃は分隊の歩兵に常に随伴する事になった。結果、軽機関銃は突撃行動を含む歩兵と同様の戦闘行動をとるようになった。

突撃行動では、歩兵は着剣した小銃を携帯して突撃したが、通常、敵から発見される事を防ぐ為、突撃時には射撃行わない事とされており、着剣した小銃からは弾薬を抜いていた。
この様な突撃行動に参加する軽機関銃の銃手にも同様の事が求められたが、軽機関銃から弾薬(弾倉)を抜いた場合、無防備になってしまい、軽機関銃にも銃剣の装着が必要だと考えられたのではないだろうか。その結果、着剣装置が装備されたと思われる。

その結果、昭和11年(1936年・皇紀2996年)制式採用の「九六式軽機関銃」以降、昭和14年(1939年・皇紀2999年)制式採用の「九九式軽機関銃」など、日本陸軍の軽機関銃には着剣装置が装備され、本銃剣の装着が可能であった。
併しながら、これら軽機関銃は重量が10kg近くあり、軽機関銃に本銃剣を装着して白兵戦で使用する事は困難であった。実際に着剣した軽機関銃で刺突を行うような状況は殆ど無かったと考えられ、日本陸軍が軽機関銃に着剣装置を装備した事は、白兵戦における運用と言う点では疑問視せざるを得なかった。

これ以外に、軽機関銃に本銃剣を装着して射撃を行った場合、本銃剣がバラストとなって射撃時の銃口のぶれが抑えられ、命中精度が向上したという。だたし、本銃剣を射撃時のバラストとして運用する事は、当初から想定されていた訳ではなく、前線での兵士が独自に行っていたと考えられる。

実戦に於ける「三十年式銃剣」

「三十年式銃剣」の性能

重量:690g 全長:512mm 剣長:400mm
製造数:約890万振(〜昭和20年)

 

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各地に遺される「三十年式銃剣」


香港

港海防博物館」 (1振)

香港海防博物館の「三十年式銃剣」 香港海防博物館の「三十年式銃剣」 香港海防博物館の「三十年式銃剣」

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