映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六」のレビューと時代背景  映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六」(DVD・Blu-ray)の紹介

映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六」のレビューと時代背景

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「聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実」は山本五十六という人物の考え方に焦点を当て、日本がどういう戦争を戦ったかを描いた映画である。ストーリーはほぼ史実に沿った内容となっている。一部に架空の人物や新聞社が登場するが、これらは当時の世論や名も無き現場の隊員を代表させたものである。

支那事変から終戦までを2時間という限られた時間の中に収めるため、一つひとつの世相や戦闘は駆け足で描写されている、といった感想である。本ページでは映画だけでは分かりにくい時代背景を解説した。なお、ドキュメンタリーに近い作りなので史実を理解してから見るほうがより理解が深まって楽しめるが、史実をあまり知らない人で映画を物語として楽しみたい人にとっては若干ネタバレとなってしまう部分もあるので注意。

映画の概要
イントロダクション
山本五十六の経歴
支那(シナ)事変
日独伊三国同盟締結と対日石油禁輸
開戦前夜
真珠湾攻撃
ドーリットル空襲とミッドウェイ島攻略
ミッドウェイ海戦
長官機撃墜事件(海軍甲事件)
山本五十六の願い
劇中でのエピソード
関連項目

映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実」の概要
イントロダクション

山本五十六

それは、どこか今とよく似た時代だった・・・

約70年前、日本は、国内の不況、アメリカや中国との摩擦によって世間には閉塞感がみなぎっていた。一般大衆はそのはけ口を求め、対外強硬論(戦争)やヨーロッパで台頭するドイツやイタリアとの三国同盟締結による事態解決を望むようになっていく。そして、マスコミ(新聞)は部数獲得の為に一般大衆に迎合、その大衆を煽って、ますます強硬論を盛り上げていく。

しかし、その様な雰囲気の中でも世界を冷静に見つめている軍人がいた。山本五十六、戊辰戦争に敗れて賊軍とされた新潟県長岡市に生まれ、海軍兵学校を卒業して日露戦争に従軍、その後は海軍の要職を歴任すると共に、欧米各国を視察して世界を知り、更に、登場間も無い航空機の優位性に着目した海軍軍人である。

昭和14年(1939年)、折りしも国内では、新聞に煽られた一般大衆やソ連へのけん制を狙う陸軍が、日本・ドイツ・イタリアの軍事同盟、所謂、三国同盟締結を強く推進していた。しかし、海軍次官だった山本五十六中将は、同盟締結は必ずアメリカを刺激して戦争の原因となり、国力に劣る日本がアメリカと戦争をすれば国が滅びるとして断固として反対していた。

山本五十六

昭和14年(1939年)9月1日、ドイツは突如ポーランドに侵攻、ヨーロッパを舞台に第二次世界大戦が勃発した。ヨーロッパで連戦連勝を続けるドイツに幻惑された日本国内では再び三国同盟締結の世論が沸き起こり、昭和15年(1940年)9月27日、遂に日独伊三国同盟が締結された。

日本は、国内では新聞各社と一般大衆による世論と、国外からはアメリカによる圧力とによって、遂に開戦を決意、戦争による事態打開を目指す事になった。しかし、誰もこの戦争には確固たる見通しは無く、ヨーロッパに於けるドイツ軍の勝利にかすかな希望を託した、先行きが全く見えない中での開戦であった。

そして、アメリカとの戦争に於いて、日本海軍聯合艦隊を率いる事になったのが、山本五十六聯合艦隊司令長官であった。自らが最も反対した対米戦争、その矢面に立つことになったのである。そして、山本長官には1つの悲壮な決意があった。それは、アメリカと戦争をする以上、緒戦で大勝を収め、短期間で戦争を終結に導く、即ち早期講和、これしか日本が生き残る道は無いという信念だった。

刺し違える覚悟で敵戦力を撃滅しなければならない。今、山本長官の乾坤一擲の作戦が始まろうとしていた。

山本五十六の経歴

山本五十六

山本五十六(役所広司)は明治17年(1884年)4月4日、長岡藩の儒学者高野貞吉の六男として生まれた。五十六の名前は、父の貞吉が当時56歳であったことに由来する。貞吉はその父の七左衛門と共に戊辰戦争に従軍し、七左衛門は長岡城下で戦死し、貞吉は負傷するも生還した。五十六が人生訓としていた「常在戦場」「米百表の精神」は長岡藩の河井継之助の思想である。五十六の生家(高野家)は昭和20年(1945年)の米軍の空襲で焼失したが、新潟県山本記念公園に復元されている。

高野五十六(当時)は旧制長岡中学校から明治34年(1901年)に海軍兵学校に入学し、明治37年(1904年)に卒業して海軍少尉候補生となった。明治38年(1905年)に日露戦争に出征し、日本海海戦に参加した。この時、ロシア軍艦からの砲弾の破片が当たり、左手と右足に重傷を負って、左手の指2本を失った。新潟県如是蔵博物館には山本五十六が日本海海戦で負傷したときの軍服や中将のときに天皇陛下から下賜された義指などが展示されている。

山本五十六は明治44年(1911年)に海軍大学校乙種学生を192名中11番で卒業したが、このとき首席で卒業したのが堀悌吉(坂東三津五郎)だった。堀とは海軍大学校時代に親友となり、山本五十六の思想に大きな影響を与えた。映画でもたびたびこの2人が語り合ったり手紙をやり取りする場面がでてくる。

山本五十六

堀は米英との戦争は避けるべきと考えており、軍務局長であった昭和5年(1930年)のロンドン軍縮条約において米英と不利な条件でも妥結すべき、とする条約派であった。しかし、海軍軍備の拡張を主張する艦隊派の勢力が強くなると、堀は予備役に編入されてしまった。また、山本五十六の「フリート・イン・ビーイング」という思想は堀の影響が強いとされている。「フリート・イン・ビーイング」とは「艦隊現存主義」のことであり、艦隊が戦わずに存在していることこそが相手への抑止となる、という考え方である。

海軍大学校卒業後は海軍砲術学校と海軍経理学校の教官となり、同僚の米内光政(柄本明)と盟友となった。また、のちにこの2人とともに日独伊三国同盟に反対し「海軍条約派三羽鴉」と呼ばれることになる井上成美(柳葉敏郎)はこのときに山本五十六に生徒として教わっている。山本五十六が遺した「やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、 ほめてやらねば人は動かじ」は人を育てる名言として有名である。

大正6年(1917年)、友人から紹介された三橋礼子(映画では原田美枝子演じる禮子)に一目惚れし、8月に結婚した。男子2人、女子2人をもうけた。なお、長男は父の影響で海軍に入ったが、戦地に行く前に終戦を迎えることになる。大正8年(1919年)、少佐時代にハーバード大学に駐在員・語学将校として語学留学し、ボストンで約2年間暮らした。大正12年(1923年)には9ヶ月間イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、アメリカを欧米視察出張も体験している。

山本五十六

大正13年(1924年)に帰国すると霞ヶ浦航空隊の教頭となった。零式艦上戦闘機(零戦)搭乗員の牧野幸一(五十嵐隼人)は架空の人物であるが、霞ヶ浦時代の山本五十六の部下という設定である。このとき山本五十六は航空の部署に配属されたのは初めてだったが、戦艦が海戦の勝敗を決めるという当時の軍事学の常識が航空機の登場によって過去のものになりつつあることに気付く。当時の花形であった砲術から、まだ登場間もない航空へと希望を出して転科し、日本海軍航空隊の発展に尽力することとなる。

大正15年(1926年)1月、大佐となった山本五十六は駐米武官としてワシントンの日本大使館付武官として昭和3年(1928年)初頭まで勤務を続けた。このとき米国の国力の大きさを肌で感じた山本五十六は「デトロイトの自動車産業とテキサスの油田を見ただけでも、日本の実力でアメリカ相手の建艦競争などやれるものではない」と言っている。

山本五十六は実体験によって日本と米国の国力の差を身をもって感じ、視野の広い国際感覚を養っていた。また、その卓越した先見性によって、来るべき戦争は国を挙げての総力戦になると予期し、そうなれば日本本土が空襲に遭い戦禍に見舞われることにもなりかねないと危惧していた。だからこそ軍人でありながら最後まで戦争に反対し続けたのである。

支那(シナ)事変

山本五十六

昭和初期、第1次世界大戦で欧州産業が打撃を受けたために日本の輸出は好調であったが、欧州が復興するにつれて質が良くなかった日本製品は売れなくなってしまった。日本は雇用不安と所得格差に苦しみ、総理大臣は次々と短期間で交代を繰り返していた。不況を脱するために中国大陸における権益を拡大しようとした日本は、昭和12年(1937年)に盧溝橋事件から支那事変へ戦線を拡大させた。

日本の新聞は日露戦争まではその多くが戦争反対の立場だった。しかし、戦争が近づくほど戦争反対の新聞は売れなくなり、その立場を戦争賛成に転換していった。勇ましい論調で戦争を煽れば売り上げが伸びたのである。信濃毎日新聞などのごく少数の反戦論調の社以外の大手、すなわち東京日日(現毎日)、朝日、時事新報(現産経)、読売は全て戦争賛成に回った。国民は戦争賛成の論調を求めて新聞を買い、新聞は戦争賛成の論調を書くことによって世論を形成していった。

映画の東京日報は架空の新聞社であるが、これら大手新聞各社がモデルになっていると思われる。これら各社の無責任な報道姿勢は、草野嗣朗編集長(益岡徹)が戦争を部数拡張の機会として檄を飛ばすシーンや、宗像景清主幹(香川照之)が社説で国民を煽り立てるシーンによって描かれている。

山本五十六

支那事変当時の中国は兵士の数こそ多かったものの近代化が大きく遅れており、戦闘は始終日本軍側が優勢であった。しかし、日本の中国大陸における勢力拡大は、同じく中国大陸での権益を狙う米英にとって目障りであった。米英は中国に武器や軍需物資を支援し、これを元に中国は戦争を継続していたのである。

中国を支援する米英と対抗するために、ドイツ・イタリアとの同盟締結に期待が寄せられた。連日のように対米強硬論を主張する新聞各社や、アメリカの高まる外交的圧力や排日移民法に反発する一般大衆の勢いは、一向にとどまる所を知らなかった。特に強硬に日独伊三国同盟締結を主張したのは中国大陸で泥沼の戦いをしていた陸軍だった。

しかし、三国同盟に敢然と異を唱えたのが海軍大臣米内光政、海軍次官山本五十六、軍務局長井上成美であった。日本がドイツと結べば、必ずやアメリカとの全面戦争になるからであった。唯一同盟締結に反対を続ける海軍に対し、巷では激しい非難が巻き起こったが、山本らの努力により三国同盟問題は棚上げとなった。

これには、ドイツがソ連と独ソ不可侵条約を結んだことも影響した。ドイツが仮想敵国であるソ連を攻撃しないなら、三国同盟は日本にとってメリットが少なくなってしまうのである。

山本五十六

映画の陸軍部隊が海軍省に向けて銃を構えて威嚇するシーンはさすがに創作であると思われるが、これは当時の陸海軍の同盟に対する考え方の対立を端的に表現したものである。

昭和14年(1939年)の阿部内閣発足すると、山本五十六は米内海軍大臣に引き続き海軍次官の職を望んだ。しかし、山本五十六の身を心配していた米内海軍大臣は8月31日「連合艦隊司令長官」に任命し安全な旗艦「長門」に着任させた。陸軍を初めとする三国同盟賛成派は山本五十六のイメージを悪化させるプロパガンダを展開し、暗殺の風評を流していたためである。なお、井上成美は第四艦隊(支那方面艦隊)司令長官に着任した。

昭和14年(1939年)、アドルフ・ヒトラー率いるナチス国防軍が突如ポーランドに進攻し、第二次世界大戦が勃発した。ドイツは瞬く間にオランダ、フランスを降伏させ、その矛先はイギリスに向かっていた。これらの国は無資源国の日本にとって喉から手が出るほど欲しい資源を産出する蘭印(インドネシア)や仏印(ベトナム)、英領マレー(マレーシア)を植民地としていた。これらの植民地を奪う絶好のチャンスと見た新聞社は「バスに乗り遅れるな」というスローガンを使って世論を三国同盟締結賛成に誘導した。また、ドイツが独ソ不可侵条約を破棄して日本の仮想敵国のソ連に侵攻したことも同盟への追い風となった。

日独伊三国同盟締結と対日石油禁輸

山本五十六

そしてその流れに抗しきれず、海軍大臣及川古志郎は従来の方針を改め、同盟締結に賛成してしまう。昭和15年(1940年)9月27日、日独伊三国軍事同盟がついに締結される。新聞各社や一般大衆は三国同盟締結を歓迎し、ヨーロッパでのドイツ軍の戦果に酔いしれていた。

日本にとっては米英と戦争すること自体はメリットがほとんどなかったが、中国との戦争に勝利するためには米英の支援を遮断する必要があった。昭和16年(1941年)、日本軍は軍需物資の支援ルートになっていた仏印(フランス領インドシナ)に進駐した。

これを契機に、アメリカは対日経済制裁を発動、日本に対する石油や鉄の輸出を停止した。重要な資源をアメリカからの輸入に頼っていた日本はこの経済制裁によって大打撃を受けた。山本五十六の予想通り、日本とアメリカとの関係は更に悪化してしまったのである。

日米交渉が開始され、外交による事態打開を図るも、アメリカは、日本が権益を持つ満州(中国東北部)からの全面撤退等、それまでに注ぎ込んだ莫大な戦費と戦死者を考えると絶対に日本が受諾出来ない内容の通告(所謂「ハル・ノート」)を、それを承知で提示した。これは即ち、アメリカもまた日本との戦争を望んでいた事を意味していた。

山本五十六

新聞社では日米の国力差の分析などはなされず、国民が10倍の国力差があったことを理解していたとは言い難い。また、同様に10倍の国力差があると言われた日露戦争に勝利したことも国民の冷静な判断を奪う要因となった。日露戦争当時、ロシアでは革命が起きたために総力戦にならなかったために、日本はかろうじて勝利できたのである。

映画の小料理屋「志津」では、酔客が「戦争によって景気が良くなる」として対米開戦に賛成するシーンがあるが、これは当時の一般的な日本人の戦争に関する考え方だったであろう。古くは蒙古襲来から、日清、日露戦争、満州事変に至るまで、日本は外国に負けたことはなく、また日本国内が外国軍との戦場になったことはなかったのである。

つまり、日本国民にとって、戦争とは海外でやるものであり、日常生活の頭上から爆弾が降ってくるものではなかった。甥を支那事変で失った女将の谷口志津(瀬戸朝香)に代表されるように、戦争の悲惨さを実感していたのは国民のごく一部だったようである。

軍部、マスコミ、知識人、不況を脱したいという「世論」、その全てが混然一体となって日本は対米英開戦への坂を転がり落ちていくのである。

開戦前夜

山本五十六

およそ40万人の将兵を預かる連合艦隊司令長官山本五十六は、対米戦回避を願う自らの信念と、それとは裏腹に、日一日と戦争へと向かいつつある時代の流れのずれに苦悩し続けていた。開戦は不可避、開戦しても勝つことはほとんど不可能、といった状態で山本五十六が導き出した答えが真珠湾攻撃だった。それは戦争に勝つためではなく、一刻も早く戦争を終わらせるための、苦渋に満ちた作戦だった。

昭和16年(1941年)当時の主要艦保有数では、日本海軍が戦艦10隻、正規空母6隻、軽空母3隻に対し、太平洋方面の米海軍は戦艦8隻、正規空母3隻、軽空母0隻であり、日本側が優勢であった。ただし、日本海軍の保有数は長期間に渡って国の予算を多く軍事費に割いて建造を進めてきた結果である。

アメリカの工業力は日本をはるかに凌いでおり、いざ建艦競争になれば勝ち目がないのは明白であった。実際、開戦後に竣工した数を見ると、日本が戦艦2隻、正規空母9隻、軽空母9隻(他艦種からの改装を含む)に対し、アメリカは戦艦10隻、正規空母22隻、軽空母に至っては93隻と圧倒的であり、工業力に圧倒的な差があったことが分かる。しかし、石油を自給できない日本の石油備蓄量はわずか半年分であった。米英と開戦しないという選択は、半年後に石油が尽き、現時点で優勢な海軍が戦わずして動けなくなることを意味していた。

山本五十六

真珠湾攻撃は空母機動部隊の航空兵力でアメリカ太平洋艦隊が停泊するハワイを奇襲し、大打撃を与えて敵の戦意をくじいて講和に持ち込む構想だった。これは、登場まもない航空機の集中運用という世界の戦史に類を見ない前代未聞の作戦だった。

開戦3ヶ月前に行われた図上演習(シミュレーション)では、米軍の戦艦5隻、空母2隻の撃沈破と引き換えに、日本の保有する正規空母4隻全て(2隻は建造中)が全滅する結果となった。軍令部総長永野修身(伊武雅刀)はこの結果に危惧し、また、石油資源を狙った南方作戦に割く空母がなくなることから、この作戦はあまりに投機的であるとして反対した。しかし、日米の国力の差が大きく、開戦劈頭の一撃に賭ける他ないと考えた山本五十六は作戦の実施を強く主張した。

なお、山本五十六はギャンブル好きであったことが知られており、欧米視察中にフランスのモナコのカジノであまりに勝ちすぎて出入り禁止になった逸話がある。山本五十六はカードゲームも好み、愛用していたトランプが新潟県山本五十六記念館に残されている。この性格が世紀の大博打を実行に持ち込んだ一つの要因だったのかも知れない。

真珠湾攻撃

山本五十六

この山本五十六の着想を具体的な攻撃計画として立案したのが黒島亀人参謀(椎名桔平)である。この作戦には二つの問題点があった。1つ目は航続距離の問題だった。当初案では航続距離が短い蒼龍・飛龍は不参加とされていたが、これでは攻撃力が不十分だった。黒島参謀は例年荒れる冬の北太平洋上での燃料補給問題の解決に心血を注ぎ、全6隻参加案を立案した。

2つ目の問題は、真珠湾の水深が12mと浅く、魚雷による攻撃ができないことだった。魚雷は攻撃機から投下されたのち、一旦50mほど沈んでから調停深度に浮上してくる仕組みとなっていたため、水深が浅いと投下後に海底に刺さってしまうのである。これに対し、航空技術廠は投下後の走行安定性を高めた愛甲魚雷を開発し、また航空隊は真珠湾と地形の似た鹿児島湾において超低空からの魚雷投下訓練を行った。これらにより魚雷投下後の沈下は10m以下となった。

こうして2つの問題はクリアされた。黒島参謀は永野軍令部総長に、「ハワイ作戦が認められなければ山本五十六は連合艦隊司令長官を辞するとおっしゃっている」と強く迫り、ついに作戦を認めさせた。

山本五十六

なお、映画では山本五十六は真珠湾内に特殊潜航艇を潜入させて雷撃させる案を「九死に一生ならよいが十死はだめだ」と言って却下している。しかし実際は、その後に隊員回収の一応の目処がついた、としてこの案を許可している。

ハワイへ向かう第一航空艦隊司令長官は南雲忠一(中原丈雄)であった。南雲長官は艦隊派で、軍令部課長時代に山本五十六が高く評価していた条約派の堀悌吉を予備役に追いやっており、若干の確執があったようである。映画では、山本五十六の夕食の誘いを南雲長官が断るシーンなどで2人の間の微妙な空気感が描かれている。

運命の昭和16年(1941年)12月8日早朝、南雲長官率いる6隻の空母から発進した350機の日本軍機は午前7時50分頃真珠湾に到達した。米軍機の迎撃は全くなく、攻撃は完全に奇襲となった。

九七式艦上攻撃機(九七艦攻)から投下された魚雷と800kg爆弾は真珠湾に停泊していた戦艦群に次々と命中した。九九式艦上爆撃機(九九艦爆)はオアフ島の各飛行場を急降下爆撃し、米軍機は離陸できないまま破壊されていった。また、わずかに離陸できた米軍機も、零式艦上戦闘機(零戦)によってほとんどが撃墜された。

山本五十六

なお、映画では日本軍機同士は無線で通信しているが、当時の日本軍の航空機搭載用無線機は性能が悪く、実際は翼を振ったり手信号や信号弾で連絡を取っていた。奇襲が成功すれば雷撃隊から、気付かれて強襲するときは急降下爆撃隊から攻撃する作戦であったが、信号弾での意思疎通がうまくいかなかったために双方が同時に攻撃を開始する、というハプニングが起きている。

攻撃の結果、米軍は戦艦5隻が沈没、2隻が中大破、1隻が小破、その他10隻が沈没ないし損傷した。航空機は479機が破壊された。一方、日本軍空母は全て無傷で引き揚げ、航空機は29機が未帰還となった。映画では零戦搭乗員の佐伯隆(磯井将大)が未帰還となっている。

米太平洋艦隊の戦艦群はわずか数時間でほとんどが行動不能となり、この戦果は国民を熱狂させた。「志津」の常連客のダンサーの神埼芳江(田中麗奈)が、真珠湾攻撃を報じる新聞を見て大喜びするシーンは、当時の国民感情を代表させたものであろう。

山本五十六

現在、ハワイ諸島オアフ島の真珠湾には戦艦アリゾナが撃沈された状態のまま保存されており、その上に追悼施設戦艦アリゾナ記念館が建てられている。付属の資料館には不発のまま引き揚げられた愛甲魚雷が展示されている。また、ヒッカム空軍基地内には機銃掃射の弾痕が壁一面に遺されている司令部がある。ワイキキの米陸軍博物館には撃墜された日本軍機の残骸が展示されている。

国が大戦果に沸く中、山本五十六はこの一見大成功に見えた真珠湾攻撃が実は失敗であったことを理解していた。戦艦同士の海戦は過去のものとなりつつあり、空母こそが今後の戦いの主役であることに気付いていたからである。このとき撃ち洩らした米空母に日本軍は悩まされることとなる。なお、米軍が空母を真珠湾に配置していなかったのは、攻撃を受ける可能性を考えて退避していた訳ではなく、たまたま訓練航海や航空機輸送任務に従事していたためであり、これは運命のいたずらであった。

また、山本五十六は攻撃前に宣戦布告が必ず行われるように念押ししていたが、これは日本大使館の不手際で攻撃の一時間後となってしまった。当時は戦争前に宣戦布告をしないことも多かったが、この件はアメリカ側に喧伝されてアメリカ国民の戦意を煽るのに利用されてしまったことも、講和に持ち込みたい山本五十六にとっては不本意だった。なお、真珠湾攻撃の詳細はこちらを参照。

ドーリットル空襲とミッドウェイ島攻略

山本五十六

真珠湾攻撃後、米軍は攻撃を免れた空母機動部隊をもって中部太平洋方面で一撃離脱の奇襲作戦を行っていた。さらに昭和17年(1942年)4月18日には機動部隊を日本近海に肉薄させてドーリットル空襲を敢行し、大本営と国民に衝撃を与えた。これは、空母からは本来離陸できない陸軍爆撃機「B-25(ミッチェル)」を極限まで軽量化することによって空母から16機を発進させ、航続距離の長さを生かして東京を爆撃したのち中国方面へ退避したのである。

「敵機動部隊を残すということは房総沖に敵の飛行場があるようなものだ」という危惧は現実のものとなった。米軍の本土空襲を防ぎ、アメリカの戦意を挫いて講和に持ち込むためには、米機動部隊を撃滅することが必要と山本五十六は強く感じるようになる。

そのために立案されたのがミッドウェイ作戦であった。ミッドウェイ島は米太平洋艦隊の本拠地であるハワイ諸島の目と鼻の先にあり、これを占領すれば米軍が全力で奪回しようとするのは明白であった。ここで米空母を捕捉撃滅しようとしたのである。しかし、この作戦は米軍側に見破られていた。この時期、連戦連勝であった日本軍の中には気の緩みが生じていたようである。真珠湾攻撃のときは計画は徹底的に秘匿されていたが、ミッドウェイ攻略のときは海軍基地のある呉の芸者までもが攻撃目標を知っていたと言われている。

山本五十六

当時の米軍は日本軍の暗号を全て解読できていた訳ではなく、情報統制の甘さが米軍側の暗号解読につながった面は否定できない。これは映画の東京日報社内の会議で、真珠湾攻撃のときは海軍から全く情報を教えてもらえなかったのに、ミッドウェイ島攻略のときは情報が色々入ってきた、というシーンによって描かれている。

映画で宇垣纏参謀長(中村育二)が「敵空母が出てきても恐れるに足らん」と敵を見くびる発言を山本五十六にたしなめられて言葉に詰まるシーンがあるが、宇垣参謀長は過去に三国同盟に反対から賛成に回ったことで当初山本五十六とは不和だったとされている。宇垣参謀長が米空母を軽視した理由は、米空母「ヨークタウン」が1週間前に珊瑚海海戦で被弾して自力航行不能になるほど損傷していたからであった。しかし、米海軍は「ヨークタウン」をハワイに回航して突貫工事でわずか3日で修理し、ミッドウェイ海戦に間に合わせていたのである。

日本軍はミッドウェイ島攻略のために空母4隻、戦艦11隻、その他艦艇多数の大艦隊を派遣した。一方、暗号の解読に成功した米軍は空母3隻と少数の護衛艦を派遣した。映画でクエゼリン方面の日本軍潜水艦が米空母の位置を通報し、大和は受信するが空母赤城は受信できなかったシーンがある。これは史実では大和に乗り込んだ通信班が米空母の呼び出し符号を傍受して方位を測定したものである。しかし、敵に自艦隊の位置を探られないように無線封鎖中であり、赤城も同じく傍受に成功しているものと期待して、大和からの通知は見送られた。

ミッドウェイ海戦

山本五十六

昭和17年(1942年)6月5日07:00(現地時刻)頃、日本軍機動部隊から発進した攻撃隊はミッドウェイ島を空襲した。山本五十六は南雲長官に敵空母出現に備えて、艦上攻撃機の半分は魚雷装備のまま待機するよう命じていた。しかし、ミッドウェイ島攻撃隊が迎撃戦闘機に阻まれて戦果を上げられなかったことから南雲長官に二次攻撃を要請すると、南雲長官は魚雷から陸用爆弾への換装を命じた。

ところが、07:28に索敵機より米空母発見の報が入る。南雲長官は陸用爆弾(撃沈できないが空母甲板を破壊できる)のまま準備の整った機から順次発進させるか、魚雷に換装して戦闘機の護衛も付けて体勢を整えてから発進するか、の選択に迫られた。戦力の逐次投入か集中投入か。南雲長官の決断は後者だった。一方、米軍の取った戦術は前者だった。ミッドウェイ島の陸上爆撃機や米空母の雷撃隊は戦闘機の護衛が不十分なまま日本空母に到達し、直掩の零戦に次々と撃墜されていった。

日本空母の甲板上では、ミッドウェイ島攻撃隊の収容、陸用爆弾から艦船用爆弾・魚雷への再兵装転換とおおわらわとなっていた。米軍の急降下爆撃隊が日本機動部隊上空に到達したのはこのときである。これはまさに最悪のタイミングであった。米軍雷撃機を撃退するために低空に降りていた零戦は上空からの急降下爆撃を阻止できず、赤城・加賀・蒼龍に爆弾が命中し、兵装転換中の爆弾に次々と誘爆して大火災が発生した。

山本五十六

この時、飛龍は他の3隻と離れた位置にいたために攻撃を免れ、第二航空戦隊司令官山口多聞(阿部寛)は航空戦の指揮を執ることを宣言した。山口司令官は準備の整った隊を飛龍から順次発艦させて米空母ヨークタウンを撃沈した。

米空母を攻撃するシーンで、有馬慶二(河原健二)の零戦が米空母の艦橋に突っ込むシーンがあるが、これは九七艦攻が同様に突入しようとして直前で撃墜された史実を元にしたものと思われる。

飛龍もその後攻撃を受け撃沈され、日本艦隊は4隻の空母全てを撃沈された。飛龍が沈むとき、山口長官が形見を渡して艦と運命を共にしたのは史実である。

山本五十六は機動部隊同士の戦いの最中、渡辺安次参謀(映画では吉田栄作演じる三宅義勇作参謀)と将棋をさしていた。空母が撃沈されていく報告を聞きながら、「ほう、またやられたか」とだけ言ったという。指揮官として部下の動揺を拡大しないためにわざとやっていたのかどうかは定かではないが、さすがに将棋を指す手は止まったそうである。

山本五十六

日本艦隊は空母を全て失ったが、戦艦11隻が無傷だった。黒島参謀が夜戦による砲撃戦に持ち込むように進言するが、制空権を失った戦艦が無力なものであるのを理解していた山本五十六は「陛下には私がお詫びする」と言い撤退を決断した。事後処理に冷静な手腕を発揮したのは宇垣参謀長だった。

一般的な戦術論では、戦力は集中投入すべきで逐次投入は下策、とされることが多いが、ミッドウェイ海戦においては逐次投入に軍配が上がった。すなわち、航空機という飛び道具と可燃物を満載した空母は、攻撃力が強大で防御力は脆弱なものだったのである。

海軍はこの敗戦を秘匿し、大本営はミッドウェイ海戦勝利という嘘を発表した。新聞は大本営発表をそのまま報道し、ダンサーの神埼芳江(田中麗奈)が嘘の勝利に熱狂するように、国民は真実を知らないまま戦争を続けていくのである。

なお、ミッドウェイ海戦の詳細はこちらを参照。

長官機撃墜事件(海軍甲事件)

山本五十六

ミッドウェイ海戦後、日米の主戦場はソロモン諸島に移った。日本はハワイ方面から見てオーストラリアの手前にあたるソロモン諸島を押さえることにより、米豪を遮断して米軍の反攻を防ごうとしたのである。しかし、アメリカ側もこれに対応し、ガダルカナル島では日米陸上部隊が死闘を繰り広げ、周辺海域では海戦が頻発した。

ソロモン諸島では連日激しい航空戦が繰り広げられ、消耗戦の様相を呈していた。この消耗戦は航空機の生産能力がアメリカに劣る日本にとっては苦しい戦いだった。開戦以来の熟練搭乗員も次々と戦死し、搭乗員の技量は低下していく。零戦搭乗員の牧野幸一(五十嵐隼士)が本編のストーリーとあまり関係のない空戦で命を落とすシーンは、この熟練搭乗員の消耗を端的に表現しているのである。

ガダルカナル島では一木支隊、川口支隊などが逐次投入されては全滅するなど、多数の戦死者を出していた。昭和18年(1943年)2月についに撤退が決断され、駆逐艦を使った陸上部隊撤収作戦が行われた。映画ではカドクラという指揮官が戦死するが、実際は撤退は米軍に気付かれることなくほぼ成功ししている。

大本営は「転進」、すなわち目的を達成して他方面に進む、という言葉を使って撤退を誤魔化した。東京日報の宗像主幹(香川照之)は負け戦であることに薄々気付きながら、国民の戦意を落とさないことが新聞の使命と考え、大本営発表をそのまま報道し続ける。

山本五十六

実際のところ、この時期の新聞は世論を煽るというより、規制と検閲がかなり厳しくなり軍部の指示通りの報道しかできなくなっていたようである。

ニューギニア島でも日本軍部隊の玉砕が相次ぐ中、日本軍はラバウル周辺に航空兵力を集め、集中運用する「い」号作戦により事態の打開を図った。山本五十六は自ら陣頭指揮を取るべく、トラックからラバウルに進出した。山本五十六はマリアナ諸島まで戦線を縮小して講和する考えを持っていたが、これは海軍としての戦略ではなく個人的に考えていたこと、というレベルだったようである。

ラバウルで宇垣参謀長らが山本五十六の部屋を訪ねて宴会をするシーンがあるが、当初確執のあった2人の関係はこの頃には改善されていたようである。

4月7日から実施された「い」号作戦は一応の成功を収め、山本五十六自らショートランド方面の各前線部隊に視察と激励に行くこととなった。しかし、このときに各部隊に暗号で送られた視察スケジュールは米軍によって解読されていた。

山本五十六

日本軍はこのとき暗号を変更したばかりで、まさか解読されているとは気付いていなかった。それを差し引いても、この空域はまさに最前線で頻繁に航空戦が発生しており、視察がかなり危険なものだったのは、視察に反対した幕僚だけでなく山本五十六自身もよく知っていたはずである。

山本長官の乗った一式陸上攻撃機(一式陸攻)2機と護衛の零戦6機がラバウルを出発し、ブーゲンビル島上空に差し掛かったとき、米陸軍戦闘機P-38(ライトニング)16機の待ち伏せ攻撃を受けた。零戦は必死の護衛でP-38を1機を撃墜するが、P-38の攻撃は一式陸攻に集中した。一式陸攻は2機とも撃墜され、1番機に搭乗していた山本長官以下11名は全員戦死した。また、2番機には宇垣参謀長が搭乗していたが、こちらは重傷を負いつつも一命を取り留めた。

ブーゲンビル島のジャングルに墜落した一式陸上攻撃機は現地守備隊によって発見され、山本五十六の遺体は現地で荼毘に付された。映画では米軍機の機銃が当たって戦死という設定になっているが、実際は山本五十六の遺体は他の搭乗者よりも損傷と腐敗が少なかったことから、墜落後もしばらく生きていたという説があるなど、本当の最期は現在も不明である。

山本五十六

遺骨はトラック諸島に一旦運ばれ、その後戦艦武蔵によって本土へ持ち帰られた。山本五十六の死は1ヶ月以上秘匿され、5月21日の大本営発表で公表され、6月5日に国葬が行われた。国葬委員長は米内光政が勤めた。

撃墜された山元長官機は戦後永らく墜落地点のジャングルに放置されていたが、平成元年(1989年)にパプアニューギニア政府の許可を得て左翼部分と山本五十六が座っていた座席が日本に持ち帰られた。これらは新潟県山本五十六記念館に展示されている。また、オーストラリアキャンベラオーストラリア戦争記念館にも部品の一部が展示されている。

昭和19年(1944年)米内光政が現役復帰して海軍大臣に就任すると、井上成美は海軍次官となった。絶対国防圏は破られ、戦局はもはや絶望的となる中、陸軍を中心として本土決戦が叫ばれ始めていた。このような状況の中、井上次官は終戦工作に奔走し、始めてしまった戦争を終わらせるために尽力した。

終戦後には東京日報が手のひらを返したように民主化を叫ぶなど、無責任なマスコミの姿勢が風刺的に描かれている。

山本五十六の願い

山本五十六

真珠湾攻撃は成功したが、アメリカは戦意を失うことなく「リメンバー・パールハーバー」を合言葉に第二次世界大戦への参戦を決意した。アメリカは広大な国土と豊富な資源と強大な工業力を持ち、一時的に艦艇を失っても数年後には必ず巻き返せる自信があったのである。

そういった意味では山本五十六の賭けは失敗した。戦争で300万人の日本人が死亡し、その9割は山本五十六が死亡した時期以降の死者だった。

戦争回避の努力もむなしく、どうしても戦を起こさなければならなくなった時、山本五十六は決して逃げることなく連合艦隊司令長官の職にあり続けた。その決断力と類稀なリーダーシップで、周囲の反対を押し切って真珠湾攻撃を敢行した。その後も山本五十六は、開戦以来一度もぶれることなく、ただ一つの、明解な目的のために戦った。それは戦争に勝つことではなく一刻も早く戦争を終わらせることであった。

山本五十六は軍人でありながら、平和な時代を実現しようとして戦い続け、そして戦死したのであった。

劇中でのエピソード

映画では、史実や実際の逸話に基づくエピソードが描かれているシーンが幾つかある。以下にそれを紹介する。

芸者遊び

冒頭、海軍省から退庁しようとする米内海軍大臣(柄木明)に対し、山本海軍次官(役所広司)と井上軍務局長(柳葉敏郎)が、妙な所(なじみの芸者がいる料亭)に寄らずに真っ直ぐ帰るようにたしなめるシーンがある。
米内光政は、非常に女性関係が派手で、築地(東京都)の料亭になじみの芸者(愛人)がおり、頻繁に通っていたという。米内大将が海軍大臣であった昭和11年(1936年)2月26日夜に発生した陸軍青年将校のクーデター事件(2.26事件)の際も、料亭に芸者と宿泊しており、翌朝に事件の一報を聞いてあわてて海軍省に駆けつけた。しかし、この時は機転を利かせた井上成美(軍務局長)が万事取り仕切っており、朝9時過ぎに悠々と登庁した米内海軍大臣を見た海軍省職員は、事件に対して動揺していないと勘違いして、むしろ感心したという。
尚、映画では一切描かれていないが、山本五十六も同様に女性関係が派手であった。新橋(東京都)の芸者であった河合千代子とは愛人関係にあり、戦地でも度々手紙のやり取りをしていた。これに対し、井上成美は、芸者遊びや愛人を囲う事には一切興味が無かったようであり、宴会の席で座敷に芸者が大勢来ると、頭から布団をかぶって本を読んでいたという。

堀悌吉

映画の前半、連合艦隊司令長官に就任した山本五十六(役所広司)と堀悌吉(坂東三津五郎)がスイカを食べながら語らうシーンがある。この時の堀は、現役海軍軍人では無く予備役軍人であった。
堀悌吉は、山本五十六と海軍兵学校の同期生であり、以来、親友であった。当時、海軍兵学校への入学は非常に難関であったが、2人とも明治34年(1901年)12月16日、第32期生として入学した。入学時の席次は堀が3位、山本が2位で、2人とも忽ち意気投合し、生涯を通じての親友となった。在校中にはミカンの大食い競争をするなど羽目を外す事もあったという。ミカン大食いのエピソードは映画の2人の会話にも出てくる。明治37年(1904年)、2人は海軍兵学校を卒業、卒業時は堀が1位、山本が11位であった。特に、堀は在学中から非常に優秀であり、将来の海軍を背負って立つ逸材と期待されていた。卒業後の2人は順調に出世し、海軍の要職を歴任していく。しかし、昭和5年(1930年)に締結されたロンドン海軍軍縮条約が堀の運命を変えた。この条約で日本の補助艦艇保有比率はアメリカ・イギリスの約6割とされ、この事に対して国内では大きな非難が巻き起こった。特に海軍内部は、条約に賛成する条約派と反対する艦隊派に分かれて対立、結果、日本は条約を批准する事になったものの、堀を始めとする条約派軍人の多くは、艦隊派から疎まれて予備役へと追いやられてしまった。将来を期待された逸材である堀悌吉を予備役へと追いやった海軍に失望した山本五十六は、自身も辞職を考えたが、堀に諭されて思いとどまったという。しかし、この出来事は海軍内部に禍根として残り、後々まで尾を引く事となる。尚、この時、艦隊派の筆頭として活動したのが、後に第一航空艦隊司令官となる南雲忠一大佐(当時)であった。

軍令部総長と連合艦隊司令長官

映画では、南雲忠一中将(中原丈雄)が、永野修身(伊武雅刀)から直接指示を受け、山本長官(役所広司)とことごとく対立、真珠湾攻撃やミッドウェー海戦に於いて作戦を阻害した要因として描かれている。
真珠湾攻撃やミッドウェー海戦に於いて、山本五十六は連合艦隊司令長官であり、南雲忠一は連合艦隊隷下の第一航空艦隊司令官、そして永野修身は軍令部総長であった。連合艦隊は軍令部の指令によって作戦行動をとる。即ち、編成上、永野総長が山本長官に指令を出し、山本長官が実際の戦闘部隊の指揮官である南雲司令官に指示を出すのである。よって、軍令部総長の永野修身が艦隊司令官の南雲忠一に直接指示をする事はあり得ない。しかし、山本長官と南雲司令官は、用兵上の意見の相違や、嘗ての条約派と艦隊派という思想の違いもあり、あまり折り合いが良くなかったのは事実である。山本五十六は、自分とは馬が合わない人物とは殆ど口をきかなかったそうであり、南雲忠一との意思疎通に円滑を欠いていた事は否定できない。その為、実際に現場で指揮を取る南雲司令官に対して作戦の目的や意図が充分伝わっていなかった可能性はある。併しながら、これに関しては、連合艦隊の最高責任者である山本長官が、職務に個人的な感情を持ち込む事に問題があり、その結果、作戦の遂行に支障をきたした事は、むしろ山本長官がその責めを負うべきであろう。真珠湾攻撃後に第二次攻撃を行わなかった事は、後に、攻撃不徹底という批判を受けたが、当初の目的はあくまで米海軍太平洋艦隊主力、つまり当時の一般的な認識では主力戦艦の撃破が目的であり、それを達成した以上は長居は無用というのも道理である。また、ミッドウェー海戦に於いて、敵機動部隊に対する警戒が甘かった事や作戦目的が南雲司令官に充分に伝わっていなかった事も、作戦を立案した山本長官以下連合艦隊首脳部の責任というべきであり、曖昧な作戦目的や不確実な情報を与えられて現場で指揮を執らざるをえなかった南雲司令官だけに対し作戦失敗の責任を負わせるのは無理がある。尚、南雲忠一中将は、その後、中部太平洋方面艦隊司令官としてマリアナ諸島の防備を担当したが、昭和19年(1944年)6月15日に米軍がマリアナ諸島に侵攻、南雲中将は孤立したサイパン島で陸戦の指揮を執った後、7月5日にサイパン島北部司令部壕にて自決、翌日には守備する日本軍守備隊も玉砕した。

山口多聞

映画では、山本長官(役所広司)のよき理解者の一人として、第一航空艦隊第二航空戦隊司令官の山口多聞(阿部寛)が登場し、その最期には、ミッドウェー海戦で沈み行く空母「飛龍」にただ一人残るシーンがある。
山口多聞(海兵40期)は、山本五十六(海兵32期)の8期後輩にあたる。

モナコのカジノ

映画の中盤、山本長官(役所広司)が空母「赤城」の格納庫で、搭乗員の牧野少尉(五十嵐隼士)に、モナコのカジノの話をするシーンがある。
山本五十六は、大正12年(1923年)6月、中佐時代に井出謙治大将の随員として欧米視察旅行に出かけた。その際に南フランスのモナコに立ち寄った。そして、博打好きだった山本中佐はモナコのカジノでルーレットを何度も大勝してしまい、以後、そのカジノから出入りを断られたという逸話がある。また、これに関して後に、この時の上司であった井出大将に対して、「私をヨーロッパに2年ほど遊ばせてくれれば、戦艦の1隻や2隻を造れるだけの金を稼いできますよ」とうそぶいたという。尚、博打に関する持論として、「私利私欲を挟まず、科学的数学的でなければならない。」と言っていたという。

将棋

映画では、山本長官(役所広司)が三宅参謀(吉田栄作)と度々将棋をさすシーンがある。
山本五十六は、賭け事や博打が非常に好きであったという。艦内でも参謀相手にトランプや麻雀や将棋をする機会が多く、特に、参謀の三和義勇(映画の三宅参謀のモデル)とは良く一緒に将棋をさしていた。

関連項目

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