一式機動四十七粍速射砲(1式機動47mm速射砲)

「一式機動四十七粍速射砲(1式機動47mm速射砲)」

「一式機動四十七粍速射砲(1式機動47mm速射砲)」とは

各地に遺される「一式機動四十七粍速射砲(1式機動47mm速射砲)」はこちら

「一式機動四十七粍速射砲(1式機動47mm速射砲)」とは

「一式機動四十七粍速射砲(1式機動47mm速射砲)」は大東亜戦争全期間を通して使用された日本陸軍の「速射砲(対戦車砲)」である。

日本陸軍には「対戦車砲」という名称は存在せず、「対戦車砲」に該当する砲を「速射砲」と呼称していた。これは、対戦車能力の秘匿の為とも、攻勢主義の陸軍が「対戦車」という防御的な用語を嫌ったためとも言われている。

「一式機動四十七粍速射砲」 そもそも「速射砲」とは、19世紀後半、それまで毎分1発程度だった発射速度を、駐退機の発明・閉鎖機の改良などによって毎分10〜15発へと飛躍的に向上させた砲の事を指していた。やがて殆どの砲に駐退機が装備されるようになると、事実上全ての砲が「速射砲」となり、発射速度の早い砲を「速射砲」と呼ぶ意義は薄れてきた。
替わって、通常の砲よりも砲弾の初速を特に高速化した砲を「速射砲」と呼ぶ事が多くなった。砲弾の初速を高速化すると言う事は、砲弾の貫通能力を向上させることに他ならず、この様な砲は相手の装甲を貫通する事を目的とした砲、即ち「対戦車砲」を指すようになった。「対戦車砲」は装甲された車両と対峙して戦闘する為、必然的に砲弾の初速の速さのみならず、発射速度の早さも要求される。その意味に於いては、嘗て速射性(発射速度の速さ)によって「速射砲」と呼ばれていた頃の名残を残している。

「一式機動四十七粍速射砲」 昭和9年(1934年)、日本陸軍は「九四式三十七粍砲」を正式採用し、主力「速射砲」として歩兵連隊に配備していた。「九四式三十七粍砲」は口径37mmであり、当時の世界各国の「対戦車砲」と比較しても特に遜色のあるものではなかった。実際、昭和14年(1939年)の「ノモンハン事件」に於いては、ソ連戦車隊の主力(「BT戦車」「T-26軽戦車」等)に対して相応の戦果を挙げた。

併しながら、戦車の装甲と対戦車兵器との競争は兵器の開発に於いて常であり、日本陸軍でも「九四式三十七粍砲」の貫徹能力を向上すべく、より口径の大きな「速射砲」の開発を進めた。

昭和12年(1937年)、「試製九七式四十七粍速射砲」として試作を開始した「速射砲」は、口径47mm、砲身長2515mm、初速730m/秒、放列重量567kgであり、昭和13年(1938年)3月に試作完成した。10月に人力・馬匹による牽引試験を行い、11月に弾道試験等の各種審査が実施された。昭和14年(1939年)3月には、馬匹牽引から機械牽引に設計変更が成された。これは砲架に懸架装置(サスペンション)を設け、車輪を鉄製のものからゴムタイヤに変更する事で、牽引車(装甲車・トラック等)による牽引を可能としたものであった。10月、実用試験を行い機械牽引の資料を収集した。
この「試製九七式四十七粍速射砲」は次期「速射砲」設計の基礎となった。

「一式機動四十七粍速射砲」 日本陸軍は、先の「ノモンハン事件」の結果、今後予想される対戦車戦闘に於いてより強力な「速射砲」の必要性を認め、昭和14年(1939年)9月、「試製九七式四十七粍速射砲」を基にして新型「速射砲」の開発を開始した。
昭和16年(1941年)7月に「試製一式機動四十七粍速射砲」として試作完成し、応急整備着手準備に入った。昭和17年(1942年)5月には制式上申が成され、「一式機動四十七粍速射砲」として制式採用された。

本砲は「九四式三十七粍砲」同様、開脚式の砲架を備えていたが、本砲の最大の特徴は、これまでの「九四式三十七粍速射砲」が馬匹牽引だったのに対し、「試製九七式四十七粍速射砲」で研究された車両牽引(機械牽引)を前提にしている事であった。即ち、車輪にはパンクレスタイヤ(ゴムタイヤ)を用い、砲架と車輪の取付部には懸架装置(サスペンション)を備え、牽引車(装甲運搬車・トラック等)を用いて移動した。名称の「機動」とは本砲が車両牽引(機械牽引)である事をを表していた。
また、「一式」は試作完成の「昭和16年(1941年)=皇紀2601年」の下2桁を取った。 

本砲には、「九四式三十七粍砲」同様に榴弾も用意され、非装甲目標に対して攻撃する事も可能であった。

「九七式中戦車改」「一式中戦車」に搭載された「一式四十七粍戦車砲」は本砲の車載型であった。「一式四十七粍戦車砲」は本砲と同じ砲弾を使用したが、戦車の砲塔内で使用する為に後座長を短くする必要があり、砲身が短く(「一式四十七粍戦車砲」:48口径・「一式機動四十七粍速射砲」:53.7口径)なっていた。結果、「一式四十七粍戦車砲」は本砲に比べて貫徹能力が若干低くなっていた。

本砲の配備は大東亜戦争後半に開始され、独立速射砲大隊を編成した。これは、従来の「九四式三十七粍砲」は馬匹牽引であり、歩兵連隊で運用可能だったが、車両牽引(機械牽引)となった本砲の運用には車両が必要になった為であった。1個大隊は大隊本部・段列・3個ヶ中隊から成り、各中隊には本砲4〜6門が配備された。「独立」とは軍直属の部隊である事を表していた。一部の部隊は本砲の配備の遅れから「九四式三十七粍砲」を併用していた。

「一式機動四十七粍速射砲」 大東亜戦争緒戦の「南方作戦」に於いて遭遇した連合軍の「M3軽戦車(スチュアート)」に対して、 「九五式軽戦車」 「九七式中戦車」や「九四式三十七粍砲」は苦戦していたが、本砲は射撃試験に於いて「M3軽戦車(スチュアート)」を1000mの距離から撃破可能であり、大いに期待された。
併しながら、本砲が部隊に配備された大東亜戦争後半以降、連合軍は「M4中戦車(シャーマン)」の配備を開始していた。本砲の貫徹能力では、「M4中戦車(シャーマン)」に対しては至近距離からの側面・後面への射撃以外、撃破は困難であった。日本軍による本砲の配備を知った連合軍は、「M3軽戦車(スチュアート)」では損害を蒙る為、「M4中戦車(シャーマン)」の配備を急いだとも言われている。

本砲は日本陸軍の主力「速射砲」として大東亜戦争末期の島嶼防衛に於いても使用された。日本軍は、本砲を厳重に擬装した壕や半地下式の陣地に秘匿し、接近する「M4中戦車(シャーマン)」を待ち伏せ、側面・後面などの装甲の薄い箇所への射撃に徹した。結果、多数の「M4中戦車(シャーマン)」を撃破し、大いに効果を挙げた。
特に、昭和20年(1945年)4月19日、 沖縄本島の 「嘉数高台」付近の戦闘に於いては、本砲を装備した独立速射砲第二二大隊と歩兵・砲兵が協力した結果、攻撃してきた米軍の「M4中戦車(シャーマン)」30両中、実に22両を撃破するという戦果を挙げた。

全備重量:800kg 口径:47mm 砲身長:2526.5mm(53.7口径) 初速:830 m/s 最大射程距離:6900m
発射速度:10〜15発/分(実用) 10前後発/分(移動目標) 3〜7発/分(極寒状態) 20発/分(最大)
貫徹能力(弾着角90°):70mm(至近距離) 200m:65mm(第一種防弾鋼板)・50mm(第二種防弾鋼板) 1000m:50mm(第一種防弾鋼板)・30mm(第二種防弾鋼板)
布設所要時間:陣地進入から初弾発射まで40秒〜1分20秒
俯仰角:-11〜+18度 水平射角:58度 薬室:半自動式水平鎖栓式
使用弾種:徹甲弾(一式徹甲弾)・榴弾
製造数:約2300門

戦跡の歩き方TOP」へ戻る>> 「大東亜戦争兵器」へ戻る>> 「日本陸軍」へ戻る

各地に遺される「一式機動四十七粍速射砲」


グアム島

アデラップ岬付近の民家の庭」 (1門)

グアム島の「一式機動四十七粍速射砲」 グアム島の「一式機動四十七粍速射砲」 グアム島の「一式機動四十七粍速射砲」

太平洋戦争博物館」 (2門)

グアム島の「一式機動四十七粍速射砲」 グアム島の「一式機動四十七粍速射砲」 グアム島の「一式機動四十七粍速射砲」

グアム島の「一式機動四十七粍速射砲」 グアム島の「一式機動四十七粍速射砲」 グアム島の「一式機動四十七粍速射砲」

サイパン島

オレアイ海岸」 (2門)

サイパン島の「一式機動四十七粍速射砲」 サイパン島の「一式機動四十七粍速射砲」 サイパン島の「一式機動四十七粍速射砲」

サイパン島の「一式機動四十七粍速射砲」 サイパン島の「一式機動四十七粍速射砲」 サイパン島の「一式機動四十七粍速射砲」

サイパン国際空周辺」(1門)

サイパン島の「一式機動四十七粍速射砲」 サイパン島の「一式機動四十七粍速射砲」 サイパン島の「一式機動四十七粍速射砲」

オアフ島

太平洋航空博物館」 (1門)

オアフ島の「一式機動四十七粍速射砲」 オアフ島の「一式機動四十七粍速射砲」 オアフ島の「一式機動四十七粍速射砲」

米陸軍博物館(US Army Museum)」 (1門)

オアフ島の「一式機動四十七粍速射砲」 オアフ島の「一式機動四十七粍速射砲」 オアフ島の「一式機動四十七粍速射砲」

戦跡の歩き方TOP」へ戻る>> 「大東亜戦争兵器」へ戻る>> 「日本陸軍」へ戻る

Copyright(C)悠久の沙羅双樹
inserted by FC2 system