パットン将軍博物館(Patton Museum)

アメリカ中西部(シカゴ・デイトン・インディアナポリス・ルイスビル)

アメリカ中西部(シカゴ・デイトン・インディアナポリス・ルイスビル)の戦跡
大東亜戦争におけるアメリカ中西部(シカゴ・デイトン・インディアナポリス・ルイスビル)の歴史
現地への行き方と現地交通情報(旅行情報)

「パットン将軍博物館(Patton Museum)」

「パットン将軍博物館」の展示内容

「パットン将軍について」

パットン将軍について パットン将軍について ジョージ・スミス・パットン・ジュニア(George Smith Patton Jr.)は、明治18年(1885年)11月11日、カルフォルニア州に生まれた。(←)
生家は代々軍人の家系であり、パットンも幼い頃から軍人になる事が夢であった。子供の頃からパットン中将を名乗っていたという。その後、ウェストポイント陸軍士官学校に入学、明治42年(1909年)に卒業、騎兵少尉に任官した。この時に自費で購入した拳銃「Colt Single Action Army」を生涯愛用した。

任官した頃のパットン騎兵少尉(写真左 →)
第一次世界大戦でのパットン大尉。(写真右 →)

パットン将軍について パットン将軍について 大正5年(1916年)、中尉の時にテキサス騎兵第13連隊に配属され、パーシング准将の副官としてメキシコでのパンチョ・ビリャ懲罰遠征に参加。
大正7年(1918年)、大尉の時に第一次世界大戦に従軍、米陸軍第304戦車隊を指揮し、大佐に昇進した。この時、戦車を中心とした機甲部隊による電撃戦の重要性を認識したという。

パットン大尉と「ルノーFT-17軽戦車」(←)
機甲部隊での記念写真。前から2列目、右から4人目がアイゼンハワー大佐、5人目がパットン大佐。2人共、後に米陸軍の将軍となる。(→)

パットン将軍について パットン将軍について 第一次世界大戦が終わって復員したパットンは、機甲部隊の必要性を訴え、その用法を研究した。
しかし、根っからの戦争好きであったパットンは平和な時代の勤務に馴染まなかった。その為、娘の親友と不倫したり、酒に溺れたり、精神状態が不安定であった。その後、ドイツや日本との対立から戦争の機運が高まると、落ち着きを取り戻したという。
昭和16年(1941年)12月11日、アメリカはドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦に参戦した。

英陸軍のモントゴメリー将軍と。(写真左 ←)
イタリア戦線でのパットン中将。(写真右 ←)(→)

パットン将軍について パットン将軍について 昭和17年(1942年)11月、少将に昇進していたパットンは米陸軍第1機甲軍団の司令官として北アフリカに上陸、昭和18年(1943年)3月6日には中将に昇進、7月、米陸軍第7軍司令官として地中海のシチリア島に上陸した。
戦場でのパットンは規律に厳格あったが、勇敢な将兵に対してはそれを褒め称えた。また、常に最前線で指揮を執ることを重んじていた。

アルデンヌでのパットン中将。(写真左 →)
ソ連軍将官と並ぶパットン大将。(写真右上 →)
連合軍将官と並ぶパットン大将。(写真右下 →)

パットン将軍について パットン将軍について 昭和19年(1944年)6月6日、米陸軍第3軍の司令官としてノルマンディー海岸に上陸、機甲部隊を駆使した電撃戦でドイツ軍を次々と撃破していった。12月には冬のアルデンヌで行われたドイツ軍の反撃に対し、勘の冴えた指揮によって、逆にドイツ軍機甲部隊を撃破するという戦果を挙げた。
昭和20年(1945年)5月、終にドイツは降伏、ヨーロッパでの戦争は終わった。この時、パットンは既に大将に昇進していた。しかし、平和な時代は最早パットンを必要としなくなっていた。

ロサンゼルスでの戦勝パレード。(→)

パットン将軍について パットン将軍について 政治とは無縁のパットンは、ソ連やナチスに関しての発言で物議を醸したり、その個性の強さによって、次第に周囲から疎んじられるようになってしまった。やがてパットンは閑職に追いやられた。

そして、昭和20年(1945年)12月9日、ドイツのハイデルベルグに於いて、公用車(キャデラック リムジン)で移動中に交通事故に遭った。この時に脊椎を損傷して首から下が麻痺してしまい、12月21日、肺塞栓症によって死去した。享年60歳であった。

在りし日のパットン中将。(←) 愛犬ウイリー。(→)

パットン将軍について パットン将軍について それは、欧州戦線で米陸軍の勝利に貢献した英雄パットン将軍の、あまりにも寂しすぎる最期であった。親友であり、米陸軍の最高司令官であったアイゼンハワー将軍とは対照的であった。
パットン将軍は、戦場に生きた生粋の軍人と言えるだろう。その個性の強さ故に賛否両論はあるが、米陸軍の勝利に貢献した事は間違いない。しかし、勝利の後に来た平和な時代は、皮肉にもパットンにとって住みにくい時代だったようである。

事故で前部が破損した車両。(写真左 ←)
パットン将軍の葬儀。(写真右上 ←)
事故を伝える新聞。(写真右下 ←)
主を失ったパットン将軍の行李と愛犬ウイリー。(→)

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「屋内展示(パットン将軍の遺品)」

屋内展示(パットン将軍の遺品) 屋内展示(パットン将軍の遺品) 「パットン将軍博物館」に入ると、パットン将軍の蝋人形が出迎えてくれる。(←)

パットン将軍に向かって右側の展示室にパットン将軍の遺品が展示されている。(→)

現在、ここでは平成25年(2013年)〜平成26年(2014年)の開館を目処に、年に新しい博物館の建設が進められている。その為、今の展示は暫定的で、パットン将軍の遺品は他にも所蔵されているが、その一部が展示されている。

屋内展示(パットン将軍の遺品) 屋内展示(パットン将軍の遺品) パットン将軍の生家ゆかりの品々である。(←)

祖父の使用していた鞍やサーベル・拳銃が展示されている。祖父は軍人として南北戦争参戦し、戦死していた。また、上にはパットン将軍が幼少の頃に遊んでいた木刀がある。パットン将軍は幼い頃から軍人になることを夢見ていた。

第一次世界大戦には大尉として従軍した。
当時の「ホチキス機関銃」や、ドイツ軍のヘルメット・防弾具が展示されている。(→)

屋内展示(パットン将軍の遺品) 屋内展示(パットン将軍の遺品) 第二次世界大戦が勃発すると、昭和17年(1942年)11月、パットン将軍は少将として米陸軍第1機甲軍団を率いて北アフリカに上陸した。その後、中将に昇進し、イタリアのシチリア島に上陸、昭和19年(1944年)6月には北フランスのノルマンディーに上陸した。

パットン将軍が使用していた車両が展示されている。(←)

パットン将軍は、常に最前線で部隊を指揮することを重んじ、また、規律にも厳格であった。

屋内展示(パットン将軍の遺品) 屋内展示(パットン将軍の遺品) 皮のジャンパーが展示されている。(←)
パットン将軍のトレードマークと言えば、皮のジャンパー・中将の階級を示す星が3つ着いたヘルメット・乗馬ズボンにブーツであろう。

パットン将軍の大きな戦果の1つは、昭和19年(1944年)12月、フランス北東部のアルデンヌで開始されたドイツ軍の反撃を抑えこんだ事であった。
雪深いアルデンヌの森で、皮のジャンパーを着て指揮をとるパットン将軍の姿は有名である。(→)
北アフリカやイタリア戦線では、乗馬ズボンにブーツという出で立ちであった。

屋内展示(パットン将軍の遺品) 屋内展示(パットン将軍の遺品) また、腰には特注品の皮ベルトを締め、特注品の拳銃を収めた皮ホルスターを下げていた。

パットン将軍のヘルメット・皮ベルトと皮ホルスター・拳銃が展示されている。(←)(→)

このベルトとホルスターのセットは昭和17年(1942年)まで使用していた。ベルトの横には、コンパスケース、45口径の拳銃弾12発、救急医療キットを収めた特注品の皮ケースが装着されていた。
ヘルメットは、昭和20年(1945年)4月、大将に昇進した際に4つ目の星が着けられた。

屋内展示(パットン将軍の遺品) 屋内展示(パットン将軍の遺品) パットン将軍愛用の特注品の拳銃「Colt SAA.(M1873)」である。全体に装飾が施されている。
(←)(→)
拳銃は護身用に所持していたが、実際に使用する機会はまず無かった。それよりも、軍人としての精神的な拠り所という意味合いが強かった。
これは、日本軍の将校や士官が、既に武器としての役割は果たしていなかった軍刀や短剣を所持して戦場に赴いたのと同様であった。日本では、古来よりの武士の象徴として刀が精神的な拠り所であった。米国の場合は、伝統的な銃文化に由来する拳銃が精神的な拠り所であった。

屋内展示(パットン将軍の遺品) 屋内展示(パットン将軍の遺品) 戦場に於けるパットン将軍の写真。(←)

昭和18年(1943年)7月、パットン将軍は米陸軍第7軍の指揮官として地中海のシチリア島に上陸し、これを占領した。

その時の戦勝を祝って製作された荷車が展示されている。(→)
荷車全体には連合軍によるシチリア島侵攻を称える絵や浮彫りが施されている。この荷車は、昭和19年(1944年)に、イタリアのパレルモの神官からパットン将軍に送られた。

屋内展示(パットン将軍の遺品) 屋内展示(パットン将軍の遺品) パットン将軍が最期に乗っていた「1938年型 シリーズ7 キャデラック リムジン」である。(←)

当時、米陸軍では同型の「キャデラック リムジン」を指揮官用の公用車として採用していた。軍用であった為、車体はオリーブドラブに塗装され、米軍の星のマークが描かれていた。

パットン将軍は、第二次世界大戦後の昭和20年(1945年)12月9日、ドイツに於いてこの車で移動中に交通事故に遭い、重傷を負った。そして12月21日、その時の傷が原因で死亡した。

屋内展示(パットン将軍の遺品) 屋内展示(パットン将軍の遺品) 屋内展示(パットン将軍の遺品) 交通事故で破損した車は、フランスで生産された「1939年型 キャデラック」の部品を使用し、前部は現地で造り直して修理された。その為、前部のデザインがオリジナルと異なっている。その後は、米陸軍の公用車としてI・D・ホワイト将軍が使用した。

パットン将軍と「キャデラック リムジン」(写真左 →)
交通事故の直後の様子。前部が破損している。(写真右 →)

屋内展示(パットン将軍の遺品) 屋内展示(パットン将軍の遺品) パットン将軍の遺品の展示室の反対側は、米陸軍の活動を紹介する展示室になっている。(←)
米陸軍の制服や戦闘服、各地での活動を紹介するパネルや映像が展示されている。

館内に入ってすぐの右手には、お土産等を販売する売店がある。(→)
以前は、パットン将軍の遺品以外にも、装甲戦闘車両約50両を展示する大規模な博物館であった為、売店は結構広い。パットン将軍や博物館の名前をあしらったTシャツやマグカップ以外にも、日本製(タミヤ)のプラモデルが売られている。

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「屋外展示(装甲戦闘車両)」

屋外展示(装甲戦闘車両) 屋外展示(装甲戦闘車両) 「M7B1自走榴弾砲(プリースト)」である。(←)

「自走砲」とは、火砲(野砲や榴弾砲)を車体の上に搭載した車両、即ち「動く火砲」である。履帯(キャタピラ)や火砲を装備している事から「戦車」と混同されるが、「戦車」ではない。

「戦車」との一般的な違いとしては、砲身が前方に固定されていて「戦車」のように砲塔を360度旋回させることが出来ない事、装甲は小銃弾や砲弾の破片を防ぐ程度の厚みしかない事、上面や後方が開いてる場合が多い事等である。

屋外展示(装甲戦闘車両) 屋外展示(装甲戦闘車両) 「M7自走榴弾砲」は昭和17年(1942年)4月に登場し、「M3中戦車」の車体に「105mm榴弾砲(M2)」を装備していた。その後、「M4A3中戦車」の車体に変更した「M7B1自走榴弾砲」が登場し、昭和20年(1945年)2月までに826両が生産された。

「M4中戦車」と共通の車体は信頼性が高く、また、搭載していた「M2榴弾砲」は優秀で、砲兵でも運用していた為に砲弾が共通である等、非常に使い勝手の良い車両であった。
「プリースト(Priest:司祭)」の愛称は、車体右側の機銃座が教会の説教台に似ていた事による。

屋外展示(装甲戦闘車両) 屋外展示(装甲戦闘車両) 「M10駆逐戦車」である。(←)

「駆逐戦車」とは、対戦車砲を装備して対戦車戦闘を主眼に置いた「自走砲」であり、「対戦車自走砲」とも呼ばれる。旋回する砲塔を装備する場合もあり、形状が「戦車」に似ているが厳密には「戦車」ではない。あくまで「動く対戦車砲」である。

「M10駆逐戦車」は昭和17年(1942年)6月に登場し、「M4A3中戦車」の車体に「50口径75mm戦車砲(M7)」を装備した無天蓋(オープントップ)の砲塔を搭載していた。装甲は「M4中戦車」より薄かった。

屋外展示(装甲戦闘車両) 屋外展示(装甲戦闘車両) 昭和18年(1943年)12月までに4993両が生産され、太平洋戦線、欧州戦線に配備された。

砲身が長くて重い戦車砲を、軽量の砲塔に搭載していた為、中期の生産車以降からは砲塔後方にカウンターウエイト(重り)が装着された。また、当初は、増加装甲(鉄板)を留める為のボルト穴が車体前面と側面、砲塔側面に取付けられていたが、これは余り使用されなかった為、後期の生産車では車体前面のボルト穴以外は廃止された。
展示されている車両は、車体側面、砲塔側面のボルト穴が無い後期の生産車である。

屋外展示(装甲戦闘車両) 屋外展示(装甲戦闘車両) 「M4A3E8中戦車(イージーエイト)」である。(←)

第二次世界大戦中の欧州戦線に於いて、当時の米陸軍の主力戦車であった「M4中戦車(シャーマン)」は、強力な火砲と分厚い装甲を装備したドイツ軍の「X号戦車(パンテル)」「Y号戦車(ティーゲル)」に対して、火力・防御力共に劣っていた。

そこで、より強力な火砲を装備した戦車が要望され、既存の「M4A3中戦車」の砲塔を改修し、「52口径76.2 mm 戦車砲(M1A2)」を搭載した「M4A3E8」が開発された。

屋外展示(装甲戦闘車両) 屋外展示(装甲戦闘車両) 「M4A3E8」は昭和19年(1944年)末に登場し、欧州戦線に配備され、ドイツ軍戦車と戦った。

第二次世界大戦後も、米陸軍の主力戦車として使用され、昭和25年(1950年)に勃発した朝鮮戦争にも参加し、北朝鮮軍の装備していたソ連製の「T-34/85」と戦った。

大東亜戦争後の日本でも、昭和29年(1954年)、創設されたばかりの陸上自衛隊に於いて、米陸軍から貸与された「M4A3E8」を装備していた。

屋外展示(装甲戦闘車両) 屋外展示(装甲戦闘車両) 「M47戦車(パットン)」である。(←)

第二次世界大戦後、米陸軍は新型主力戦車として「M46戦車」を開発、パットン将軍を記念して愛称を「パットン」とした。その後、昭和25年(1950年)に朝鮮戦争が勃発、「M46戦車」を改良した「M47戦車」が急遽開発された。愛称は同様に「パットン」であった。

「M47戦車」は昭和26年(1951年)に正式採用されたが、その後、更に改良を施した「M48戦車(パットン)」が昭和28年(1953年)5月に正式採用された為、「M47戦車」は短期間の運用で退役した。

屋外展示(装甲戦闘車両) 屋外展示(装甲戦闘車両) 「M60A1戦車(スーパーパットン)」である。(←)

「M48戦車(パットン)」の後継として、昭和34年(1959年)3月、「M60戦車(スーパーパットン)」が正式採用された。これを更に改良した「M60A1戦車」は、昭和38年(1963年)から生産が開始された。

「M60戦車」の各型式は1960年代〜80年代にかけての米陸軍の主力戦車であり、合計2万両以上が生産され、多くの西側各国でも使用された。平成2年(1990年)の湾岸戦争でも米海兵隊で使用された。
パットン将軍の名前を冠した最後の戦車であった。

屋外展示(装甲戦闘車両) 屋外展示(装甲戦闘車両) 「M59装甲兵員輸送車」である。(←)

第二次世界大戦後、「戦車」と共に行動し、兵員を敵弾から守りつつ輸送する「装甲兵員輸送車」という区分の車両が誕生した。

「M59装甲兵員輸送車」は、昭和28年(1953年)5月24日に正式採用され、昭和35年(1960年)までに6300両以上が生産された。その後、後継となる「M113兵員装甲輸送車」が開発され、更新されたが、「M59」は「M113」の開発に多大な貢献をもたらし、「M113」の成功へと繋がっていった。

屋外展示(装甲戦闘車両) 屋外展示(装甲戦闘車両) 「M114装甲偵察車」である。(←)

昭和35年(1960年)、「M59」の後継として「M113」が正式採用され、「装甲兵員輸送車」の傑作として今日に至っている。この時、「M113」よりも小型の車両も開発されており、昭和38年(1963年)5月、「M114装甲偵察車」として正式採用された。

「M114」は小型・軽量で機動力を重視していたが、1960年代、ベトナム戦争で実戦投入されると、不整地での走破能力が劣っている事が判明した。「M113」が大成功だったのと対照的に、「M114」は失敗作とされ、 昭和55年(1980年)までに退役した。

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