映画「風立ちぬ」は、模型雑誌の月刊モデルグラフィックス(大日本絵画)紙上で、2009年4月から2010年1月まで9回(途中2009年10月は休み)連載された宮崎駿による同名の漫画、「風立ちぬ 妄想カムバック」が原作となっている。
こちらの「風立ちぬ」は、模型雑誌での連載ということもあり、随所に専門的な内容がちりばめられている。また、どちらかというと宮崎駿の個人的趣味といった色合いが強く、ご贔屓の飛行機設計家であるイタリアのジャンニ・カプローニが登場したり、当時の戦闘機に関する様々なうん蓄が盛り込まれている。その為、初心者には意味不明であったり読みにくい部分もある。同様の作品としては、月刊モデルグラフィックス紙上で連載された「飛行艇時代」が後に映画「紅の豚」(1992年・スタジオジブリ作品)となっている。
・映画「風立ちぬ」の原作漫画紹介 −宮崎駿原作の漫画
・太平洋航空博物館に現存する零戦 −ハワイに保存されている零戦の写真など
・堀辰雄記念館の展示品の写真 −菜穂子のモデルとなった実在の人物「矢野綾子」の写真など
漫画「風立ちぬ」の前半は、主として当時の飛行機開発状況や、主人公である堀越二郎の仕事ぶりなどが描かれているが、後半からは結核にかかった少女である里美菜穂子がヒロインとして登場、堀越と菜穂子の交流の様子が加わる。併しながら、これは宮崎駿の妄想(フィクション)であり、史実では、堀越はこの当時既に結婚しており、もし、菜穂子との交流が事実ならば、この物語は立派な不倫である。なので、「風立ちぬ」の中では堀越は内気な独身男性として描かれており、ここは素直にフィクションを楽しみたいところであろう。
「風立ちぬ」に於けるもう一つのフィクションである堀辰夫も原作に登場する。 堀辰夫は昭和初期に活躍した実在の文学者である。「風立ちぬ」では堀辰夫の同名小説「風立ちぬ」がモチーフになっており、また、堀越二郎と堀辰夫の交流も描かれている。堀越二郎は東京帝国大学工学部航空学科を卒業しており、堀辰夫は東京帝国大学文学部国文科卒を卒業している。2人ともほぼ同時期に在学していたが、実際に交流があったという記録は無い。しかし、ここもフィクションとして楽しむべきところだろう。
映画「風立ちぬ」の原作である漫画「風立ちぬ」は、宮崎駿の妄想と趣味が盛りだくさんである。映画とは違った観点で楽しむのもよいだろう。
第一話 風立ちぬ 妄想カムバック(1) 月刊モデルグラフィックス2009年4月号 第二話 風立ちぬ 妄想カムバック(2) 月刊モデルグラフィックス2009年5月号 第三話 風立ちぬ 妄想カムバック(3) 月刊モデルグラフィックス2009年6月号 第四話 風立ちぬ 妄想カムバック(4) 月刊モデルグラフィックス2009年7月号 第五話 風立ちぬ 妄想カムバック(5) 月刊モデルグラフィックス2009年8月号 第六話 風立ちぬ 妄想カムバック(6) 月刊モデルグラフィックス2009年9月号 第七話 風立ちぬ 妄想カムバック(7) 月刊モデルグラフィックス2009年11月号 第八話 風立ちぬ 妄想カムバック(8) 月刊モデルグラフィックス2009年12月号 第九話 風立ちぬ 妄想カムバック(9) 月刊モデルグラフィックス2010年1月号
漫画「風立ちぬ 妄想カムバック」は、模型雑誌の月刊モデルグラフィックス(大日本絵画)紙上で、2009年4月から2010年1月まで9回(途中2009年10月は休み)連載されたが、2013年7月時点では単行本化はされていない。その為、漫画「風立ちぬ 妄想カムバック」を読む為にはバックナンバーの中古品や古本を入手する必要がある。
以下に漫画「風立ちぬ 妄想カムバック」全9話のあらすじを紹介する。 映画「風立ちぬ」の原作である為、一部、映画「風立ちぬ」の内容のネタバレになる部分もあるので、その点ご了承されたい。
第一話 風立ちぬ 妄想カムバック(1) 宮崎駿 月刊モデルグラフィックス2009年4月号
時は大正時代後半(1920年代前半)、冒頭にあるのは大正11年(1922年)に初飛行したとされている「Ca-64」、「Ca-64」は、イタリアのカプローニ社による全金属製片持低翼単葉の試作戦闘機であり、実機の写真は残されていないが、美しい飛行機として描かれている。
そして、物語はカプローニ社の経営者であり、飛行機設計家ジャンニ・カプローニ(1886-1957)の紹介と、それを聞く一人の少年の登場からはじまる。
カプローニ(作品中ではカプロニーおじさんと呼称)は、イタリアの飛行機設計家として、第一次世界大戦中はイタリア軍の主力爆撃機である「Ca-30」等を設計した。その特徴は、三発機や三葉機など大型でユニークな機体が多かった。 作品では、カプロニーおじさんが、とある少年に「ヒコーキは戦争や経済の道具ではない」「夢の結晶」「美しくあらねばならない」と語っている。
大正18年(1918年)に第一次世界大戦が終結、カプローニは「Ca-60」という大型旅客艇を開発した。これは九発(エンジン9基)八葉(主翼8枚)の無尾翼大型飛行艇で、時速100kmで乗客100人を乗せて飛ぶという、当時としては実に破天荒な飛行機であった。 結果、初飛行はわずか90m程飛行した後に墜落、死傷者は出なかったものの、失敗した。その後、冒頭に登場した全金属製片持低翼単葉の「Ca-64」を設計するも、成功したという記録は無い。
そして、カプロニーおじさんは「美しいものをつくりたまえ」と少年に言って去っていった。少年は設計家になろうと決心する。 かくして風は立った。この少年こそ後の堀越二郎である。
第一話のこのエピソードは、カプローニの設計した飛行機に関する事以外は、まったくのフィクション(宮崎駿の妄想)である。実際に、堀越二郎とカプローニに交流があったわけではない。ここで描かれているのは、堀越が少年期に憧れていた当時の飛行機の世界である。当時は、飛行機の黎明期であり、カプローニなど多くの設計家が試行錯誤を繰返していた。当時はまだ少年であった堀越は、雑誌「飛行少年」などでこのような世界に触れる機会があったのかもしれない。
物語の中の堀越二郎少年はやがて成長し東京の大学(東京帝国大学工学部航空学科)に入る。大学での堀越二郎は必死に勉強し、やがて当時の三菱航空機に入社して設計技師となった。これは当時のエリートコースであり、堀越二郎は当時の社会では抜きん出た秀才であった。
しかし、この頃(昭和初期・1920年代)の日本は、世界的不景気によって国内が貧困のどん底であった。
入社した堀越二郎は、下積みを積む中で次第に周囲に認められる設計者となっていく。当時(昭和3年・1928年)、三菱航空機は陸軍の新型戦闘機の設計・試作を行っていた。これは三菱社内では「隼型戦闘機」と呼ばれていた。尚、後に中島飛行機が設計する「陸軍一式戦闘機『隼』」とは別物である。
三菱航空機の工場敷地内には、飛行試験に使える広い飛行場が無かった。その為、約60km離れた岐阜県各務ヶ原の陸軍飛行場まで飛行機を運ぶ必要があった。当時、各務ヶ原までの飛行機の運搬には牛車が使用されていた。尚、この牛車による飛行機運搬の様子に関しては吉村昭の「零式戦闘機」に詳しく紹介されている。
堀越二郎もこの「隼型戦闘機」の飛行試験に立ち会ったが、当時の日本は現在よりも遥かに工業水準が低く、特に発動機(エンジン)の部門は大きく立ち遅れていた。その為、飛行機の試験に於いてもエンジンのトラブルが頻発し、飛ばすのも一苦労な時代であった。
第二話 風立ちぬ 妄想カムバック(2) 宮崎グズオ 月刊モデルグラフィックス2009年5月号
昭和3年(1928年)、所沢飛行場に於いて三菱・中島・川崎の3社による陸軍の新型戦闘機の飛行審査が行われていた。この時の各社の機体は三菱が「隼二型」、中島が「NC型」、川崎が「KDA三型」であった。これらはいずれも外国から招いた技師の指導の元で設計された機体であり、エンジンも外国製のライセンス生産品であった。しかし、それでも尚エンジンの故障は多発、特に構造が複雑で高い加工精度を必要とする水冷(液冷)エンジンは後々に至るまで信頼性が乏しいままだった。
この審査(コンペ)には、堀越二郎も参加しており、またライバル会社であった川崎には、堀越と東京帝国大学工学部航空学科で同期であった土井武夫(後の「飛燕」の設計者)が、中島には東北帝国大学工学部を卒業し、飛行機設計の分野では堀越たちの先輩にあたる小山悌(後に「隼」」「鐘馗」「疾風」を設計)が参加していた。
この当時、帝国大学を卒業して飛行機会社で技術者として働く若者数はまだまだ少なく、会社は違えど皆顔見知りであった。その為、ライバル会社同士の競い合う審査会の場であっても、互いに声をかけあったり、相手の飛行機を見学したりと、まるで同窓会のような雰囲気であった。
審査会も大詰めに入った6月13日金曜日、三菱の「隼ニ型」は急降下による最高速度試験を行った。その時、急降下中の機体が空中分解を起こし、機体と主翼が分離、そのまま墜落してしまった。
操縦者(パイロット)は脱出して落下傘(パラシュート)降下し、事なきを得たが、この時のパイロットは後に毎日新聞社「ニッポン号」(「九六式陸攻」の改造型)の機長として世界一周飛行をする中尾純利であり、日本に於けるパラシュート脱出第一号となった。尚、ちょうどこの前日にパラシュートの取扱いの訓練を受けたばかりだったそうである。
当時は、飛行中の機体にどのような力がかかるのか十分に解明されておらず、実際に飛んでみないとわからない部分がまだまだあった。実際、中島の「NC型」も後に空中分解を起こし、その後に改良を受けている。結局、この競争試作では三菱「隼二型」と川崎「KDA三型」が脱落、中島の「NC型」も3年近く改修を続けた後にようやく「九一式戦闘機」として採用された。
物語では、コンペに敗れ、名古屋に帰る夜行列車の中の堀越の夢枕に、再びカプロニーおじさんが登場する。
カプローニの設計した巨人機「Ca-90」に乗りながらカプロニーおじさんは堀越二郎に言う。「設計はセンスだ センスは時代をさきがける 技術はそのあとについて来るのだ」「創造的人生の持ち時間は10年だ 君の10年を力を尽くして生きなさい」と・・・・・。
勿論これも宮崎駿の妄想である。
物語には書かれていないが、堀越二郎はこのあと、昭和4年6月初旬、シベリア鉄道経由でヨーロッパに向かう。最新の航空機を見るための視察旅行であった。この時の様子は柳田邦男の「零式戦闘機」に紹介されている。ヨーロッパではワルシャワ・パリ・ロンドンを回った後、ドイツの飛行機会社ユンカースを長期間視察した。また、その後にアメリカにも渡り、カーチス社の視察を行っている。これらの経験は後に堀越にとって大きな糧となる。
さて、物語の中では昭和6年(1931年)となり、満州事変が発生、国内の不景気に国外の戦争・紛争、日本を取巻く雰囲気は暗かった。 そのような時、帰国して仕事に打ち込んでいた堀越に対し、会社は海軍の新戦闘機試作の設計主務者を命じた。その試作機は「七試艦上戦闘機」、昭和7年度の海軍の艦上戦闘機の競争試作の指示であった。
第三話 風立ちぬ 妄想カムバック(3) 宮崎ノロオ 月刊モデルグラフィックス2009年6月号
「七試艦上戦闘機」は、昭和5年頃から海軍航空本部によって立案されていた航空技術自立計画によるものであった。これは、それまで外国の技術に依存してた日本の航空機設計の技術力を高めようとする長期計画で、その第一段階として昭和七年度海軍軍用機試作計画(七試計画)がスタートした。具体的には、民間の飛行機会社に各機種の競争試作を行わせ、外国の技師に頼らずに高性能な飛行機を生み出そうというものであった。そして、三菱と中島には戦闘機の試作、つまり「七試艦上戦闘機」の設計が命じられた。
三菱ではその設計主務者に堀越二郎を抜擢した。堀越は既に多くの経験を積み、海外視察もしており、実力も十分と見られていたが、まだ飛行機全体の取り纏めをした事はなかった。不安を隠しきれない堀越に対し、会社は新進気鋭の若手としての今後に期待したのであった。この時の堀越は入社5年目、若干28歳であった。そして、会社は堀越に対して「自由にやれ」と言った。
早速、堀越は設計の構想を練った。何はともあれ飛行機の基本型を決めなければならなかった。基本型とはその飛行機の形である。具体的には主翼の配置をどうするかがもっとも重要であった。当時は、主翼が2枚の複葉、上翼より下翼が小さい一葉半、主翼1枚を機体上方に持ち上げたパラソル型などが主流であった。しかし、「七試艦戦」では時速350km近い最高速度を要求されていた。従来の型式ではその実現は難しい。更に、堀越は技術の飛躍的な進歩を遂げるためには、最新の型式に挑戦する必要があると考えた。
そして、この時、堀越が頭の中で描いていたのは片持ち式低翼単葉、更に全金属製の機体であった。
当時、片持ち式低翼単葉の全金属製飛行機は、小型の戦闘機としてはまだ世界のどこにも無かった。堀越はあえてそれに挑戦しようとしていた。しかし、前例の無い飛行機であるだけに十分な参考資料がなかった。わずかな手がかりとしては、大正13年に輸入され、その後に海軍と三菱で各1機製作されたことのある片持ち式単葉全金属製のロールバッハ飛行艇や、昭和3年頃、ドイツのユンカース「G-38」四発大型輸送機を元に製作された陸軍の「九二式超重爆撃機」があった。これらは小型の単発戦闘機とは比較にならない大型機であったが、全金属製の主翼や機体、片持ち式単葉という共通点もあり、とくにその主翼構造には先進的な部分もあった。
堀越の頭の中では新しい飛行機に関する具体的なイメージが出来つつあった。だが、まだ一抹の不安が無いわけでもない。そこで堀越はとある人物を訪ね、自分の考えについて相談することにした。その人物は、海軍航空本部技術部員の技術士官であった佐波次郎機関中佐である。佐波中佐は、堀越が東大航空学科の学生だったとき、1つ上のクラスに海軍からの聴講生として在籍していたことがあり、堀越にとっては同じ技術畑の先輩でもあった。
ちなみに物語の中では、横須賀航空技術本部と書かれており、堀越が横須賀に向かう場面が描かれている。 当時の海軍航空本部は東京霞ヶ関の海軍省内にあり、航空本部の組織の中に技術部があった。また、海軍技術研究所隷下の航空研究部は、当時は霞ヶ浦海軍航空隊の近くにあった。よって、この時に堀越が向かったのは東京霞ヶ関の海軍省であったと思われる。これに関しては、宮崎駿の考証の誤りではなかろうか。
佐波中佐は堀越に対し、低翼単葉を強く勧める。更に、逆ガル型の主翼配置を提案、これはかもめの翼を逆にしたような形である。更に佐波中佐の案では、左右の逆ガル主翼の最も低い場所を支柱で結んで強度をだし、固定の主脚も低く抑えるというアイデアも盛り込まれていた。
堀越は、自分の考えていた片持ち式低翼単葉を後押ししてくれた佐波中佐に感謝するのだった。もっとも、逆ガル型というアイデアはともかく、空力的な洗練を重視するという結論から、支柱を用いない方法を選ぶことになる。
ここまではほぼ史実どおりであるが、ここから再び宮崎駿の妄想となる。 佐波中佐を訪問した堀越二郎は、大学時代の行きつけの洋食屋「ペリカン食堂」に立ち寄る。そこで出会ったのが文学者の堀辰夫であった。
堀辰夫は昭和初期の文学者で、東京帝国大学文学部国文科卒である。そしてその代表作が自らの自伝的小説「風立ちぬ」であり、この漫画やスタジオジブリ作品「風立ちぬ」のモチーフともなっている。 堀辰夫の「風立ちぬ」は、自らの体験を基に、結核という重い病にかかった婚約者との最後の生活を美しい自然の中で描いた作品である。宮崎駿も堀辰夫のファンであり、今回の映画「風立ちぬ」も「堀越二郎と堀辰夫に敬意をこめて。」とある。
実際、堀越と堀は、東京帝国大学ではほぼ同年代(堀が1学年上)であり、同じ時代を同じ場所で過ごしているはずである。従って、当時の2人に全く接点が無かったわけではないが、2人の交流を示す記録は無い。以下はフィクション(宮崎駿の妄想)として楽しむ部分である。
洋食屋「ペリカン食堂」で、堀越二郎と堀辰夫が久々の再会をする。堀越が堀に対し「君の本の中の詩が好きだ」「自分達のヒコーキがはじめて飛ぶときに本当にああ感じる」「翼の中の骨組のきしみに耳を傾ける」「エンジンのつぶやきにきき耳をたてている」と言うと堀は堀越に対し「ぜひ君の美しいヒコーキをつくってくれたまえ」と返す。突然、堀越二郎のなかにヒコーキが見えた・・・・。 正に宮崎駿の妄想全開である。
さて、話は史実に戻り、堀越は「七試艦戦」の基本型をほぼ決めた。片持ち式低翼単葉の主翼、機体は金属製セミモノコック構造であった。
第四話 風立ちぬ 妄想カムバック(4) 宮崎ノビオ 月刊モデルグラフィックス2009年7月号
第四話の冒頭は、架空の飛行機や架空の空中戦が登場する。
この時代(昭和初期・1930年代)、各国で飛行機は目覚しい進歩を遂げていた。結果、第一次世界大戦で行われたような、小回りの利く複葉機による格闘戦(巴戦・ドッグファイト)以外に、高速な機体による一撃離脱戦法が広まりつつあった。更に、遠距離進出可能な双発戦闘機、後方に銃座を備えた複座戦闘機など、様々な形式の機体が模索されていた。これらは、実際に戦闘を行ってみないとわからない部分もあり、各国の飛行機開発、特に戦闘機開発はまだその方向性が定まっていなかったが、速度を重視する傾向は強まりつつあった。
併しながら、実際に戦闘機に乗って戦う戦闘機パイロットの間には、機体の運動性、つまり小回りが利いて格闘戦に強い事を重視する傾向にあった。これは日本のみならず各国の戦闘機パイロットに共通していた。彼らは、平時からの訓練に於いて、その操縦技量を高める事に務めており、結果、高度な技量を要する格闘戦を重視するようになるのは至極当然であった。また、先の第一次世界大戦に於いては、格闘戦による空中戦が主流を占めていた為、既に実績のある手法を重視するのもまた当然であった。
後々に、この事に対してしたり顔で批判する向きもあるが、それは後世の後知恵である。重要なのは、現場のパイロットと技術開発をする設計陣との間を良好に取持つ航空行政であり、当時のパイロットが後進的であったという主張は、的を得ていない表層的な主張である。保守的な事は必ずしも悪いことではない。 尚、作品中、宮崎駿が当時の戦闘機パイロットを皮肉っているが、当然その辺の事情は理解した上での皮肉であろう。
さて、話は「七試艦上戦闘機」の設計に打ち込む堀越二郎に戻る。時代の最先端の技術である、片持ち式低翼単葉や全金属製による機体に挑戦したいと考えていたが、次々と問題点にぶつかった。当時の日本にはこれら新技術を実現するだけの基礎工業力がまだまだ不足していたのである。
まず、金属製の主翼を実現させるためには、軽くて強度の高い部材が必要となる。堀越は、これをアルミの押出し型材によって実現しようと考えていたが、当時の日本では、アルミ押出し技術はまだ実験段階であり、実用化されていなかった。仕方なくアルミ板を鋲止めして部材を形成したものの、必要な強度を出す為には相当な厚みを必要とした。更に、外板の金属板も当時の工作水準では作業が難しく、結局、主翼は羽布張りという従来の型式にせざるを得なかった。
また、主脚は構造が簡単で軽量な固定脚を選んだが、強度確保のためには三本支柱にせざるを得なかった。空気抵抗軽減の為に、周囲を金属板(スパッツ)で覆ったものの、外見的にも洗練された形状とは言い難かった。
昭和7年5月28日には三菱「七試艦戦」の基本設計書画が海軍航空本部に提出され、機体の基本型は決まった。この時、「七試艦戦」に搭載される発動機(エンジン)は、当初は「三菱七試水冷六百馬力」の予定であった。水冷エンジンは空冷エンジンよりも正面面積が小さく、空気抵抗を低減できるメリットがある。しかし、空冷エンジンよりも高い加工精度が要求され、構造も複雑であった。その為、水冷エンジンの開発が間に合わない事になり、搭載するエンジンを空冷エンジンに変更することになった。 物語では、水冷エンジンに関する記述は無いが、この時搭載することになった空冷エンジン「三菱A4型」に関しては多少紹介されている。このエンジンは当初は爆撃機用に開発され、後に三菱を代表する航空機用発動機「金星」へと発展していく事になる。
搭載エンジンの変更は機体形状に大きな影響を与える。正面面積の大きな空冷エンジンに合わせて機体もある程度太くならざるを得ない。
また、8月中旬には機体の木型模型審査が行われた。これは実物大の木製模型を用いて、海軍の担当者や搭乗員(パイロット)立会いの下、細部の確認を行う作業である。特に、パイロットからは操縦席の位置、計器・操縦桿の配置や大きさに関して細かい要望が出されるのが常であった。これらは実際に操縦する立場からの意見である為、設計に反映していく必要があった。最終的には、視界を良くする為に操縦席を高い位置にする必要があり、結果、機体形状はさらにずんぐりとしたものになっていった。
木型模型審査によって細部も決定されると、試作機の製作に向けての細部の設計作業が始まる。そして、小さな部材や使用するボルトなどまで含む設計図を描いていかねばならない。「七試艦戦」の設計図はほとんど現存していないが、その総数は2000枚近くになったと考えられる。 この段階での具体的作業は、堀越の下についた技手や製図工が図面を描き、それを堀越がチェックしていく。出来上がった図面が工作部門に送られ、部品や部材が製作される。部品が出来上がっていくと組立ても開始されたが、組立てに際しては図面どおりであっても組立てに不具合が生じるのが常であり、設計部門から担当者が立ち会いながら組立てが進められた。そしてこれら全ての作業を指揮していたのが設計主務者である堀越二郎であった。
そして、昭和8年2月下旬、「七試艦上戦闘機」試作1号機が完成した。設計開始から約10ヶ月、当時としては異例の速さであった。
しかし、完成した機体を見た堀越は少なからず失望した。設計段階からある程度は予想された事ではあったが、堀越の目の前にあったのは、分厚い主翼と幅広のスパッツをはいた主脚、更にはずんぐりした胴体を持ち、あちこちに鋲や留め金が突き出した見るからに不恰好な飛行機であった。
作品ではここで再びカプロニーおじさんが登場する。 カプロニーおじさんが「どうかな君の最初のヒコーキは」と堀越に問いかける。堀越は「みにくいアヒルの子でした」と答える。しかし、その原因は自分の力不足である事を自覚していた堀越に対し、カプロニーおじさんは言う。「よしそれでいい 胸をはって進め」と。 この「七試艦上戦闘機」での経験は堀越にとって大きな糧となり、のちの「九試単座戦闘機」「十二試艦上戦闘機(零戦・ゼロ戦)」へと繋がっていくのである。
そしていよいよ「七試艦上戦闘機」試作1号機が初飛行する日がやってきた。
第五話 風立ちぬ 妄想カムバック(5) 宮崎オソオ 月刊モデルグラフィックス2009年8月号
昭和8年3月はじめ、「七試艦上戦闘機」試作1号機は初飛行した。初飛行した日、堀越二郎は病気の為に立ち会えなかったが、数日後から復帰し、飛行試験に参加した。
しかし、「七試艦戦」は期待した性能を発揮できなかった。操縦性は悪くなかったものの、最高速度が時速約320kmであり、当時の陸軍の主力戦闘機であった川崎の「九二式戦闘機」とさほど変わらなかった。「九二式戦闘機」は複葉機であり、「七試艦戦」は低翼単葉の利点を全く発揮できていなかった。つまり失敗作であったのだ。
作品中では、この当時の日本を代表する飛行機会社の技術者、そして彼らが堀越と同時期に設計していた飛行機が紹介されている。この時期は、各社で片持ち式低翼単葉機が研究されており、まさに日本の飛行機設計が近代化を目指して悪戦苦闘していた時期であった。
結局、「七試艦戦」は失敗作であることが明らかになったものの、片持ち式低翼単葉とい型式には将来性が見込まれ、操縦性を煮詰める為の飛行試験が続けられていた。
操縦性の改善の為には主翼の補助翼(エルロン)、水平尾翼の昇降舵(エレベーター)、垂直尾翼の方向舵(ラダー)の大きさや形を色々に変えながら飛行試験を行った。当時はまだ、操縦性に関する明確な設計原理が無く、色々な舵を試しながら最善のものを決めていったのである。
飛行試験がはじまって約3ヶ月後の、昭和8年7月1日、その日は急降下試験が行われていた。 そして、急降下中の「七試艦戦」は、突然垂直尾翼が折れる空中分解を起こした。操縦者(パイロット)はエンジンを切った後に脱出してパラシュート降下して無事だったが、機体はゆるやかに滑空して高度を下げた後、木曽川の河原に墜落して大破してしまった。
この事故の原因は、操縦性改善のために様々な舵を試していたのだが、その際、垂直尾翼の方向舵(ラダー)が次第に大型のものに交換され、ラダーにかかる風圧が大きくなっていった。その為、ラダーが取り付けられる垂直尾翼にかかる荷重が次第に大きくなっていったのだが、これに対応するように垂直尾翼の強度を増すという作業が行われていなかった。結果、垂直尾翼がラダーの受ける風圧に耐えられなくなって破損、墜落に至ったのだった。 これに関しては、操縦性改善の作業に熱中するあまり、舵にかかる風圧の増大に対応する補強をすっかり忘れていた堀越の過失であった。
「七試艦戦」試作1号機は失われてしまった。直ちに試作2号機が製作され、秋には海軍に納入された。しかし、所要の性能に達することが出来ない「七試艦戦」は不採用となってしまった。
ただし、海軍は片持ち式単葉の機体である三菱の「七試艦戦」に興味を持ち、その後も飛行試験を続けていた。
しかし、この試作2号機もまた、約1年半後の昭和9年6月11日、飛行試験中に墜落、操縦していた横須賀海軍航空隊戦闘機分隊長の岡村基春大尉は脱出して一命は取り留めたものの、左手の指4本を失う重傷であった。
こうして、堀越二郎が始めて設計した飛行機である「七試艦上戦闘機」は2機とも失われた。 これは堀越にとって大きな挫折であったに違いない。しかし、これらの経験は、この後にやってくる新たな飛行機の設計に於いて大きな糧となるのである。そして、堀越自身も努めて平然と振る舞い、一切の弁解をしなかったとう。カプローニおじさんは言う「泣く時はひとりで泣け・・・」と。
昭和七年度海軍軍用機試作計画(七試計画)は、堀越の設計した三菱「七試艦上戦闘機」も含め、各社の試作機も所要の性能に達しなかった。しかし、海軍による航空技術自立計画は引き続き進められた。そして、昭和九年度海軍軍用機試作計画(九試計画)が立案されようとしていた。 ここで九試計画の戦闘機に関しては、それまで航空母艦(空母)での運用を前提とした艦上戦闘機(艦戦)であったのを、空母での運用を考慮せず、戦闘機としての性能、特に最高速度の向上を狙うという意味で、単座戦闘機(単戦)とする事になった。
これに関しては、作品中には描かれていないが、当時の航空本部技術部長の山本五十六少将は、艦上戦闘機の性能が現在の空母に制約されるのは本末転倒であり、とにかく所要の性能を発揮できる戦闘機を生み出すことが大切であると考えた。 そして、その様な戦闘機が出現したのであれば、空母を飛行機に合わせて改装させるべきであると主張した。
その結果、九試計画による戦闘機は、艦上戦闘機としての制約を取り払うという事になり、この事が、後に「九試単座戦闘機」の画期的な成功の一因となるのである。
この時、三菱では「八試特殊偵察機(八試特偵)」が製作されていた。これは、航続距離に重点を置いた偵察機で、山本五十六少将の構想によるものであった。
この「八試特偵」の設計主務者は、本庄季郎技師(東京帝国大学工学部航空学科)、本庄は後に「八試特偵」から「九試陸上攻撃機(九試陸攻)」に発展させ、「九試陸攻」はその後に「九六式陸上攻撃機」として大成功を収めることになる。また本庄は、堀越にとっては大学・職場の先輩であり、「八試特偵」からも後に多くの技術的恩恵を受けることになる。
時系列は作品中では多少前後しているが、昭和9年2月はじめ、九試計画が海軍から三菱に通達された。そして三菱の担当は戦闘機と中型攻撃機(中攻)であり、「九試中型攻撃機」は、「八試特偵」に引き続き本庄季郎が設計主務者となり、「九試単座戦闘機(九試単戦)」は堀越二郎が設計主務者となった。
この時、堀越を「九試単戦」の設計主務者に推したのは服部譲次で、服部は三菱航空機機体設計課の課長、つまり堀越の直属の上司である。作品中ではしかめっ面の上司として登場してくるが、堀越を陰で支え、思い通りの仕事が出来るように常に気を配っていた。実際、「七試艦戦」に失敗した堀越であったが、その堀越だからこそ次に大きな飛躍をするはずであると考え、「九試単戦」の設計主務者に推したのだった。
さて、史実ではここから堀越二郎の大飛躍である「九試単座戦闘機」の設計が開始されていくのだが、その前に宮崎駿の妄想(フィクション)が加わる。
遂にヒロイン登場である。
「九試単戦」の設計開始の前に、堀越は服部から一ヶ月の休暇を与えられる。「七試艦戦」で一旦燃え尽きた頭を冷やして来いというのである。そして堀越は軽井沢に向かった。そしてそこで堀越二郎が出会ったのは・・・・・。
第六話 風立ちぬ 妄想カムバック(6) 宮崎駿 月刊モデルグラフィックス2009年9月号
物語の前に、1930年代から1940年代、そして大東亜戦争に至る各国の戦闘機が簡単に比較されている。 堀越二郎が初めて設計した「七試艦戦」、そして続く「九試単戦」の頃には世界各国も近代的な飛行機を次々と生み出していた。この時代、世界中の航空機技術が飛躍的な発展を遂げていた。堀越二郎もその中にあったのだ。
さて、今回は宮崎駿の妄想(フィクション)がほとんどを占める。 堀越二郎は休暇で軽井沢を訪れていた。そして、そこでひとりの少女に出会ったのだ。ここから先はフィクションを楽しむところである。
堀越は軽井沢でのんびりした日々を過ごしていた。 当時の軽井沢は保養地として外国人も多く訪れた。堀越の宿泊する宿にもとあるドイツ人(カストルプ)が滞在しており、食事のたびに山のようなクレソンを平らげていた。
堀越は退屈しのぎに紙飛行機を作る。そして窓から飛び立った堀越の紙飛行機をあの少女が拾う。初めて堀越はその人と話をした。 そして、堀越の紙飛行機は主翼が逆ガル形状、つまりカモメの翼を逆にした形をしていた。それを見た少女は、堀越の紙飛行機をカモメだと思うのだった。
少女は堀越のカモメを花の上に乗せて去った。堀越は再び紙飛行機作りに熱中する。逆ガルの紙飛行機はまさに風にのって飛ぶ白いとりだった。
紙飛行機の糊が乾く間、堀越は散歩に出た。そして再びあの少女と会う。少女は父親と思しき人と歩いていた。一瞬と惑う堀越、しかし意を決して会釈すると奇跡が起こった。少女が堀越に微笑み返したのだ。そして父親らしき男性もおだやかに会釈してくれた。堀越は嬉しかった。嬉しくてどんどん歩いた。歩きすぎて道に迷い、夜になった。宿に戻って遅い夕食。クレソンのドイツ人(カストルプ)が一人シューベルトを聴いていた。
その日、堀越は夜遅くまで紙飛行機作りに熱中した。その紙飛行機は堀越にとって「九試単座戦闘機」の先行モデルとも言うべき機体だった。形状は、涙滴型風防、引込脚、逆ガルの主翼、まるで後に登場する「零式艦上戦闘機(零戦・ゼロ戦)」を思わせた。
翌日は雨だった。試験飛行は晴れるまで延期である。堀越は宿の喫煙室にいった。そこでクレソンのドイツ人(カストルプ)、少女の父親と3人で会話をする。会話は日本語・英語・ドイツ語のちゃんぽんである。やがて雨があがった。
この時点で、作者の宮崎駿とカプローニおじさんは物語の行く末をかなり案じている。妄想が過ぎて物語が迷走を始めたようだ。
雨が上がり晴れ渡った空に向けて、堀越は紙飛行機を飛ばす。それは綺麗なループを描いて宙を舞った。 そして、それを見ていた少女は喝采を叫ぶ。
結局、堀越の紙飛行機は水に濡れてしまいもう飛べなくなってしまったが、それをもらい受けた少女は喜びをあらわにする。
いつしか2人の間には愛情が芽生え始めていた。
その夜、堀越二郎と少女(里見奈穂子)の父とクレソンのドイツ人(カストルプ)は喫煙室で会話をしていた。その席で堀越は菜穂子の父親に、菜穂子と結婚を前提としたおつきあいを認めて欲しいと申し出る。しかし、菜穂子は死んだ母親と同じ病気、結核だったのだと告げられる。しかし堀越の気持ちは揺らがなかった。そしてそれを聞いていた菜穂子は、堀越の申し出を受けたいと言う。かくして、菜穂子の父とクレソンのドイツ人(カストルプ)の立会いの下、堀越二郎と里見菜穂子の交際が始まった。昭和8年(1933年)夏の軽井沢での出来事であった。
さて、今回は「九試単戦」は出てこなかった。しかし物語の中で象徴的に描かれているのは、逆ガル形状の飛行機、堀越の作った紙飛行機である。宮崎駿は逆ガル形状が個人的に好きなようであり、この後登場する「九試単戦」試作1号機は特にお気に入りのようである。 尚、史実の堀越二郎は、「七試艦戦」の設計が始まる少し前、昭和7年(1932年)4月3日に東京丸の内で結婚式を挙げており、今回登場した里見菜穂子は架空の人物である。もしこれが事実なら立派な不倫であるが、これに関しては宮崎駿の妄想(フィクション)を素直に楽しみたい。
第七話 風立ちぬ 妄想カムバック(7) 宮崎YASUMIGACHI駿 月刊モデルグラフィックス2009年11月号
さて、今回は飛行機の話から始まる。
冒頭に登場するのは陸軍の「九三式重爆撃機」である。当時、三菱が生産していた双発の大型爆撃機で、ドイツのユンカース「K37」双発軽爆撃機を参考に開発された機体であった。
「九三式重爆」は性能的には問題のある機体であったが、その設計の細部にはユンカース社の技術が盛り込まれており、堀越二郎に設計上の示唆を与える事になる。
作品中では、堀越二郎が、「九三式重爆」の機体に使用されている内側が平らな鋲(リベット)に注目する様子が描かれている。
この時、堀越の頭にあったのは、「七試艦戦」に於ける教訓の1つで、如何にして機体表面を滑らかにして空気抵抗を減らすかという事であった。そこで堀越が注目したのが、表面が平らになる鋲、即ち沈頭鋲であった。 当時、機体各部に使用されていた鋲は、打ち込んだ後に頭が出っ張っており、その結果、機体の表面に鋲の頭による凹凸が多数できてしまっていた。堀越はこの凹凸を無くしたいと考えたのだった。
打ち込んだ後が平らになる沈頭鋲は、既にドイツのユンカース社などの機体に一部使われていた。その為、ユンカース社の技術を元に製作した「九三式重爆」や、本庄季郎が進めていた「八試特偵」にも沈頭鋲が使用されていた。だが、沈頭鋲の打ち込みは工作上難しく、機体の内側の一部に使用されていたのみだった。しかし、堀越はこの沈頭鋲を機体外側の全面に使用したいと考えていたのだ。
この時、堀越二郎が相談したのは同じ三菱航空機社内の機体工作第一課鉄工係の平山広次技師だった。
当時の工作技術では、頭の平たい鋲を機体の全面に使用することは非常に難しかった。しかし堀越は、次に設計する飛行機は「七試艦戦」の教訓を採り入れ、空気抵抗を低減、最高速度を大いに向上させたい考えた。そして、工作担当の平山に対して全面沈頭鋲の使用に関して協力を依頼したのだった。
作品中では、堀越と平山が食堂でこの話をし、しばらくの沈黙の後に平山が協力を約束する様子が描かれている。
話が食堂で行われたかどうかは定かではないが、実際の平山広次は細かな工夫に対して熱心な技師であり、堀越の申し出に対して誠意を持って対応したという。そして、平山は堀越に対して全面的な協力を約束してくれたのだった。 尚、平山広次はこの後も沈頭鋲の開発に熱心に取り組み、最終的に平山が開発した本格的な沈頭鋲は後に平山鋲として世界的に普及する事になる。
さて、物語はここで妄想モードにはいる。
昭和8年も終わろうとする頃、軽井沢で堀越二郎と出会い、交際を始めることになった里見菜穂子は、東京世田谷の自宅で床に臥せっていた。 名古屋で勤務する堀越二郎とは遠距離恋愛であり、2人の間にやり取りされる手紙だけが心の支えであった。
菜穂子の病状は芳しくなく、毎日午後になると38℃近い熱がでる。気持ちもふさぎがちになる。
堀越からの手紙も、新たに取り組み始めた「九試単戦」に関する飛行機の話ばかりである。自分の事を気にかけるよりも飛行機のほうが大事なのだろうか、と菜穂子は不安になるのだった。
その時、菜穂子の部屋の窓に突然堀越が現れる。名古屋から逢いに来たのだ。当時は新幹線や飛行機など無い時代である。夜行列車で数時間をかけての逢瀬、少女の笑顔を見るのが精一杯だが、菜穂子にとってはそれは大切な時間となった。
帰り際、堀越は菜穂子の父から、菜穂子の病状が思わしくないことを聞かされる。信州の高原病院で療養を勧められていたのだ。結核菌は少女の胸を確実に蝕んでいた。堀越は菜穂子の許にいたいと思った。 しかし、菜穂子の父は、堀越に自分の仕事をするよう励ます。だが、駅まで送ってくれた父の姿はひとまわり小さく見えるのだった。 そして堀越は再び夜行列車に乗る。
名古屋に戻った堀越二郎に上司の服部譲次課長が苦言を呈する。作品中での服部譲次はしかめっ面の人物として描かれている。
服部譲次は東京帝国大学工学部機械工学科を主席で卒業した優秀な人物で、当時は三菱航空機機体設計課の課長として堀越の直属の上司であった。部下ひとりひとりの才能や特技を見抜き、巧みな人事配置を行う手腕があった。
これは、服部が普段から部下それぞれに気を配ってよく見ていたのと同時に、部下の信望を集める人格の持ち主でもあったからだ。また、人を育てることに意を砕いていた。
それは、まだ経験の浅い堀越二郎に「七試艦戦」の設計を任せたことや、今回再び「九試単戦」の設計を任せようとしている事にも現れていた。更に、部下が思い通りの仕事を出来るようにあらゆる援助を差し伸べるのである。
さて、物語の堀越は自分のやりたいように仕事を進めることが出来た。更に、親戚の法事とや出張と偽って東京の菜穂子の許に通うことも黙認してもらっていた。とまあ、半分は妄想であるが、史実においても、堀越二郎が様々な新機軸に挑戦し、その能力を十二分に発揮できたのには、上司であった服部譲次の存在は欠かすことが出来なかったであろう。
そして、昭和9年2月、海軍から三菱に対して「九試単座戦闘機」の試作命令が正式に出された。 堀越二郎の本当の戦いがいよいよ始まろうとしていた。そして、その前に堀越は菜穂子とのつかの間の時間を楽しむのであった。
第八話 風立ちぬ 妄想カムバック(8) 妄想駿 月刊モデルグラフィックス2009年12月号
いよいよ「九試単座戦闘機(九試単戦)」の設計が始まる。
ここで、「九試単戦」と同じ昭和9年(1934年)に設計が開始され、同じく翌昭和10年(1935年)に初飛行する事になる飛行機が紹介されている。後にドイツ空軍(ルフトバッフェ)の主力戦闘機として第二次世界大戦を戦い抜くことになる「Bf109(Me109)」である。
日本は「九試単戦(九六式艦戦)」を発展させた「零戦(ゼロ戦)」で、ドイツはメッサーシュミット「Me109」を改良しながら世界を相手に戦うのである。 奇しくもこれらの2種類の飛行機は、隔てた場所でほぼ同時期に誕生したのだった。
「Bf109」は運動性能よりも最高速度を重視していた。これは、「Bf109(Me109)」が当時次第に世界の主流となりつつあった一撃離脱戦法により特化した機体であることを意味していた。その為、正面面積の少ない液冷エンジン「DB601」を搭載、主翼は薄く、脚は引込脚、操縦席には密閉型風防(キャノピー)を装備していた。
これに対し、堀越二郎の設計した「九試単戦」は、最高速度の向上を狙いつつも運動性能も確保するという、所謂総花的な性格をもっていた。結果、空気抵抗の低減を図って最高速度の向上を狙うと共に、機体を徹底的に軽量化して運動性能を高めるという方針が採られた。
そして、このような設計思想に基づき「九試単戦」の設計が進められた。
基本的な形は「七試艦戦」と同じく片持ち式低翼単葉、そして「七試艦戦」では主翼を羽布張りとせざるを得なかったが、今回こそは主翼も含めてた全金属製に挑むことになった。 そして「七試艦戦」の教訓を生かし、機体形状の洗練や表面の平滑化によって空気抵抗の低減が図られる事になった。 脚は、当時すでに世界的に広まりつつあった引込脚も検討されたが、重量の増大と作動の信頼性を考慮した結果、固定脚となった。しかし、脚支柱を1本にして空気抵抗の低減が図られた。
尚、当初、主翼は逆ガル形状であった。これは、脚を短くすることが出来る為、空気抵抗の低減に貢献すると考えられたが、のちに空力的な不具合があった為、一般的な平たい主翼に改められた。 しかし、試作1号機のみは逆ガル形状で製作されており、宮崎駿はこの逆ガル主翼を装備した「九試単戦」試作1号機がたいそうお気に入りのようである。
「九試単戦」の設計は急ピッチで進められていったが、様々な技術的困難があった。
搭載する発動機(エンジン)は、当初は「三菱A4型」が考えられてたが、信頼性が低く、出力の割りに重量が重いという問題があった。これに対し、堀越はライバル会社である中島飛行機の「寿五型」の使用を申し出た。「寿五型」は「三菱A4型」とほぼ同出力(600馬力)であったが、重量・形状が小さく軽量化をすることが出来たのである。 これは、他社製エンジンであっても少しでも良いものがあるならそれを用いることで必ずや高性能な飛行機を生み出したいという、堀越二郎の並々ならぬ想いであった。これに関しては、上司の服部譲次課長の理解もあり、「寿五型」を使用する事になった。 しかし、当時の日本は欧米各国に比べて基礎的な工業力が低く、特に発動機(エンジン)の分野では大きく遅れていた。今回採用する事になった中島製「寿五型」に関しても、後に様々な不具合が発生し、最終的に量産されることになった「九六式艦戦」には別なエンジンを搭載する事になり、結果、試作機よりも速度が低下してしまう事になる。
同様な問題は脚にもあった。固定脚の採用により、引込脚のような複雑な機構は必要なくなったものの、1本支柱にした事は、空気抵抗の低減には役立ったが、脚の信頼性の低下を招いた。脚の強度不足や油漏れ等が発生したのであるが、当時の日本の工業水準の低さが影響していたのである。
しかし、堀越二郎は「九試単戦」の設計に於いて、日本の最先端は勿論、世界の水準に追いつこうと必死であった。
「七試艦戦」の時には技術的問題から諦めざるを得なかった全金属製主翼も、押出しフランジの実用化や住友金属で開発された超ジュラルミンの使用によって可能となったのである。結果、強度が高くて厚みの薄い主翼が実現した。
また、平山広次技師の協力の下、全面沈頭鋲による機体表面の平滑化も進められた。この沈頭鋲の使用は、この時期ほぼ同時に世界中で実用化されつつあった新技術であり、堀越二郎もまた独自でそこにたどり着いていたのである。
そんなある日、堀越二郎の下宿に電報が届いた。里見菜穂子の父親からであった。菜穂子の病気療養の為、明日から高原病院に入るというのである。この時、「九試単戦」の設計はいよいよ佳境にさしかかっていた。明日も機体図面のチェック、海軍担当者との会議、中島からの技師と打ち合わせと、とても現場を離れられる状況ではなかった。しかし、堀越はこれらを全部すっぽかす。服部譲次課長には電報を打ち、早朝の始発で松本に向かうのだった。
そのころ、菜穂子も父親とともに東京から松本に向かっていた。やがて2人を乗せた列車はようやく八ヶ岳南麓に到着、菜穂子と父親は高原の寂しげな駅で列車を降りた。
そして2人の前にいたのは名古屋から駆けつけて来た堀越二郎であった。まるでちょっと立ち寄ったかのような気軽な調子で2人に声をかけるのであった。
以上、最後は妄想モードである。
第九話 風立ちぬ 妄想カムバック(9) 宮崎妄想 月刊モデルグラフィックス2010年1月号
冒頭に登場するのは中島飛行機の高速連絡機「AN-1」である。
この機体は、中島飛行機で研究していた「PA実験機」を基にした機体であり、昭和九年度海軍軍用機試作計画(九試計画)に於いて、中島はこの「PA実験機」を元にした機体によって三菱との競争試作に望んだ。即ち中島の「九試単座戦闘機」である。ちなみに中島は昭和8年には陸軍の試作命令も受けており、これに対しては同じく「PA実験機」を基にした機体を試作戦闘機「キ11」として製作した。つまり中島「九試単戦」と陸軍試作戦闘機「キ11」はほぼ同一の機体である。
中島の「九試単戦(キ11)」は昭和10年(1935年)までに計4機が完成し、陸軍の試作競争では川崎「キ10」と、海軍の試作競争では堀越二郎の設計した三菱の「九試単戦」と、それぞれ比較されることになった。中島の「九試単戦(キ11)」は、同社の小山悌技師以下の設計陣によるものであり、堀越の設計した三菱「九試単戦」と同様に低翼単葉の先進的な機体であった。最高速度も時速400kmに達し、これまでの日本の航空機の水準を超える高速機であった。
しかし、中島の「九試単座戦闘機(キ11)」は不採用となり、後に民間に売却されることになる。
まず、陸軍の競争試作に於いては、競争相手の川崎は土井武夫技師の設計による「キ10」に敗れた。中島「キ11」は、速度性能に重点を置いた低翼単葉であったが、川崎「キ10」は運動性能に重点を置いた複葉機であった。時代の趨勢は複葉機から単葉機に移りつつあったが、当時の川崎は経営的に苦く、結果、川崎の土井武夫は複葉機という従来どおりの手堅い方法を選んだのだ。また、当時は陸海軍ともに戦闘機操縦者(パイロット)は運動性能を重視する傾向が強く、技術的には先進性のあった中島「キ11」よりも、従来の型式を踏襲した川崎「キ10」の方が彼らの好みに合っていた。
更に、海軍の試作競争に於いては中島は「キ11」を「九試単戦」として望んだ。しかし、型式は低翼単葉で胴体は全金属製であったが、主翼の一部は木製で補強の為に鋼鉄製の張線が機体の外に張られているなど、機体形状に洗練しきれていない部分が残されていた。そして、その中島「九試単戦」の競争相手は堀越二郎が設計した三菱「九試単戦」であり、この飛行機に中島「九試単戦」は敗れるのである。
堀越の「九試単戦」試作1号機は、「七試艦戦」の失敗の教訓から、機体形状の洗練と機体表面の平滑化によって空気抵抗を排除し、更に徹底した軽量化によって速度性能と運動性能の両立が図られた。これらの効果は著しく、後に堀越二郎の「九試単戦」は画期的な性能をたたき出す事になる。
尚、川崎「キ10」や三菱「九試単戦」に敗れて不採用となった中島「九試単戦(キ11)」は、その3号機・4号機が朝日新聞社に売却され、高速連絡機「中島AN-1」として活躍する事になる。当時は遠隔地で撮影された写真をいち早く運ぶことが重要であり、「AN-1」は時速400kmの俊足を生かし、当時の報道競争では大活躍したのである。
また、陸軍の試作競争で中島「キ11」を破った川崎「キ10」は、陸軍「九五式戦闘機」として正式採用され、昭和12年に勃発した支那事変で活躍するが、本機が最後の複葉戦闘機となり、後に中島の「九七式戦闘機(キ27)」へと交代していく。この時の陸軍の試作競争で中島「キ27」と競ったのが堀越の「九六式艦戦」を改修した「キ33」であった。ちなみに、後に加藤隼戦闘隊で有名となる加藤建夫大尉(当時)も支那事変当時は「九五式戦闘機」で活躍している。
さて、飛行機の話が続いたが、ここからは宮崎駿の妄想(フィクション)である。
結核療養のために信州の高原病院に入った里見菜穂子に会う為、堀越二郎はその日の仕事を全てほっぽりだして松本に向かったのだった。その頃、名古屋の三菱では上司の服部譲次が堀越の不在を取り繕うのに懸命であった。
高原病院は八ヶ岳の南麓にあった。とても眺めの素晴らしい場所ではあったが、ここに入所してる人たちは結核の療養の為に来ており、当時結核は治癒が極めて難しい病気であった。つまりこの病院は死の家だったのだ。
菜穂子は堀越からもらった紙飛行機を大切に持っていた。それを病室の天井からぶら下げる堀越、そして堀越と菜穂子と父はつとめて明るく振舞うのだったが、病院の院長の診断は厳しいものだった。堀越と菜穂子、2人に残された時間は短かった。
その夜、堀越は病室で菜穂子に付き添っていた。堀越は寝られず、仕事をして気を紛らわせるしかなかった。その時、菜穂子が堀越に声をかける。そして菜穂子は堀越に逢えたことを感謝する。しかし菜穂子が堀越に出逢えた事は、長くは生きられない自分にとってはつらい事でもあったのだ。菜穂子はもっと生きたいと訴える。それを聞いた堀越は、病院を出て一緒に暮らそうと菜穂子に言う。しかし、それが叶わぬ事であるとは堀越にも菜穂子にも分かっていた。そして堀越は明日には名古屋に戻らねばならない。戻って「九試単座戦闘機」を作り、それを菜穂子に見せてやりたかった。
翌日、堀越二郎は病院を後にして名古屋に向かった。
昭和10年(1935年)2月4日、堀越の「九試単座戦闘機」試作1号機が初飛行した。そして数日後には最高速度440kmという驚異的な数値を記録した。また運動性能も申し分なく、堀越の「九試単座戦闘機」が画期的な性能を持つ飛行機であることが判明した。
昭和7年に海軍の航空技術自立計画がスタートして約3年半、それまで先進諸外国の模倣だった日本の航空機設計技術が世界レベルに並んだ瞬間であった。時に堀越二郎32歳であった。
しかし、この時、堀越二郎が「九試単戦」をもっとも見せたかった人は既にいなかった。堀越は菜穂子の生にも死にも付き添えなかったのだ。
この時期を境として日本の航空機技術は飛躍的な進歩を遂げ、後に世界に誇りうる多くの名機が誕生していくのである。 しかし、それは一種の技術のガラパゴス化を生む事になる。とくに戦闘機に関しては最高速度と運動性という相反する性能を共に満たそうとする、いわば総花的な傾向を生み出した。
「九試単戦」はその後に「九六式艦上戦闘機」として海軍に正式採用され、支那事変では圧倒的な強さを見せつける事になる。
そして「九六式艦戦」の成功から4年後の昭和14年、堀越二郎は「十二試艦上戦闘機」を世に送り出した。「九試単戦」を更に発展させた「十二試艦戦」は極限までの軽量化を行った結果、高い運動性能と速度性能、更には長大な航続距離というほとんど不可能に近かった要求性能を実現させた究極の万能戦闘機だった。 そして「「十二試艦戦」はその後に「零式艦上戦闘機(零戦・ゼロ戦)」として正式採用され、後世にその名を残すことになる。そしてそれはまた、あらゆる性能を実現しようとした日本的戦闘機の極地でもあった。
その頃、日本を取巻く環境は悪化の一途を辿っていた。特にアメリカとの関係は日増しに緊迫の度合いを増していた。日本はアメリカとの戦争を避けるべく必死の外交努力を続けていたが、アメリカは日本が到底受け入れられない条件(ハル・ノート)を、それを承知で突きつけて来た。事実上アメリカの最後通牒であった。事ここに至り外交による和平の道は閉ざされた。昭和16年12月8日、日本は自存自衛の為、やむなくアメリカとの戦争に踏み切った。大東亜戦争の開戦である。
大東亜戦争開戦当初、堀越二郎の設計した「零式艦戦(ゼロ戦)」は圧倒的な強さを誇り、連合軍パイロットからは「ゼロ・ファイター(Zero Fighter)」として恐れられた。しかし、それは長くは続かなかった。やがて圧倒的な物量を誇る連合軍の反撃が開始される。 それは日本とアメリカとの国力・技術力の戦いであった。戦争が進むにつれてアメリカは新型の戦闘機を次々と開発、更にそれらを大量に戦場に投入するようになる。これに対し、堀越二郎をはじめとする日本の技術者達も必死の戦いを続けていた。しかし、国力の乏しい日本は「零戦(ゼロ戦)」を改良しながら戦い続けるしかなかった。そして、「零戦(ゼロ戦)」は後継機の無いまま終戦の日まで戦い続け、多くの若者が祖国や家族を守る為に散っていった。
昭和20年(1945年)8月15日、日本は無条件降伏、大東亜戦争は終戦した。この時、堀越二郎は42歳、結局、「零戦(ゼロ戦)」以降に設計を開始した「十四試局地戦闘機(雷電)」「十七試艦上戦闘機(烈風・烈風改)」は満足な陽の目を見ないまま終わった。堀越二郎は10年間を駆け抜け、その設計家としての人生は終わった。
・映画「風立ちぬ」の原作漫画紹介 −宮崎駿原作の漫画
・太平洋航空博物館に現存する零戦 −ハワイに保存されている零戦の写真など
・堀辰雄記念館の展示品の写真 −菜穂子のモデルとなった実在の人物「矢野綾子」の写真など
「戦跡の歩き方TOP」へ戻る>> 「大東亜戦争資料(映画)」へ戻る
Copyright(C)悠久の沙羅双樹
各地に遺される戦争遺跡
東アジア
日本・中国・台湾
東南アジア
ベトナム・フィリピン・インドネシア タイ・マレーシア・シンガポール
ミクロネシア・オセアニア
パラオ諸島・マリアナ諸島 トラック諸島・オーストラリア
太平洋・北米
ハワイ諸島・アメリカ本土
博物館・資料館
東アジア・東南アジア ミクロネシア・オセアニア 太平洋・北米
兵器・装備品
日本陸軍・日本海軍 米陸軍・米海軍・米海兵隊
書籍・映画
「風立ちぬ」
書籍の通信販売
アマゾン(Amazon)