スタジオジブリ作品映画「風立ちぬ」のあらすじである。 7月4日木曜日に行われた映画「風立ちぬ」の先行試写会の内容を基にした試写会速報である。以下の試写会速報では、映画「風立ちぬ」の結末に関する記述もある為、いわゆるネタバレとなっている。読む場合はその点をご了承されたい。
・映画「風立ちぬ」の原作漫画 紹介 −宮崎駿原作の漫画
・太平洋航空博物館に現存する零戦−ハワイに保存されている零戦の写真など
・堀辰雄記念館の展示品の写真−菜穂子のモデルとなった実在の人物「矢野綾子」の写真など
プロローグ
大正時代の終り頃、とある農村の名家に生まれた少年は大空への憧れを持っていた。彼の夢は、自分で飛行機を設計し、大空を飛ぶことであった。 そんなある日、彼は夢をみる。ある朝、彼は屋敷の屋根に這い上がると、木製の台に据えられた自分の設計した鳥型飛行機に乗りこむ。そしてエンジン始動。バルブがタペットを叩く音も勇ましくエンジンがうなりだし、プロペラが回りだした。彼の鳥型飛行機は大空に飛び立った。
彼は自分で設計した飛行機で空を飛んでいた。鳥そっくりの飛行機は美しい農村の風景の上を飛ぶ。たちまち朝日が彼の鳥型飛行機を照らし出す。地面が流れていく。普段見慣れた町並みの上を飛び、人々が彼の飛行機に手を振る。 と、その時、彼の頭上に巨大な飛行船のような物体が現れる。そしてそれには多数の黒い物がぶら下がっていた。明らかに不吉な雰囲気である。彼はその巨大な物体に挑もうとする。しかし彼は近眼であった。その時、黒い物とそれに乗った魔物が彼の鳥型飛行機を襲う。彼の飛行機は無残に打ち砕かれ、少年は地面に落下していく。
その時、少年は目を覚ました。この近眼の少年の名前は堀越二郎、正義感の強い少年であった。また、堀越少年は空に憧れていた。しかし当時、空を飛ぶ道具である飛行機は黎明期であり、まだまだ未知の分野であった。しかし、彼は学校で洋書の飛行機雑誌を借り、英語の辞書とくみっぴきで読み漁るのだった。堀越少年は自分の世界に集中するあまり、妹加代と遊ぶ約束をすっぽかす程であった。そして、その飛行機雑誌には、当時のイタリアの飛行機設計家ジャンニ・カプローニ伯爵が紹介されていた。
その夜、彼の枕元にカプローニが現れる。カプローニは、堀越少年を自分の設計したイタリア軍の大型爆撃機「Ca-30」に乗せてくれた。時代は第一次世界大戦(大正3年〜大正7年)の終り頃であり、誕生したばかりの飛行機は、この戦争で飛躍的な進化を遂げていた。 カプローニは、堀越少年に「飛行機は戦争や経済の道具ではない。それ自体が美しい夢なのだ」と言う。空は堀越少年の夢であった。近眼の堀越少年は夢に出てきたカプローニに励まされ、自分で飛行機を作る飛行機設計家になろうと決心するのだった。この時、風が立った。
学生時代
堀越二郎少年は成長し、上京して大学で勉強していた。 そんなある日、実家の田舎から東京に向かう列車にのっていた堀越は、一人の少女にであった。侍女と共に列車に乗っていたその少女は、風に飛ばされた堀越二郎の帽子を捕まえる。そして堀越に「Le vent se leve, il faut tenter de vivre.」と言った。フランスの詩人ポール・ヴァレリーの詩「海辺の墓地」の一節、「風が起きた、生きてみなければならない」と言う意味である。後に文学者堀辰夫によって「風立ちぬ、いざ生きめやも」と訳される事になる。
列車は東京に向けて走っていた。やがて東京の町並みが見えてきた。 その時である。突然巨大な波動が走りぬけ、地面が割れ、大地が波を打った。大地震(関東大震災:大正12年9月1日)である。東京の町並みはたちまち破壊され、堀越二郎と少女の乗った列車も急停車、乗客はパニックを起こして逃げ惑う。しかしこの時、少女の侍女が怪我をしてしまった。堀越は侍女を背負って少女と共に避難する。やがて各地で火の手が上がった。堀越は上野にある少女の実家に向かい、少女と侍女を無事に家族の下に届けたのだった。少女の実家は大きな屋敷であり、優しそうな紳士が少女の父親であった。しかし堀越二郎は名も告げずに立ち去っていった。
堀越二郎は本郷にある大学の校舎に向かう。そこにも火の手が迫っており、堀越の同級生である本庄季郎たちが貴重な文献を必死に運び出していた。しかし、努力の甲斐も無く校舎は焼け落ちてしまう。そして地震と火事によって東京の街も灰燼に帰した。 それからしばらく時がたち、東京の町並みは復興に向かう。焼け落ちた大学の校舎も建て直しが進んでいた。堀越二郎は本庄季郎ら同級生と学生生活を続けていた。彼らは皆、航空学科の学生で、未来の飛行機設計家の卵ばかりであり、実に優秀で個性的な面々だった。堀越は食堂で食べたアジの骨の曲線に美しさと数学的性質を感じる程であり、同級生の本庄は時代の矛盾を感じつつも自分達がこの国の未来を背負っているのだという使命感に燃えていた。
そんなある日、東京で下宿生活を送る堀越二郎の許に、実家から妹の加代が訪ねて来た。相変わらず勉強に夢中な堀越に腹を立てる気丈な加代であったが、自分も将来は大学に進んで医者になりたいと話すのだった。
新人技師として
堀越二郎は大学を卒業すると名古屋の飛行機会社(三菱航空機)に技師として就職した。念願かなって飛行機設計家の第一歩を踏み出したのだった。そして堀越と無二の親友である本庄季郎もまた同じ会社であった。名古屋に着いた堀越は会社に向かうが、その途上、町では銀行が取り付け騒ぎを起こしており、巷には失業者があふれていた。国中が不景気のどん底であり、重苦しい空気の立ち込める時代であった。
会社に入った堀越対しに、先輩技師である黒川が命じた仕事は、飛行機の部品の強度計算だった。当時、三菱航空機では陸軍向けの戦闘機(社内呼称:「隼型」)の試作を行っていた。しかし検討の結果、堀越はこの部品の強度に問題があるのではないかと感じていた。堀越は設計者としての優秀な能力を既に発揮し始めていた。 やがて、三菱「隼型」の試験飛行が行われる事になった。当時、三菱航空機の敷地内には十分な広さの滑走路が無く、60km離れた岐阜県各務ヶ原の陸軍飛行場まで時速3kmの牛車で飛行機を運んでいたのだった。本庄はこれを見てあまりの前近代ぶりを嘆くのだった。
そして試験飛行の日がやって来た。 三菱「隼型」は、速度試験を行った後に急降下試験を行った。しかし、急降下中の「隼型」は突然空中分解を起こして墜落、パイロットはパラシュートで脱出して無事だったが、機体は失われた。設計は失敗したのである。陸軍からの採用の望みは無くなり、「隼型」の設計は中止された。当時、飛行機の設計にはまだまだ未知の分野が多く、実際に飛んでみないとわからない事が多数あったのだ。 また、堀越と本庄は、海軍の艦上攻撃機に同乗して航空母艦「鳳翔」への着艦を体験搭乗する機会を得るが、この時もエンジンも不調による事故が多発していた。当時の日本は、飛行機設計の技術力だけではなく、全体的な工業水準が低く、エンジンのトラブルなどは日常茶飯事だったのである。
堀越二郎と本庄季郎は、当時の日本の工業水準の低さや貧困を嘆きつつ、それでも自分達の夢である飛行機の設計に打ち込むことの重要性を再認識するのだった。実際、彼らのような若い優秀な技術者がこの国の未来を背負っていたのである。当時の日本が、無理に無理を重ねて世界の列強に追いつこうと必死だったのと同様、彼ら若い技術者も、世界の技術力に追いつこうとただただ必死だったのだ。 そして、そんな堀越と本庄に対し、会社から外国視察の指示が来た。当時、世界で最先端の技術力をもっていたドイツに行き、ドイツ最大の航空機会社ユンカースを視察するというものだった。堀越二郎にこの視察を命じたのは黒川だった。黒川は若い優秀な技術者である堀越二郎に、会社や国の将来を期待していたのだった。
ドイツでの視察旅行
堀越二郎は、シベリア鉄道を経由してドイツに入った。いよいよ航空大国ドイツの技術を目の当たりに出来るのである。 しかし、堀越以下視察団に対するドイツ人の風当たりは強かった。彼らは日本人が自分達の技術を盗みに来たのではないかと疑っていたのだ。しかし、ユンカース社の創設者フーゴー・ユンカース博士の理解もあり、ユンカース社の誇る大型旅客機「G.38」に搭乗を許された。そこで堀越や本庄は、ドイツの技術力をまざまざと見せ付けられる。当時の日本はドイツなどの先進国と比較して20年は遅れていたのだ。しかし、当時のドイツは第一次世界大戦敗戦による不景気に苦しんでおり、ドイツ国民の生活もまた困窮していた。ドイツ国内には不穏な空気が流れていた。
ドイツでの視察を終えた堀越二郎は、更にアメリカの視察を命じられる。会社は、堀越に世界を見て来させるつもりだったのだ。 そしてその旅路、堀越の夢枕に再びカプローニが現れる。夢の中で堀越とカプローニは、カプローニ社の超大型爆撃機「Ca-90」で空を飛ぶ。それを見た堀越二郎は、自分の国の貧しさや技術力の無さを嘆くのだった。しかし、そんな堀越に対してカプローニは言う。「設計はセンスだ。センスは時代を先駆ける。技術はその後についてくるのだ」と。そして更に「創造的人生の持ち時間は10年だ。芸術家も設計家も同じだ。君の10年を力を尽くして生きなさい。」と言うのだった。
初めての大仕事 「七試艦上戦闘機」
欧米の視察旅行から帰国した堀越二郎を待っていたのは、新しい戦闘機の設計だった。昭和七年度海軍軍用機試作計画(七試計画)に於ける、海軍の艦上戦闘機の試作命令である。会社は新進気鋭の堀越二郎に対し、この飛行機(「七試艦上戦闘機」)の設計主務者(チーフ)を任せたのだった。遂に飛行機設計家としての本格的な大仕事である。堀越は必死に仕事に打ち込み、当時の最先端技術を盛り込んだ設計をしていった。風が立ち始めたのである。
やがて堀越二郎が初めてまとめた飛行機である三菱「七試艦上戦闘機」が完成した。 そして「七試艦戦」の試験飛行が開始される。三菱の整備員によって滑走路に引き出された「七試艦戦」のエンジンがまわされ、テストパイロットが乗り込む。いよいよ堀越の初めての飛行機が飛ぶのだ。果たしてその結果は如何に・・・・。
魔の山にて
堀越二郎は高原保養地にいた。 堀越が美しい森の広がる高原の道を1人で歩いている時だった。道の上の土手では1人の少女が絵を描いていた。突然の風で少女のパラソルが飛ばされた。堀越はそれを必死で捕まえる。それを見て喝采を叫ぶ少女、パラソルを少女と側にいた少女の父親に返した堀越は、宿泊していたホテルに1人で戻っていった。 その夜、堀越は1人で食事をしていた。その横では宿泊していた外国人男性が山のようなクレソンを平らげていた。そこに昼間の少女と父親がやってきた。少女と堀越は互いに会釈を交わす。しかし堀越はどこと無く寂しそうだった。
これより少し前、堀越二郎が初めて設計した飛行機「七試艦上戦闘機」が試験飛行をしていた。だが、それは堀越の見ている目の前で空中分解してしまったのである。明らかに設計の失敗だった。墜落した飛行機の残骸を目の当たりにした堀越は絶望に打ちひしがれる。三菱「七試艦戦」、堀越の設計したアヒルの子は、その生みの親の目の前で死んだのである。そして堀越は、その心の傷を癒す為、1人で軽井沢の避暑地に来ていたのだった。
翌日、堀越二郎は1人で散歩していた。ふと森の木陰に昨日の少女のキャンバスが置かれているのを見つける。森の小道を進んでいくと、少女が1人で泉の前に立っていた。少女は堀越の前で涙ぐむ。心配する堀越に対して少女は、泉に祈った自分の願いが叶ったのだと言う。その願いとは、数年前の大震災で自分達を助けてくれた堀越にまた逢いたいということだった。そう、この少女こそ堀越二郎がかつて列車の中でであった少女、里見菜穂子であったのだ。堀越二郎も菜穂子との思いがけない再会を喜ぶのだった。
2人はホテルに戻る途中に大雨に降られる。迎えに来た父親に、堀越を紹介する菜穂子、父親も堀越二郎を快く迎えてくれた。 その夜、堀越はホテルの喫煙室にいた。そこで例のクレソン好きの外国人と会話をする。彼はドイツ人のカストルプ、ここには1人で避暑に来ているようだったが、どこと無く謎めいた様子だった。カストルプはドイツや日本を取巻く世界情勢を危惧していたが、ここ軽井沢は国に蔓延する暗い雰囲気を忘れさせてくれる場所だと言った。そして、高原の結核療養所を舞台にしたトーマス・マンの小説「魔の山」になぞらえるのだった。
そこに里見菜穂子の父親がやってくる。菜穂子が熱を出して、今夜予定していた堀越二郎との会食は出来なくなったと言うのだ。しかし、菜穂子はただの風邪ではないようだった。その夜、菜穂子の部屋には看護婦があわただしく出入りしていた。堀越は一抹の不安を感じざるを得なかった。
翌日、堀越は気晴らしに紙飛行機を作る。その紙飛行機は翼の形がカモメの羽を逆にした形、つまり逆ガル主翼だった。堀越の作った逆ガルの紙飛行機は風を受けて飛んだ。それはまるで白いとりのようだった。やがて菜穂子が部屋のベランダに姿を現す。 堀越は、菜穂子の元気そうな姿を見て安心する。そして再び紙飛行機をつくって菜穂子のいるベランダめがけて飛ばすのだ。風うけて飛ぶ堀越の紙飛行機、それを夢中で見つめる菜穂子、いつしか2人の間には愛情が芽生え始めていた。そしてカストルプがそれをほほ笑ましく見守っていた。
その夜、堀越二郎は菜穂子の父親、カストルプと一緒に談笑していた。 失意のうちに軽井沢にきた堀越二郎であったが、いつしか明るさを取り戻していた。カストルプはそれは恋をしたからだという。堀越にもそれはわかっていた。そして、堀越は菜穂子の父親に、菜穂子とのお付き合いを認めて欲しいと申し出る。堀越に好感を持っていた父親も、急な申し出に戸惑うばかりであった。しかし、そこに現れた里見菜穂子は、その申し出を受けたいと言った。そして堀越はその場で菜穂子に求婚する。 しかし、菜穂子は自分が死んだ母親と同じ病気、結核である事を堀越に伝える。そして必ず結核を治して堀越と結婚したいと約束するのだった。
夢の飛行機 「九試単座戦闘機」
軽井沢から名古屋に戻った堀越二郎に新しい仕事が来た。前回の七試計画に続いて昭和九年度海軍軍用機試作計画(九試計画)がスタート、三菱には「九試単座戦闘機」の試作命令が来ていたのだ。そしてその設計主務者に選ばれたのが堀越だった。前回の「七試艦戦」は失敗作であったが、その経験を買われての抜擢であった。勿論、堀越も前回の教訓を生かし、今度こそ自分の夢の飛行機を形にしようと意気込んでいた。
ちょうどその頃、本庄季郎もある飛行機を手がけていた。「八試特殊偵察機」、全金属製の双発機である。本庄は堀越より一足先に近代的な飛行機を完成しようとしていた。日本の技術力が次第に欧米列強に追いつこうとしていたのである。
しかしこの頃、国内の情勢は重苦しいものであった。既に昭和6年には満州事変が勃発、昭和8年には日本は国際連盟から脱退しており、日本を取巻く環境は日増しに厳しくなっていった。その様な中、思想に対する取締りも厳しくなっており、堀越二郎の身辺にも特高(特別高等警察)が現れるようになる。 これに対し、堀越は、黒川や上司の服部譲次課長の配慮によってしばらく身を隠す事になった。そんな矢先、堀越の黒川から電話がかかる。堀越宛の電報が来ており、それによると菜穂子が吐血したと言うのだ。結核菌は確実に菜穂子の胸を蝕んでいた。堀越はいてもたってもいられない。とにかく東京の菜穂子の自宅に急ぐのだった。
菜穂子の自宅に駆けつけた堀越は、玄関をショートカットして庭から菜穂子の部屋に直行した。堀越の突然の訪問に驚きつつも喜ぶ菜穂子、2人は口付けを交わして抱き合うのだった。しかし、堀越はまた名古屋に戻らねばならない。もどって自分の夢の飛行機である「九試単戦」を完成させ、それを菜穂子に見せてやりたいと思っていた。 堀越は父親に見送ってもらった。堀越は菜穂子の側にいてやりたいと思ったが、菜穂子の父親は堀越に自分仕事に全力を尽くすように励ますのだった。
名古屋にもどった堀越は、早速設計スタッフを集め、「九試単座戦闘機」の設計を煮詰めていく。 堀越以下の若い技術者達は、アルミ押出し型材や引込脚、表面が平らになる沈頭鋲など、最新鋭の技術を恐れることなく導入していった。そしてその若い力のみなぎる様子を、頼もしく見ていたのは、堀越たちの先輩技師である黒川と、上司の服部譲次課長であった。
二郎と菜穂子の祝言
その頃、里見菜穂子は高原病院にいた。 堀越が訪ねてきてくれた時、必ず病気や病気を治そうと、医師の勧める高原病院での療養を決意したのだった。当時、結核は治癒が非常に困難な病気であった。高原病院での治療は、新鮮な外気をすって肺の治癒力を高める意図があったが、病院は人気の無い寂しい場所にあり、また、外気の寒さにも耐えねばならならい辛い治療だった。
そんな菜穂子の許に堀越二郎から手紙が届く。 それを見た菜穂子はある決心をする。自分に残された時間は少ないだろう。その時間を堀越と共に過ごしたいと。そして菜穂子は病院をでて堀越の許に向かうのだった。
名古屋では堀越二郎が設計作業を進めていた。そこに菜穂子が高原病院をでて名古屋に向かっているという連絡がとどく。堀越は菜穂子を迎えに駅に向かった。 菜穂子は名古屋駅で列車を降りた。堀越も菜穂子を探しに駅に来ていた。駅は大勢の人でごった返していた。その時、雑踏の中にお互いの姿を見つけた二郎と菜穂子は、人ごみを掻き分けながら駆け寄ると互いに抱擁しあうのだった。そして二郎は菜穂子を優しく抱きかかえ、2人で歩き出した。
堀越二郎と菜穂子が向かったのは先輩技師である黒川の家だった。 堀越と菜穂子は、黒川の家の離れに住まわせて欲しいと頼む。黒川は生真面目な性格だった。婚約者とはいえ未婚の男女が同棲することには反対であった。それならばと堀越と菜穂子は、今すぐここで祝言を挙げたい、そして、その仲人を黒川夫妻にお願いしたいと言い出した。あまりに突拍子も無い話であったが、ずっと側で聞いていた黒川夫人は、2人の一途な願いを叶えてやりたいと思い、夫である黒川に対して賛同するよう促した。黒川は、生真面目で仕事には厳しい一面もあったが、堀越を常に暖かく見守っていた。黒川家での2人の祝言の仲人をつとめることを約束してくれたのだった。
菜穂子は、黒川夫人の助けをかりて花嫁衣裳に着替える。準備も時間もままならない事であったが、一輪の花が菜穂子の髪に飾られた。 堀越は、黒川と共に座敷に菜穂子を待った。暫らくして黒川夫人に付き添われた菜穂子が座敷の前に座った。半分あけたふすまかから黒川夫人が花嫁の到着をうやうやしく告げる。これに対し、座敷で堀越と待っていた黒川がうやうやしく返答する。 そして黒川夫人が残り半分のふすまを勢いよく押し開くと、そこには花嫁衣裳姿の菜穂子がいた。堀越は思わず息を呑んだ。それは質素ではあったが可憐な姿であった。
やがて座敷の奥にならんだ2人の前にお神酒が運ばれる。まず菜穂子が杯の半分を受け、そして同じ杯で二郎が残り半分を受けた。二郎と菜穂子は晴れて夫婦となった。質素な祝言であった。そして2人はこの祝言の仲人をつとめてくれた黒川夫妻に深く頭を下げるのであった。
堀越二郎と菜穂子の新居は黒川家の離れであった。 その夜、二郎と菜穂子は床を並べた。菜穂子は二郎を自分の床に誘う。菜穂子を気遣う二郎であったが、菜穂子は残り少ない時間を少しでも長く二郎と一緒にいたかったのだ。2人は残された時間を精一杯生きようとしていた。やがて夜が明ける。2人の新しい生活が始まった。
菜穂子とともに
堀越二郎の生活は多忙を極めた。昼は会社で設計主務者としての仕事があり、夜は深夜まで図面を描くのだった。そしてその横には、床に臥せってはいたが二郎を見守る菜穂子の姿があった。菜穂子は仕事をしている二郎の姿を見るのが好きだった。そして堀越も、菜穂子と手をつないだまま仕事をするのだった。
ある日、二郎と菜穂子が生活する黒川家に、堀越の妹の加代が訪ねてきた。相変わらず仕事に夢中で実家や加代の事はほったらかしの二郎であった。加代子も念願の大学に進学し、医者を目指して勉強中の身であった。加代は、菜穂子とすぐに打ち解け、仲良しになったが、加代の目から見ても菜穂子の病状が深刻であることは明らかだった。つまり、このまま堀越との生活を続けることは菜穂子の命を縮める事になりかねないのである。 加代はそのことを堀越に問いただしたが、堀越はそれも覚悟の上だった。いずれにせよ菜穂子の命は長くは無い。ならば残された時間を少しでも長く2人で生きたい。それが二郎と菜穂子の願いだった。それに、二郎は現在自らが設計している「九試単戦」を完成させ、その飛ぶ姿を菜穂子にも見せてやりたいと思っていた。
やがて堀越二郎の「九試単座戦闘機」は徐々に形を現しつつあった。 それは今までどこにも無かった飛行機であった。流線型の機体形状、沈頭鋲による滑らかな外板、特徴的な逆ガルの主翼。堀越の夢が実現しつつあったのだ。
この時、本庄季郎は「八試特偵」を更に発展させた「九試陸上攻撃機」の設計を行っていた。 しかし本庄はある不満を抱いていた。「九試陸攻」は当時としては破格の航続力を誇る優秀な飛行機であった。しかし、その海軍の要求性能を満たす為、主翼の大部分を占める燃料タンクに防弾は施されていなかった。注文主である海軍は「九試陸攻」の成功に狂喜し、後に「九六式陸上攻撃」として採用し、支那事変に於いて実戦投入する事になる。これに対し本庄は言った。「これに爆弾を積んで3000キロを飛ばすつもりらしいが、あんなものは数発の被弾で火達磨だ」と。しかし、これは、工業力や技術力の乏しい日本が、外国の航空機に追いつく為、何かを犠牲にして進まねばならない現実であった。それはまた、欧米列強に追いつく為、背伸びに背伸びを重ねてきた日本の姿そのものでもあった。しかし、日本にとって生きる道はそれしかなかったのである。
堀越と本庄は、日本の行く末を案じる。 「この国はいったいどこと戦争するつもりなんだろう」「中国、イギリス、オランダ、そしてアメリカか」「そうなればこの国は破裂だ」 この時代、日本を取巻く環境は実に厳しかった。そして一般大衆の鬱積した不満や、アメリカ・イギリスの思惑は、この国を破滅へと導こうとしていた。
そして遂に堀越二郎の設計した「九試単座戦闘機」試作1号機が初飛行する日が近づいてきた。 当時の名古屋の三菱航空機敷地内には十分な広さの飛行場がなく、例によって牛車に積み込まれた「九試単戦」試作1号機はゆっくりとした歩みで岐阜県各務ヶ原飛行場に向かった。試験飛行は数日をかけて行われる為、堀越はその間家を空けなければならない。
二郎は、菜穂子に数日間留守にする旨を伝える。菜穂子は、自分のことは気にせずにしっかり仕事をしてきて欲しいと答える。 やがて二郎は試験飛行の行われる岐阜県各務ヶ原飛行場に向かった。
エピローグ
二郎を送り出した菜穂子は、黒川夫人のところに行き、今日は気分が良いので散歩に行く旨を伝える。いつもと変わらぬ菜穂子の様子に、黒川夫人は特に気にも留めず菜穂子の散歩を承諾した。菜穂子は紺色のロングコートに帽子という出で立ちで出かける。しかし、その表情はいつに無く厳しかった。ちょうどその時、堀越二郎の妹加代がバスで黒川家に向かっていた。加代はバスの中から1人で歩いている菜穂子の姿を認める。そしてその瞬間、菜穂子の表情にある決意を感じとったのだ。
黒川家に到着した加代は、すぐさま黒川夫人にそのことを伝えた。黒川夫人と加代は、二郎と菜穂子が生活していた離れの部屋に急ぐ。部屋に入った黒川夫人と加代は息を飲んだ。部屋は綺麗に片付けられ、卓の上には3通の手紙が置かれていた。菜穂子からの手紙であった。1通は黒川夫妻宛て、もう1通は加代宛て、そして1通は堀越二郎宛てであった。
菜穂子は、堀越二郎が「九試単座戦闘機」の設計を完成させたのを見届けると、自らは山の高原病院に戻ることを決意していたのだった。 加代は菜穂子を追いかけようとするが、それをとめたのは黒川夫人だった。菜穂子は自分のもっとも綺麗な部分を二郎に見てもらいたかったのだ。 そして、黒川夫人にはそれが分かったのだ。
その頃、堀越二郎は岐阜県各務ヶ原飛行場にいた。 いよいよ「九試単座戦闘機」試作1号機の試験飛行が開始されようとしていた。
・映画「風立ちぬ」の原作漫画紹介 −宮崎駿原作の漫画
・太平洋航空博物館に現存する零戦 −ハワイに保存されている零戦の写真など
・堀辰雄記念館の展示品の写真 −菜穂子のモデルとなった実在の人物「矢野綾子」の写真など
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