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書籍(参考資料)
「零式戦闘機」
基本情報
「零式戦闘機」
著者:柳田 邦男 出版社:文藝春秋 定価(税込):1000円(1977年) 初版発行:1977年3月 JP番号:77032855 ASIN:B000J8U8YG
「零式戦闘機」
著者:柳田 邦男 出版社:文藝春秋 文春文庫 定価(税込):400円(1980年) 初版発行:1980年4月25日 JP番号:80021611 日本図書コード ISBN-10:4167240017 ISBN-13:9784167240011
書籍概要
大東亜戦争に於ける海軍の「零式艦上戦闘機」と、その設計主務者であった堀越二郎に関して書かれた本である。
本書は、大東亜戦争全般を通じて日本海軍の主力戦闘機であった「零式艦上戦闘機」に関し、その設計の方針や過程が紹介されている。本書では、設計主務者であった三菱重工名古屋航空機製作所の堀越二郎技師に特に焦点が当てられており、「零式艦上戦闘機」が生み出される以前、堀越技師が手がけた「七試艦上戦闘機」や「九試単座戦闘機」にまで遡り、彼がこれらの飛行機の設計を通じて技術者として成長していく過程が紹介されている。そしてそれは、当時の日本の航空機設計技術の発展そのものでもあった。
本書は、航空機の設計に関する内容が主であるが、技術的な事項に関してはあまり専門用語を用いず、分かりやすい説明と共に紹介されている。また、文章も平易であり、要点が非常に良く纏められていて読みやすい。
本書は、「零式艦上戦闘機」を含め、戦前や戦中の航空機開発の様子を知るのに最適な1冊である。 また、本書の内容は、宮崎駿監督のスタジオジブリ作品「風立ちぬ」(2013年:日本)で描かれている内容の史実である。「風立ちぬ」の作品をより深く味わう為にも、是非とも読んでおきたい1冊である。
目次 (文春文庫)
プロローグ 設計者との対話 9P
昭和50年の終わりごろ、本書の著者の柳田邦男は1人の飛行機設計者とのインタビューに臨んだ、その飛行機設計者とは、大東亜戦争に於ける日本海軍の「零式艦上戦闘機」の設計主務者、堀越二郎その人であった。戦後30年近くを経ても尚、開発当時の様子を髣髴とさせる堀越の口から、「零式艦上戦闘機」の誕生にまつわる話が語られていく。
一対六 18P
昭和7年2月22日、上海事変只中の上海付近蘇州飛行場上空で、日本軍機とアメリカ製航空機による初めての空中戦が行われた。結果、辛うじて敵機1機を撃墜したものの、1機相手に6機の日本軍機が翻弄され、戦死者まで出してしまった。この時の日本軍機は国内で製造はされていたが、ほとんど外国の技術に依存しており、そしてその性能も劣っていた。昭和初期、日本の航空機開発技術は外国の模倣でしかなく、自立には程遠い状態であった。
試作命令 27P
これより少し前の昭和5年頃、海軍航空本部によって「航空技術自立計画」が立案されていた。その中に当時航空本部技術部長であった山本五十六少将もいた。これは、外国依存の航空機開発から脱却し、日本の航空機開発技術を高める為、民間各社に試作機の開発を命じ、長期的に技術力を高めていこうとする計画であった。そして、昭和七年度海軍軍用機試作計画、所謂七試計画がスタート、海軍機製作の指定工場となっていた三菱航空機には艦上戦闘機(艦戦)の試作指示が出された。
「自由にやれ」 38P
戦闘機(「七試艦戦」)の試作命令を受けた三菱は1人の若い技術者にその開発を託した。その技術者こそ、当時入社5年目、若干28歳の堀越二郎であった。これは、まだ若いが将来性のある堀越を育てようという意図であったが、それは大きな冒険でもあった。しかしこの英断がに大きな成功へとつながるのである。
過渡期の中で 47P
「七試艦戦」の設計を命じられた堀越は、自分をサポートしてくれるベテラン技師達と共に、この困難な課題に立ち向かった。堀越には派手な所はなかったが、非常に緻密で繊細、そして研究熱心であり、物事を地道に積み上げていくタイプであった。そして、彼がまず取り組まねばならないことは、新しい飛行機をどのような形にするかという事であった。
決断の条件 58P
堀越が選んだのは単葉機であった。当時、各国の飛行機は翼を2枚持った複葉機が主流であったが、飛躍的な進歩を遂げる為に、堀越は技術的に斬新な形を選ぼうと考えた。堀越は、繊細で緻密であると同時に、新技術に取り組もうとする大胆さと野心も兼ね備えていたのである。
時代の最尖端を 68P
堀越は、知人の海軍技術士官から助言を受けると共に、自らも検証を行った結果、単葉機が大きな可能性を秘めている事を確信した。この構想は正に時代の最尖端であった。そしてそれは、入社間もない頃の欧米での視察旅行で得られた経験にも裏打ちされていた。堀越は、この視察旅行で広く世界の情勢や技術水準を目の当たりにした。そして、日本の技術力を高めていくことの必要性を痛感し、それは決して不可能ではないと感じたのだった。
最初の壁 77P
堀越は、新しい飛行機(「七試艦戦」)を片持ち式低翼単葉で、更に機体や翼を全金属製にしようと考えた。これらは当時の最尖端技術であり、全て実現できれば世界初の画期的な飛行機となるはずであった。しかし、当時は技術的・工作的にまだ未熟な部分も多く、主翼を全金属製にすることはあきらめざるを得なかったが、片持ち式低翼単葉という方針は崩さずに進める事となった。
苦闘の連続 86P
堀越以下の設計陣は設計を進めていった。それは地味な計算の連続という苦しい作業であった。また、新技術に対する不慣れさもあり、設計されていく飛行機は堀越の理想とは次第に隔たっていった。また、予定していた三菱製エンジンが使えなくなるなど、様々な問題を対処しなければならなかった。
初飛行へ 96P
昭和8年2月下旬、遂に「七試艦戦」の試作1号機が完成した。しかし、堀越たちの目の前にあったものは理想とは程遠いひどく不恰好な飛行機であった。片持ち式低翼単葉ではあったが、分厚い主翼、突起や凹凸の多い機体、堀越は失望を隠しきれなかったが、早速飛行試験が行われる事になった。
墜落 106P
昭和8年3月初め、岐阜県各務原飛行場で「七試艦戦」試作1号機の初飛行が行われた、堀越は風邪で立ち会えなかったが初飛行は成功であった。そして様々な試験が行われたが、性能は芳しくなかった。最高速度は時速約320km、上昇力も海軍の要求性能には達していなかった。勿論、従来の飛行機よりは性能は進歩してはいたが、技術力の飛躍的な向上を狙った七試計画の試作機としては失敗であった。更に悪いことには、引き続いた試験飛行中、部材の強度不足によって機体の一部が破損、操縦者は脱出して事なきを得たが、機体は墜落して失われてしまった。
失敗からの飛躍 115P
初めて手がけた仕事とはいえ、自らが設計した飛行機が所期の性能を発揮できなかったばかりか、技術的な不手際で墜落してしまった事で、堀越の受けた精神的打撃は大きかった。しかし、これらの失敗から得られた教訓は、堀越にとって大きな収穫ともなった。これらの教訓がさらに次の設計への糧となっていくのであった。
発想の転換 124P
結局、七試計画は各社とも芳しくなかった。しかし長期的な視点で技術向上を目指す「航空技術自立計画」は以前進行中であった。そして昭和9年には昭和九年度海軍軍用機試作計画(九試計画)がスタート、その中でも戦闘機の目指す方向として最高速度や上昇力を重視する事になった。特に、当時の海軍戦闘機(艦上戦闘機)は航空母艦で離発着の為に様々な技術的制約があったが、航空本部技術部長の山本五十六少将はこれを本末転倒と断じ、母艦を気にせずとにかく高性能な戦闘機を作ることを主張した。母艦に合わせるのではなく、飛行機に合わせて母艦を改装すべきであると主張したのである。
部下を得る 133P
母艦を気にせずとにかく高性能の飛行機を、という山本少将の意を受け、九試計画の戦闘機は「九試単戦」(単座戦闘機)と呼称された。艦戦ではなく単戦となった事で速度性能に絞って設計できるよになったのである。そして九試単戦の設計は三菱と中島の2社に試作競争が命じられた。三菱では、七試艦戦で経験を積んだ堀越に「九試単戦」の設計主務者を命じた。この時、以前の失敗を気にかけていた堀越に対し、上司である服部課長は「人間は失敗したほうがいいのだ。設計というのは、失敗の連続みたいなものだからな。失敗を通して、新しい技術を発見し、いいものを作れるようになるのだよ。」と言ったという。また部下には優秀な技師・技手を配属、その中には、後に大東亜戦争終戦まで堀越の右腕となる曾根嘉年もいた。堀越30歳、曾根23歳であった。
"大判断"と"小判断" 142P
堀越は、「七試艦戦」に引き続き、「九試単戦」も片持ち式低翼単葉でいこうと考えた。更に、「七試艦戦」では機体のあらゆる面において完成度の低さが目立ったが、今回はこれを大幅に改善することが考えられた。特に、機体表面を滑らかにする為に沈頭鋲を全面的に使用し、主翼も含めて全金属製の機体とすることになった。しかしエンジンに関しては、三菱自社製のエンジン開発が芳しくなく、ライバル会社である中島製エンジンを装備する事になった。
スパイ騒ぎの中で 152P
「九試単戦」の基本設計がまとまって間もない昭和9年3月21日、三菱航空機の工場内で火災が発生した。原因は火の不始末であったが、軍用機工場での火災という出来事に対し、様々な問題を引き起こした。それは日本を取り巻く国際情勢の悪化とも無関係ではなかった。
脱皮 159P
「九試単戦」の設計に於いては、「七試艦戦」の反省点が多数盛り込まれた。まず、脚に関しては固定脚という点では同じだったが、より空気抵抗を小さくする事が試みられた。また、七試艦戦では主翼を羽布張りにせざるを得なかったが、「九試単戦」に於いては薄くて大きな強度が得られる全金属製主翼を目指すことになった。更にこの次期、住友金属に於いて軽くて強い画期的な軽合金(超ジュラルミン)が開発され、堀越の理想を形にするのに大きな貢献をすることになる。
指切断の重み 168P
基礎設計の固まった「九試単戦」は、いよいよ詳細設計に進んでいた。その矢先の昭和9年6月11日、海軍に納入されて飛行試験を受けていた「七試艦戦」2号機が墜落するという事故が発生した。操縦者は脱出したが指4本を失う重傷であった。当時はまだ技術的に未解決な問題が多数あり、何らかの事故の発生によって初めて問題点が明らかになるような事が少なくなかった。そして今回同様、場合によっては尊い人命と引き換えに新しい知識が得られ、技術が発展していったのである。堀越は、自分が始めて手がけた飛行機が2機とも失われ、操縦者が重傷を負ったことにショックを受けたが、その結果、現在進行中の「九試単戦」の設計に於いてはより緻密で慎重に事に当たらねばならない事を再確認したのだった。そして、自分にも厳しくあると同時に、部下に対しても常に完璧を求め、その指導の元、チームは一丸となって設計に邁進していた。
企業合弁 176P
昭和9年、当時、三菱財閥の傘下であった三菱造船と三菱航空機が合弁、重工業部門の巨大企業となった。堀越のいる三菱航空機名古屋製作所は三菱重工名古屋航空機製作所と改称された。
手作りの集積 185P
「九試単戦」の設計は進み、各部の仕様も決定していった。その中で堀越の元で働く多くの若い技師たちによる様々な工夫も盛り込まれていった。また、新機軸である沈頭鋲のよる機体表面の平滑さを高める試みも着々と進んでいった。そしてそれは「七試艦戦」とは比べ物にならないほど洗練された機体を生み出すことになる。
驚異の速度記録 192P
昭和10年1月半ば過ぎ、「九試単戦」試作1号機が遂に完成した。機体表面は滑らかで、非常にスマートであった。また堀越以下チームの全員が徹底的な軽量化に取り組んだ結果、自重1トンという非常に軽い機体であった。そして2月4日、「九試単戦」試作1号機が初飛行した。そして数日後、最高速試験が実施され、その結果は最高時速440kmという驚異的な数値であった。
センセイション 199P
三菱の「九試単戦」試作1号機が最高時速440kmを記録したということは、発注者である海軍を狂喜させた。これは当時の諸外国の飛行機をもしのぐ数値であり、日本の技術が欧米列強の技術を凌駕した事を物語っていた。
感涙 207P
「九試単戦」は試験飛行によっていくつかの改修を受けたが、致命的な問題となるような事は殆どなく、堀越の設計した「九試単戦」が素晴らしい性能を持った飛行機あることはもはや疑いようもなかった、そして、海軍の進める「航空技術自立計画」が昭和7年にスタートしてから約3年半、日本の航空機設計技術は先進国並みに成長していた。堀越が32歳の時であった。
空戦実験 217P
「九試単戦」の試作機は海軍に納入されて様々な試験を受けた。しかし、当時、実戦部隊のパイロット達の間では、戦闘機に重要なのは最高速度や上昇力よりも、小回りの利く運動性の良さが重視されており、堀越の設計した「九試単戦」には懐疑的な意見を持つ者が大勢いた。しかし、これまでの戦闘機と実際に空中戦を行ってみると、「九試単戦」は圧倒的な強さを示した。即ち、「九試単戦」はこれまでの戦闘機の概念すら打ち破ってしまったのである。
二〇三高地の心境 226P
「九試単戦」は、搭載エンジンの変更などがあったものの、昭和11年11月、「九六式艦上戦闘機」として正式採用された。また、性能向上の為の改修では、主翼に捻り下げがつけられ、翼端失速の防止に大きく役立った。これは後の「零式艦上戦闘機」にも採用され、空戦性能の向上に役立つことになる。「九六式艦戦」が海軍に正式採用された事は、三菱に活気を与え、その量産による大きな利益ももたらした。そして、昭和12年7月7日、支那事変が勃発、ついに「九六式艦戦」が実戦投入される事になった。
時速五百キロの要求 235P
上海方面に投入された「九六式艦戦」は圧倒的な強さを見せ、外国製戦闘機を装備していた中国空軍を圧倒した。これは日本の技術力が先進各国の技術を凌駕したことの証であった。しかし、この結果に甘んじていれば日進月歩の航空機開発の世界に於いてはいつかは追い抜かれてしまう。そして、昭和12年10月、昭和十二年度試作艦上戦闘機計画(十二試計画)の内容が堀越に示された。そこに書かれていた新しい戦闘機の要求性能は実に途方もない内容であった。
小刻み主義との決別 244P
海軍から三菱に示された「十二試艦上戦闘機(艦戦)」の要求性能は、最高時速500km以上であると同時に、「九六式艦戦」並みの運動性を備え、長大な航続距離を持ち、更には強力な20mm機銃を装備するという、正に万能戦闘機を要求するものであった。これは、「七試艦戦」や「九試単戦」までの比較的実験機的な機体への要求性能に対して、「十二試艦戦」に於いては既に行われている実戦に対する戦訓が大幅に盛り込まれた結果であもあった。更に、国力の貧弱な日本に於いては、量より質、即ち個体の性能によって多数の敵を圧倒しようという思想も反映されていた。即ち、「航空技術自立計画」によって欧米列強並の技術力を目指して行き着いたのは、日本独自の技術、そこには一種のガラパゴス化が見て取れた。しかし、兵器は絶えず進化を続けねば、いつかは他国に追い越されてしまう運命にある。また、「航空技術自立計画」によって飛躍的な進化を遂げた日本の技術力に対する海軍の信頼もあり、結果としてこのような過酷な要求性能が出された。そして堀越は、再びこの難題に取り組むべく、その打開策を模索し始めた。
「道は近きにあり」 253P
堀越が「十二試艦戦」の設計に於いてはじめに取り組んだのはエンジンであった。時速500km以上の高速を実現するためには、より強力なエンジンが必要である。ちょうどこの頃、三菱の発動機部門では小型で高出力な航空機用エンジンである「金星」と「瑞星」が完成していた。「金星」は最高出力1000馬力、それよりやや小型の「瑞星」は最高出力900馬力であった。そして堀越が選んだのはやや出力は劣るが、小型軽量な「瑞星」であった。これは、出力の高いエンジンを搭載しつつも、なるべく機体を小さく軽く設計し、高い運動性能や長大な航続距離を得ようとすると共に、既に「九六式艦戦」に乗りなれていた海軍の搭乗員に対して新型戦闘機への違和感を与えないようにする配慮であった。
平均年齢二十四歳 263P
三菱では、堀越以下、「九六式艦戦」のメンバーを中心に約30名の設計チームを組織した。その顔ぶれは、設計主務者の堀越が当時34歳、そして多くの技師・技手は10代後半や20代、その平均年齢は実に24歳という若さだった。彼らが、後に米軍パイロットをして「ゼロ・ファイター」と呼ばしめた「零式艦上戦闘機」を生み出すことになる。
一所懸命 273P
堀越は、要求された性能を満たす設計を実現する為、目標を設定し、それを厳しく管理した。設計チームのメンバーは、その目標に向かって各自が自分の持ち場の仕事を確実にこなして行った。そして、それを暖かくも厳しく指導していたのが堀越であった。
幸運な条件 282P
「十二試艦戦」に要求された性能は、互いに相反する条件をはらんでいた。そしてそれらを実現するためには、軽くて強度の高い材料が必要不可欠であった。ちょうどその時、「九試単戦」の成功に大きな貢献を果たした「超ジュラルミン」を開発した住友金属が、それより更に優れた軽合金である「超々ジュラルミン」を実用化、早速、堀越はこの新素材を導入することを決めた。この様に、突出した工業製品が生み出される背景には、1つの分野に限らず、あらゆる分野の技術水準の向上が必要であった。
常識を超える 293P
当時の常識を超える「十二試艦戦」の要求性能実現の為には常識を超えた設計が必要だった。そして堀越達が取り組んだのは、徹底的な軽量化であった。機体重量の10万分の1まで管理し、少しでも無駄な部材は徹底して排除していた。しれは、当時の強度規定範囲を超える内容まで含まれた。しかしそれは安全性を削るという意味ではなかった。旧態依然としたその規定に盲目的に従うのではなく、緻密な計算に基づいた理詰めによって許容されるぎりぎりの強度を実現し、それによって常識を超える飛行機を生み出そうとする、堀越の並々ならぬ想いであった。
灰緑色に光る機体 301P
「十二試艦戦」では様々な新機軸が盛り込まれた。飛行中に脚を収納する引込脚もその1つであった。他にもさまざまな工夫が各所に凝らされた。また、設計途中で搭載エンジンを中島製の「栄」に変更する事になったりもしたが、作業は着々と進められた。そして昭和14年3月16日、遂に「十二試艦戦」試作1号機が完成した。それは「九六式艦戦」より大きいが、遥かに均整のとれた姿をした飛行機であった。
もう一つの飛躍 310P
昭和14年4月1日、遂に「十二試艦戦」試作1号機が初飛行に成功、そして4月25日には時速500km近い速度を達成、その後の更なる改修によって高速に於いても満足のいく操縦性を実現した。
満身創痍の試験機体 319P
「十二試艦戦」試作1号機の初飛行は成功し、所要の性能を達成したが、それと平行して機体の強度試験が徹底して行われていた。これは、実戦に投入されることになる機体には設計段階では予想もしていなかった負荷が掛かる可能性があり、それを徹底的に調査しようとするものであった。
横須賀への旅立ち 328P
昭和14年7月に入ると海軍のテストパイロットによる審査も開始された。結果、細部の改修も進み、試作2号機、試作3号機と、次々に海軍に領収され、「十二試艦戦」は順調歩み出しを始めたように見えた。堀越の仕事も一段落し、「十四試局地戦闘機(後の「雷電」)」の設計などが開始されようとしていた。そうした矢先の昭和15年3月11日、堀越の許に、海軍に領収された「十二試艦戦」試作2号機が空中分解を起こし、操縦者が殉職したという知らせが届いた。
謎の空中分解 337P
堀越は直ちに事故現場である横須賀海軍航空隊へ向かった。事故は、航空隊での飛行実験中に起きていた。そして操縦者1名が殉職した。直ちに事故原因の究明が行われ、あらゆる角度からの検証が始まった。その結果、補助翼のマスバランス(錘)の脱落によるフラッター(異常振動)によって飛行中の機体が破壊されたのではないかと考えられた。
見落とされていた盲点 347P
結局、ある程度は仮説の粋を出なかったが、事故の原因はマスバランスの脱落によってフラッターが発生し、機体が破壊されたと結論付けられた。しかし、この事故調査の仮定で、直接の事故原因とは無関係ではあったが、主翼などに強度的に弱い部分が発見され、「十二試艦戦」の性能と安全性を向上させる事ができた。当時は技術的にまだまだ未解明の部分が多く、尊い人命と引き換えに問題点が明らかになり、結果として技術の向上に繋がるということがしばしばあった。
完全への忍苦 354P
「十二試艦戦」が実用化に向けた試験を続けている頃、既に昭和12年7月に発生した支那事変はその戦火を広げていた。この頃、海軍の陸攻隊は中国大陸沿岸の漢口に進出、奥地への戦略爆撃を行っていたが、既に実戦配備されていた「九六式艦戦」の航続距離が短いため、陸攻隊は援護戦闘機無しでの戦闘を強いられていた。結果、中国空軍戦闘機の要撃によって大きな犠牲を出していた。そして、実用化間近と見られていた「十二試艦戦」に対し、前線からは実戦配備を求める矢のような催促が相次いだ。遂に、昭和15年7月、「十二試艦戦」1個分隊が漢口に進出、制式化前の戦闘機が実戦に投入されるという異例の事態となった。しかしそれは「十二試艦戦」に対する海軍の期待あらわれでもあった。昭和15年7月24日、「十二試艦戦」は遂に「零式艦上戦闘機(零戦)」として制式採用が決定した。後に連合軍パイロットに「ゼロ・ファイター」として恐れられることになる戦闘機が誕生した瞬間であった。
全機撃墜 366P
漢口に進出した「零式艦戦」は尚も訓練と改修を続けていたが、現地の状況は最早それを許さなかった。そして昭和15年8月19日、13機の「零式艦戦」は遂に出撃、陸攻隊を援護して重慶へと向かった。しかし、日本軍の新型戦闘機の登場を察知した中国軍戦闘機は退避してしまい、「零式艦戦」は敵機と遭遇することが出来なかった。そして同様のことが数回あった後の9月13日、一旦引き返すと見せかけて再度重慶上空に侵入した「零式艦戦」13機は、中国軍機27機を捕捉、実にその全機を撃墜破するとう戦果を挙げた。しかも味方の損害は皆無であった。
一千機の零戦を 376P
中国大陸で実戦投入された「零式艦戦」は、その後も縦横無尽な活躍をした。しかし、当時、日米関係は日増しに悪化しており、更には昭和15年9月27日にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発していた。日本を取巻く環境は最早予断を許さない状況になっていたのである。その頃、堀越達は「零式艦戦」の更なる改良・改修に忙殺されていた。本来なら次期主力戦闘機の設計を進めていくべき所であったが、三菱の設計陣にも、いや、国力の乏しい日本そのもにその余裕は無かったのである。その中で「零式艦戦」は国防の重責を担う主力戦闘機として量産に拍車がかけられていたが、それも日本の国力では並大抵の事ではなかった。そうした最中の昭和16年4月16日、横須賀海軍航空隊で飛行試験中の機体が空中分解を起こし、搭乗員が殉職するという事故が発生した。
深夜の試験室 384P
事故は、急降下中の機体の主翼に著しい皺が発生、衝撃と共に機体の一部が破壊され、墜落したものだった。当時、「零式艦戦」は時速900km以上の速度までは強度的に問題ないという技術的裏づけがあった。しかし、事故は時速550km程度で発生していた。その為、当初は事故原因が不明であったが、これを解決しない事には「零式艦戦」は真に信頼される戦闘機にはなり得ない。様々な調査が行われた結果、その当時に行われていた風洞試験に使用されていた模型の製作方法に技術的な問題点が見出され、実際の現象を正確に再現できていなかった事が判明した。直ちに実験方法の改良が行われ、「零式艦戦」の強度的問題点が判明、直ちにその対策が採られた。これは、「零式艦戦」が許容限度ギリギリで設計されていた事にもよるが、当時、様々な制約の中にありながら高性能を求められていたという時代的背景を抜きにして語る事が出来ない部分である。
日米開戦 395P
昭和16年に入っても「零式艦戦」は中国大陸で華々しい活躍を続けていた。当然、その驚異的な性能は欧米列強の知るところになる筈であった。しかし、航空大国を自任するアメリカやイギリスでは、現地からもたらされて来る日本軍の新型戦闘機に関する情報をほとんど無視していた。それは、日本にその様な高性能な飛行機が作れるはずが無い、という驕りからくる油断であった。そして、やがて彼らがその過ちを身をもって知る日が近づいていた。当時、日本は、アメリカとの戦争を回避するべく必死の外交努力を続けていた。しかし、アメリカは日本が到底受け入れられない内容の要求を、それを承知で突きつけて来た。所謂ハル・ノートである。遂にここに至り、日本は自存自衛の為の開戦を決意、昭和16年12月8日未明、米海軍太平洋艦隊の母港、ハワイ諸島オアフ島真珠湾に「零式艦戦」を含むハワイ空襲部隊が殺到しつつあった。その頃、堀越は激務によって体を壊して自宅で静養していたが、その日の朝、ラジオから臨時ニュースが流れてきた。3年半以上に及ぶ大東亜戦争の幕が切って落とされたのである。
あとがき 402P
解説 佐貫亦男 409P
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「風立ちぬ」(スタジオジブリ作品)
関連項目
「零式艦上戦闘機」
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