国立米空軍博物館(National Museum of the United States Air Force)

アメリカ中西部(シカゴ・デイトン・インディアナポリス・ルイスビル)

アメリカ中西部(シカゴ・デイトン・インディアナポリス・ルイスビル)の戦跡
大東亜戦争におけるアメリカ中西部(シカゴ・デイトン・インディアナポリス・ルイスビル)の歴史
現地への行き方と現地交通情報(旅行情報)

「国立米空軍博物館(国立アメリカ空軍博物館)」 −「Early Years」(第一次世界大戦前後の航空機)−

「国立米空軍博物館」の概略および歩き方
展示内容詳細

「国立米空軍博物館」 −「Early Years」(第一次世界大戦前後の航空機)− の展示内容

「黎明期の軍用機」

黎明期の軍用機 黎明期の軍用機 明治36年(1903年)12月17日、ライト兄弟は人類史上初めて動力飛行に成功、遂に人類は空を飛ぶ道具を手に入れた。そして人類は、手に入れたばかりの空を飛ぶ道具、即ち飛行機を、人類の性ともいえる戦争の道具として使う事を考え始めた。
ここでは、軍用機としての視点から航空機の発達の歴史を見る事が出来る。

「ライト 1909 ミリタリーフライヤー」。(←)(→)
明治42年(1909年)、米陸軍はライト兄弟の設計した飛行機「ライトフライヤー」を購入して各種試験を行った。展示機は複製品である。

黎明期の軍用機 黎明期の軍用機 飛行機の軍事利用は、まず偵察の道具として始まった。当時は騎兵斥候による偵察が主であったが、飛行機から地上を観察すれば、それまでとは比較にならない情報量を得ることが出来た。つまり、飛行機は偵察の道具として理想的であった。
即ち、史上初めて出現した軍用機は偵察機・観測機であったと言えるだろう。

飛行機の黎明期に関する展示。明治34年(1901年)にライト兄弟が使用した風洞。(←)
明治28年(1895年)にライト兄弟の自転車店で販売された自転車。現在の価格で14万円程。(→)

黎明期の軍用機 黎明期の軍用機 「カーチス 1911 モデルD」(1911年)(←)と「ベレリオット単葉機」(1909年)(→)。何れも第一次世界大戦直前の頃の、木と布で出来た飛行機。

大正3年(1914年)、第一次世界大戦が勃発、早速この新しい兵器が戦場に登場した。その年、ドイツ軍は、東部戦線のタンネンベルクに於いて、偵察機によってロシア軍を発見、これを撃破する戦果を挙げる等、飛行機は重要な役割を担うようになった。

初めの頃は、敵の偵察機と上空で出合った場合、互いに手を振ってすれ違う事もあったという。

黎明期の軍用機 黎明期の軍用機 しかし次第に、自軍の情報を知られまいとして相手を攻撃するようになった。空中戦の始まりである。当初は、上からレンガを投げつけたり、手元の拳銃で撃つ程度であったが、やがて、小銃や機関銃を持ち込んで撃ち合うようになった。
そして遂に、敵の飛行機を攻撃する為の飛行機、即ち戦闘機が出現した。

「スタンダード J-1」、大正5年(1916年)に登場した米陸軍の初等練習機。1600機以上が生産され、パイロットの訓練に使用された。(←)
   同型機の骨組みも展示されている。(→)

黎明期の軍用機 黎明期の軍用機 「カーチス JN-4D ジェニー」、大正4年(1915年)に登場した米陸軍の初等練習機。(←)(→)

第一次世界大戦中、米陸軍の代表的な初等練習機として6813機が生産された。多くのアメリカ人パイロットがこの機体で操縦を学び、ヨーロッパでの空の戦いに馳せ参じていった。

初期の戦闘機は、操縦手(パイロット)と、機関銃を射撃する銃手(ガンナー)の2人乗りであった。操縦手が機体を操縦して敵機に近づき、銃手が機関銃で敵機を射撃した。

「戦闘機の登場と航空機用発動機(エンジン)」

戦闘機の登場と航空機用発動機(エンジン) 戦闘機の登場と航空機用発動機(エンジン) 戦闘機の出現は、空をも戦場に変えた。
出現した頃の戦闘機は、敵の偵察機を攻撃することが任務であったが、互いに相手が戦闘機を繰り出してくると、彼我の戦闘機同士が戦いを始め、ここに、今日の意味での空中戦が始まった。
当初見られた複座(2人乗り)戦闘機は、動きが鈍く、機関銃の命中率も低かった。その為、次第に軽快な単座(1人乗り)戦闘機に取って代わられた。

イギリス軍の複座戦闘機「アブロ 504K」(大正2年・1913年)(←)と、米陸軍の高等練習機「トーマス・モース S4C スコット」(大正6年・1917年)(→)。

戦闘機の登場と航空機用発動機(エンジン) 戦闘機の登場と航空機用発動機(エンジン) 単座戦闘機の出現と、戦闘機同士の空中戦は、飛行機を飛躍的に進化させる事になった。
戦闘機同士の空中戦では、敵機の後ろに回り込み、機関銃によって相手の機体を破壊したり、パイロットを殺傷する戦法が主流であった。
その結果、互いに新しい飛行機の開発が促進され、相手よりも速度や運動性能に勝る戦闘機を次々と送り出すようになったのである。

「スパッド VII(S.VII)」である。(←)(→)
大正5年(1916年)に登場したフランス軍の戦闘機である。 約5600機が生産された。

戦闘機の登場と航空機用発動機(エンジン) 戦闘機の登場と航空機用発動機(エンジン) 「スパッド VII」は、フランス軍の主力戦闘機として活躍した。また、フランス人パイロットのみならず、フランス軍戦闘機隊に参加したアメリカ人パイロットや日本人パイロットの多くもこの機体を使用した。(←)

第一次世界大戦での第2位の撃墜王、フランス軍のルネ・フォンク(公認75機)。(→)

回転するプロペラの間から弾丸を発射できるようにした機関銃の同調装置が開発されると、機首に何挺もの機関銃を積むようになり、空中戦に於ける弾丸の命中率が飛躍的に向上した。

戦闘機の登場と航空機用発動機(エンジン) 戦闘機の登場と航空機用発動機(エンジン) 「ニューポール N.28C-1」である。(←)
大正7年(1918年)に登場したフランス軍の戦闘機であった。多くのアメリカ人義勇パイロットが搭乗した。

展示機は、オリジナルの機体の部品を使用した複製品で、アメリカ人義勇パイロットで編成された第94飛行隊の塗装を再現している。

機首のエンジンカウリング(覆い)の上に「7.7mmビッカース機関銃」2挺が見える。 同調装置によって、回転するプロペラの間から弾丸を発射する事が出来た。(→)

戦闘機の登場と航空機用発動機(エンジン) 戦闘機の登場と航空機用発動機(エンジン) また、飛行機の運動性能を向上させる為、主翼の枚数を増やすことが考えられた。既に主翼が2枚の複葉機はあったが、小型の主翼を3枚装備した三葉機も出現した。主翼の枚数を増やす事で機体を浮かす力(揚力)が増し、低速でも十分な浮力が得られ、舵の反応も良くなった。その結果、飛行機の小回りが利くようになり、格闘戦に有利であった。

「フォッカー Dr.I」(←)(→)
大正6年(1917年)に登場したドイツ軍の戦闘機で、主翼3枚と補助主翼1枚を装備していた。ドイツ軍の撃墜王リヒトホーフェン(公認80機)も使用した。

戦闘機の登場と航空機用発動機(エンジン) 戦闘機の登場と航空機用発動機(エンジン) 飛行機の進化では、機体の進化と同時に、発動機(エンジン)も進化していった。エンジンは、燃焼筒(シリンダー)で燃料を燃やして出力を得る。そこで、高温になったシリンダーを冷却する必要があり、その冷却方法の違いから大きく2種類があった。風をあてて冷却する空冷エンジンと、水(又はオイルやアルコール)で冷却する水冷(液冷)エンジンである。

水冷直列4気筒「カーチス 4気筒」(離翔25馬力)、明治41年(1908年)に飛行船で使用。(←)
水冷直列4気筒「カーチス OX-5」(離翔90馬力)大正3年(1914年)に練習機で使用。(→)

戦闘機の登場と航空機用発動機(エンジン) 戦闘機の登場と航空機用発動機(エンジン) 水冷V型4気筒「スタートバント 5A」(離翔140馬力)、大正5年(1916年)〜大正6年(1917年)に使用。(←)
空冷エンジンは、シリンダーに冷却用のひだ(フィン)を設け、均一に風を当てる為に同心円に配置した。その形状から星型エンジンとも呼ばれる。メリットは、構造が簡単で重量を軽くする事が出来、生産も比較的容易な事であった。デメリットは、高空では冷却性能が低下する事、正面面積が広い為に空気抵抗が増加する事等である。
星型9気筒回転式エンジン「オベルウーゼル UR-2」(離翔110馬力)、大正6年(1917年)。 (→)

戦闘機の登場と航空機用発動機(エンジン) 戦闘機の登場と航空機用発動機(エンジン) 第一次世界大戦中、冷却効率向上と振動低減を目指し、エンジンごと回転する星型エンジンが登場、回転式(ロータリー)エンジンと呼ばれた。しかし、エンジンの回転数が高速化するに従い、慣性重量の大きなロータリーエンジンは姿を消していった。

「ソッピース F-1 キャメル」に搭載された星型9気筒の回転式エンジン「クレルジェ 9B」(離翔130馬力)。(←)
「ハルバースタッド CL IV」は、直列6気筒の水冷エンジン「メルセデス DV」(離翔160馬力)を搭載した。機体の正面面積が比較的小さい。(→)

戦闘機の登場と航空機用発動機(エンジン) 戦闘機の登場と航空機用発動機(エンジン) 水冷(液冷)エンジンは、シリンダーの周囲に冷却水(液)の循環する通路がある。高温になった冷却水(液)は熱交換器(ラジエター)で冷やされ、再びシリンダー周囲に戻される。メリットは、冷却性能が安定しており、高出力を出しやすい事、正面面積が小さい為に空気抵抗が少ない事等である。デメリットは、構造が複雑で重量が増す事、生産が比較的難しい事等である。
星型9気筒「ライト R-790」(離翔220馬力)、1920年代〜1930年代に使用され、リンドバーグも同型のエンジンを使用した。(←)
「リバティ 12気筒」(離翔443馬力)、排気式加給器(ターボチャージャー)を備えていた。(→)

「撃墜王の誕生」(マンフレート・フォン・リヒトホーフェンについて)

撃墜王の誕生 撃墜王の誕生 撃墜王の誕生 戦闘機による空中戦が盛んに行われるようになると、多数の敵機を撃墜したパイロットが出現し、撃墜王(エース)呼ばれるようになった。
エースの称号を得る基準は一定ではないが、一般的に5機〜10機の撃墜を記録するとエースと呼ばれた。第一次世界大戦では各国とも多数のエースを輩出したが、その中でも特に多数の敵機を撃墜した超エースとも言うべきパイロットも誕生した。

第一次世界大戦で最高の撃墜数(80機又は84機)を記録したトップエース、ドイツ軍のマンフレート・フォン・リヒトホーフェンである。(←)(→)

撃墜王の誕生 撃墜王の誕生 リヒトホーフェンは、男爵(Baron)の爵位を持つプロイセンの貴族であった。第一次世界大戦勃発後、ドイツ軍の戦闘機隊に参加、大正5年(1916年)9月17日に初撃墜を記録。以後、次々と敵機を撃墜して頭角を現していく。その後は第11中隊(Jasta11)を率いた。因みに、弟のロタールもJasta11所属のドイツ軍パイロットであり、40機を撃墜する活躍を見せた。

Jasta11の隊員達と。(←)一番後ろの機上の人物がマンフレート、手前で座っている人物がロタール。
中央がマンフレート、右から2人目がロタール。大正6年(1917年)4月4日。(→)

撃墜王の誕生 撃墜王の誕生 リヒトホーフェンは、自らの乗機と中隊の全機を真っ赤に塗装させた。イギリス軍やフランス軍のパイロットは、赤備えの中隊を率いて暴れまわるリヒトホーフェンをレッド・バロンと呼んで恐れた。
しかし、リヒトホーフェンは、空中戦で相手のパイロットが傷ついた場合、それ以上の攻撃はせずに不時着させるといった騎士道的行動を見せ、敵からも味方からも一目置かれる存在であったと言う。

リヒトホーフェンが最後に搭乗していた真紅の愛機「フォッカー Dr.I」425/17号機。(←)
        同型の機体が展示されている。(→)

撃墜王の誕生 撃墜王の誕生 大正7年(1918年)、ドイツ軍は全戦線に渡って敗色が濃厚であったが、西部戦線のソンム戦域に展開中の、リヒトホーフェン率いる第1駆逐大隊(リヒトホーフェン・サーカス)は奮戦し、彼も4月上旬には公認80機目の撃墜を記録していた。
そして、4月21日、第1駆逐大隊に対して出撃命令が下った。愛機「フォッカー Dr.I」に駆け寄るリヒトホーフェンに、愛犬モリッツが飛びついて離れようとしなかったと言う。午前11時、リヒトホーフェンは僚機約20機と共に離陸、一路戦場の空を目指した。

戦場でのリヒトホーフェン。後ろは「フォッカー Dr.I」。(←)
             在りし日のリヒトホーフェンと愛犬モリッツ。西部戦線にて。(→)

やがて、リヒトホーフェン率いるドイツ軍戦闘機隊は、A・R・ブラウン大尉率いるイギリス軍戦闘機隊2個中隊と、ソンムの英・豪軍陣地上空で空中戦に入った。

撃墜王の誕生 撃墜王の誕生 リヒトホーフェンが高度を下げた時、地上のオーストラリア軍部隊が対空射撃を開始、これを避けようと上昇したリヒトホーフェンに対し、ブラウン大尉が一連射を加えた。リヒトホーフェンは水平飛行に戻した後、高度を下げて地上に墜落した。

イギリス軍のブラウン大尉が搭乗していた機体と同型の「ソッピース F-1 キャメル」。大正6年(1917年)に登場。格闘戦に優れた機体であった。(←)(→)

地上のオーストラリア軍部隊が駆け付けた時、リヒトホーフェンは心臓を射抜かれ、既にこときれていた。

撃墜王の誕生 撃墜王の誕生 この射弾が対空砲火によるのか、ブラウン大尉の射撃によるのかは未だに謎である。オーストラリア軍はリヒトホーフェンに敬意を表し、手厚い葬儀を行って丁重に葬った。享年26歳であった。
第一次世界大戦は未曾有の大殺戮であった。地上では、火を噴く機関銃が将兵をなぎ倒し、毒ガスが大地を覆い、戦車が兵士を踏みにじっていたが、唯一、空の戦場にはまだ騎士道が生きていた。

リヒトホーフェンについては、映画「レッド・バロン」(2008年:ドイツ)にも描かれている。

墜落した機体。(←) リヒトホーフェンの葬儀。(→) 

「進化を続ける軍用機」

進化を続ける軍用機 進化を続ける軍用機 第一次世界大戦に於ける空の戦いはますます苛烈になり、次々と新型の戦闘機が出現した。

「フォッカー D.VII」の複製品である。(←)(→)

ドイツ軍期待の最新鋭戦闘機として大正7年(1918年)に登場した。ドイツ軍の撃墜王リヒトホーフェンも開発時に試乗し、その高性能に非常に満足していたという。量産機が配備される前にリヒトホーフェンは戦死してしまったが、終戦までに約1700機が生産され、イギリス軍機やフランス軍機にとって非常な脅威となった。

進化を続ける軍用機 進化を続ける軍用機 「スパッド XIII(S.XIII)」である。(←)(→)
「スパッド VII(S.VII)」を改良し、大正7年(1918年)に登場したフランス軍の戦闘機である。 8472機が生産され、フランス軍の主力戦闘であった。水冷V型8気筒の「イスパノスイザ 8Be」(離翔220馬力)を搭載し、機首全面に円形のラジエターを装備していた。

展示されている機体(製造番号:16594)は、第一次世界大戦後に米陸軍航空隊で使用されていた。現在は、フランス軍に参加したアメリカ人義勇パイロットで編成された第94飛行隊の塗装が再現されている。(→)

進化を続ける軍用機 進化を続ける軍用機 第94飛行隊では、胴体に星条旗をイメージした「Hat in the ring」と、主脚の車輪にも星を描いてアメリカ人義勇パイロットの心意気をアピールした。(←)

第一次世界大戦では、第94飛行隊に所属したエディ・V・リッケンバーガー大尉が公認26機を撃墜し、アメリカ人パイロットでは最高の撃墜数であった。彼はこの功績によって議会名誉勲章(Medal of Honor)を授与された。博物館HP内のバーチャルツアーの扉写真にも登場している。(→)
アメリカ人義勇パイロットについては映画「フライ・ボーイズ」(2006年:アメリカ)にも描かれている。

進化を続ける軍用機 進化を続ける軍用機 「ソッピース F-1 キャメル」、大正6年(1917年)に登場したイギリス軍の戦闘機である。展示機は、当時の図面を元に製作された複製品である。(←)
因みに、スヌーピーの愛機でもある。

第一次世界大戦では、地上の目標を攻撃する為の攻撃機や爆撃機も出現した。

「ハルバースタッド CL IV」である。(→)
大正7年(1918年)に登場したドイツ軍の攻撃機で、搭載した10kg爆弾を、搭乗員(ガンナー)が手で投下して地上部隊を爆撃した。

進化を続ける軍用機 進化を続ける軍用機 「アリコー(デハビランド)DH-4B」。大正6年(1917年)に登場したイギリス軍の軽爆撃機である。(←)

初期の爆撃機は手で爆弾を投下していたが、「DH-4B」では、機体の外に装備された爆弾支持架(ボムラック)に爆弾を吊るした。これにより、手で投下することが不可能な50kg爆弾や100kg爆弾も搭載可能になった。合計210kgの爆弾を搭載可能であった。

展示されている機体は複製品で、大正9年(1920年)に米陸軍で使用されていた時の塗装が再現されている。(→)

進化を続ける軍用機 進化を続ける軍用機 「カプロニ Ca.36」である。(←)(→)
第一次世界大戦末期の大正7年(1918年)に登場したイタリア軍の重爆撃機である。エンジン3基を装備し、爆弾800kgを搭載する事が可能であった。

重爆撃機の登場は、大量の爆弾を広範囲に投下することを可能にした。これは、都市に対する爆撃、即ち、戦略爆撃という構想を現実のものとし、戦場から遠く離れた都市の一般市民をも戦火に巻き込むようになっていった。30年後、進化した戦略爆撃機は、世界中の都市を灰燼に帰し、人類に未曾有の大殺戮をもたらす事になる。

進化を続ける軍用機 進化を続ける軍用機 「パッカード LUSAC-11」である。(←)(→)
大正7年(1918年)に登場した米陸軍の複座戦闘機であった。パイロットとガンナーが搭乗しており、軽爆撃機や偵察機としても使用する事が出来た。

量産が軌道に乗る前に第一次世界大戦が終戦した為、30機が生産されたのみであった。
これらの機体は実戦に使用されることは無かったが、各種の試験に使用され、1920年代の高高度飛行記録を樹立した。

展示機は、ただ1機のみ現存する機体である。

「第一次世界大戦後の軍用機」

第一次世界大戦後の軍用機 第一次世界大戦後の軍用機 大正7年(1918年)11月、第一次世界大戦が終わった。この戦争で飛行機は飛躍的な進化を遂げ、戦争の帰趨を左右する重要な兵器として成長した。戦後も主として戦勝国で、飛行機の開発が続けられた。

また、飛行機が重要な兵器となってくると、搭乗員(パイロット・ナビゲーター・ガンナー等)の養成も重要になってきた。

「コンソリデーテッド PT-1 トラスティ」。(←)(→)
第一次世界大戦後、1920年代の米陸軍の初等練習機。パイロットを養成する為に使用された。

第一次世界大戦後の軍用機 第一次世界大戦後の軍用機 「マーチン MB-2(NBS-1)」の複製品。(←)
大正9年(1920年)に登場した米陸軍の重爆撃機である。昭和4年(1929年)まで運用された。

第一次世界大戦初期の爆撃機では、機内から搭乗員が手で爆弾を投下していたが、後には胴体や主翼の下面に爆弾支持架(ボムラック)が装備され、そこに爆弾を吊るすようになった。その結果、重量のある爆弾、即ち破壊力の大きな爆弾を搭載することが可能になった。

「MB-2」は900kgの爆弾を搭載出来た。(→)

第一次世界大戦後の軍用機 第一次世界大戦後の軍用機 主翼の長さ(スパン)は22.7mであるが、途中から折畳めるようになっている。(←)

大正10年(1921年)7月21日、ドイツ軍から接収した戦艦「オストフリースラント」に対し、「MB-2」6機からの爆弾投下実験が行われた。実験は成功し、「MB-2」は世界で初めて戦艦を沈めた飛行機となった。
即ち、飛行機が戦艦を沈めることは技術的に不可能ではなくなっていたのである。

この頃に使用されていた各種の射爆照準器や航法装置が展示されている。(→)

第一次世界大戦後の軍用機 第一次世界大戦後の軍用機 第一次世界大戦中の飛行機は、木の骨組みに布や板を貼り付けて造られていた。その頃の飛行機の最高速度は時速200km前後であったが、機体が空力的に洗練され、エンジンが高出力になるに従い、飛行機の最高速度は次第に上がっていった。
速度が上がると飛行機に掛かる加重は増加し、最早、木や布では耐えられなくなってきた。そこで遂に金属を主な材料とする飛行機が登場し始めた。

「ボーイング P-12E」。昭和3年(1928年)に登場した米陸軍の戦闘機である。(→)
最高速度は時速304km、全金属製。

第一次世界大戦後の軍用機 第一次世界大戦後の軍用機 「カーチス P-6E ホーク」。昭和4年(1929年)に登場した米陸軍の戦闘機、最高速度は時速328km。(←) 「P-6E」は合計46機が生産され、米陸軍で使用された最後の複葉戦闘機であった。
尚、米陸軍では戦闘機をPursuit Plane(追撃機)と呼称していた為、戦闘機の名称にはPが付く。

エンジンは液冷V型12気筒の「カーチス V-1570C Conqueror 」(離翔700馬力)を搭載。冷却には、水よりも冷却効率の良いエチレン・グリコールを使用し、ラジエターを小型化する事で空気抵抗を削減出来た。(→)

第一次世界大戦後の軍用機 第一次世界大戦後の軍用機 「ケレット K-2」。(←)(→)
昭和6年(1931年)に登場。機体上に上向きの大きなプロペラ(回転翼)を装備するオートジャイロと呼ばれる機種である。 ヘリコプターとは異なり、回転翼は駆動されていないが、飛行中に回転翼が風を受けて回転し、揚力を発生させた。

この頃、オートジャイロは各国で盛んに研究された。短距離で離着陸が出来、長い滑走路を必要しないメリットがあった。また、低速で飛行する事が可能であった。この為、偵察機としてや、着弾観測機として使用された。

第一次世界大戦後の軍用機 第一次世界大戦後の軍用機 飛行機の速度が上がるに従い、空気抵抗を如何にして減らすかが問題になってきた。一般に空気抵抗は速度の二乗に比例する。
主翼は揚力を発生させるが、それは空気抵抗も生む。そこで、これまでのような複葉機(主翼が2枚)ではなく単葉機(主翼が1枚)が主流になっていく。
また、主脚(着陸用の車輪)にカバーを装備したり、機体を流線型に整形する等、空気抵抗の低減が図られ、見た目にも洗練されていった。

「ボーイング P-26A」。昭和7年(1932年)に登場した米陸軍の戦闘機で、最高速度は時速377km。(←)
エンジンの中央にもカバーが装備されている。(→)

「第二次世界大戦開戦前夜」

第二次世界大戦開戦前夜 第二次世界大戦開戦前夜 1930年代に入ると、機体外板や構造材に金属を用い、主翼が1枚の単葉機が主流になっていった。

「ダグラス O-38F」、昭和6年(1931年)に登場した米陸軍の観測機「O-38」を改造した人員輸送用機である。観測機は低速で飛行する事もある為、主翼が2枚の複葉である。(←)

「ライアン YPT-16」、昭和9年(1934年)に登場した米陸軍の初等練習機であり、米陸軍が初めて導入した単葉の練習機であった。胴体は金属製、主翼は木と布で出来ていた。(→)

第二次世界大戦開戦前夜 第二次世界大戦開戦前夜 「マーチン B-10」である。(←)(→)
米陸軍の重爆撃機として昭和7年(1932年)登場した。全金属製の機体で、胴体内に爆弾倉を持つ等、当時としては先進的な爆撃機であった。最高速度は時速343kmで、当時の一般的な戦闘機よりも高速であった。その為、戦闘機を振切る事の出来る爆撃機として期待されたが、その後の戦闘機の進化が著しく、昭和14年(1939年)頃には退役した。
大東亜戦争では、オランダや中国に輸出された機体が日本軍機と交戦した。
展示機は、昭和13年(1938年)にアルゼンチンに輸出され、世界で唯一現存する機体である。

第二次世界大戦開戦前夜 第二次世界大戦開戦前夜 「ノースロップ A-17A」、昭和10年(1935年)に登場した米陸軍の軽爆撃機である。(←)(→)
合計で544kgの爆弾を搭載する事が出来た。

「A-17」は446機生産されたが、展示機(機体番号:36-207)が世界で唯一現存する「A-17」である。

また、この頃から主脚(離着陸用の車輪)を主翼内に収納、即ち引き込み脚を装備する機体が出現し始める。引き込み脚は、重量は増加するが、飛行中の空気抵抗を大幅に削減する事が出来た。

第二次世界大戦開戦前夜 第二次世界大戦開戦前夜 「カーチスO-52 オウル」、昭和15年(1940年)に登場した米陸軍の観測機である。(←)
主翼が胴体の上に位置する高翼という主翼配置である。観測機としては、主翼が上にあったほうが下方の視界を確保しやすい。

その代わり主翼に主脚を収納すると主脚の長さが長くなってしまう。そこで主脚を胴体に収納する事でこの問題を解決している。(→)
これは、主翼の薄い複葉機等で引き込み脚を装備する場合に見られる手法である。

第二次世界大戦開戦前夜 第二次世界大戦開戦前夜 「フェアチャイルド PT-19A コーネル」である。(←)
昭和14年(1939年)に登場した米陸軍の初等練習機で、金属製の構造に木と布が貼られていた。「PT-19A」は3226機が生産され、日本やドイツとの戦争に備えたパイロットの大量養成に貢献した。

「デハビランド DH-82A タイガーモス」、昭和6年(1931年)に登場したイギリス軍の複葉複座の初等練習機である。
設計は古いが扱いやすい練習機として、第二次世界大戦中も米陸軍の主力練習機として使用された。米陸軍版「赤とんぼ」である。(→)

第二次世界大戦開戦前夜 第二次世界大戦開戦前夜 「ノースアメリカン BT-14(NA-64)」である。(←)
昭和10年(1935年)に登場した米陸軍の高等練習機で、「T-6 テキサン」としても知られる。戦後、第二次世界大戦をテーマにした映画撮影に於いて、日本軍機に改造されて出演する事がたびたびあった。映画「トラ・トラ・トラ」(1970年:日本・アメリカ)では大量の改造「テキサン」が登場する。

展示では、パイロット訓練生がタキシング中にブレーキを踏みすぎてつんのめり、機体を破損してしまった様子が再現されている。(→)
当時、同様の事故がしばしばあったという。

第二次世界大戦開戦前夜 第二次世界大戦開戦前夜 「ノースアメリカン O-47B」、昭和13年(1938年)に登場した米陸軍の観測機である。(←)(→)

1930年代後半までに、殆どの飛行機は、全金属製の機体、単葉(主翼1枚)、引込み脚、密閉型操縦席等を装備し、最高速度も時速500kmを超えていた。発動機(エンジン)も、空冷・水冷(液冷)共に離翔出力1000馬力以上、機械式過給器(スーパーチャージャー)・排気式過給器(ターボチャージャー)の開発も進み、更に高出力になりつつあった。
飛行機は、第一次世界大戦後、僅か20年程で見違えるほど進化していた。

第二次世界大戦開戦前夜 第二次世界大戦開戦前夜 この頃、ヨーロッパでは第一次世界大戦に敗れたドイツが再軍備を開始、イギリスとフランス、それを支援する米国との間に緊張が高まっていた。
また、太平洋を挟んだ日本米国も日増しに対立を深めつつあった。時代は再び世界大戦に突入しようとしていたのである。

「ホーカー ハリケーン」である。(←)(→)
昭和11年(1936年)に登場したイギリス空軍の戦闘機である。機体の構造の一部が木製であったが、液冷V型12気筒の「ロールスロイス マーリン」(離翔1030馬力)を装備した最新鋭の戦闘機であった。

第二次世界大戦開戦前夜 第二次世界大戦開戦前夜 昭和14年(1939年)9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻をきっかけに、ヨーロッパ大陸に於ける第二次世界大戦が勃発した。

当初、米国は、表向きは中立を保っていたが、実際は参戦の機会を伺っていた。そこで、イギリスに対し武器や物資の援助を開始した。
また、米陸軍では、多くのパイロットを義勇兵という形でイギリス本土に派遣した。所謂「イーグル飛行隊」である。彼らは、イギリス軍機に搭乗し、ドイツ軍機と激しい戦いを繰り広げた。(←)(→)
映画「パール・ハーバー」(2001年:アメリカ)では、主人公が「イーグル飛行隊」に参加するエピソードが描かれている。

そして、昭和16年(1941年)12月8日、米国にとって、第二次世界大戦に参戦する絶好の口実が、太平洋の彼方からやって来た。

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